「ジブリという文学」君たちはどう生きるか モトハル('21〜)さんの映画レビュー(感想・評価)
ジブリという文学
多くの方が指摘するように、本作品は純粋なSFとして鑑賞するにはやはり文脈に無理があります。一方、本作品を宮崎駿による何らかの表現として受け止めようとすれば、そこには豊かな体験があるように思います。
宮崎駿をゴール・D・ロジャーとすれば、最終作となる本作品こそがワンピースです。これまで長い間旅をしてきた我々は、そこから無理矢理にでも何かを得ようとすべきでしょう。
この映画は、受け取り手による広い解釈の余地と、巨匠・宮崎駿から世界への明確な問題提起を含んだ、まさに文学のような作品だと感じます。
この解釈の余地の広さを「何が起きているか分からない」と酷評するレビュワーもいれば、宮崎氏が純度100%の世界観に乗せたメッセージを受け取り「集大成」と太鼓判を押すレビュワーもいることでしょう。
近年、マンガ・アニメを問わず「分かりやすい」作品が好まれる傾向にあると思います。作品内で起こる出来事に対して鑑賞者は「考察」を行い、それに対する答えが作品の内外で「解説」される。この合理性が作品のクオリティとして評価される世の中で、例えばエヴァンゲリオンのように、超常現象を超常現象としてありのまま受け入れるような鑑賞態度は、流行りではないのかも知れません。
では、そんな「何が起きているか分からない」世界を通じて宮崎氏が伝えたかったメッセージは何か。本作品でたった一つ、この点にだけは解釈の余地は無いはずです。【君たちはどう生きるか】
前置きが長くなりましたが、以下、メッセージを解釈する上で中心となるポイントを2点ほど述べます。
①象徴である「石」について
本作品では「石」が象徴的なモチーフとして描かれます。マヒトの頭を傷付けた「石」は、自らを被害者たらしめんとする姑息な悪意の象徴であり、大叔父が世界を維持するツールとしてマヒトに初めに差し出した「石」は、"墓石と同じく"悪意に満ちたものでした。
「石」は死であり、悪である。そんな世界の中で、人を喰らって死を与えるインコ達は「石」造りの建物に住まい、命が誕生する"産屋"への立ち入りは禁忌とされます。この"産屋"という呼称は、出産を穢れとした現実の時代を彷彿とさせ、この風習の暴力性が「石」によって風刺されているようにも思えます。
差し出された「石」に悪意が満ちていることを見抜いたマヒトに対する、大叔父の「それが分かるマヒトにこそ跡を継いで欲しい」という旨の発言から、宮崎氏は世界が悪意のない形で保たれることを望んでおり、また恐らく現実は残念ながらそうでは無いと考えていることが読み取れるように思います。
②マヒト達の選択について
大叔父は積み木を積み上げることで世界を維持しており、その後継としてマヒトに目を付けます。物語終盤、大叔父はマヒトに対し、元の世界に戻るか、積み木(悪意に染まっていない石)を積み上げて世界を維持するか、という2択を迫り、マヒトは元の世界に戻る選択をします。この時、大叔父は「世界は崩壊に向かい、火に包まれるぞ」という旨の忠告をします。
また、マヒトの母であるヒミも、戻ればまた死ぬことになるというマヒトの制止を他所に、それでも元の世界に戻る選択をします。
マヒトとヒミという2人の選択は、破滅に向かっていると知りながら自らの物語から逸れることはできない、我々現代人の生き方や現代社会を象徴しているように思います。
この映画を観た私はどう生きるか、考えずにはいられません。