ウーマン・トーキング 私たちの選択のレビュー・感想・評価
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ほとんどの場面がディスカッションということは大島渚の『日本の夜と霧...
ほとんどの場面がディスカッションということは大島渚の『日本の夜と霧』みたいなのかなと思って心して観たのだが当たらずとも遠からずというか、白熱した議論というよりは結論は決まっていて意見をまとめるための議論という感じでしたね。 くすんだ銀残しの撮影がなかなかいいなということで撮影監督のリュック・モンテペリエて人は初めて聞くなと思ったら『アウェイ・フロム・ハー』とか『テイク・ディス・ワルツ』でもサラ・ポーリーと組んでるからみてるはずなんだけどそんなに印象に残ってないな。サラ・ポーリー作品以外では目立ったものはないが一応名前は覚えておこう。
ルーニーに救われる!
徐々に設定が… 18、19世紀の話かと思ってたら… 加害者が出てこない… だけど、みんなの想いはあるれるほど… 無意識の優位性の上にいるオレはもう、見てて、気持ち悪い… こんな映画は子供と一緒に鑑賞すべき。 観たあとに感想なんて語らなくてもいいから… これは今の映画。 これから未来には、こんなのが昔あった!って、語られることを祈る。 重苦しさの中、ルーニーのエクボは何かを象徴してる? 助かった!
結論からいうと傑作
目は口ほどに物を言い、 口は災いを呼び、 災いは行動を呼び起こすまでの芝居が圧巻! 言葉だけに頼らない細かな芝居で、それぞれの気持ち、状況、何故、をじわじわと手繰り寄せさせる。シナリオと芝居が優れていれば、大げさなセリフ、場所の移動、CG他あらゆるけれんは不要のお手本。 定番の曲の使い方も決まった。 教会にステンドグラスを使う理由もわかりやすい。 静かな闘志漲るクレア・フォイは、 サロメというより、 クィーンっぽかった(エリザベスと、 名曲とかけた?)。 スカーフェイス・マクドーナンド、ブラッド・ピットがPで、 ケレン不要の作品が成立しやすくなる例でもある、、のか。
赦しは許可じゃない
まず、2010年という舞台に驚き。
100年前かと思うような農村の世界に、突然のデイドリームビリーバー。
当たり前に自由な外の世界が集落の中に音楽とともに入ってくるシーン、窓を閉めて閉じこもる女たちと、対照的に駆け寄っていく好奇心旺盛な娘たちの描かれ方が、集落のかたちを示唆しているよう。
事件は、最初に短く叙情的に説明される。
それだけでも十分に酷い状況は理解できるのに、話し合いが進んでいく中で、女性たちそれぞれが無理やり飲み込んで自分の中に封じていた記憶や痛みが、決壊して表出する。
1人1人の痛みが層を成して、悲しみが胸に突き刺さった。特にネティのエピソード。
陰鬱な空気の中、オーナをはじめ、ときおり見せる女達の笑顔がはっとするほど強く輝いて見えた。
自分たちの、子供たちのこれからを自分たちで話し合った結論は、利益不利益や復讐ではなく、善に生きる信仰や、愛に従って選んだもの。
強大な理不尽に虐げられても、善に生きることを諦めない勇気ある選択ってなかなか1人ではできないと思う。
大人の男の顔はオーガストしか映らない。
少年たちのいろんな顔がアップで映るシーン、加害者側になることでこの子達も顔をなくしていくということなのかな。
異様な理不尽さや緊迫感が増してゆく構成
村の女性たちが虐げられている立場の女性の象徴のような、寓話的なストーリーでした。 冒頭に話し合いに至る過程が語りで説明され、早い段階で女性たちの話し合いが始まります。 感情的にお互いの意見をぶつけ合う序盤は、こんな話し合いがずっと続くのかとやや心配になりましたが、時代背景や過去の出来事が徐々に明かされ、それにつれて異様な理不尽さや緊迫感が増してゆき危険度の高さを見せつけられる構成で、最後まで飽きることなく見ることができました。 寓話的とはいえ、出演者それぞれ痛切さの伝わる演技で、現実的な問題として訴えかけてきます。 段々とお互いの理解を深めてゆく流れや、決断をするにあたっての想いも胸を打ちます。 単純に女性対男性というわけでもなく、書記として参加している男性はきちんと思いやりを持って理解をしているという、そういう立場の男性の存在も好感が持てます。 子どもが環境により歪められるのを、きちんとした教育や愛情により防ぐことができるという信念にもぐっときます。 実話を基にしているとのことでどこまでが実際のことなのかは分かりませんが、このような問題の負の連鎖を断ち切って、子どもたちの将来が明るいものになるようにと、そういう思いが伝わる作品だと思いました。
こんな閉ざされた世界があったなんて
女性に教育しない村。 文字を読める女性がいない村。 男性のDVにより女性が支配される村。 女性を薬で眠らせてレイプし、それを「悪魔の仕業」だという村。 レイプの現行犯逮捕により「悪魔の仕業」ではなく犯罪であったことを知る。 赦すか、闘うか、去るか、、、最善の方法を探る女性たちの話し合いに、そしてその決断に深く感動した。 昔むかしのお話かと思いきや、モンキーズの ”Daydream Believer” が流れ、これ1960年代後半のお話?とビックリしたのも束の間、役所の車が2010年の国勢調査をするとアナウンスして回った。 そう、これは昔むかしのお話ではなかった。 原作はボリビアで実際にあった事件をもとに執筆されたとのこと。アカデミー賞作品賞・脚色賞ノミネート、脚色賞受賞の傑作。
さてどうする
性被害にあった女達の会話劇 キリスト教という教えを信じ、自給自足で暮らして、読み書きもできない。教育を受けてない彼女らの、被害が明るみに出て、さてどうするという話し合い 私は、加害者を徹底的に追い詰めたい。罰したい。そんな彼女に同感だ! が 様々な意見が交差する。 加害者が出て来ず、徹底的に被害者側の映画です。 さて彼女らだったらどうするだろうか 観るもの達でさらなる対話を続けようかと言われたような映画
町から離れた場所で、自給自足の生活を送るキリスト教一派の小村。 自...
町から離れた場所で、自給自足の生活を送るキリスト教一派の小村。
自動車などの道具はなく、19世紀後半のようだ。
その村では夜毎に女性たちが傷つけられていた。
朝目覚めるとシーツは血にまみれ、凌辱の痕が残されているが、彼女たちには一切記憶がない。
それらは、「悪魔の仕業」「彼女たちの妄想」「作り話」として片付けられていたが、ある日、少女ふたりが夜間に逃走する男性を目撃し、結果、集団犯罪だったことが判明する。
犯人の男たちは2日間、町の警察に留置され、残された女性たちはその間にこれからどうするかを決断しなければならなかった。
文盲の彼女たちであったが、投票の仕方を考案し、「許す」「戦う」「去る」の選択肢の中で、「戦う」「去る」が同数だった。
三つの立場からの代表家族が「戦う」か「去る」かのいずれを選択するかが話し合われることになった・・・
といったところからはじまる物語で、デジタル撮影であろうが、銀残し手法のような彩度を抑えた映像で、女性たちが集まった納屋でのワンシチュエーション映画の手法をとっています。
息苦しい映画ながら、画面サイズはシネスコ。
この画面サイズには理由があります。
さて、話し合いを記録するために、村への出戻り青年がひとり、話し合いの場に残ります。
ベン・ウィショー 演ずる青年オーガストは、風貌からも従来のマチズモ男性と異なることがわかります(といってもゲイというわけではない)。
映画は終始、彼女たちの話し合いを描いていくのですが、その根底にあるのは、彼女たちが信仰しているキリスト教の世界観で、「戦うことで天国に行けない・・・」などのある種の洗脳装置のような役割もあり、そのあたりはキリスト教に疎いとよくわからないかもしれません。
また、彼女たちが信仰している宗派は非戦主義、非暴力主義のようで、なので「戦う」ことを主張する女性サロメ(クレア・フォイ)はかなり糾弾されるわけです。
終始、話し合いをリードするのがサロメの姉オーナ(ルーニー・マーラ)なのですが、彼女に代表されるように、彼女たちは文盲ではあるが無知ではない、ものごとを理知的に考える知力は持っているわけで、理知的に考える根底にあるのが、これが皮肉なことにキリスト教的な「善」の考え方です。
このあたりが非常に興味深く、話し合いの中でも、いくつか心に残る言葉が出てきます。
すなわち、
去ることの利点として、外の世界が見えること。
「赦し」と許可は別物だけれど、得てして混同されしまうこと。
など。
で、冒頭から19世紀末頃の物語なのかと思っていると、中盤で「第二次世界大戦では・・・」とかの台詞が出、ザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーヴァー」が流れて、近代のハナシかと思ったとたん、「2010年の国勢調査に協力を・・・」という政府の自動車がやって来て、「えええ!」となりました。
(公式ページなど、2010年とハナから書いていましたが、読んでなかったもので・・・)
現代のハナシだった。
なるほど、過去の物語ではなく、(文明拒否の自給自足のキリスト教の、という特殊な状況ではあるが)現代のこと。
偏見や思い込み、旧弊な価値観、そんなものに閉じ込められているひとびとの選択・決断のハナシなのですね。
最終的には彼女たちは「去る」を選択するわけですが、彼女たちの選択が正しかった(善きものであった)ことがわかるのが、出発の日の朝の出来事。
ひとり分の保釈金だけ用意できたので先に保釈された夫に前夜殴られたアガタ(ジュディス・アイヴィ)の腫れあがった顔。
赦しても、それは行為への許可と採られるのがオチで、暴力により憎しみが再燃するものの、その憎しみさえも胸の内に押しとどめなければならない。
押しとどめないとなると、それは男たちが望む(教義に反しているが)暴力の連鎖につながっていく・・・
彼女たちを運ぶ荷馬車の列が長く伸びる最終盤は、あたかも宗教物語のようで、「出エジプト記(エクソダス)」を連想させます。
このエクソダスを撮るが故の画面サイズ=シネスコ。
さすがに知性派、サラ・ポーリー。
なお、後半、去る際の目印として、握りこぶしの親指を南十字星に向け・・・」という言葉が出て、舞台が南半球だったことがわかります。
実際の事件をもとにしたとのことで、事件が起こったのは南米ボリビア。
自給自足のキリスト教一派ですが、おおもとはヨーロッパで、流れ流れてボリビアにたどり着いて、現在に至ることを、後に別の記事で知りました。
わたしたちは馴らされる生き物なのだと思う。だけど、でもね、って信じたくなる。
わたしにとってはサラ・ポリーはアボンリーへの道のセーラなのだけどそんな枕詞をつけてしまうのは不適当なのかもしれない。映画監督サラ・ポリーの力が見せつけられるから。この作品の一つの価値は、これがいつの時代のことかを曖昧にして物語をすすめていることにあると思う。こちらは風俗などから随分昔の世界のどこかなのだろうと思いながら悲惨な環境を眺める。ところが、第二次世界大戦後?ということをまず訝しく感じ、そして国勢調査の車がDaydream Believerをかけて登場することで、これは現代に近い時代の特定コミューンでおきていることなのだと理解することになる。いつか、ということ以上に人を縛るのは、どんな環境にいるか、のほうなのだと気づく。このあたりは単なる驚きというより背筋が寒くなる。
話し合いで彼女たちは自分たちの置かれている状況をまざまざと確信していく。きっと彼らはずっとこうだったのにこれほどの大問題がおきなければ変えるべきだと思った人がわずかだったのだ。わたしたちは馴らされる生き物で、弱く、傷つけ合う。でもその一方で学ぼうとし、立ち上がろうとし、変えるべきだと信念を抱くことだってできる。同じ方向を向いてはいても火種はある。それを含めて、進むということと、変えるということ。彼らのあの大移動はとても重く、エンディングのDaydream Believerはどこか空虚でシニカルに響く。ちゃんと愛し合える日なんて来る?と問われているような。
少し宗教色が強く、それがこの作品に必要だったのかなと個人的には感じた。勿論舞台が宗教的コミューンなのはわかるのだけど、要素要素で彼らを動かす言葉が特定の信仰に近いものであることは薄めたほうが、普遍的な物語として成立したんじゃないか。
あと、サロメの選択がかなり気になった。彼女は大きな息子を説得できず男たちのとった方法を真似して自分に従わせ選択を奪って連れて行こうとする。このエピソードは何を示唆するものなのだろうか。彼女たちの道のりの多難さ、最も強硬派の彼女が自分の家族だからという理由で、女性たちにとって恐怖であり暴力の象徴である男性を同意もなく連れて行こうとすることの自己矛盾、それとも?サロメのエピソードが描かれた意味をまだちょっと持て余している。
八人の怒れる女+α
同じ村に住む男たちからレイプされ続ける女性たち。彼女たちは今後の自分たちの去就について、納屋に集まり話し合う。赦すか、闘うか、出て行くか・・・ほとんどが、その納屋を舞台にした会話劇なのですが、さすがアカデミー脚色賞を受賞しただけあって、ダレることなく1時間45分を魅せてくれます‼️その会話劇から浮き彫りになるのは彼女たちの愛、怒り、憎しみ、母性、親子愛、誇り、尊厳、勇気etc 色彩を抑えた映像も宗教映画のような雰囲気があり、加害者である男たちがほとんど画面に登場しないこともこの作品の格調を高めているような気がします。ラストに流れる曲が "デイ・ドリーム・ビリーバー" というのも秀逸で、彼女たちの旅路が希望に満ちたものであることを暗示しているかのように思います‼️
教育的な映画かな
予備知識ゼロで鑑賞。予備知識なしで観るのはよくあることですが、特に本作に関しては相当戸惑いました。もしこれからご覧になる方がいらっしゃるのであれば、若干の情報を入れてから観に行かれる方がいいかなと感じました。ま、予備知識なしで観た方が新鮮な驚きはありますが(笑)
で、全然情報がないままに観始めた訳ですが、初っ端から兎に角謎だらけ。昔のカーナビは性能が悪く、自分が何処を走っているのか分からない状態になることがありましたが、ちょうどそんな感じで、一体この映画はいつの時代の話なのか、何処の国の話なのか、そういった基本的なことが全く掴めない状態で物語が進んでいきます。時代については、携帯電話はおろか、電気も水道もないようなので、当初は19世紀以前の話なのかなと思われました。加えて女性の大半は文字が読めないようで、やはり少なくとも100年以上昔の話だろうと思われたのですが、中盤に差し掛かる辺りで、突然ザ・モンキーズの名曲「デイドリーム・ビリーバー」が響き渡ります。登場人物が外を見るとピックアップトラックが走っていて「2010年の国勢調査です。人数を確認するため、外に出て来て下さい」という大音量のアナウンスが聞こえてきます。ここで予備知識を持たない私のような観客は、「えっ、2010年の話なの?!」と気付くわけです。これが一番の驚きでしたが、現代ではあるけれども、何らかの理由で集団で近代以前の農耕生活をしている人達のお話なんだなということがようやく分かってきます。
ただ場所については最後まで明示されず、鑑賞後に本作の背景を調べるまで謎のママでした。ただ、現代社会にあって、キリスト教の教えを生活のど真ん中に据え、前近代的な生活をする集落ということで、アメリカのアーミッシュの話なのかなと推測されました。
肝心の内容ですが、この正体不明の謎の集落で、幅広い年齢の女性たちが、朝起きると下半身に出血があるという出来事が頻発。最初は被害を訴える女性を、「女達のバカげた想像」として集落を支配する長老らが退けていたのですが、ある時一人の女性がレイプ犯を目撃。その後芋づる式にレイプグループが捕まります。彼らは家畜用の麻酔薬を家に撒き、家族全員を眠らせてから女性をレイプするという実に凶悪な犯罪を行っていたことが判明。普段ならこの集落で起きたことは長老を中心にこの集落内で判断するようなのですが、事が余りにも大きいため、外界の警察に対処を委ねることになりました。そして犯人たちは警察に拘束される訳ですが、この集落を取り仕切る成人男性は、一人を残して犯人たちの保釈を求めて街に行き、男のいない2日間が生まれることになり、この2日間がまさにこの映画の舞台となりました。
女性たちは今後どうするかを、「何もしないで犯人を赦す」、「闘う」、「逃げる」という三択から投票で決めることになります。文字が書けない彼女たちは、選択肢の意味を表した絵を見て投票し、結果「闘う」と「逃げる」が同数となり、それぞれの意見を持つ代表者が話し合いをすることとなります。
この辺になってくると、単に閉鎖社会で抑圧された女性たちの行動を描いただけでなく、まさに民主主義の原点を描いた映画なんだなとなんとなく気付くことに。話し合いは男たちが帰ってくるギリギリまで続けられ、最終的に「逃げる」ことになり、大勢の女性や男の子を含む子供たちが村を去りました。目的地も決めない旅は、何処に辿り着き、彼女たちはどんな生活を送ったのでしょう?そんな余韻を残しつつ、再びデイドリーム・ビリーバーとともにエンドロールが現れました。
映画は終わりましたが、そもそもこの映画の舞台は何処なのか、実話を基にしたものなのか、はたまた完全な創作なのか、そういった疑問を解消すべくググった結果、2005年から2009年にかけて南米ボリビアで実際にあった事件を基にミリアム・トウズという作家が書いた同名の小説が原作であるとのこと。ボリビアの事件というのは、キリスト教の一派であるメノナイトという教派の人々が暮らす集落で、100人以上の女性がレイプされていたものだそうです。作中でも一人の女性が現場を目撃したことから事件が明るみに出ましたが、実際の事件もそのような軌跡を辿って発覚したようです。
メノナイトというのは、元々は16世紀頃の宗教改革の流れの中でドイツやオランダで生まれたキリスト教の一教派で、私の少ない宗教知識でも名前だけは知っていたアーミッシュは、このメノナイトから分派した教派だそうです。いずれも当時の生活様式を出来るだけ受け継いで生活しているようで、カナダからボリビアに渡ったメノナイトの人々も、本作で描かれたような生活を現在も送っているようです。原作者のミリアム・トウズは、メノナイトの元信者とのことで、教派を抜けてからこの事件を取材して小説にしたそうです。因みに映画の中では保釈されたらしい犯人たちですが、実際には懲役刑に服したとのことでした。
以上、出演者の大半は女性で、藁小屋の中で行われる話し合いの場面がずっと続く映画であり、何せ電灯もない中なので非常に暗く、アクションもありません。そのため、退屈と言えば退屈ですが、テーマ的には興味深いと言えば興味深い作品でした。
宗教で結ばれた閉鎖社会での出来事なので、中々自分の実生活と比較して考えることは難しい部分もありましたが、「会社」という閉鎖社会で、一部の人間だけが好き勝手に振る舞い、パワハラやセクハラがあっても不問に付されるようなことは日本でも良くある話。そんな状況で被害者がどう振舞うのかということに置き換えれば、結構身近なテーマだとも考えられました。
また、民主主義というのは、単に投票による数だけで決めるべきものではなく、賛成派、反対派双方が話し合いで妥協点や第三の道を見つけていくものであるということも、改めて教えられた気がしました。
そんな訳で、娯楽映画というよりは、いろいろと調べたり考えさせてくれたという意味で教育映画に近い感じでしたが、その過程を含めて評価は★4としたいと思います。
ほとんど話し合いしてるだけ
南米で起きた事件を基にした小説が原作みたいですが、 けっこう静かな映画で、今後どうするか?と話し合いしてるのがメインです。 眠かった…(笑) でも、生きていくうえで糧になるような、胸に刺さる言葉があり、この映画を観て良かったと思います。 1番うれしかったのは、もう終わる!と分かった時だけど(笑) まさかの「Daydream Believer」が使われてますが、映画に合ってなかった(笑) 昔は好きな曲だったけど、セブンイレブンが使ったせいで、ダサいイメージが付いてしまった…(笑) 出番は、フランシス・マクドーマンドは少なめ、ルーニー・マーラとベン・ウィショーがメインです。 画面が常時セピア色がかってます。
む…難しい。内容よりも相関図把握が…!
全くの予備知識なく鑑賞。 サブタイ通り、全く知らない状態で見たから登場人物の相関図は把握に、中盤までだいぶ考えながら見ることになった… だが逆にそれも良いかもしれない。 考えながらじゃないと難しい内容だと思うので( ´ᾥ` ) ネタバレ無しの映画の感想は 『ん…誰が誰のMotherでdaughterなんだっけ…』 『すげー聴き慣れた曲だけど時代設定は…え?戦前じゃねーの👀⁈』 『エンドロールシンプル過ぎやしないかい⁈映画の内容には合うけども…!(ちょっと逆に怖い!)』 って感じです! 原作があるみたいなので、帰りながら調べようかな
2日間とは言え、話し合いの場だけの作品として、 【ヒトラーのための...
2日間とは言え、話し合いの場だけの作品として、 【ヒトラーのための虐殺会議】や【対峙】思い出した 会議ものというジャンルがあるならば 好きなカテゴリーかもしれない
ものすごくつまらない
公開一週間の地味な作品なので、マニア系の人が中心のレビューですから平均点上げ底です。 内容が暗い、画面も暗い、話がよくわからない、進まない、盛り上がりがない、ないない尽くしの不朽の傑作です。 宣伝文句には、女たちが立ち上がるみたいなことを謡っていたので「十二人の怒れる男」的なスリリングな展開を期待したものの全くの低調、同じような格好した同じような冴えない女性が寄ると触るとグズグズと訳の分からない御託を並べて、状況の説明も下手くそ過ぎて よくわからず、圧倒的につまらなかったですね。 TARの「意識高いオレ」的な嫌味が希薄なところだけは認めますが。 パンピーの支持率は5%切るでしょう。
どちらにしても
戦うにしても、逃げるにしても、前途は多難ですね。男女が格差があった時代では、こう言った事がよくあったのでしょうね。女性の会話に子供達が絡んでくるから、話題があちこちに飛んでしまいますね。
テーマが重く、地味な会話劇だけど
中世ヨーロッパの暗黒時代の話かよと思うような内容だったけど、唐突にモンキーズで現代の話と分かり、「えーっ!」となった。米国にはアーミッシュみたいな人たちもいるし、実際にボリビアで起こった事件をモチーフに原作は書かれている。後で調べたら、メノナイトという超保守派のキリスト教の一派の事件であることを知った。 この作品を見ると、キリスト教の支配する中世ヨーロッパの迷妄の中から、近代の人権思想や司法制度が生まれてきた背景が分かる気がする。 地味な作品なので、おそらく興行的にはヒット作にはならないと思うけど、作品としては素晴らしい内容。アカデミー脚色賞を取っただけあって刺さる台詞が多い。 それに、夕暮れや夜のシーンの撮影が見事。ランプの光の作り出す陰影や夕暮れの空の黒や紺のグラデーションが美しい。ほれぼれするようなシックな色合いで統一された画面に引き込まれる。 また、どの役者の演技も良いのだけど、その中で特筆すべきは007でQ役を演じたベン・ウィショー。レイプされた女性たちに寄り添う中性的で繊細な記録係を好演している。 でも、実際のメノナイトのコミュニティは、近親相姦やキリスト教原理主義が蔓延する激ヤバカルトらしい。
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