ウーマン・トーキング 私たちの選択のレビュー・感想・評価
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町から離れた場所で、自給自足の生活を送るキリスト教一派の小村。 自...
町から離れた場所で、自給自足の生活を送るキリスト教一派の小村。
自動車などの道具はなく、19世紀後半のようだ。
その村では夜毎に女性たちが傷つけられていた。
朝目覚めるとシーツは血にまみれ、凌辱の痕が残されているが、彼女たちには一切記憶がない。
それらは、「悪魔の仕業」「彼女たちの妄想」「作り話」として片付けられていたが、ある日、少女ふたりが夜間に逃走する男性を目撃し、結果、集団犯罪だったことが判明する。
犯人の男たちは2日間、町の警察に留置され、残された女性たちはその間にこれからどうするかを決断しなければならなかった。
文盲の彼女たちであったが、投票の仕方を考案し、「許す」「戦う」「去る」の選択肢の中で、「戦う」「去る」が同数だった。
三つの立場からの代表家族が「戦う」か「去る」かのいずれを選択するかが話し合われることになった・・・
といったところからはじまる物語で、デジタル撮影であろうが、銀残し手法のような彩度を抑えた映像で、女性たちが集まった納屋でのワンシチュエーション映画の手法をとっています。
息苦しい映画ながら、画面サイズはシネスコ。
この画面サイズには理由があります。
さて、話し合いを記録するために、村への出戻り青年がひとり、話し合いの場に残ります。
ベン・ウィショー 演ずる青年オーガストは、風貌からも従来のマチズモ男性と異なることがわかります(といってもゲイというわけではない)。
映画は終始、彼女たちの話し合いを描いていくのですが、その根底にあるのは、彼女たちが信仰しているキリスト教の世界観で、「戦うことで天国に行けない・・・」などのある種の洗脳装置のような役割もあり、そのあたりはキリスト教に疎いとよくわからないかもしれません。
また、彼女たちが信仰している宗派は非戦主義、非暴力主義のようで、なので「戦う」ことを主張する女性サロメ(クレア・フォイ)はかなり糾弾されるわけです。
終始、話し合いをリードするのがサロメの姉オーナ(ルーニー・マーラ)なのですが、彼女に代表されるように、彼女たちは文盲ではあるが無知ではない、ものごとを理知的に考える知力は持っているわけで、理知的に考える根底にあるのが、これが皮肉なことにキリスト教的な「善」の考え方です。
このあたりが非常に興味深く、話し合いの中でも、いくつか心に残る言葉が出てきます。
すなわち、
去ることの利点として、外の世界が見えること。
「赦し」と許可は別物だけれど、得てして混同されしまうこと。
など。
で、冒頭から19世紀末頃の物語なのかと思っていると、中盤で「第二次世界大戦では・・・」とかの台詞が出、ザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーヴァー」が流れて、近代のハナシかと思ったとたん、「2010年の国勢調査に協力を・・・」という政府の自動車がやって来て、「えええ!」となりました。
(公式ページなど、2010年とハナから書いていましたが、読んでなかったもので・・・)
現代のハナシだった。
なるほど、過去の物語ではなく、(文明拒否の自給自足のキリスト教の、という特殊な状況ではあるが)現代のこと。
偏見や思い込み、旧弊な価値観、そんなものに閉じ込められているひとびとの選択・決断のハナシなのですね。
最終的には彼女たちは「去る」を選択するわけですが、彼女たちの選択が正しかった(善きものであった)ことがわかるのが、出発の日の朝の出来事。
ひとり分の保釈金だけ用意できたので先に保釈された夫に前夜殴られたアガタ(ジュディス・アイヴィ)の腫れあがった顔。
赦しても、それは行為への許可と採られるのがオチで、暴力により憎しみが再燃するものの、その憎しみさえも胸の内に押しとどめなければならない。
押しとどめないとなると、それは男たちが望む(教義に反しているが)暴力の連鎖につながっていく・・・
彼女たちを運ぶ荷馬車の列が長く伸びる最終盤は、あたかも宗教物語のようで、「出エジプト記(エクソダス)」を連想させます。
このエクソダスを撮るが故の画面サイズ=シネスコ。
さすがに知性派、サラ・ポーリー。
なお、後半、去る際の目印として、握りこぶしの親指を南十字星に向け・・・」という言葉が出て、舞台が南半球だったことがわかります。
実際の事件をもとにしたとのことで、事件が起こったのは南米ボリビア。
自給自足のキリスト教一派ですが、おおもとはヨーロッパで、流れ流れてボリビアにたどり着いて、現在に至ることを、後に別の記事で知りました。
わたしたちは馴らされる生き物なのだと思う。だけど、でもね、って信じたくなる。
わたしにとってはサラ・ポリーはアボンリーへの道のセーラなのだけどそんな枕詞をつけてしまうのは不適当なのかもしれない。映画監督サラ・ポリーの力が見せつけられるから。この作品の一つの価値は、これがいつの時代のことかを曖昧にして物語をすすめていることにあると思う。こちらは風俗などから随分昔の世界のどこかなのだろうと思いながら悲惨な環境を眺める。ところが、第二次世界大戦後?ということをまず訝しく感じ、そして国勢調査の車がDaydream Believerをかけて登場することで、これは現代に近い時代の特定コミューンでおきていることなのだと理解することになる。いつか、ということ以上に人を縛るのは、どんな環境にいるか、のほうなのだと気づく。このあたりは単なる驚きというより背筋が寒くなる。
話し合いで彼女たちは自分たちの置かれている状況をまざまざと確信していく。きっと彼らはずっとこうだったのにこれほどの大問題がおきなければ変えるべきだと思った人がわずかだったのだ。わたしたちは馴らされる生き物で、弱く、傷つけ合う。でもその一方で学ぼうとし、立ち上がろうとし、変えるべきだと信念を抱くことだってできる。同じ方向を向いてはいても火種はある。それを含めて、進むということと、変えるということ。彼らのあの大移動はとても重く、エンディングのDaydream Believerはどこか空虚でシニカルに響く。ちゃんと愛し合える日なんて来る?と問われているような。
少し宗教色が強く、それがこの作品に必要だったのかなと個人的には感じた。勿論舞台が宗教的コミューンなのはわかるのだけど、要素要素で彼らを動かす言葉が特定の信仰に近いものであることは薄めたほうが、普遍的な物語として成立したんじゃないか。
あと、サロメの選択がかなり気になった。彼女は大きな息子を説得できず男たちのとった方法を真似して自分に従わせ選択を奪って連れて行こうとする。このエピソードは何を示唆するものなのだろうか。彼女たちの道のりの多難さ、最も強硬派の彼女が自分の家族だからという理由で、女性たちにとって恐怖であり暴力の象徴である男性を同意もなく連れて行こうとすることの自己矛盾、それとも?サロメのエピソードが描かれた意味をまだちょっと持て余している。
教育的な映画かな
予備知識ゼロで鑑賞。予備知識なしで観るのはよくあることですが、特に本作に関しては相当戸惑いました。もしこれからご覧になる方がいらっしゃるのであれば、若干の情報を入れてから観に行かれる方がいいかなと感じました。ま、予備知識なしで観た方が新鮮な驚きはありますが(笑)
で、全然情報がないままに観始めた訳ですが、初っ端から兎に角謎だらけ。昔のカーナビは性能が悪く、自分が何処を走っているのか分からない状態になることがありましたが、ちょうどそんな感じで、一体この映画はいつの時代の話なのか、何処の国の話なのか、そういった基本的なことが全く掴めない状態で物語が進んでいきます。時代については、携帯電話はおろか、電気も水道もないようなので、当初は19世紀以前の話なのかなと思われました。加えて女性の大半は文字が読めないようで、やはり少なくとも100年以上昔の話だろうと思われたのですが、中盤に差し掛かる辺りで、突然ザ・モンキーズの名曲「デイドリーム・ビリーバー」が響き渡ります。登場人物が外を見るとピックアップトラックが走っていて「2010年の国勢調査です。人数を確認するため、外に出て来て下さい」という大音量のアナウンスが聞こえてきます。ここで予備知識を持たない私のような観客は、「えっ、2010年の話なの?!」と気付くわけです。これが一番の驚きでしたが、現代ではあるけれども、何らかの理由で集団で近代以前の農耕生活をしている人達のお話なんだなということがようやく分かってきます。
ただ場所については最後まで明示されず、鑑賞後に本作の背景を調べるまで謎のママでした。ただ、現代社会にあって、キリスト教の教えを生活のど真ん中に据え、前近代的な生活をする集落ということで、アメリカのアーミッシュの話なのかなと推測されました。
肝心の内容ですが、この正体不明の謎の集落で、幅広い年齢の女性たちが、朝起きると下半身に出血があるという出来事が頻発。最初は被害を訴える女性を、「女達のバカげた想像」として集落を支配する長老らが退けていたのですが、ある時一人の女性がレイプ犯を目撃。その後芋づる式にレイプグループが捕まります。彼らは家畜用の麻酔薬を家に撒き、家族全員を眠らせてから女性をレイプするという実に凶悪な犯罪を行っていたことが判明。普段ならこの集落で起きたことは長老を中心にこの集落内で判断するようなのですが、事が余りにも大きいため、外界の警察に対処を委ねることになりました。そして犯人たちは警察に拘束される訳ですが、この集落を取り仕切る成人男性は、一人を残して犯人たちの保釈を求めて街に行き、男のいない2日間が生まれることになり、この2日間がまさにこの映画の舞台となりました。
女性たちは今後どうするかを、「何もしないで犯人を赦す」、「闘う」、「逃げる」という三択から投票で決めることになります。文字が書けない彼女たちは、選択肢の意味を表した絵を見て投票し、結果「闘う」と「逃げる」が同数となり、それぞれの意見を持つ代表者が話し合いをすることとなります。
この辺になってくると、単に閉鎖社会で抑圧された女性たちの行動を描いただけでなく、まさに民主主義の原点を描いた映画なんだなとなんとなく気付くことに。話し合いは男たちが帰ってくるギリギリまで続けられ、最終的に「逃げる」ことになり、大勢の女性や男の子を含む子供たちが村を去りました。目的地も決めない旅は、何処に辿り着き、彼女たちはどんな生活を送ったのでしょう?そんな余韻を残しつつ、再びデイドリーム・ビリーバーとともにエンドロールが現れました。
映画は終わりましたが、そもそもこの映画の舞台は何処なのか、実話を基にしたものなのか、はたまた完全な創作なのか、そういった疑問を解消すべくググった結果、2005年から2009年にかけて南米ボリビアで実際にあった事件を基にミリアム・トウズという作家が書いた同名の小説が原作であるとのこと。ボリビアの事件というのは、キリスト教の一派であるメノナイトという教派の人々が暮らす集落で、100人以上の女性がレイプされていたものだそうです。作中でも一人の女性が現場を目撃したことから事件が明るみに出ましたが、実際の事件もそのような軌跡を辿って発覚したようです。
メノナイトというのは、元々は16世紀頃の宗教改革の流れの中でドイツやオランダで生まれたキリスト教の一教派で、私の少ない宗教知識でも名前だけは知っていたアーミッシュは、このメノナイトから分派した教派だそうです。いずれも当時の生活様式を出来るだけ受け継いで生活しているようで、カナダからボリビアに渡ったメノナイトの人々も、本作で描かれたような生活を現在も送っているようです。原作者のミリアム・トウズは、メノナイトの元信者とのことで、教派を抜けてからこの事件を取材して小説にしたそうです。因みに映画の中では保釈されたらしい犯人たちですが、実際には懲役刑に服したとのことでした。
以上、出演者の大半は女性で、藁小屋の中で行われる話し合いの場面がずっと続く映画であり、何せ電灯もない中なので非常に暗く、アクションもありません。そのため、退屈と言えば退屈ですが、テーマ的には興味深いと言えば興味深い作品でした。
宗教で結ばれた閉鎖社会での出来事なので、中々自分の実生活と比較して考えることは難しい部分もありましたが、「会社」という閉鎖社会で、一部の人間だけが好き勝手に振る舞い、パワハラやセクハラがあっても不問に付されるようなことは日本でも良くある話。そんな状況で被害者がどう振舞うのかということに置き換えれば、結構身近なテーマだとも考えられました。
また、民主主義というのは、単に投票による数だけで決めるべきものではなく、賛成派、反対派双方が話し合いで妥協点や第三の道を見つけていくものであるということも、改めて教えられた気がしました。
そんな訳で、娯楽映画というよりは、いろいろと調べたり考えさせてくれたという意味で教育映画に近い感じでしたが、その過程を含めて評価は★4としたいと思います。
教育も偏ったら怖いね
教育を受ける義務、有難い。あんな閉鎖的で偏った宗教だか村の掟だか知らんけど、どうかしてる。赦してお腹の子も愛して??わからない、誰にも感情移入できない。戦うといいながら夫にボコボコにされる、わからんよ。教育、教養、知る、学ぶ、凄く大切なことだと思った。フランシスマクドーマンドの存在、言葉もなく…でも顔の傷が何か物語っているのかな、そして村に留まる選択。
赦しの解釈
女性に人権がほとんどなく、読み書きができない村の描写ゆえ、てっきり舞台は1980年代、または1950~60年代なのかと思いきや……まさかの2010年。
子どもの擦り傷にバンドエイドを貼り、役場の車がポップスをスピーカーで流しながら「2010年国勢調査」と言った瞬間にびっくりしました。
南米ボリビアで2005〜2009年頃に実際にあった事件をもとにした映画で、そこを参考に作られた、信仰のために自給自足で暮らす人々の架空の村だったのね……
カルトっぽいキリスト教徒らが小さなコミュニティに閉じこもった結果、長老たちが男に都合のいい村を作り上げ、支配と村の維持のために女に教育も与えず、常に暴力で従わせ奴隷扱いし、家畜用の薬で女を眠らせレイプによって「村の子」を「生産」し続けていたと。
そのことに気づいた女たちが、「村から出ていく」か「村に残って男と闘う」かの二択どちらかを決める会議を描いた映画でして。
眠くなりがちな会話劇ですが、緊張感溢れるやりとりと、女優たちの力強い目に引き込まれました。
信仰に無縁なに私は、なんで片方? と。
「やられたらやりかえせ、同じ手口で」
「全男を薬で眠らせ、主導した長老と一定年齢以上の男たちは皆殺し」
「若い男たちは全員ち◯ぽ切り落として、足に重りでもつけてしばらく飼ったのち、好きな時に殺す」
「男を手にかけたくない女たちだけは村を出ていく」
と、両方選べばいいんじゃないかな…
と思ったのですが、キリスト教系の女たちは信仰上の理由でそれを選ばず。
しかも共同体思想が強くて、代表が決めたことに皆、粛々と従うし。
とりあえず、キリスト教系カルトは恐ろしいってのと。
アフリカの軍事国家にあるレアメタル採掘の村とかでは、軍人やゲリラが支配するために村の女をレイプするのが常套手段なのを思い出しまして。
結局、女子どもを奴隷化し、地域を支配するのは、肌の色も宗教も関係なく、醜悪な権力者や、暴力に依存するクソ野郎の作り上げた構造にあるのだなと。
また、それらに目をそらし、黙認して許している男たちも同罪で、なぜならその構造に依存し、女性を犠牲にして生きているからだと気付かされます。
ああ、気持ち悪い。
女性たちのキリスト教的な「赦す」は、男を許して沈黙することではなく、殺さないでいてやるということ。
沈黙し、なかったことにすればそれは男たちのやり方を許容する意味になる、そしてそれは子どもたちを再び暴力に晒すことになると気づくあたりは大事なことだと思いました。
ここまで極端な「場」は珍しいですが、男尊女卑思想や男性至上主義といったものは、どの国でもあり、特に法秩序が弱い戦時中や戦後、発展途上・衰退時期の地域に横行しやすいものです。
この国にも、少子化対策の名の下に、女の人を生産機械扱いする政治家たちがいることを思い出し、その発言主たちはこの映画の中の男たちと大差ないのかもしれないとも思いました。
言葉がない場所にあるのは沈黙だ。
自分の生き方を決める2日間。
タイムリミットの中で繰り広げられるのは年代様々な女性たちの〝忌憚とあきらめのない〟議論。
彼女たちの共通点は、女性が学ぶことを許されず、性的被害を罪なきものとして蔑ろにされることが当たり前のそのコミュニティで暮らしてきたこと。
議論の書記係として同席している男性は村の教師オーガスト。
彼には村を離れ学んだ経験があり、その知識と物腰の柔らかい様子は、彼女たちに信頼と安心を与えているのがわかる。
そんな彼がなぜ女性たちに混ざり同席したのか?
きっとある大きな意義を追いながら、薄暗い納屋の隅に気配を消した自分が座った。
時間は刻々と過ぎていく。
口火を切るにも、賛同するにも、アイデアを出すにも、反対するにも相当な勇気がいるのがわかる。
開かずの間にしまい込んだような長年の感情をはじめて解放する者にはなおさらのこと。
決意とひきかえにある喪失のかなしみを伴うことにためらう者の姿もある。
屋根裏にもれる光が、重なり垂れこめる緊張感のなかの希望と不安を交互に照らす。
選択の重みをそれぞれが感じながらも、やがてその覚悟はまとまりひとつの歌声となる。
そして映し出される納屋の方向を眺めるある家族。
そこにあるのは音なき分裂。
過去を想像させるひどい傷を頬に残しながらも赦すと決めた心が、気づきを押し殺し葛藤する心と選択すらできない心を無理やりにドアの中へ閉ざした。
私は一瞬にして途方に暮れた。
こうしてどれほどの罪が生き延び、埋没させられる心があるのだろうかと。
しかし、彼女たちの脱出間際についに破られる沈黙。
その選択が、流されるだけのこどもの人生をも救い、仲間に抱きしめ迎えられる姿を私はこんなにも期待していたとは。
言葉と会話によって、あるいは沈黙を行動にかえた勇気によって、逃げるというそれまで無かった道が拓けた喜びを感じた一方で、もちろんこの村に根付く罪が根本的に消えたわけではないことはわかる。
しかし、生の声を聞き記録し、教育者としての責任を受け止めただろうオーガストがそこにいるということだ。
実は、私には納屋のまわりに広がる美しく肥沃な土地の緑のしげみが犯罪を手助けしているようにみえていた。
だから、こどもたちが草原で遊んでいるシーンはずっと不穏なイメージを駆り立てる材料だった。
それは、私の過去に消え去ることのない記憶があるからなのだが、その上にもうっすらと不思議な爽快感のようなものが立ち込めたのだ。
そうして彼女たちが旅立つ様子を頼もしく見送った私は、今これを書きながら、あの時一緒に小さな自分の荷物を載せて運んでもらったような気すらしている。
世界に続くあらゆる暴力に対する怒りや哀しみへの嘆きにとどまらないメッセージが、力強く進む馬車や踏み締める足音を響かせ、かの大地から伝える本作。
絶やさず続く未来のために沈黙するな。
人間に与えられた知恵であるコミュニケーション手段を今こそ生かせ。
そしてその時決して忘れてはならない。
言葉に責任を。会話に理性を。
……と聞こえた気がするのだ。
信仰心の闇
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恐ろしい映画でした。
鑑賞した方々がのきなみ「西部開拓時代の話し」と
思ったと書かれていましたが、それ以上の衝撃です。
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宗教に関する作品はとても多く
世界にはこれほどまでに「神」に侵透し
縛られる人たちがいるのかと毎度痛感します。
信仰心を否定するつもりはさらさらありませんが
そこに縛られ、個を抑えつける「神(教え?)」に
何の救いがあるというのでしょう。
いやぁ本当に不思議です。
(これについては討論する気はありません✋)
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抑圧され虐げられ、教養や思考を禁止されても
聡明な人というのは現れ、そしてその対義に、
流されるまま洗脳されなんの疑問も抱かない人もいる。
後者のほうが生きやすいのだけれども
そこには人間の尊厳などないというのが
まざまざと描かれている作品だと思います。
105分とそこまで長尺じゃなかったのもよかったですが
ほぼ対話劇でありながらも退屈さなど微塵も感じさせず
また色彩も一瞬モノクロかと思わせるほどで
彼女たちの人生そのもののような演出でした。
第95回アカデミー賞脚色賞受賞に納得です。
いろいろなことに当てはめることができる寓話かも
ルーニー・マーラ、クレア・フォイ、ジェシー・バックリー、フランシス・マクドーマンド
が共演なので、期待して観にいきました。それに007のQ役のベン・ウィショーも。
ボリビアのマニトバで実際にあった事件の小説が基とのこと。2010年?驚きました。こんな村( コロニー:共同体)があったんですね。 独身男性が圧倒的に多くて、生殖年齢の女性が圧倒的に少ない貧しい村の出来事だったのか?本来、女性はかなり強いはずなのに。村の不文律ともいえなくもない堕落した男性たちの組織的犯罪なのか。カルト宗教なのか?
家畜用の麻酔薬を常用したようです。
そして、
「夢でもみてたんじゃね? オイラしらねーよ」って、ダマし通せると思っていたわけ?
あきれますね。
農業で自足自給をしているコロニーは幌馬車で移動する西部劇のようでもあり、砂嵐に追われて放浪するHOBOのようでもあり。
とても現代の話にするのは難しそう。
賢い女性たちが知恵を絞り、文盲でも可能な簡易な選挙法を考案して、代表者たちが異なる立場から意見をかわす
。丁寧な議論を尽くし、リーダーはベターな結論を出し、まとまった行動に移す。宗教の教義はやはりわかりにくい。
村を追い出されたが、大学で学を積んだために、村の都合でまた呼び戻され、ひとりだけ書記として参加を許されている男性オーガスト(ベン・ウィショー)は実際、オーストラリアの作曲家と市民パートナーシップを結んでいるというから、女たちからは害のない味方として女子会に入れてもらえる便利な男の役でした。
モンキーズの Daydream Beliver が何度もかかる。
女優さんたちは英国系の人やカナダの人が多いので、モンキーズのこの曲はかなり違和感。
あのコンビニのコマーシャルに長く使用されてきたキヨシロー(忌野清志郎)のデイドリーム・ビリーバーの訳詞は
もう今は彼女はどこにもいない
朝早く目覚ましが鳴っても~
そう いつも彼女と暮らしてきたよ
けんかしたり 仲直りしたり
ずっと夢をみて 安心してた ボクは デイドリームビリーバー
そんで、彼女は Queen
女たちはずっといてくれるもんだと慢心していると、ある日突然出ていってしまう
ってのが、この映画の寓意?
じつは長年の恨みを抱えていたアイツが、ある日突然、熟年離婚を切り出すってことか?
確かにオイラはずっと夢をみて安心してた
イカン、イカン。
ジェシー・バックリーがルーニー・マーラに不細工で結婚できないから私が羨ましかったのよ的な発言をするが、いやいや、違う違う、あんた相当性格悪いねぇって思いました。
ノマドランドのフランシス・マクドーマンドが放浪せず、ひとり、残るのが印象的。
逃げない決意
2010年、架空の村で繰り返される村人の男どもによる暴行の真実に気付き話し合う女性達の話。
村ぐるみの謂わば公認で村の女達が家畜用の鎮静剤を盛られて意識のない状態で暴行され、それが悪魔だか幽霊だかのしわざだとされることが繰り返される中、1人の少女がそれを目撃したことで発覚し、男たちが町に連行されて不在の中で、女達が今後のことを話し合うというストーリー。
2000年代にボリビアで実際に起きた事件をモチーフにしているとのことではあるけれど、女達は読み書きも出来ず、盲目に信仰し世界観がかなり独特で100年かそれ以上ズレた感覚。
事前にあらすじ紹介を読んでおかないとデイドリーム・ビリーバーに戸惑うこと待ったなし。
村に残って戦うのか出て行くのかを話し合う女達。
そして人に赦しを問う神は、赦さない人を赦すのか、そもそも子供を護ることは罪なのか、そんなことを悩まなければならないこと自体が理不尽で胸クソ悪いし苛立ちを憶える。
殺さない為、自分を貶めない為に出ていくという決断は、とても人間らしく素晴らしかったけど、この世界感の中では、みんなで一緒にという決断しかなかったのかと少し引っかかった。
赦すために、進み続ける
あらすじを読み、会話劇であることも承知で観たが、思った以上に平坦でした。
基本的に画面が暗く、内容も宗教や哲学に依ったものが多いので、前半睡魔が…
結論として、彼女たちの決断を尊いものだとは思いつつ、到底納得はできません。
何故なら彼女たちが尊いだけだから。
被害者が不本意な決断をさせられるのに、加害者は(女性の支えは失うが)日常を生きる。
罪に罰なくして、何が信仰かと。
そもそも教義を外れた犯人たちこそ追放されるべきなのに、そうならない村の因習。
善人が我慢するだけの“殉教”なんてクソ喰らえです。
なお、人物の顔と名前が把握しづらく、誰と誰が家族なのかも最後の馬車まで判然としなかった。
予習しなかった自分も悪いが、作中だけで理解しやすい構造にしてほしいとも思う。
特にこういった会話劇だと、誰がどんな主張をして、それがどう変化するかが大事なだけに。
まぁ今作に関しては、一人の人間の脳内会議だとしても成り立つ内容だから重要ではないかもですが。
(“個”ではなく、女性という“集団”での決断が前提となっていた点でも、そう感じます)
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