「大人向けの「ポニョ」」君たちはどう生きるか SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
大人向けの「ポニョ」
とても面白かった。前情報全く無しで観て良かったと思う。
宮崎駿の年齢を考えると、この作品が本当の本当に最後の作品になる可能性が高いので、「君たちはどう生きるか」というタイトルは我々や、スタジオジブリのスタッフに対してのメッセージのような気もした。
作品の印象として、「風立ちぬ」の時代背景で、大人向けの「ポニョ」をやった、という感じ。
ただ、この作品が万人向けに面白い作品かといえばそうではないと思う。
ぼくは夏目漱石の「夢十夜」やミヒャエル・エンデの「鏡のなかの鏡」のような、他人の夢の中の世界を面白いと思うような人間である。なぜそれを面白いと思うかといえば、ユング心理学的な世界観(万人の意識の根幹には万人共通の普遍的なものがあり、それがときに夢に現れる)を信じているからである。超現実的なフィクションというのは、ある意味で創作者の「夢」のようなものだといえる。だから、超現実的な展開や謎だらけの展開であっても、その解釈について考えることが楽しく、有意義であるように思える。
しかし、そういったことが全く無意味であるように思う人もいると思う。表現の意図が伝わらない、もしくは伝えようとする意志がない作品はエンターテイメントとして成立していない、という考え方も正論だと思う。
「ポニョ」では、トンネルは産道、トンネルを通り抜けた向こうの世界は死の世界(生まれてくる前の世界であり、死後に行く世界)ではないかと思ったが、この作品でも、「塔」の中は死後の世界のようなものと思った(若いころの実母(ヒミ)とキリコがいる点では時間を超越した世界でもある)。
ただ、それだけではない。塔の中(もしくはこの作品そのものも)はこれまでの宮崎駿作品の断片がパッチワークのように詰め込まれているようで、宮崎駿の脳内というか、精神世界のように思った。
ドキリとしたのが、大叔父が主人公に「血縁関係のある者にしか仕事を継がせることができない」、と言うところ。もしかして大叔父は宮崎駿で、主人公は宮崎吾朗、塔はスタジオジブリということ?(でも、そんな考え方、宮崎駿がするかな?)
塔がジブリを象徴しているというのは、何かありえそうに思う。大叔父とインコの大王がケンカするシーンは妙ななまなましさがある。インコ大王が「裏切りだ」とかいって激昂するセリフは、現実にそんなセリフを言った人がジブリ内にいたんじゃないかって気がする。
大叔父が純粋なクリエイター(つまり宮崎駿)としたら、インコたちはジブリの社員たち、インコ大王はインコたちの生活を保証する、ジブリの社長?
キリコが釣り上げたアンコウみたいな魚はリビドー、わらわらはそれをエサにして育つ創作の種、それが上空に昇って(昇華して)現実世界で顕現する(表現される)と作品になる。創作の種を食べてしまうペリカンは創作活動だけに没頭させてくれない雑事・雑念。インコやインコ大王は宮崎駿の精神的世界(もしくはスタジオジブリ)を生活の糧にしているジブリの社員たち、みたいな感じ?(でも、インコたちはこの映画ではすごく嫌な存在として描かれているので、もしインコがジブリの社員の象徴として描かれているのだとしたら、そんな映画を自分たち自身の手で作らせている宮崎駿はあまりに辛辣すぎる人間だということになるが…)
大叔父が現実の塔の中で消えてしまった、というのは、創作活動に没頭すると現実世界を生きられなくなってしまう、ということ。門に掲げられた文字、「我を学ぶ者は死す」というのも、同じ意味。
最後に塔が崩壊するのは、宮崎駿が死ぬ、もしくは宮崎駿の創作活動が終わることで、ジブリという会社が倒産するということ?(塔の世界の維持を継承させようとした眞人=主人公がそれを拒否したから)
積み木は映画作品の象徴な気がする。1つ1つの石は作品を構成する要素。これらの要素は純粋なものでなければならないし、絶妙のバランスで積み上げていかなければならない。積み木を作り続けている限りはジブリは存続するが、大叔父(宮崎駿)はそれを続けていくことができないから、主人公(宮崎吾郎)にその役割を継承させようとした。
塔の崩壊の直接のきっかけは、インコ大王が雑に積み木を積み上げてしまったから。「テキトーでいいからとにかく作ればいいんだよ」って態度で作っても、会社をつぶすってことか。「アーヤと魔女」のこと?
アオサギが何の象徴なのかは謎。アオサギは現実世界と塔の世界(死の世界、創作の精神世界、超現実世界)を行き来できて、主人公を塔の世界に誘って、敵でも味方でもない、というとても特殊な存在。いわゆるトリックスター。
(個人の妄想で終わってしまうはずの)創作活動を現実の経済活動につなげている、という意味では、鈴木敏夫なのか?
とりあえず一回観た感じではこんなふうに思った。また観たら全然違うように感じるかもしれない。主人公が宮崎吾郎の象徴というのは何か違う気がする…。
あと、変な話だが、この作品のいくつかの印象的なシーンについて、「以前に観た気がする」という不思議な感覚がある。デジャブとは違う。宣伝を全くしていなかったはずなのに、なぜこのシーンをぼくは知っているんだろう?と思ったところがいくつもあった。1年前とか2年前に実は一部だけ公開していたことがあったのだろうか? 変なの。
共感ありがとうございます。
観てから大分になりますが、自分の中に残ってるものは何も在りません。ただ「屋根裏のラジャー」の予告篇を見て、絶対に観ないだろうという気持ちが起こるのです。
こんにちは。
共感ありがとうございます。
アオサギは、私のなかでは、自分の中の思考の象徴。
悩みや葛藤を感じると、それを引き出し考えさせることを誘導する心の中の一部だと思うようになりました。
眞人はアオサギに会え、さらに考えるきっかけを手にして成長の糸口をつかめたのかも、と。