劇場公開日 2023年7月14日

「アニメ映画君たちはどう生きるかは小説坊ちゃんで竹を割るように理解できます」君たちはどう生きるか ジャック・ドラゴンさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 アニメ映画君たちはどう生きるかは小説坊ちゃんで竹を割るように理解できます

2025年5月10日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD、映画館、TV地上波

泣ける

笑える

幸せ

この2023年に映画の概念や構造についてかいたんだけどここにも詳しく残します
はじめに
さてさて、僕は宮崎駿監督 のアニメ映画『君たちはどう生きるか』に並々ならぬ想い・思いがあった。僕はこの作品を観るまでは絶対に生きていようと、怪我したり交通事故なんかに遭いたくは絶対したくない、そしてこの作品を観終わったらいつ死んでもいいくらいの想いでただ心の中でこのことだけが映画を作っている情報を知ってから長い間存在していた。この映画を観た後はもう若いが余生になるだろうくらいに思っていたものである笑。

家に戻り、なんかぼーーーーっとしながら思いをめぐらしていた。僕はふと気づいたのである。それを思うに至り、この映画と言うものがなんか僕なりに腑に落ちた思いを抱いた。
そして、ここ数日、急に思い出してあれこれ考えていたが、これはここに書いておいた方が自分にとっては頭の中が整理できていいかと思って書き始めました。
竹を割るように理解できたのは数十年前の国文学科の「近代文学」の授業を思い出したからである。
それは教授が解説したのは文学の初歩的な作品の夏目漱石の『坊ちゃん』という文学小説である。
さてさて、坊ちゃんと言う作品が1906年という事はもう時間が100年以上経つ作品である。しかも文学作品なので、当時の研究者や大学教授などが論文を書き、考証を重ね、それが100年にわたってその時代その時代の叡智をもった文学研究者・教授たちによって議論されてきたのである。
そして、僕がそれらを習った時点でも大体の成果が出てきていた。もちろんあれから数十年経っているので今現在の研究もなされているかと思います。でもある程度の成果なり、結果らしきものが出ている作品でもある。
公開してからネットで悪く言っている人たち
 例えるなら、今、テレビ・ネットで昔の飛行機を作っている人たちの映像が残っている。我々は今、飛行機だけでなく、ジャンボジェット機などにまで航空力学が発展した成果の恩恵に預かっていることは誰でも認識していることである。まだ発展していくであろうが、それなりの成果が出ているものであり、結果らしきものも出ている分野である。
そして、それらを知っている僕らは当時の飛行機を作っている白黒の古い映像で巻貝のようなプロペラをポンポンと上下に揺らして飛ぼうとしている人たちが滑稽に映るであろう。しかし、僕が思ったのはそれらをやっている当時の人達に対して「なにやってんだよ」とか「人間が空を飛べるわけないだろ」などと言っていた、歴史の中に消えていった人物たちがいたということである。そいつらの事を我々はなんて愚かな人間だろうかと思うものの当時の人間たちにしてみたらそれがもしかしたら当然の思いなのかもしれないわな。
しかしそれらの人々が全く理解しようとしない事や否定的にしか物事を見られない人々であったという事は確かである。
今ジャンボジェット機などを作っている人たちがこの映像を見てその当時の飛行機を作ろうとしている人たちの思いに感銘を受けながら、まぁ、当時はこう言った間違いもするだろうというものがあるかと思うし、ジャンボジェット機として存在しているような「君たちはどう生きるか」をけなしている人がいたとしたなら、それはその人が作品を理解しようともしていない人々に見受けられる。

ジャンボジェット機に乗って嫌だった、面白かったと言う人と同じに、この作品を面白くないと言う分にはいいし、面白いと言うものもいいだろうが、飛行機なんて飛ばないんだよなどと言うに似た言葉を言う人間には、僕は意地悪いので、こいつ愚かだとしか言いようがないのである。
こんなものを作っている宮崎駿は老害などと言っているのは、当時の飛行機を開発している人間たちや、夏目漱石をバカにしている当時の人間たちの愚かさをあざ笑っている当時の人々と同じ様で、今の時代のこの人も同様に、僕はこいつら何もわからずに死んでいくんだろうなと言う思いに至ってしまうものだ。当時に生まれていてもやはり飛行機は飛ばないんだよなんてことを言うだけの人間の様な気がしてならない。
底意地の悪い僕は腹抱えて笑っている。そいつら面白いのだ。

映画『君たちはどう生きるか』の文学的観点からの考察

「坊ちゃん」という小説が発売されて大方の人間がその内容に楽しむものやなんだつまらないなどと言いながら、100年以上過ぎてきた。各時代の文学の研究者・教授たちはこの作品の本質は何かをひたすら考察してきた。
僕はその考察を授業で習ったことにより、それらの成果をアニメ映画『君たちはどう生きるか』に振り当ててみて、それによって僕はこの作品の事を竹で割れたような感覚と思いを抱くに至った。
あの『坊ちゃん』の滑稽で愉快な小説のなにが「絶望」なんだと思うし、『君たちはどう生きるか』のあの訳の分からない幻想的場面展開のどこが「希望」なのだと思うかもしれないわな。。。まぁ、そう思うけどね。

「坊ちゃん」という作品の主軸
さてさて、松山が坊ちゃんを絶望いや、苦悩に至らしめたのではない。物語の本当の要点はこのような出来事ではないのだ。この小説の裏というか、この小説には主軸があるのである。それも一直線にただ最初から終わりまで物語を貫いている主軸というものがあるのだ。文学の研究者・教授たちは研究論文を書いて、この物語の主軸への考えに至るのである。夏目漱石がそう思って書いたという事なのかは問題でなく、この物語がこうゆうものだという文学的見解・観点が見受けられると言うものなのだ。

なぜ、主人公坊ちゃんが四国の愛媛県の松山なんて当時遠い所に行ったかである。お金に困っていたのもあるが、清のために家を建てるためにお金を稼ぎたいと言うのがあったのだ。物語としては松山に行っていろいろな出来事があり、読んでいて面白い作品となっているが、主人公坊ちゃんと言うものに主軸を置くとこの作品は色帯を変える。

坊ちゃんにとって松山に行っていろいろな事にあってもそれが人生の糧になったとか教訓を得たとかそんなものは全くないのである。主軸を観るとただそこへ行って時間が経って、ただ東京にかえってきただけなのである。そして、東京に戻って清と住み始め、清は「玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹(かか)って死んでしまった。」とある。
物語はそこまでて終わるが、文学研究者や国文・日本文学の教授はこれを読み取る。この時になり、坊ちゃんは人生最大の過ちに気づくのである。坊ちゃんにとって清の為に四国松山へ行ったものの清にとってはそんなことはどうでも良かった、坊ちゃんが自分が松山へ行ったことにより自分は清を東京に一人残してしまっていただけである、松山なんて遠い所へ行くよりも清と一緒にいるべきだった。それなのに四国に行ったことにより清と一緒に居られる貴重な時間をただ無駄にしただけだったということに気づくのである。

このことにより坊ちゃんは人生においてその後苦悩を抱えて過ごすことになるのである。松山での出来事も思い出もなにも坊ちゃん本人にとっては何も為さない上に、その貴重な時間を清と離れて過ごしてしまったことに苦悩していくのだ。

主軸として坊ちゃんと清の物語なのである。

そして、この物語は坊ちゃんにとって苦悩に至るだけの物語であり、その過程が主軸にあって書かれてあるのだ。ただ、この坊ちゃんと言う「作品を貫いている」のは坊ちゃんが苦悩に至る主軸のことだけが描かれており、つまり、この坊ちゃんと言う小説は人間の苦悩が生まれる背景がどうゆうことか描かれている作品なのである。冒頭に「坊ちゃん」は絶望の物語と言ったのはこのためである。

「君たちはどう生きるか」という作品の主軸
そして「君たちはどう生きるか」である。
詳しくは映画を観ていない人の為に控えるとしても・・・
観ている観客はあの幻想的な次々と起こる出来事に混乱するであろう。
しかし、この作品にも主軸があるのである。主軸は主人公の眞人の心情・心理・精神・・・なんでもいいが、その変遷が主軸なのだ。この映画の主軸はそこなのである。その主軸を観ること事で、この作品は竹を割ったように把握できるのだ。
作品に観られる幻想的な出来事の裏にある眞人の絶望・葛藤がどのような様に至っていくのかである。

若かりし頃の母親に出会い、母親を世話するばぁやの昔の姿に出会い、自分の由来を知っていく。そして自分の義母「お母さん」と呼び、自分の大叔父に出会って自分の原点を知るに至る。そして、世界を握っている大叔父の申し出を断り、現実を受け入れ、現実の世界へ戻る。
そして、生きることの肯定、ある種「希望」というものを持つに至る。

この作品は主人公の心情が主軸として描かれていて、それに幻想的な世界が描かれているのである。主人公の心理の主軸がこの作品を貫いて存在しているのだ。

『君たちはどう生きるか』という作品は絶望から希望への少年が至る過程が描かれているのである。

「坊ちゃん」と言う小説が100年に渡り研究され尽くしてきた作品へのアプローチをこの「君たちはどう生きるか」という映画作品に転移した場合に、この映画は竹を割ったように把握・理解できる。
様々な出来事が幻想的世界の中で描かれているが、下層的に流れているのは主人公の心象風景の推移であり、そこに主軸があるのだ。描かれている様々な表象的出来事だけを観るとこの作品は訳が分からなくなる。しかし、主人公の心理を主軸に置いてみれば、いくらいろいろな出来事が起こっても、主軸の主人公の心情へ戻っていけるので、幻想世界の出来事に振り回されることはなくなる。
今の考察は表象的なものへの考察に終始しているが、下層まで行っていないと言ったのはこの事なのである。根本的なものが理解できていないことに底意地の悪い僕は腹を抱えてせせら笑っていた。

ジェット機に乗る我々がジェット機をつまらない、何が面白いんだという人がいるののなら、乗らなければいいし、別にそれでいいんじゃないと言うのと一緒で、この作品が面白くないと言うのであれば、僕からすれば二度と観なくていいんじゃないというものだ。しかし、ジェット機なんてなんだか分からないとかこんなの飛ぶのかとかそんなもん開発してどうすんだとか言っている人たちは、まぁ、ライト兄弟以前にいた人達であり、まぁ、ジェット機を知っている我々からするとただのバカに見えてしまうのは否(いな)めないよな・・・。
この作品わかんないとか作ってどうすんだよこんな作品とかほざいている連中は僕からするとただのライト兄弟以前の人なのである。まぁ、理解すら出来ないよね。まぁ、それらの書き込みを見るたびにもうどうでもいい人間に見えてしまうのだ。

そして僕はこの作品を作ってきた人たち、特に宮崎駿監督の主人公の少年をなんとか救おう、希望を持たせよういう思いで必死で作って来た10年近くの熱い想いを想像するに至り、ひとり部屋の中で恥ずかしながら涙が出てくるほどであった。
まぁ、「こんな作品作る宮崎駿は老害」とののしるやつの方がたぶんいずれ老害に確実になるわな。

まぁ、この考察がおかしいと誰かがせせら笑うのはまぁいいけど、坊ちゃんを100年間研究してきた人たちの考察の成果をただ僕は転用・転移しただけなんで笑うアンタの方が笑われますよ。
大人は映画を頭で解釈しようとするが、この映画を観てなんか面白かったと純粋に言えるの子供たちかもしれません笑。

ジャック・ドラゴン