君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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婆さんあんなに要る?
正直、かなり不安があった。
「原題作の映像化ではない」ので予測は困難、『SLAM DUNK』と比べても極端に事前情報が少ない。
宮崎駿の引退撤回も、情熱故であればよいが、金や名誉、会社のためだったら…
結果、情熱はあったと思う。
しかし面白かったかというと、話は別だ。
最大の難点は、人物の感情や動機がまったく伝わらないこと。
特に主人公である眞人に人間味が皆無で、何度も死にそうになりながら取り乱すことすらない。
何のきっかけもなく夏子を「母」と認め、ヒミとの別れも「このままでは死ぬ」と言いながらアッサリ。
無表情かつジブリ的な棒演技のため、余計に読み取れませんでした。
(棒といえば、ヒミの泣き演技はヒド過ぎた)
異世界の細かな説明はなくてもいい。
しかし、例えばヒミが「この中では制限される」と言うが、能力が不明瞭なためそれがどう影響したか分からない。
大叔父が何を目指し何をしてきたのか知らないのに「道半ば」とか「継いでくれ」とか言われても…
要するに、没入させてくれる要素がなかった。
ジブリをメタ的に表しているとの解釈も見たが、だとしたらそれを仕込みつつエンタメに昇華しなければただの身内ネタ。
母から贈られた『君たちはどう生きるか』を読み涙するシーンもあるが、未読には意味不明。
ただ、作画に関してはジブリの正当進化を感じ、序盤で火の中を駆けるシーンは素晴らしかった。
「宮崎駿はこう生きた、君たちはどう生きる?」ということかな…
メッセージは伝わった…のかな
観るかどうか迷った作品
たくさんのレビューを読んで
自分は…と思ったので。
時代背景が太平洋戦争の頃なので
今とかなり時代背景が違います
世襲の家柄や代々受け継がなければ
ならない職業の人たちは理解できますが
シガラミのない人たちにとっては…?
自由に選択できる今の人たちに
とっては薄いメッセージの
様に感じました
2~3箇所退屈に感じた所はありました
…が全体的にはよかったと思います
ポイントは…声ですね
…何故
俳優の人たちを使うのでしょうか
主人公の人はいいと思いましたが…
キムタクはハウルのイメージが強くて
また菅田さん柴崎さんは声が強過ぎて
本人をイメージさせてしまう
ところがありました
バラバラ感を受けました
いつも気になる大竹さんは
控えた感じがよかったと思います
理解できないところも含めて
…まさしくジブリ映画でした
創り続けることは大変なことです
短編アニメ映画を創って欲しいな
…これからもよろしくです
大人向けの「ポニョ」
とても面白かった。前情報全く無しで観て良かったと思う。
宮崎駿の年齢を考えると、この作品が本当の本当に最後の作品になる可能性が高いので、「君たちはどう生きるか」というタイトルは我々や、スタジオジブリのスタッフに対してのメッセージのような気もした。
作品の印象として、「風立ちぬ」の時代背景で、大人向けの「ポニョ」をやった、という感じ。
ただ、この作品が万人向けに面白い作品かといえばそうではないと思う。
ぼくは夏目漱石の「夢十夜」やミヒャエル・エンデの「鏡のなかの鏡」のような、他人の夢の中の世界を面白いと思うような人間である。なぜそれを面白いと思うかといえば、ユング心理学的な世界観(万人の意識の根幹には万人共通の普遍的なものがあり、それがときに夢に現れる)を信じているからである。超現実的なフィクションというのは、ある意味で創作者の「夢」のようなものだといえる。だから、超現実的な展開や謎だらけの展開であっても、その解釈について考えることが楽しく、有意義であるように思える。
しかし、そういったことが全く無意味であるように思う人もいると思う。表現の意図が伝わらない、もしくは伝えようとする意志がない作品はエンターテイメントとして成立していない、という考え方も正論だと思う。
「ポニョ」では、トンネルは産道、トンネルを通り抜けた向こうの世界は死の世界(生まれてくる前の世界であり、死後に行く世界)ではないかと思ったが、この作品でも、「塔」の中は死後の世界のようなものと思った(若いころの実母(ヒミ)とキリコがいる点では時間を超越した世界でもある)。
ただ、それだけではない。塔の中(もしくはこの作品そのものも)はこれまでの宮崎駿作品の断片がパッチワークのように詰め込まれているようで、宮崎駿の脳内というか、精神世界のように思った。
ドキリとしたのが、大叔父が主人公に「血縁関係のある者にしか仕事を継がせることができない」、と言うところ。もしかして大叔父は宮崎駿で、主人公は宮崎吾朗、塔はスタジオジブリということ?(でも、そんな考え方、宮崎駿がするかな?)
塔がジブリを象徴しているというのは、何かありえそうに思う。大叔父とインコの大王がケンカするシーンは妙ななまなましさがある。インコ大王が「裏切りだ」とかいって激昂するセリフは、現実にそんなセリフを言った人がジブリ内にいたんじゃないかって気がする。
大叔父が純粋なクリエイター(つまり宮崎駿)としたら、インコたちはジブリの社員たち、インコ大王はインコたちの生活を保証する、ジブリの社長?
キリコが釣り上げたアンコウみたいな魚はリビドー、わらわらはそれをエサにして育つ創作の種、それが上空に昇って(昇華して)現実世界で顕現する(表現される)と作品になる。創作の種を食べてしまうペリカンは創作活動だけに没頭させてくれない雑事・雑念。インコやインコ大王は宮崎駿の精神的世界(もしくはスタジオジブリ)を生活の糧にしているジブリの社員たち、みたいな感じ?(でも、インコたちはこの映画ではすごく嫌な存在として描かれているので、もしインコがジブリの社員の象徴として描かれているのだとしたら、そんな映画を自分たち自身の手で作らせている宮崎駿はあまりに辛辣すぎる人間だということになるが…)
大叔父が現実の塔の中で消えてしまった、というのは、創作活動に没頭すると現実世界を生きられなくなってしまう、ということ。門に掲げられた文字、「我を学ぶ者は死す」というのも、同じ意味。
最後に塔が崩壊するのは、宮崎駿が死ぬ、もしくは宮崎駿の創作活動が終わることで、ジブリという会社が倒産するということ?(塔の世界の維持を継承させようとした眞人=主人公がそれを拒否したから)
積み木は映画作品の象徴な気がする。1つ1つの石は作品を構成する要素。これらの要素は純粋なものでなければならないし、絶妙のバランスで積み上げていかなければならない。積み木を作り続けている限りはジブリは存続するが、大叔父(宮崎駿)はそれを続けていくことができないから、主人公(宮崎吾郎)にその役割を継承させようとした。
塔の崩壊の直接のきっかけは、インコ大王が雑に積み木を積み上げてしまったから。「テキトーでいいからとにかく作ればいいんだよ」って態度で作っても、会社をつぶすってことか。「アーヤと魔女」のこと?
アオサギが何の象徴なのかは謎。アオサギは現実世界と塔の世界(死の世界、創作の精神世界、超現実世界)を行き来できて、主人公を塔の世界に誘って、敵でも味方でもない、というとても特殊な存在。いわゆるトリックスター。
(個人の妄想で終わってしまうはずの)創作活動を現実の経済活動につなげている、という意味では、鈴木敏夫なのか?
とりあえず一回観た感じではこんなふうに思った。また観たら全然違うように感じるかもしれない。主人公が宮崎吾郎の象徴というのは何か違う気がする…。
あと、変な話だが、この作品のいくつかの印象的なシーンについて、「以前に観た気がする」という不思議な感覚がある。デジャブとは違う。宣伝を全くしていなかったはずなのに、なぜこのシーンをぼくは知っているんだろう?と思ったところがいくつもあった。1年前とか2年前に実は一部だけ公開していたことがあったのだろうか? 変なの。
『ワレヲ学ビモノハ死ス』
マグリット?ゴッホ?ヒッチコック?そして数々の概視感溢れるシーン 勿論考察サイトにはその解釈や、題名の本、そして参考した児童文学から紐解くテーマは数多ネット上に溢れる そして同時にこのサイトを問わずネット上に囂しい程の極端な賛否両論 その中には直接作品とは関係無い制作陣への人格評価等々、このデジャビュはそうだ、"#私のアリエルを返して"だと合点がいく パヤオはこんな作風じゃなくてもっと夏休みの子供達が喜ぶ様なエンタメに振り切った冒険活劇とファンタジーを提供してくれ、もはや『ナウシカ2』以外に制作することを赦さない的輩からすると、正に"#私のジブリを返して"なんだろう もうそれは単なる自分の欲望を"正義"という鋳型に流して出来た鋳物を、他の賛同者に称賛して貰いたい"承認欲求"のバケモノ以外に見えない
セルフオマージュと、監督が好きなモノをぶち込んで煮こごりにする手法は、タランティーノがもうやってること 別にそれを否定したり二番煎じと揶揄する道理はない 引退を撤回、声優を使わないキャスティング、別にどうでもいいではないか
実際今作は監督がその全ての人生経験を落とし込んで描いてみせたストーリーテリングだと思うし、そのラストをバサッと呆気なく終わらせるのも彼の気持の代弁を演出したのかもしれない 「色々喋ってきたけど、なんかもうどうでもよくなってきた バイバイ」って感じで・・・ 映画は実写であれアニメであれ、作家性が溶け込んでいないとそれは総合芸術として体を成していない エンタメはあくまで"エクスプロイテーション"を呼び込む手段 面白い、哀しい、恐い、寂しいなんていう感情をコントロールする理性や哲学を訴えたところで、その正しさはいつもいつも世界は、時代はそれを刀で真っ二つにし、プロパガンダで感情を増幅させる 齢82才のアニメーションの神が、自分の老害を厭わずに、後輩アニメーター達を連れ回しながら仕上げた作品 勝手に遺言と受け取れば良いし、いい迷惑だと思うのも自由 馬鹿馬鹿しくも神々しい、繊細で図太い、それは正に"人間"そのものを表現してみせたアニメーションなのだと自分なりに結論付けてみる ヒューマニズムを説く作風は幾らでもある そしてそれは今感じる義務などなく、後から感じる事だってあり得る これだけは言い切れるが、今作は今後も永くに渡り、日本テレビや全国の映画館で上映されるのだ。。。
理解できない?しようとしなくていい。
あの宮﨑駿の、おそらく最後になるであろう長編アニメ「君たちはどう生きるか」
正直、どんな感想をもてばいいのか、伝えればいいのか、分からない。発してしまってもいいのか。そんな思いに駆られる。
言葉にできない、どう言葉にすればいいのか分からない。そういったものに出逢ったとき、、それをなんとか自分の内側を掘り返して、なんとか言葉にしようとする時が1番人間らしい気がする。だから、書いてみる。
世界を良くするのも、悪くするのも、人間の知恵や知識?
本当と嘘。
現実と空想。
実感と夢。
石=永遠。西洋文化。
木=生命力と成長に満ちた世界。日本文化。
ぼくたちはどう生きればいいのだろう。
マスクがないと生きられないナウシカのような世界になろうとも、
神殺しを肯定しないと生きられないもののけ姫のような世界になろうとも、
新しいものだけに価値を置き、古いものを捨て去るコクリコ坂の世界になろうとも、
不完全で未完成な世界だからこそ、生きるに値するんだと。
嘘にまみれたこの世界を
有限だけど失敗と成長を繰り返す世界を
バーチャルな空想世界に逃げるのではなく、
現実を。
一貫して宮﨑駿が伝えたかったのは、
きっとそれでも「この世は生きるに値する」ということだろう。
平等でも公平でもない世界だからこそ。
初日の朝に見れたことに感謝します。
きっともう1回は観に行く。
その時また今とはちがった感想をもつと思う。
うちの子も積み木が好きだ。
積み木って、倒れるか倒れないか、崩れるか崩れないか、ギリギリのところで保つのが楽しい。
挑戦することに似ている。
積み木ってどんどんどこまでも高く積み上げたくなって、最後の1つ、、これで終わりと思って積んだら崩れてしまう。
人間の欲に似ている。
積み木って崩れたときってだいたい1番下らへんの土台の部分
残ってる。またやり直せる。
挫折から立ち直れる。
人生に似ている。
理解はできなかった。しようとしないほうがいい。
観た人の心に委ねられるのであれば、ぼくの感想は以上です。
宮崎駿は呆けたのか。
内容がとっ散らかっている。宮崎吾朗のゲド戦記を鑑賞し終えた宮崎駿の気持ちになった。未熟さではなく老いなのだろうけど。
この作品は宣伝しなかったのではなく、出来なかったのだ。
なぜならば、スタジオジブリ最新作且つ宮崎駿の最後の作品。誰もが大きな期待を胸に映画館へと足を運ぶ。
けれど見終わった一般大衆は口を揃えて言う。「よくわからなかったけど面白かった」。
一部の物好きを除いてわざわざ否定したりしないが、内心では期待値との差にがっかりしている。
宣伝というのは、ここがすごい!楽しい!見にきてね!というセールスだ。鈴木敏夫は観客の反応を予想できていただろうし、宣伝をしないことでその落差をさらに深く抉らずに済むよう、奇を衒った戦略を選択したのだと思う。
これならば「あとは観客の皆様の解釈にお任せします」「人それぞれの感じ方・受け取り方を尊重します」という雰囲気で躱わせる。
宣伝をしないことで客を煽らずに済む。だから勝手に期待して見に行った観客側の自己責任となるのだ。
大衆は「何やら知的で難しいがさすが宮崎駿だ」と感情の波立ちを一旦鎮めて帰路につき、結論は有耶無耶にする。だが現実に向き合い受け止めるとどうなるか。
「宮崎駿は呆けたのか?」
【生と死】【あの世とこの世】壮大な宇宙観の物語
◎ストーリー
戦時中、母を火災で亡くし、父の再婚を機に2人で継母・夏子の実家でもある立派な屋敷で暮らすことになる。ここは母の生まれ育った屋敷でもあった。真人が屋敷にやってきた時から不思議な出来事が度々起きるようになる。ある日、夏子が敷地内の森の中から帰って来なくなった。真人は、アオサギの仕業だと感じ、夏子の大叔父が建てたと言われる敷地内の不気味な塔に入り、夏子を探しに行く──。
その塔はあらゆる世界、宇宙を繋ぐ不思議な塔で、そこから真人の摩訶不思議な冒険が始まる。
◎感想
死の世界、動物との共存などのテーマを散りばめた宮崎駿らしい作品である。『千と千尋の物語』をはじめ、他の宮崎駿作品とも通ずるところが……。時間を忘れて夢中で見てしまった。だけど、見終わった後の余韻や高揚感は、過去作品と比べると劣る気がする。今作の評価が分かれる理由の一つに、スピリチュアル要素が大きく関係しているのではないだろうか。スピリチュアルや輪廻転生、あの世この世の話が嫌いな人にとっては、訳の分からん物語、あるいは白けてしまうかもしれない。だけど私のように、目に見えない世界を信じている人、興味関心のある人にとっては、とてもワクワクする世界観になっている。
そして、“君たちはどう生きるか”。
これからの未来を生きる若者へ──。というタイトルには、世界は君たちの手によって作られていくというメッセージが。平和な世界にするのも、不安定な世界にすることも君たちの手にかかっているのだと。
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⭐️⭐️以下ネタバレのレビューと考察⭐️⭐️
義母の夏子と真人の実の母は姉妹だったということだろうねど、真人にとっては複雑だっただろう……。
黄泉の国で出会う、火を魔法を使う女の子は実の母がの幼い頃の姿だったということか……!?
真人の窮地に彼女が現れ真人を助ける。そして、最後のシーンのセリフではハッキリとそのことを口にしている。
キリコさんはあの仕様人のお婆さんの生まれ変わる前の姿?
白いモフモフした物体(名前なんだっけ?)が、これから生を受ける人たちというのもなんだか感慨深い。
ちょっと謎が多かったり、話の筋が合わないことも多かったので★4つですが、それでも宮崎氏の強いメッセージ性を感じました。
原作版ナウシカの焼き直し
過去作のオマージュが随所に見られましたが、全体としては原作版ナウシカと同じテーマを扱っているように見えました。
墓の主は墓所の主であり、インコ大王はトルメキアのヴ王であり、マヒトはナウシカ。
人類を汚れなき清浄の地へと導くはずの存在を、主人公が拒否し破壊。
人間の尊厳は汚れや悪意をも含んでいる。それなしには人間とは言えないのだと。
しかし原作版ナウシカが人間社会の醜さを徹底的に描いていたのに対して、今回の映画は間接的には言及されていたとはいえ、ちょっとそこの描写が足りないと思いました。ラストのマヒトの選択のインパクトが薄くなってしまっています。
あと今回はそこに監督の自意識がかなり投影されているように見えて、そこが原作版ナウシカに比べるショボく感じた理由でもあります。
まるで監督自身がかつて酷評した、息子吾郎監督のゲド戦記の様。
それでも凄まじい作画と怒涛の場面展開によって最後まで飽きさせずに見せてしまう技量が今までの宮崎監督にはありました。
ところが今回はそれもない。敢えて宮崎ワールドを戯画的にショボく描いているのか、歳のせいなのか分かりませんが、全体的に物足りない。
千と千尋やポニョにあったような圧倒的なスペクタクルは感じられませんでした。
とは言いつつ、久しぶりの宮崎作品だったからでしょうか。序盤は結構興奮しました。
階段を昇り降りするシーンや、火事のシーン。青サギのシーンやマヒトが部屋で矢が飛ばすシーン。
人間の細かい所作も非常に丁寧に描かれていて、特に夏子さんの醸し出すオーラが凄かった。最近のアニメは作画レベルがどんどん上がっていますが、こういう部分ではやはりジブリが圧倒的だなと感じました。
まさかのベックリン❗️
始まってすぐは、動画の動きに違和感を感じてしまいました。
過剰な人物や物の線の動きが、気になってしまった。
もう少しケレン味?省略の快感の様なものが、以前のジブリには、あった筈だと。
動きの過剰さに比べて、背景の密度の無さも気になってしまいました。
もっと緻密さや、世界観を脳内に想起する様な背景だった気がして、薄っぺらい感じがしてしまいました。
大邸宅も、離れの洋館や森、キーポイントの塔も、位置関係がぼんやりしていて、距離感が掴めなかったです。
良作の映画は、何と無くそういう舞台構造が、イメージしやすいモノだと思ってます。
自動車と人物の等身等も、以前の心地よいディフォルメから、微妙にズレてきている気がしてしまい、気になってノイズになってました。
そういう粗を感じてしまって、序盤に宮﨑駿氏の老いからかと思い、少し悲しく見てました。
話に非日常が増え始め、
彼岸?下の国?に入り込んですぐ、まさかの死の島!ベックリンの死の島のオマージュ?で、
びっくり‼️まさかジブリ映画に?
リドリースコットが、エイリアン・コヴェナントで引用した時は、苦笑いしましたが、まさか宮﨑駿が!っとビックリしてしまいました。
そこから先は、なんだか素直に見てしまいました。何も考えず唯々イメージを飲み込む感じで。
私は、千と千尋より本作が好きです。
宮﨑氏の説教臭さを感じる事なく、本作は見れました。
トトロの時の、私の心の琴線に触れるまででは無いですが、とてもシンプルな咀嚼することないイメージの羅列に、ある種の清さを感じました。
巨匠の終末作、黒澤明の「夢」の様な感じもありますが、それよりももっと腹を割った感じがしました。
宮﨑駿自主映画として、好きです。
なんかまとまらない文章、失礼しました。
勢いで、書いてしまいました。
後、宣伝しないとかの仕掛けは、プロデューサーの思いつきなので、どうでも良いですわ。
これで引退せずに、最後に超絶娯楽大作作ってくれたら、カッコイイかな。
パンダコパンダみたいな。
これじゃないジブリの集大成を裏考察してみました 謎が分からなかった人は参考にして下さい
これじゃないジブリの集大成
エンターテイメント性のある冒険活劇を妄想してワクワクで映画館に脚を運んだのに、全てが想像の真逆を行ってました。純粋に面白さを追求し老若男女が楽しめる作品を目指してもらいたかったから本当に残念でなりません。
内容はファンタジー冒険活劇ではなくオカルトホラーです。
※一日経ったので他で説かれてなかった自分なりの解釈を裏考察として記しておきます
裏考察なので他でやってる物は省きます。アオサギ、ペリカン、インコなど象徴的に鳥が出てきます。これは天を支配する者達、天使の意味合いが強いでしょう。鳥は日本では太陽に住む鳥、八咫烏を始めとする天孫族を意味し、それが住まう場所を鳥居と言うわけですが、神社は神道、そのトップは天皇陛下です。
作中の塔は天から降りてきた力を建物でおおったといい、その力を操れるのは大叔父。彼は世界のバランスを保つために墓石の積み木を毎日少し動かして世界の崩壊を食い止めている。大叔父とは今上天皇(当時なので昭和天皇)その人に他ならないでしょう。国民と世界の安寧を願い祈るお仕事をされている方はこの世にただ一人です。
神との契約でこの力は血族の男子に継がれています。地位と名誉と血脈。主人公の眞人はそれを受け継ぐ皇太子。しかし自らの悪意で下々の者に怒りの矛先が向かうよう自らの頭に拾った石で傷を負わせた悪意をもって自分には崇高な祭司の御子の資格無しと断りました。
そこに後ろからやってきたインコ大王、王の下に王を作ったのは大叔父である天皇は別格だという意味でしょうね。そして欲にまみれる後続の権力者達を表現しているんでしょう。ロートシルトとかロックなんたらとか……世界を牛耳ったつもりになってる方々。それがやってきて積み木を適当に積み上げて壊してしまう。このような人達に世界を託したら一時と保たずに崩壊する。それを説いてるんだと思います。
塔とはタロットの大アルカナの一枚で正位置でも逆位置でも凶。破滅のカードです。いずれは崩れる13個の積み木の塔は大きな世界と象徴的な建物のひな形として存在し、その崩れそうなバランスが世界の均衡をうまく表現しています。13の積み木は小アルカナ、私達が親しんでいるトランプの1から13であり世界の構成要素。
そして御子としての主人公も夏子の子もこの塔の中で生まれる特別な血脈の子孫である事を知らせていますよね。神の契約なので他の魂とは分けて表現されていると思います。戦争や経済的な計略で沢山の人が死んでいく。鳥が人の命を間引く。折角現世に向かって飛んでいく魂をペリカンが食べてしまう事で表現しているのかも知れません。自然界も強者が弱者を捕食するので、大差はないと考えての事かも知れませんが、あの世でもそんな事になってるのかと想像すると落胆しますね。
そして最後に大叔父の威光は継承されず、皇統が失われ塔は崩壊。近い将来そうなるかもしれないですが、その先にある欲にまみれた支配者達の易しくない超監視社会の中で君たちはどう生きるか……ああ考えたくない世の中です。
最後の希望は清き積み木の記憶を絶やさず、アオサギやキリコ達多くの友達を作り意識を共有し世界へ伝播させる力、それは愛の力とか言うと痒いけど、隣人を愛し世界が繋がる心が邪を払うと信じて、主人公の眞人が進むと決めた道なのでしょうね。ああ本当に良いテーマなんですが。娯楽性は殆どない作品でした。
※2日経ったので更なる深読みを記しておきますね
主人公の眞人は大叔父との言い合いの中で、その仕組みにも悪意が含まれていると言ってましたよね。これは積み木に対する思いなのか、大叔父の生き方に対するものか、はたまた皇統に対するものなのか……少なくとも現状の皇室のあり方を完全なる善とは認めていないのかもしれません……議論は尽くされぬままインコ大王が力を手にして壊してしまったので後は分からないですが、これからの神無き世を私たちはどう生きるか。作品全体を通してそれを問われているように私は思いました。
※3日経ったので多くの人が分からないと言ってる夏子の出産の謎について記します 今回で最後の追記です
作中の出産は塔の中で神の御子を迎える神事になっています。なので、血脈の男子を迎えるのはこの場所でなくてはならず、眞人の出産も弟の出産も同じように神事になっていたのです。神聖な石室の中で神社の紙垂のようなものがぐるぐる回っていますが、あの輪の中が神界へと通じているのでしょう。紙垂は現世と神の世界を分ける境を示す物です。石室は御船代(契約の箱、失われたアーク)として存在しているのでしょう。そしてそれに直接触れることができるのもまた神の御子だけです。ここで神の御霊が宿るのでしょう。そういう神事の場所です。石室に入ることのできる人間は神の御子のみ。夏子には神の御子が宿っているため入れますし、眞人は神の御子なので入れますが、ヒミ(ヒサコ)は入ることができません。入ることを拒否したのは、自分の愛する旦那の子を孕んだ妹の夏子の子が見たくないからという感情的な理由ではないんです。入れないんです。ヒミが薄情な者だからではありません。
ここでもう一つタロットの話をしましょう。広く知られているタロットカードはライダー版と言いますが、もう一つマルセイユ版のタロットが存在します。マルセイユ版タロットカードでは塔のカードは神の家と呼びます。きっと神の御子は神の家で産むものという事なのでしょう。巨匠がそんなマイナーなカードをネタにするだろうか?と皆さんは疑問に思うかも知れませんね。塔のカードと神の家のカードは大枠で同じ意味を持ちますし。でも神の家には一生懸命に築き上げてきたものが壊されるという塔の象徴的な意味の他に、神の家独自の解釈があり、それが神の意志によってもたらされた人生の選択という意味なんです。これって君たちはどう生きるかと何だか重なりませんか?神の家のカードには破滅だけでなく前向きに考えられる希望が有るんですよね。それは神から与えられた人生の岐路だった訳です。
という訳で、あの塔と呼ばれていた建物は実は神の家という激レアカードから着想を得ているだろうと私は推察しています。眞人はきっと破滅の中で希望的選択をしたのです。作中の最後に太平洋戦争が終わった後の世界が描かれている事がその証拠なのでしょう。そして志有る者達が、一人一人が清く正しく美しく世界を紡いでいくのでしょう。いつか忘れてしまう聖なる心を受け継いで行くのでしょう。この重いタイトルに(戦争へと傾いていく)時代が追いついたという鈴木敏夫さんの言葉と共に僕達はどう生きるか一人一人ちゃんと考えなきゃいけないのでしょうね。ここまで読んでくれてありがとうございました。
宮さん、お疲れ様でした。いままで本当にありがとう!
宮崎駿に自伝でしたね。まあ、最後の作品だろうから、さもありなん、って感じ。
それ自体は悪くないのです。作画も良かったし、最後もわかりやすいし、色んな過去作のオマージュが楽しめましたね。
覚えている限りでは、「しまい波だ」とキリコさんが言って、お〜未来少年コナン。崩れる橋桁や塔の外を登るところは、お〜天空の城ラピュタ。あの塔が崩れるのは読めていたので、いつ眞人と母親で「バルス」って言うのかドキドキしていました。
ラスト、青鷺から「普通は忘れるだよ」って、千と千尋の神隠し、でしたね。空にトビケラが飛んでいましたし、他にも探せば色々あったでしょ。
最後に言いたかったのは、大叔父が駿で、青鷺が高畑勲。インコの隊長が鈴木敏夫ですかね。駿は「早く引退したいよ〜」って言っているのに、インコ隊長は「そんな積み木遊びにスタジオジブリは翻弄されたくない!」と反対していましたね。高畑青鷺はパヤオから「友達だ」と言われてビックリ。なかなか笑えるシーンでした。
と、まあ楽しめる作品ですが、凄い!とか、面白い!って作品かと言われると、、、、
あとは岡田斗司夫の解説動画を観て、何か気が変われば再視聴しますが、、、、
とは言え「宮崎駿さん、いままで名作をありがとう!」という気持ちは確かです。
宮崎駿が最後に言いたかったこと
場面、状況が目まぐるしく変わるので子供には難解な映画です
今までのジブリ作品のオマージュも満載でジブリ飯も健在
そして内容は?
宮崎駿が生きた時代は果たして幸せな世界だったのか?
そして私が引退した後をみんな頼むぞ!という強いメッセージを感じました
この映画は予告編を作りにくいのは確かですね?
どこを切り取るかで映画の印象もかなり変わる
後半のファンタジー色を濃くしても、期待を外すことになるし、子供には前半はキツイでしょうね?
大傑作とは正直言いがたいけど、人の細かい動きの描写は流石に宮崎駿だと感心しました♪
自己陶酔な駄作を、プロモーションの力で強引に動員した映画
ジブリの新作に飢えていた当方としては、いそいそと期待して観に行ったのだが。。。
いやあ、これは稀にみる駄作だった。
作り手たちは本当にこの作品が良いと自信をもって公開したの? 宮崎さん、そうなの? (頼むから、こりゃダメだと思っていたけど興行的に引き返せなかったのよ、と言ってくれ!)
画や音などパーツは素晴らしいが、肝心の物語が破綻してないか?何を言いたかったのかよくわからない。わざとらしいというか、小手先というか。人物描写にも違和感いっぱい、引っ掛かりまくり。全然、心が動かなかった。
中身のない映画だから、奇抜な宣伝無しのシークレットなスタイルで「どんなんだろう?」という興味の魅き方をしなければ動員できる自信がなかったのでは?と訝しく思う。大物俳優を声優にズラッと並べた点も然り。
この映画を2回観た人は一体どれだけいるのか?ぜひこの数値を確認してほしい。圧倒的に少ないと思う。
なんか騙されて観に行かされた感がある。ジブリがこういうことするのが悲しい。。
映画が終わって照明が付いたとき、周りも放心状態だったよ。
大好きなジブリ。
慢心せず、小手先に逃げず、前衛的にならず。初心に戻ってエンターティメントな映画を作ってほしい。
広告を打たないのは戦略ではなく誠実さ故。
まず観終わった感想がレビュータイトルだった。
今回の新作に関して、広告を出していないのは新しいマーケティング戦略なのかと思っていたが違った。
この映画は世界の、そして監督自身の「世間が思い浮かべる宮崎駿」からの脱却のための作品であり、色んなしがらみを背負って作品作りをしてきた監督の自己との対話のためのものだった。
宮崎監督作品といえば、多くのスポンサーが集まり、否が応でも色んなものが金で雁字搦めになる。
この映画は、巨額が動く宮崎駿に集まる罪深いもの達(罪という言葉が作品のテーマの一つだと感じた)に対する、もう旨みはないし作らせないという宣告であり、そんな者たちを利用しながら映画を作ってきた監督自身の罪と向き合う為の作品だと感じた。
出てくる登場人物は皆醜さを持っており、宮崎駿作品に出てくる理想化された人物像とは一線を画す。
これは恐らく、アニメ制作に携わる中で出会った者達のメタファーであり、また監督自身なのだと思う。
しかし、罪を背負い醜くても、せめて誠実でありたいという監督の思いが作品全体から溢れており、私は涙した。
映像の素晴らしさは筆舌に尽くし難く、アニメーターとして生きた宮崎駿の生き様がこれでもかと伝わってくる。
また、色んなところ過去作のセルフオマージュがされており、金に迎合した作品も自身そのものであるという力強い宣言に思えた。
この作品では「石」が重要な役割を担う。
これは「意思」、つまり我々観客ではないだろうか。
観客を楽しませるのが映画だという矜持を宮崎作品からは常に感じるが、前述した理由で、今回の作品は鑑賞者に向けられたものではなくなっている。
作品内で「石」の怒りに触れる場面が何度か出てくる。
監督は今回の作品が、今までの作品のように多くの人に愛され評価されるものでない事を分かっている。
中には鑑賞後怒り出す者さえいるのを理解しているのだ。
そういう作品であるのに、大々的に広告を打って鑑賞者を焚き付けるのは筋が通らない。故の現状ではないだろうか。
宮崎駿にとって「石」(観客)とは作品作りの根源であり、死神であり、束縛であり、しかし確かに尊ぶべきものなのだと思う。
しかし、そんな石を最終的に断ち切った。
これはつまり、自身の作品作りとの訣別を意味する。
どんなに罪を背負っていると感じていても、作品と向き合い、観客を楽しませる事に情熱を注いだ、アニメーターとしての誠実さを貫き通した宮崎駿の遺作としてこれ以上のものはないと思う。
この映画を見る事ができて本当に良かった。
表現の次元が違いすぎて終始圧倒された。
宮崎駿監督、ありがとうございました。
さようなら。
どうか末長くお元気でいて下さい。
何を伝えたいのかが分かるかどうかで満足度が変わるのではないだろうか
個人的な解釈による感想です。
冒頭で主人公マヒトの母親が火事で亡くなるところから始まります。新しい母親はナツコという名前です。
劇中で、マヒトはナツコのことを「お母さん」ではなく、「お父さんの好きな人」と言います。このことからマヒトは、火事で亡くなった母親にまだ執着があり、ナツコを母親と認めることができない葛藤を伝えたいのかなと感じました。
塔の中で出会ったヒミは、マヒトの火事で亡くなった母親に当たる人物であることが判明します。マヒトとヒミが抱き合ったところが印象に残りました。
最後にマヒトとナツコは、無事に元の世界に帰ることができたので、晴れやかな気分になりました。
積み石の場面は、残念ながら何を伝えたいのか、解明が難しいです。
ジブリの世界観は、よく出ていて、とても引き込まれました。
追記 積み石の場面は、今置かれている現状を打破してほしいという宮崎駿監督のメッセージが込められているのではないかと後から感じました。
ダメだ。
全く刺さりませんでした。
元々ジブリ作品は自ら進んで観たことがなく、今まで付き合いでいくつか嫌々観たくらいです。
しかし今回は宣伝ナシだったので、まんまとその策略にハマり初めて自らジブリ作品を観ようと思い観に行きました。
やっぱりダメだ。この独特の世界観。あの7人のお婆ちゃんキャラが出てきた時点で、一気に萎えた。こういうジブリ特有の雰囲気、かつ過去に見たことあるようなキャラ出すのやめてくれ。何かが違うんじゃないかと少しでも期待した私がバカだった。その後もジブリジブリしたキャラが色々出現。
話も何がなんだか。最終的に何を伝えたいのかもよくわからず。観終わった後には「クソつまらなかった」しか出てこなかった。やっぱり私にはジブリは合わない。
鼻息の粗いインコを大量に作り出した世代から受け取ったバトン
とにかく凄い映画でした。
冒頭の病院の火事のシーン、ヒミ様の火を使うシーン、涙が出そうなくらい圧倒される美しいシーン。アオサギの飛ぶ動き、着地して羽を畳む動き、など動きがとにかく素晴らしい。そして、絶対的な悪の無い世界。先人の努力をぶち壊した「愚鈍で凶暴な」インコたちですら「愛嬌があるもの」として描かれる。
そして理解できないシステムで回る世界。大量の鼻息の粗いインコたち。それらは、悪意の満ちた世界にしてしまわないように、善意から作られた微妙なバランスで作り上げた世界だった。それを引き継げと主人公は言われる。でも結局、彼は「積み木は」引き継がない(インコの王がぶち壊した、というのも、史実通り)。しかし「悪意の満ちた世界にしない」ということは、ちゃんと引き継いだ。そういうエンディングだろう。
そして映画を見た僕たちは、こう言われる気がする。
これが、私が先人から「引き継がなかったこと」「引き継ぎやってきたこと」だ。
君たちは、どうする?
わたしだけでしょうか。
沢山の高評価レビューありますが、
事実は違い、映画を見てほとんどの人が混乱していたように思えます。
エンドロールが終わり、あたりを見回しましたが、
笑顔の人は見つけられず、皆さん沈黙もしくは引き笑いでした。
監督自身、訳がわからないところがあるとコメントされているようですね。
(場をなごませる冗談でしょうが、納得のコメントです)
・異世界は創作の世界をさしている?
・塔はジブリ全体をさしている?
・石の数はジブリ作品数と関係している?
・主人公の境遇が監督の人生と酷似している?
etc.
細かな心理描写、数々のメタファー、旧作品のオマージュ、監督のバックボーン、
我々が気づけていない細かなメッセージが沢山詰め込まれているのは、いやでも分かります。
ですが、これらは映画が面白い面白くないとは、別のオプションで
結局のところ
話がよく分からないのであれば、こういった部分しか楽しむ事ができない。
私は大きな会場で見たのですが、
・序盤にかけては大興奮。
・中盤は世界観を受け入れる準備。
よくわからないが、こういうものなのだろうと。
・中盤〜終盤は、ポカーン。
創作の世界?の塔に入るまでが、一番おもしろいと感じたので、
中身を覗いてみるまでが一番楽しいんだな。
という、ひねくれた考えを持つまでに至りました。
これだけの人を集めて、訳の分からないものを見させられているあの状況は、とても馬鹿らしく。事故に巻き込まれたような気分。
最後に、
この映画は答えのない謎掛けのようでして、
それこそが制作者側の一番の悪意ではないでしょうか。
そこまでするか宮崎駿
さすが宮崎駿という作品の映像美で良作だと思います。
しかし近年では他の監督も映像美にはかなり迫っており、宮崎駿らしさ、ジブリらしさは既にある物語の再創作というウォルト・ディズニーを彷彿とさせた魅力に翳りを感じます。
この作品そのものに説教臭さはそれ程ありませんが、手放しで絶賛するのにはやや難解な作品だというのが個人的な総評です。
尚、タイトルにした「そこまでするか」はパンフレットは後日販売として、劇場で公開初日は買うことができない点です。
事前の宣伝なしに続いて徹底的に内容(ネタバレ)から鑑賞予定者を遠ざける事に徹している点を考えると早めに観に行くのが良いと思います。
恐らくジブリと宮崎駿でもなければおいそれと同じような方法は取れなかったでしょうけど、昨年末に『THE FIRST SLAM DUNK』でも近い情報非公開主義によって成功した例からネタバレの致命的であるというのを作り手側がとても強く意識しているのだと思います。
ジブリ作品らしい演出といえば名脇役の存在ですが、『もののけ姫』ならこだま、『千と千尋の神隠し』で言えば湯婆婆やカオナシですが、今作はワラワラと七人の婆やが愛らしいです。
以降はネタバレ含みます。
一言で表現するなら本作は宮澤駿(少年)版の『不思議の国のアリス』また『七人の小人』、
作品タイトル『君たちはどう生きるか』は作中に眞人が母からの贈り物として手にした吉野源三郎の同名書籍にちなみ、家の周りの森の中にある本好きだったという大叔父が建てた不思議の塔がその伏線と考えられます。
不思議の世界は幾つかの世界で構成されていて、死後の世界(地獄や極楽)と生前の世界など時間軸も無茶苦茶な各世界には青鷺のライバルであるペリカンや色とりどりのインコが暮らしています。
こうした物語のアウトラインを振り返るといつものジブリの描くファンタジー風ですが、難解さと最初に表現したのは眞人が転校先の学校でケンカをしてボロボロになって帰る途中で大きな石を掴み、自らの右側頭部を打ち付け大量の血を流し父母、使用人の婆やたち家族全員が心配するシーン。
父親は「誰にやられた?」とイジメだと判断し、学校に抗議。しかし眞人は転んだと言い張ります。
ケンカやイジメと親の気を引きたいなら泥だらけになった服だけでもいいのに、頭を縫うほどの自傷行為をするのは破滅願望なのか、自らをあまり大切にしていない印象を受けます。
その一方で身重で行方不明になった継母が行方不明になると危険を顧みず森や不思議の塔に向かい青鷺たちと戦い、救い出そうとします。
眞人は口数は少なく、落ち着いた口ぶりですがやっている事はかなり無鉄砲。子どもの先のことを考えないで感情のまま突き進む姿を描こうとするにしては大人びています。
主人公に共感するというより物語(宿命)に翻弄されながら、生きる意味を探そうとする経済的には恵まれている家庭環境の子供の親離れ(乳離れ)がタイトルに込めた意味という点では実に様々な風刺(皮肉?)もあるでしょうか。
最後は無事に現実の世界に帰ってきて喜び合いますが、時間軸は数年後に一気に、弟が幼稚園児くらいまで成長し、この家を家族四人で去る日に飛びます。
そこに見送る婆やたち使用人の姿はなく、がらんとした部屋の様子と合わさり物語を閉じる余韻に引き込まれます。
物語の起伏がないわけではないですが割と淡々としていて、大叔父とのやり取りも心象描写中心で、パンフレットなしに答え合わせできずモヤモヤさせられる点は賛否分かれる作品かと思います。
このある意味でチグハグさを抱えながらも一つの作品をなんだかよく分からないけど完成させてしまう情熱は本当に凄まじいと思います。
宮崎駿(82)の年齢を考えると前作『風去りぬ』から10年。本作が最後の作品にするつもりはないのかもしれませんが、どうにも個人的にはスッキリはしない作品でした。
このため殆ど事前に宣伝や公開情報がなかったら逆に物語の破綻によって宣伝のし様がなく、パンフレットもスケジュールが間に合わなかった説を個人的には推したいと思います。
私はどう生きるか。
この世界でどう生きるか。そう投げかけられた気がしました。
ペリカンが亡くなるシーンがすごく印象的であった。
人間の赤ちゃんの卵を食べることで生きるペリカンは人間からしたらすごい悪役だけれど、それが食物連鎖というものであり、人間はあたかもその連鎖から外れているような気でいると感じるのは私だけだろうか。魚を捌くこともできない私は内臓が出てくるシーンをちゃんと見れなかったのが情けなく感じてしまった。
また大叔父の世界では食う食われる立場が逆転していたにも関わらず、人間を食うインコを嫌な奴だと捉えてしまう。
つまり私はどこまでも人間視点をやめられない。
悪意と感じるのも立場によるものではないか。
大叔父が作った世界が壊れても、現実世界は何一つ変わらなかったことから、真実や理想の世界に囚われすぎるとかえって自分の世界が脆くなるのかなと思った。今生きる世界は真っ白ではないかもしれないけど、その世界でどうやって生きるか。人生は心の持ちよう、解釈問題なのかなぁとも思った。
さぁ、私も今の母と向き合おう。
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