君たちはどう生きるかのレビュー・感想・評価
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ART作品として観たくなる
2回目鑑賞
青鷺は宮崎駿監督の姿 もしくは人間の本質
(かっこいい時もずるい時もある)
大叔父は宮崎駿監督のメッセージ
(この世に生まれた作品への愛)
に観えました。
一度きりの人生、やりたい事をやれるのは幸せなことで
とても羨ましいです。
成功した人とは比べられないですが、私は私で、
残りの人生、どう生きるか、とあらためて考えてます。
きっと、ちゃんと自分で考えてからの行動、その時の選択肢もどれも正解なんだから。
やはりジブリは、宮崎駿だ
予備知識無しで見たかったので、全くの情報を入れないまま映画館へ。
原作の漫画も昔に読んだことはあったがうる覚えでしたが、原作のストーリーが大きく物語に関わることはありませんでした。
あくまで全て私の想像の解釈なのでお手柔らかに…。
主人公が、ファンタジーの世界へ誘われるのだがそこから先の館の主がまるで宮崎駿自身を、思わせる様だった。館の主は物語に魅せられ取り憑かれ、作り上げた架空の世界。それがまさにジブリを思わせる。
主様が何年もかけ、守り続けた架空の世界。
主様は血族に座を譲ろうとする姿も、宮崎駿と重なった。
宮崎吾朗はジブリの名前は継いだが今や3D作品に挑戦したり、独自の世界を展開していってる。
宮崎駿が何年も守り続けた、ジブリの世界観は
やはり宮崎駿で終わってしまうのかもなという風に感じた。
そう思ってみると最後の幼き母の主に対しての泣きながらの「ありがとう」は何だが感慨深いものがある。
途中アオサギが「アオサギはみんな嘘つきなんだ」と言っていたシーンをみて宮崎駿が昔、物語を作るのは大嘘つきになる事だらしきことを言ってたシーンを思い出した。
本当の意図はわからないけど私は映画を見てそう思った。
宮崎駿は最後の遺書にもなる様なつもりでこの作品を作ったのかもしれないと感じた。
そして今までのジブリを思わせる様な演出に心惹かれ、映像の美に心奪われました。
ズブの素人の意見ではありますが、私はすごく面白かったです。
初めて子供の頃に、ジブリを見た時のワクワクをもう一度感じれた気がします。このワクワクは宮崎駿にしか生み出さないと私は感じています。ありがとうございます。
この映画の私的解釈と、感銘
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『君たちはどう生きるか』を観ました。
結論から言うと非常に感銘を受けました。
しかし、この映画『君たちはどう生きるか』は、宮﨑駿(宮崎駿)監督が分かり易くは劇中で説明していないので、私的な解釈を交えて、なぜ私がこの映画を見て感銘を受けたのか、書いてみます。
この映画『君たちはどう生きるか』は、先の戦争中の日本が舞台です。
主人公・牧眞人は、戦争中に母・久子がいた建物が焼け、母親を亡くします。
その後、主人公・牧眞人の父は、戦争中に兵器工場で儲けます。
主人公・牧眞人は、疎開も兼ねて東京から父の兵器工場近くの母の実家の屋敷に父と共に越して来ます。
その時に主人公・牧眞人は、牧眞人の父が再婚した、牧眞人の新しい母・夏子に出会います。
牧眞人の新しい母・夏子は既に父の子を宿しています。
牧眞人の新しい母・夏子は、後に火事で亡くなった実の母・久子の妹であることが明かされます。
牧眞人が父と共に越して来た母の実家の屋敷には、離れに塔があることが分かります。
離れの塔は、本好きな優秀な大叔父が建てたと新しい母・夏子から説明されます。
牧眞人はこの新しい疎開場所で、学校の周りの生徒と軋轢が出来ます。
牧眞人は学校内の軋轢から逃れるために自分の頭を少し大きな石で打ちつけ、多量の出血をさせ、(口では否定しながら)周りの生徒から攻撃されたと父を含めて暗に伝えます。
ある時、屋敷の中でアオサギが牧眞人の前に現れます。
アオサギは、火事で亡くなったはずの牧眞人の実の母・久子が本当は生きていると伝え、何度も離れの塔に牧眞人を導こうとします。
その後、新しい母・夏子が離れの塔の付近で行方不明になります。
牧眞人は老婆・キリコと共に新しい母・夏子を探すために離れの塔の中に入って行きます。
牧眞人は塔の中でまたアオサギに攻撃を受けるのですが、以前に作ったアオサギが落とした羽を使った矢でアオヤギのくちばしを射抜き、アオサギを無力化させます。
くちばしを矢で射抜かれたアオサギは、サギ男へと変貌します。
映画をここまで見て、私的には3つの疑問が立ち現れます。
それは、
Q1.アオサギとは何なのか?
Q2.主人公・牧眞人が自分の頭を打ちつけ大きな出血をさせた意味とは?
Q3.大叔父が建てた離れの塔とは何なのか?
の3つの疑問です。
この3つの疑問は映画を最後まで見てもしっかりとした説明はなく明確な答えは不明のままです。
しかし、以下に(私的)解釈出来ると思われます。
A1.アオサギとは、世界から離脱したい欲求のメタファー(暗喩)だと解釈されると思われました。
主人公・牧眞人は、潜在的には実の母・久子が生きていて欲しいと願っています。
そして口には出しませんが、実の母・久子が戦争中の火事で亡くなった原因は戦争にあると思っていると感じられます。
さらに、父がその戦争に兵器工場の経営で加担していることも、暗に牧眞人には違和感があると解釈できます。
そんな父が新しい母・夏子と子を宿したことにも、牧眞人には違和感あると思われます。
牧眞人は、そんな世界から逃げ出したい離脱したいと暗に望んでいると思われます。
そして、牧眞人が世界から逃げ出したい離脱したい欲望のメタファー(暗喩)がアオサギであると解釈されると思われるのです。
A2.さらに、牧眞人が自分の頭を打ちつけ大きな出血をさせた理由は、(そんな世界に立ち向かわず)離脱したい行動の現われとして解釈出来ると思われます。
最後に大叔父が建てた離れの塔とは何なのか?
A3.(このことは後に明かされますが)離れの塔とは、世界から離脱した人達が、「悪意」のない理想的な世界のバランスを理論化し実現しようとする場所なのだと解釈できると思われます。
くちばしを矢で射抜かれたアオサギは、サギ男へと変貌しますが、その後、サギ男は主人公・牧眞人と老婆・キリコを離れの塔のフロアより1つ下の階層に導きます。
離れの塔より1つ下の階層には海が広がり、大量の帆船が漂っています。
牧眞人は島に流れ着き、「ワレヲ学ブモノハシス」と書かれた門を、大量のペリカンに押されて開けてしまい、ペリカンに襲われます。
しかし矢についていたアオサギの羽のおかげで、牧眞人はペリカンに食べられずに済みました。
その後、牧眞人は老婆・キリコの若い頃のキリコに出会い助けられます。
キリコは漁を行い、牧眞人と共に大きな魚のハラワタを取るなど解体します。
そして、白く小さいふわふわとしたワラワラにその魚を解体して出来た食料を分け与えます。
また帆船に乗ったのっぺらぼうの黒い乗組員たちは漁が出来ないことをキリコが説明します。
白いワラワラはキリコが与えた食料を食べて空へと飛んでいきます。
ワラワラはその後、上の世界、つまり人間世界に到達して人間の生命として誕生するとキリコは説明します。
しかしワラワラが地上に達する前に、大量のペリカンが飛んで来て空を飛ぶワラワラを食い散らかします。
それを阻止するために、海中からヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)が現われ、火でペリカンを燃やし空飛ぶワラワラを助けます。
ただ、その火はペリカンだけでなく、少なくないワラワラをも燃やすことになるのです。
ここで4点の疑問がわきます。
Q4.ペリカンとは何なのか?なぜアオサギの羽を持っていた牧眞人はペリカンに食べられなかったのか?
Q5.キリコが行っている漁の意味とは?
Q6.帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員とは何なのか?
Q7.なぜヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)はペリカンだけでなくワラワラも燃やしてしまっていたのか?
それぞれの答えの解釈は以下になると思われます。
A4.ペリカンは世界から離脱した(せざるを得なかった)ある一つの行きつく先のメタファー(暗喩)だと解釈出来ると思われます。
ペリカンは世界から離脱し追い詰められ、ついに人間生命の誕生(ワラワラ)をも食い散らかす存在として現れます。
そして、アオサギは世界から離脱したい欲求のメタファー(暗喩)です。
だからこそ世界からの離脱の存在としてアオサギと同類のペリカンは、アオサギの羽を持っていた牧眞人を食べることが出来なかったのだと考えられます。
A5.キリコの漁の意味は、自分たちが生きる為に生命を殺し対峙する、つまり世界に立ち向かう行動のメタファー(暗喩)として解釈出来ると思われます。
キリコの漁の肯定は、実は世界に立ち向かう人々の肯定につながります。
しかしこの肯定の先には、世界に立ち向かうための争いや、その先の戦争の肯定も暗に示しています。
つまり、キリコの漁の肯定は、牧眞人の父が世界に立ち向かい兵器工場で財を得ていることを延長線上で肯定しているのです。
A6.そして、帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、(世界に立ち向かうキリコの漁とは逆に)世界から離脱した存在の一つのメタファー(暗喩)と解釈できると思われます。
帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、同じ離脱の存在のペリカンのように追い詰められて人間の生命の誕生であるワラワラの上昇を食べ尽くすことはありません。
しかし帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員は、ペリカンと同じ離脱の存在として、(キリコの漁のように)世界に立ち向かえず、生命の殺傷から目を逸らし、ただ漁をしたキリコから食料を買い取る者として振舞っています。
A7.そして、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)は生命の誕生を守る母としてのメタファー(暗喩)だと解釈されると思われます。
しかし、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)は、生命の誕生を守る優しい理想的なだけの母という存在ではありません。
ヒミは、時に、生命の誕生のワラワラをも焼いてしまう、苛烈な母としてのメタファー(暗喩)でもあるのです。
映画が進み、牧眞人はヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)やサギ男らと共に牧眞人の新しい母・夏子を離れの塔の中でついに発見します。
この過程で新しい母・夏子が、ヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)の妹であることが明かされます。
離れの塔の中の新しい母・夏子は(お腹の中の胎児を含め)、牧眞人から拒絶されていることを暗に甘受しています。
そして、新しい母・夏子は、牧眞人の離れの塔からの救出を激しく拒否します。
その過程でも1つの以下の疑問が現れます。
Q8.インコの存在とは何なのか?
A8.その答えは、インコとは、離れの塔の離脱した世界で、新しい理想的な世界を反転的に構築しようとする集団のメタファー(暗喩)であると解釈出来ると思われます。
インコは、帆船の黒いのっぺらぼうの乗組員らとは違って、キリコのように命を殺生することが出来ます。
しかしインコは、キリコとは違って、個々の生命(世界)に対峙しているとは思えません。
インコは、個性を無くした組織的な集団としてオートマチックになることで、個々の生命(世界)に対峙することなく殺生することが出来ているのです。
それが、世界からの離脱を経て、”新しい理想的な世界を反転的に構築しようとする集団”の意味です。
映画の最終盤で、主人公・牧眞人は遂に実際にこの離れの塔を作った大叔父に会うことになります。
そして、大叔父は牧眞人に、絶妙の積み木のバランスで成り立っている離れの塔の理想の世界の、継承者になってくれることを望みます。
しかし牧眞人は、自身の頭の傷を大叔父に見せ、自分にも「悪意」があることを示し、離脱した理想の世界を作る継承者になることを拒否します。
そして現実の世界に戻ることを大叔父にはっきりと伝えるのです。
このことにインコの大王は激怒します。
インコの大王は自分で理想の積み木を立てようと試みますが、すぐに積み木のバランスは崩れ、さらに怒ったインコの大王は自分の太刀で理想の積み木を真っ二つにします。
それによって離れの塔の中の、離脱した理想の世界は崩壊して行きます。
牧眞人とヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)とサギ男はそれぞれの年台の現実の世界につながる扉のある廊下へと逃げ出します。
そして、そこに若い頃のキリコと牧眞人の新しい母・夏子も逃げて来ます。
牧眞人と牧眞人の新しい母・夏子とサギ男は離れの塔に来る前の現実世界に戻ります。
そして、ヒミと若い頃のキリコは、牧眞人たちとは前の、ヒミが牧眞人を産むよりずっと以前の世界に、扉を通じて現実の世界に戻ります。
牧眞人と新しい母・夏子は、扉を抜けて牧眞人の父や屋敷の老婆たちと再会します。
サギ男も扉を抜け現実に戻りアオサギとなって飛び立って行きます。
インコたちも崩壊する離れの塔から現実の世界に殺到しますが、それぞれ可愛らしい小さなインコとして現実の世界に飛び立って行きます。
この映画は、牧眞人が世界から逃げ出す離脱する欲求を肯定しています。
また世界や生命の生死に立ち向かう若いキリコ(あるいは牧眞人の父)も肯定しています。
そして、(映画の初めの牧眞人のような)世界の離脱と(若いキリコのような)世界の立ち向かいの、間を取り持つ、ヒミのような時に苛烈になる母を肯定していると思われます。
一方でこの映画は、離れの塔の崩壊や大叔父の理想の継承の拒否で、世界からの全面離脱への疑義も示しています。
そして、世界や生命の生死に対峙する時の残酷さも示していると思われます。
火事で亡くなった実の母・久子の現実での不在の受け入れも示しています。
この矛盾に満ちた現実の受け入れと、離れの塔を通じたヒミ(若い頃の牧眞人の実の母・久子)との関係を含めた経験の記憶と、近しい仲間の存在により、辛うじて現実を生きて行くことに決めた主人公・牧眞人の姿に、個人的には静かな感銘を受けました。
今の現在、国内外を含め様々な場所で訳も分からず暴発している人々の存在があり、彼らを迂回させる一助にこの作品がなれば良いのにとも思われてはいます。
この映画は暗く重いですが、世界を伝え切ったところにも感銘しました。
君たちはどう生まれ、どう生きるのか
輪廻転生、生と死、あちらの世界、こちらの世界、パラレルワールド、人間の持つ心の闇。
私の解釈ですが、あの塔は、闇を表していると思いました。その奥は生と死の境目の場所。
マヒトは何度も闇に誘われます、人は大切な人を亡くしたら、ついていきたいという気持ちにもなるでしょう。
その誘導に何度も勝つのですが、夏子さんを助けにいくという形で入っていくことになります。
そこで、生死の境目で大叔父さんに現実世界を生きるのか、死後(天国)を守るのか選択を迫られます。
これは凄く怖い選択だと思いました。
天国は一見、夢のように美しくも見えるのです。
マヒトが現実世界を選んだ時、とても安堵しました。
そして、どんなに苦しくてもそこで生きるという意思を感じました。
また、夏子さんを通して、人間が生まれることの壮絶さを伝えられました。
夏子さんはつわりが酷く、自ら闇に誘い込まれるように進んでいくのです。
そこで、もがき苦しみます。
一つの命を守るために必死の形相になりマヒトに酷いことを言う。(ここについては、もっと深い見方ができるので何とも言えませんが)
人間が、生まれるのは本当に大変なこと。
それはワラワラなどを通しても伝わります。
私達は現在の、更に生きにくい社会の中で目に見えるものばかりに囚われ、死にたいと思ったり、それを選んでしまう人もいます。
でも、一つの命の誕生の裏には壮絶な物語があること、生み出す母親の忍耐と愛情の強さとはどれほどのものか、ということ。
それが一度見た時点で大きく伝わってきたメッセージでした。
まだまだ解釈の足りないところはあります。書ききれないところもありますが。。
宮崎駿監督が、もっともっと生きて理解すればいい、だから、もっと生きるんだ、と言っているような気がします。
ちゃんと考えましょう、感じましょう。
自分なりの解釈で良いのです。
難しい、とか一言で済ませるのではなく、頭と心を使うのです。
それが何より大切なこの映画へのアンサーではないでしょうか。
この不思議なファンタジーが良いのよね
ジブリの暖かみを残しつつアニメーションとしてクオリティが上がっていて凄く良かった。
どの場面も美しかったなぁ。特に私はジブリの描く森が好き。
今回は冒頭の火事のシーン凄かった。
ドルビーアトモスで観たから音の重圧感も重なって凄く満足感を得た映画だった。
ストーリーも良かった。
大叔父さん?はこの世の中じゃ良く無いと思って新しい世界での生き方を選んだ。
その生き方を他の人にも共有したかった。
ただ、主人公は戦争する世の中や周りの環境の変化にちゃんとついていけてはなかったり嫌な気持ちもあっただろうけど、現実での生き方を選んだ。
自分の生き方は自分で選ぶ。
辛いこともあるけど、何を大切にして優先して君たちはどう生きるのか。
主人公のお母さん、その妹、お婆さん、みんなあの塔の中の世界にどう生きるのか問われて選択していったのかな。
私(宮崎駿自身)はこう生きる事を選んだ。この生き方に続く物はいないかもしれない。宮崎駿のような映画作れる人はいないかもしれない。この自分が作った世界を残して欲しい気持ちもありつつ、
みんな自分の世界を自分で選び築いて行けば良い。
そんな映画なのかなぁと勝手に解釈(勝手な解釈です)
この映画にしか得られない感情があって心が持ってかれた。
この世界にもっと浸りたかった。
お父さんと新しいお母さんが仲良くしてるのを見たり、つわりのお見舞いの時の、お父さんが一緒に寝てる感じを漂わせる感じ良かったな。
本人は感情を言葉には出さないけど、子供からしたら受け入れるのにも時間がかかるし感情を揺さぶられる事だったって主人公目線のこの表現でよく分かるよね。
もしかして新しいお母さんは、主人公のためにあの世界に行ったのかな。
主人公の気持ちは充分分かっていただろうし。
どうなんだろうね。
あとインコの見た目、凶暴だけどピュアさもある感じ良かったな。
宮崎駿自身も分からないと言ったらしいから、個々の受け取り方でこの映画を観てそれぞれの私の世界観を作ったら良いなと思った。
絶賛や批判いろんな意見が出る映画おもしろいよね。
映画タイトルからのイメージに反して
タイトルの元ネタになっているのは吉野源三郎さんの書いた児童に向けた人生指南書なので、まさか高齢の宮崎駿監督が子どもたちに道徳教育のための映画を作るような心境に至ったのでは・・・と思ったけど、ちっとも説教臭いところのない、爽やかで楽しい映画でとても良かった。
元ネタの小説も少し登場していてうれしかった。
昭和初期の上流階級の家庭の暮らしぶりも面白かったし、主人公が旅する地下の世界の、過去のジブリ映画をところどころ思い出させるファンタジックな世界観もよかった。
前作の風立ちぬは大人が主人公だったけど、やっぱり子供が主人公の映画のほうが宮崎駿監督の作風にあっていて楽しく見れると思った。
インコの軍隊とかワラワラとか、癖があってかわいいキャラクターがたくさんいるのに、映像が内緒にされてるのでキャラクターのグッズがしばらく販売されなさそうなのだけは残念。
いつかは映像公開してもらって、たくさんキャラクターのグッズがほしい。
宮﨑駿がギアを上げてきた。
宮﨑駿がギアを上げてきた。
今までの主な作品では、
クシャナ、エボシ御前、
湯婆婆、グランマンマーレ等々の役割は決まっていて、
主人公に、
自然界は○、
人間界はX、
と、
お互い奪い合いをしていても、
共存はできない。
自然界も△、
人間界も△、
譲り合って共存するという現実を、
主人公(観客)に体験させる。
今作も船乗りの女性が出てきた。
(名前は出てきたのかもしれないが、わからない)
教えはしない、
主人公に体験させる。
何を倒し、慈しみ、
敬い、鎮めるのかを、
頭で考えるのではなく、
汗と血を流し体感で、
判断し行動する事を覚えさせる。
場所は、国、村、城、塔、
上下左右階層になっている場合が多い。
そして少し成長し元の地に戻る。
というのが、
メインプロット。
カオナシ、わらわら等、
魑魅魍魎の役割も似ている。
タイトルは様々だが、
主題は常に、
君たちはどう生きるか、
だった。
今回は更に、
神話や国生みの物語も、
視野に入れた、
モーゼの十戒や、
フェリーニなど、
君はどう生きるかだけではなく、
少年よ神話になれ、
という内容だった。
それがギアを上げたと感じた理由である。
ダイナミックさ、
スピード感で魅せる、
シークエンスはさすがに少なかった。
が、
ナウシカの原作にも、
あるような、
ひとりの主人公だけの物語ではなく、
宇宙や万物も含めた物語を、
映像で、
エンターテインする力に改めて驚いた。
観た方がいいと思うがそうも言い切れ無くも無い
公開日だけの発表で、ストーリーやキャスト等は全て伏せるというやり方で公開された今作。
このスラムダンク方式は、クリエーターなら誰しもが夢見る方法だろうと思うけど、ジブリで宮崎駿監督だからこそ出来たと思う。
プロデューサーの鈴木さんは震えていたのではあるまいか、いや、信じて座していたのかもしれない。
確かに今作は今までのジブリから見れば異色の問題作だと思いました。
以下多少のネタバレと私見を含みます⬇️
今作を観ての感想としては
幻想小説か不条理小説を読んだ様な気持ちになった。
小さい頃、黒澤明の「夢」をみた時の「・・・なるほど?」感。
きっと、ジブリ!エンタメ!として観るとがっかりする気がする。
アートを鑑賞する気持ちにスイッチすると楽しい!と鑑賞中に気付く。
色々と考えながら観ることができたし、ジブリ作品のいろんなオマージュ?が出てきて、それはそれでエンタメの気持ちを呼び起こしてくれて楽しかった。
ただ、ジブリの疾走感のある絵は、今作ではなりをひそめていた気がするのは少し寂しかった。
この作品のテーマはきっと「死」だと思う。
火垂るの墓の様にわかりやすい形にはなっていないけど、たぶん「死」や「時代の終わり」だと思う。
そして「託す」というテーマに移ろい、作品は終わる。
長編を撮るのは多分最後になるだろう宮崎駿監督の、いろいろな思いを乗せた作品だと思う。
監督自身もこの作品について「自分でもよく分からない」と言っている事も含めて、己の人生の天井が見えてきた監督が、それでも世の中にあるいろいろな映像表現を肯定しつつ『通したい何か』を観客それぞれが想像したら面白いのではないでしょうか。
大ヒットはしないだろうし、子供と観る映画でもないけど
観た方が良いだろうなと思う。
私は観れて良かったし、監督の居る時代に生きれて良かったと思った。
ふと、大好きな高畑監督が亡くなった時を思い出し『ぱやお、元気に長生きしてごろうちゃんを困らせたれ』と勝手に思いながら映画館から帰った。
ジブリは劇場で見たい
一体どんなラストになるんだろうとわくわく鑑賞。
私たちは人間の勝手で本当に手酷く鷄を扱っているんだから、逆があったって何も言えないよな〜と思ったり、、、
平和な世の中、人と人の繋がり、食、飛行機、船、ジブリで繰り返し感じてきた魅力を映画館でぶわーっと全身で感じ、ああ〜ほんとにもうこれが最後なのかな〜と寂しさもこみあげ、、、
ジブリ!愛!!!
不思議の国のアリス(ナツコさん)を助けに行くお兄ちゃんの成長物語
不思議の国のアリスのオマージュだと思う場面がちらほら。
ならば、アリス役はマヒトのように思えるがたぶん違う。
ナツコさんは作中で誰に呼ばれたか明白になっていないが物語の作りから姉であるヒサ子が戻って来てくれる事を願い搭にいき、不思議な国に迷いこんだと思われる。
助けにいったマヒトが冒険の中で成長し、ヒサ子さんを思いやる事ができ、お義母さん呼びができるようになり、現実に向き合えるようになった、という話なのだろうと思う。
だが、この現実に向き合えるようになるというのは言うは易いが成すのは難しい。
日本が大敗してその時の東京は焼け野原。何もないところのスタートだ。
魔法使いの大おじからの積み木もない。むしろ帰らない選択しもあったかもしれない。しかし、そんな所へなぜマヒトは戻ったのか。
自分より大人のはずのナツコさんをマヒトは躊躇なく助けに行ったのはなぜか。
ナツコさんが妊娠しているからだ。
赤ちゃんについての言及はなかったがナツコさん=妊婦=家族の新しい命がある。
腹違いの下の子だ。
名前を出さない時点で複雑な気持ちがあるのは、想像するに余りある。
マヒトはそれでも現実に帰ることを選ぶ大人に冒険を通じて成長した。そんな話だと思った。
眠いから大味の感想まとめ。また編集するかも
混ざり合う世界の中で
生と死
国と国
現在と過去
さまざまな世界でそれぞれの常識がある。
死の世界での殺生の可否や、人を食べるインコの世界など。
違う世界で生きていた人が他の世界に入り込んだとき、常識の違いや価値観の違いなど必ずずれが生じてしまう
インコの世界に入ってしまったまひとや、死の世界でわらわらを食べることになったペリカンなど
そして少しずつ生まれたズレがやがて大きな破壊を引き起こす
それはどんなに大切にしていたとしても一瞬で崩れ去る
守られていた均衡もズレによって導かれた、誰かの大きなたったの一手で。
それは国同士の戦争や生から死への一手かもしれない
そんな世界で、君たちはどう生きるのか
というような解釈で見ていたが、やはり甘かったように思う
宮崎駿監督と登場人物との関連性の考察をみてなるほどと思いました。
宮崎駿流ホラー&ハウルの声に一途な純愛を求めるならNG
まず、宮崎駿がホラー映画に挑戦したらこんな感じ。ワラワラというマスコットキャラが唯一可愛いものの、ススワタリやこだまのような単純なのに唯一無二で独創的なデザイン性は皆無で何かのCMで見たような何番煎じもされた造形でがっかり。なにより、他の人外キャラクターが総じて気持ち悪くてホラーを過剰演出してばかりで、画面を見ていると具合が悪くなります。まあ、ホラーなら仕方ないことです、エクソシストやムカデ人間とかもあの気持ち悪さが魅力なので。ただ、私はホラーを見に行ったつもりではなかったので、ハマらなかったです。
また、2人の女性を愛するキャラクターにハウルの声優である木村拓哉さんを起用したのはなんの意図でしょうか? 木村拓哉さんは声優さんではないのもあり、やはりハウルと同じ声に聞こえます。なので、ジブリでは一途なキャラクターを演じてほしい個人的希望がある人にはしんどいかもです。不倫とかではないし時代背景の問題ですが、姉妹で同じ男性に嫁ぐのを現代の純愛モノを楽しむ感覚で楽しむのは無理なので、時代モノだと割り切れる必要があります。
母を失い父が再婚するというデリケートな状態の未成年男子に突然自分の腹を触らせてあなたの兄弟ができるんだぞ受け入れろと迫る継母は私の価値観では好きになれませんでした。主人公はなぜおかあさんと呼べるようになったんでしょう?
そして、異世界では謎の石と契約すると現実の平和の均衡を保つ役目がその血族に与えられるという設定が唐突すぎて意味がわかりませんでした。新海誠のすずめの戸締まりの閉じ師と似たような存在ですが、閉じ師もなぜ閉じられるのかよくわかりませんでしたが、石と契約して云々はさらにまったくわかりませんでした。石の気まぐれなんでしょうか。
そこで、これは宮崎駿の生み出したジブリ13作品を基盤としたジブリと宮崎駿の自叙伝だと思うとたしかに解釈できます。
だけど、それなら見に行きませんでした。
少年の冒険活劇だから見に行ったのであり、宮崎駿の自叙伝なら見ませんでした。
また、この映画のテーマの1つである“1人の男性を愛してしまう姉妹、その子どもと破れた方の姉妹(つまり叔母)の関係、葛藤” も、現在公開中の「アイスクリームフィーバー」の方がよほど納得できました。
なので、この評価で失礼します。
『死の島』をはじめとする、数々の絵画のモチーフは好きですが、それなら美術展に行きますし。
宮崎駿の自叙伝を見たい方には星5の映画だと思います。
走馬灯
自分の中で絶賛と酷評が二つある
なので星は三つ
具体的に何か?と羅列するのは難しいが、あくまで気持ちの面で、思いつくままに書いていこうと思う
先ずは何度目かの引退を撤回して宮崎駿のおかえりなさい作品を拝めたのは眼福
でもこれは監督の本意なのか少し懐疑もする
ご年齢を考慮してか今回は絵コンテに徹し、名だたるアニメスタジオの猛者達が作成したとの事で、なんか豪華な感じはするし、なんか胸熱ではある
で、今回、この作品は本当に宮崎駿が作りたいと思って作ったのかな?とも感じた
頼まれて背中押されてそんなモチベーションでつくったのでは?
嫌々作ったのではないにしろ、コクリコ坂と同じようなテンションで関与したのかな?という印象を受けた
(コクリコ坂の時も大人しくはしてなかったようですけど、今回はどうだったのでしょう?)
これまでのジブリ作品のセルフオマージュなのか、サービス精神によるものなのか、それは企画の時点で決定された事なのか、はたまたそんなんじゃなくて単純に引き出しの限界なのか?わからない
確固とした世界観があるようでないような、行き当たりばったり感は千と千尋やもののけ姫でも見受けられたけど、あの作品には夥しい満腹感があった
それはやはり動画、キャラの動きに説得力、こだわり、気持ちの揺れ、それらを的確に演出出来たからだと思う
今作はそれが薄い
きっとこれはセルフオマージュなのかもしれない
でも、だとしたら幾ら何でも分かりにくすぎる…
考察に意味があるのかも謎だが、もしかしたら何も考えずに観るのが正解なのかもしれないが、今度こそ最後かも知れない宮崎駿の絵柄にジブリのブランド?これらが何かを期待させてしまうのだ
それにしても最後のクライマックスで神様っぽくなるところや、エヴァのATフィールド取捨選択のくだりのようなやり取りがあったりだとか、どうしてこうなった感が大きい
かと言って駄作とも思えない
絵画的な美しさや、設定に感じる神秘さには惹かれるものがある
でも、君たちはどう生きるか
そのタイトル回収はいささか投げっ放しがすぎる…
(*'▽'*)
毎日をただ丁寧に、積み重ねる。
製作期間7年と確か、聞く。
しかしながらちょうど、今、この時にマッチするようなモチーフがちりばめられ、まるで昨日おとつい、作られたのでは? と疑いたくなるほどだった。
戦争も、複雑な家庭環境、その母子、父子、居場所のなさ、自傷自罰的行為と子供。もしかしてマルチバースも?
マルチバースは別格として、いつの世にもあるモノなのかもしれないが、どうしても目がいって仕方なかった。
表面的には異世界を冒険するファンタジーである。
そこには救出すべくヒロインがおり、仲間が現れ、出会いと別れが織り込まれ、ピンチと決断に満ちる。
だが一方でどうしても監督自身についてを巡らせずにおれず、
大叔父が長い月日をかけ、一つ一つを積み上げて創り上げた石を中心とした世界こそ「会社」、もしかすると「ジブリ」そのものではないのだろうかとうがってならなかった。
そこに継がせたい者はおれども、自分にはふさわしくないと、自身の世界を生きる事を宣言されるなど悲しすぎ、
創り上げた世界すら、すぐに積み上げることが出来る、と功を奏するあまり本質を見誤った内部者に崩壊させられ、そんなのないよ、と悲しみのあまり熱が出そうになった。
だとしてもう諦めるしかないのは、人生には終わりがあるからで、
だからこそ大叔父も、袂を分かつこととなった主人公へ毎日、少しづつ積み重ねて行く事だけは忘れるな、とメッセージを託している。
それでいいのか。
判断の是非を自身へ問いかければこそ、肯定を求め、根源であり存在理由の「母」は登場することとなったのではなかろうか。
きっと優しく、間違ってないよ、と言ってもらうために。
ああ、やっぱり切なさのあまり熱が出る。
はたして「君たちはどう生きるのか」。
自分たちの手で再び創るしかなくなった現状にお手並み拝見。
問いかけ、挑戦し、おそらくいくばくかの期待をよせていると思いたい宮崎監督の、厳しさが優しい眼光が目の前に浮かび上がって来るのである。
いや、私にはそう見えた。
そして同時にこれを色々なモノに置き換え、なら、わたしたちはどう生きるのか。
手品のように、全てが一度に変わることなど崩壊への序曲なら、
やはりひとつづつ丁寧に、毎日を丁寧に、積み重ねていくほかないと、
心に沁み込ませるほかなく。
最後かもしない監督からのメッセージを握り絞めるのである。
それって、当然のことなのだけど。
追記)
宣伝しなかったのは、一般のお客さんへ向けてつくった作品ではない、という意味ではなかったりしないのかな。
そうおもうと、毎日コツコツ積み重ねは、手書きセルのことで、一気にバババっとやって潰したインコが象徴するのは、3DCGとかコンピュータ技術のたとえでは。。。うがる。
傾倒して本来の姿を失い、バランスを崩して塔は崩壊とか深読みしてしまう。。。
こんな解釈もできるのでは?
・映し出された世界について
「君たちはどう生きるか」という映画を見る中、そして作中の大叔父様の作った世界を垣間見る中で、
僕たちはジブリの過去作を思い出させるようなシーンをたくさん見てきました。
ちょっとメタな視点で見てみます。
作中の大叔父様は、過去のジブリ作品を彷彿させる世界を作りました。
宮崎監督は、過去のジブリ作品を散りばめた「君たちはどう生きるか」という映画を作りました。
「映画を作る」=「劇場という空間に世界を作る」と読み替えると、大叔父様と宮崎監督は同じことをやっています。
そして、それぞれの作った世界は、とても密接な関係にあると言えます。この認識が大事です。
・石について
"石"は"意思"や"意志"とのダブルミーニングだと思います。創作的な面で言えば、伝えたいこと、メッセージと読み替えて良いかもしれません。
世界を作るために積み上げたられた石はとても不安定な状態にあります。
これは、そのまま、自分の創作活動・創作意欲というものが危機的状況にあるという意味にとれます。
悪意のある石については、第3者からの悪意と取ることもできそうですが、自分の内面の話と取りました。
自分の思考や感情はキレイなものばかりじゃなくて、ドロドロした汚い部分もあります。
そういった玉石混交のたくさんの"思い"をふるいにかけてようやく見つけたキレイな"思い"こそ、作品として昇華された13個の"石"です。
大王が石を積み上げて世界を作ろうとして失敗します。
誰かに与えてもらった"思い"をそのまま使って世界を作ろうとしてもダメなんです。
どろどろした汚い"思い"に向き合って、その中からほんの僅かのキレイな"思い"を探し出す、産みの苦しみみたいなものがあって、初めて世界を作れるんだと思います。
13個の石は切って捨てられ、大叔父様の世界は崩壊を始めます。
自分の作品に乗せた13個の"思い"を切って捨てたんです。
大叔父様の創造した世界は宮崎監督自身が創造した世界と表裏一体で、それを崩壊させちゃったんです。
伝えるべき思いも、創造する場所も残されてないんです。
つまり、「僕はもう作らないよ」という監督からのメッセージだと受け取りました。
・映画館での視聴が絶対
作中の主人公は、大叔父様の作った世界に入って、石(意思・意志)を拾って、扉をくぐって現実の世界へ帰ります。
僕たちは、劇場という空間に作られた宮崎駿監督の世界に入って、何かしらの思いを抱いて、ゲートをくぐって日常に帰ります。
同じ構図になってますよね。映画館に行って映画を見て帰宅するという過程の中で、主人公たちと同じ経験をすることになります。
少し踏み込みましょう。
主人公たちは大叔父様の作った世界に別れを告げました。
同じように、僕たちは宮崎監督の作った世界に別れを告げてきました。
そして、今回、宮崎監督が作った世界は、過去の自身の作品を集めたような世界でしたよね。
つまり、僕たちは「君たちはどう生きるか」の世界にさよならする中で、宮崎監督が今まで作り上げてきたたくさんの作品にもさよならを告げてきたんです。
僕たちの約2時間は、宮崎監督の過去作を思い出して、別れを告げるための時間でした。
今作の映画体験は劇場で見て初めて完成します。リビングや寝室じゃだめなんです。だってそこはあなたの現実の世界なんだから。
劇場という特別な空間に作られた宮崎監督の世界に入ること。そして劇場から出て現実の世界に帰ること。この物理的なプロセス経ることに意味がある。
そうやって初めて主人公たちと同じ体験ができる。その体験を通して初めてさよならが言える。そんな仕掛けだと思います。
・タイトルについて
作中の主人公が石(意思・意志)を持ち帰ったのと同じように、僕たちは何かしらのメッセージや思いを現実へ持ち帰りました。
これは過去作からずっと同じで、僕たちは宮崎監督の作品からたくさんのメッセージや思いを受け取ってきました。
でも、大叔父様の世界が崩れるのと時を同じくして、宮崎監督の創造する世界も終わりを迎えました。
もう僕たちに新しいメッセージを伝えてくれることはないんです。だからこそ、今まで受け手でしかなかった僕たちがどうするかを問われるんです。
「君らしっかりしなさいよ」と発破かけると同時に、「君らはどこまでできる?」というある種の挑戦状といえるかもしれません。
タイトルと本編が無関係という事はありません。
・事前情報なしの是非
賛否あるかと思いますが、僕は英断だったと思います。
この映画の目的は、
① 何かしらの思いを抱かせて現実に帰すこと
② 宮崎監督の数々の作品に別れを告げさせること
この2点だと思います。
ターゲットは宮崎監督の作品に触れたことのある全員だったはずです。でも、それができないこともわかってる。
だからせめて、「ジブリ」、「宮崎駿」と聞いて劇場足を運んでくれる人たちにはメッセージを伝えようとしたんです。
そういう人たちに宮崎監督の作品とお別れをする時間を与えようとしたんです。
興行的な面はもちろんあったでしょう。
でも、それだけじゃなくて、造り手としてこの人たちに届けたい、届いて欲しいっていうのを形にした結果が、あのたった1枚のポスターになったんだと思います。
この夏はもう来ない
物語のある時から、テンポが速くなる。ハヤオが思い出したかのように、得意で大好きなことを描き始める。アクション、異世界、そして少女。夏休みが終わることを悟ったかのように。急ぎ足で。
この映画の制作中に、恩師でありライバルの高畑さんが逝去し、自身にも死が迫っていることを初めて意識したのかもしれない。
過去作のオマージュは、オマージュではなく、締め切りや予算に追われて当時描ききれなかった後悔を総括するための、描き直しなのかもしれない。それは夏休みの宿題だったのかもしれない。
花火大会のフィナーレのように、惜しげもなく繰り出されるあの玉この玉が、公開初日の満員のスクリーンで大爆発していた。
“Animation”
絵に息を吹きこむ喜びを。アニメーションの、原体験を呼び起こさせる、純粋な動機を、好奇心を感じろ。読むのではなく、考えるのではなく、見るのだ。
そこで観客も気づく。
あれ、これはもう見れないの?
夏ってこんなに短いの?
もうこの夏は来ないの?
宮崎駿、好きに生きてくれてありがとう。
次世代へのメッセージ
大叔父様から眞人へのメッセージが、そのまま宮崎監督から視聴者へのメッセージとして読み取れた。"これまでの世界は崩れつつあるため、より善い世界を君の手で創ってほしい"という思いは第二次世界大戦下の当時に当てはめることもできるし、2023年現在に当てはめることもできる。そんなメッセージに対し、眞人は美しい世界で生きることより、悪意もあるし殺生も時にはしなければならない世界で生きていくことを決意したように感じた。過去作品よりも、よりリアルで生々しい実際の世界を映し出した綺麗事のない真っ直ぐな作品だと思う。
大ジブリ時代の終わり。
ジブリの集大成。
そしてスタジオジブリの終わりの物語だった。
原作である「君たちはどう生きるか。」の内容は踏まえつつスタジオジブリの生い立ちから今後までを重ねていて、君たちはどう生きるか。と言いつつ、俺たちはこう生きます。の意思表示をしている映画だった。
正直こんな映画もう誰にも作れないだろ、という気持ちである。
超個人的な見解だが、以下の裏設定があったかと思う。
◼️塔
高畑勲でありジブリスタジオそのもの
急に天から降ってきて、異彩を放ち周りを怖がらせる存在。駿はそれに魅入られてスタジオジブリを作った。
(勲の周りを建物で囲い、スタジオジブリとした)
◼️大叔父さん
宮崎駿。
ジブリを作った創造主。
スタジオジブリが大きくなりすぎた故、世論に押されて気付いた頃には塔の「神」とされていたが、所詮ただの人間。塔(スタジオジブリ)の中で自分の力で世界を良くしようと長年奮闘している。
◼️眞人
宮崎吾郎。
塔の神(スタジオジブリの主としての駿)に後継者として呼ばれた存在。
◼️青鷺
鈴木敏夫。
スタジオジブリを世界とつなぐ存在。
後継者候補である眞人(宮崎吾郎)の案内人。
塔の中の世界観は全て今までのジブリ作品の集大成であった。
眞人の部屋はアリエッティに出てきそうな内装で、召使いのおばあさまたちは湯婆婆を彷彿とさせ、塔に続く道はメイちゃんがトトロを探しに行った草道にそっくりで、高い波はポニョを思い出させた。
(他にも色々あるが長くなるので割愛)
そう考えると...
やはりあの塔はスタジオジブリで、この映画はジブリを取り巻く世界とジブリの関係性を描いた映画だったのかと思う。
つまりこの話の本筋は、13個の無垢な石(今まで駿が作ってきたジブリ作品の個数と一緒)を産み出した大叔父さん(駿)が、眞人(吾郎)には石を受け取ってもらえなかった。
(駿の意志、ジブリを通じて世界をより良いものにしたいという意志を継いだ形でのスタジオジブリ運営はしてもらえなかった)
そのため塔(スタジオジブリ)を終わらせる決意をした、ということだろう。
眞人(吾郎)を元の世界に戻し、自分は塔と共にいなくなること(ジブリの存続はしないこと)を選んだ。
しかし塔の住人であるインコたち(スタジオジブリで育ったアニメーターの隠喩かな?)は世界に飛び立った。
ペリカン(スタジオジブリに魅入られ、スタジオジブリを憎んだ創作者たちの隠喩?)は塔の呪縛から解放された。
そして何よりも、眞人(吾郎)が元の世界に戻ってきたことに、眞人の父(吾郎の父親としての駿)は大層喜んでいた。
これで良かったのだ。駿も吾郎の幸せを願う一人の人間であり、父であったのだ。
(正直、眞人のモデルが吾郎ではなく、庵野などのジブリの担い手候補とされていたアニメーターの可能性もあるが...私は吾郎だと思いたい)
スタジオジブリの存続方法については賛否両論あるかもしれないが、駿の親としての気持ちが見られただけで十分だったと思う。
他にもヒミは駿がスタジオジブリで描こうとした、理想の女性像の集大成だったのか?とか夏子は吾郎の実の母親であり妻である朱美さんのことだったのか、地下世界の墓の主とは宮崎駿の世界観そのもののことだったのか、考え出したらキリがないがこれも長くなるため割愛。
とにかく。
・スタジオジブリが今までの形では存続しないこと(新しいアニメを作らないのか駿を意識したアニメ作りを辞めるのか、具体的なことは分からないが)
・駿がアニメーターとしては退くこと
・駿が吾郎(もしくは後を継ぐ予定だった他の人間)を愛していたこと
は十分伝わった。
駿を中心としたスタジオジブリは終わるかもしれないが、敏夫と吾郎がいる限り、そして過去のスタジオジブリの作品たちを世界中の人間が覚えている限り、スタジオジブリがあったという存在の証明にはなるだろう。
本当にお疲れ様でした。
『一切事前情報のない映画』を見れるだけで価値がある
このレビューのタイトルの通り、事前情報が全く無い状態で映画を見れるというその体験そのものに非常に価値があると私は思う。
昨今は映画を見に行くかどうかを、事前に放送されるCMやネットの口コミでしか判断できない人間だらけになってしまった。そういった世相の中でこういった広告戦略を行ったことを自分はとても評価したい。
また、「ストーリーが難解」という批判とともに発狂したかのように低評価の嵐だが、そんなシンエヴァやピングドラムのように訳が分からないと称されるような内容ではない。ストーリーの軸はいたってシンプルで『新しい母を受け入れる』ことであり、『どう生きるか』なのだ。
そして宮崎駿の映像技術は健在である。多くをセリフで語らずに"画"で語る構成は見事と言わざるを得ない。世界観も相変わらず素晴らしく、キャラクターも非常に魅力的でコミカルだ。
『何故義母は異世界の産屋へ行く必要があったのか?』『序盤の門は何だったのか?』『積み木とはなんなのか?』『あの世界は何だったのか?』非常に謎が多いように見えるが、見終わったあとにじっくり考えればあなたの解釈が見つかるはず。これこそが文学であり芸術であり映画なのだ。
しかし、ある意味この芸術性が反動として低評価を産んでしまっている。
昨今の過剰なまでにセリフで説明し、アクションシーンでは派手なエフェクトを付けて、テンポの良い()展開で進んでいくそういった幼稚なアニメばかり見ている現代日本人にはこの作品は早すぎた。
ある程度の教養と知性を持っていなければこの作品は楽しめないだろう。
ジブリと宮崎駿の最後の作品として見るなら傑作だと思う
この映画は宮崎駿が自分の半生と残されたジブリスタッフへ遺書を伝えるために作った映画だと解釈している
もし、この次にまた宮崎駿がジブリで長編映画を作るとしたらこの映画は駄作になると思う
そのぐらい自分とスタジオジブリの最後を描き切った作品だと思う
以下、自分の登場人物に対する解釈
主人公→若い頃の駿、吾郎
主人公の母→駿の実母(写真もそっくり)
夏子→駿の奥さん
アオサギ男→鈴木敏夫
ペリカン→ジブリスタッフ
ペリカンに押されて入った門→アニメ業界への入口
墓の主→とてつもなく厳しいアニメ業界そのもの
インコ→宮崎駿作品以外を認めないファンや関係者
ワラワラ→純粋な幼少期や精子の具現化
大叔父→今の宮崎駿
13個の積み木→過去のジブリ(宮崎長編アニメは13作品)
崩壊する世界→今後のジブリ
君たちはどう生きるか→宮崎駿引退後のジブリスタッフへのメッセージ
勿論、これは全て考察に過ぎない
考察すればするほど深みのある素晴らしい傑作だと思う
これがジブリと宮崎駿最後の作品だとしたら最高の締めくくりだと個人的には感じる
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