「タイトルなし(ネタバレ)」ウーマン・トーキング 私たちの選択 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
タイトルなし(ネタバレ)
町から離れた場所で、自給自足の生活を送るキリスト教一派の小村。
自動車などの道具はなく、19世紀後半のようだ。
その村では夜毎に女性たちが傷つけられていた。
朝目覚めるとシーツは血にまみれ、凌辱の痕が残されているが、彼女たちには一切記憶がない。
それらは、「悪魔の仕業」「彼女たちの妄想」「作り話」として片付けられていたが、ある日、少女ふたりが夜間に逃走する男性を目撃し、結果、集団犯罪だったことが判明する。
犯人の男たちは2日間、町の警察に留置され、残された女性たちはその間にこれからどうするかを決断しなければならなかった。
文盲の彼女たちであったが、投票の仕方を考案し、「許す」「戦う」「去る」の選択肢の中で、「戦う」「去る」が同数だった。
三つの立場からの代表家族が「戦う」か「去る」かのいずれを選択するかが話し合われることになった・・・
といったところからはじまる物語で、デジタル撮影であろうが、銀残し手法のような彩度を抑えた映像で、女性たちが集まった納屋でのワンシチュエーション映画の手法をとっています。
息苦しい映画ながら、画面サイズはシネスコ。
この画面サイズには理由があります。
さて、話し合いを記録するために、村への出戻り青年がひとり、話し合いの場に残ります。
ベン・ウィショー 演ずる青年オーガストは、風貌からも従来のマチズモ男性と異なることがわかります(といってもゲイというわけではない)。
映画は終始、彼女たちの話し合いを描いていくのですが、その根底にあるのは、彼女たちが信仰しているキリスト教の世界観で、「戦うことで天国に行けない・・・」などのある種の洗脳装置のような役割もあり、そのあたりはキリスト教に疎いとよくわからないかもしれません。
また、彼女たちが信仰している宗派は非戦主義、非暴力主義のようで、なので「戦う」ことを主張する女性サロメ(クレア・フォイ)はかなり糾弾されるわけです。
終始、話し合いをリードするのがサロメの姉オーナ(ルーニー・マーラ)なのですが、彼女に代表されるように、彼女たちは文盲ではあるが無知ではない、ものごとを理知的に考える知力は持っているわけで、理知的に考える根底にあるのが、これが皮肉なことにキリスト教的な「善」の考え方です。
このあたりが非常に興味深く、話し合いの中でも、いくつか心に残る言葉が出てきます。
すなわち、
去ることの利点として、外の世界が見えること。
「赦し」と許可は別物だけれど、得てして混同されしまうこと。
など。
で、冒頭から19世紀末頃の物語なのかと思っていると、中盤で「第二次世界大戦では・・・」とかの台詞が出、ザ・モンキーズの「デイドリーム・ビリーヴァー」が流れて、近代のハナシかと思ったとたん、「2010年の国勢調査に協力を・・・」という政府の自動車がやって来て、「えええ!」となりました。
(公式ページなど、2010年とハナから書いていましたが、読んでなかったもので・・・)
現代のハナシだった。
なるほど、過去の物語ではなく、(文明拒否の自給自足のキリスト教の、という特殊な状況ではあるが)現代のこと。
偏見や思い込み、旧弊な価値観、そんなものに閉じ込められているひとびとの選択・決断のハナシなのですね。
最終的には彼女たちは「去る」を選択するわけですが、彼女たちの選択が正しかった(善きものであった)ことがわかるのが、出発の日の朝の出来事。
ひとり分の保釈金だけ用意できたので先に保釈された夫に前夜殴られたアガタ(ジュディス・アイヴィ)の腫れあがった顔。
赦しても、それは行為への許可と採られるのがオチで、暴力により憎しみが再燃するものの、その憎しみさえも胸の内に押しとどめなければならない。
押しとどめないとなると、それは男たちが望む(教義に反しているが)暴力の連鎖につながっていく・・・
彼女たちを運ぶ荷馬車の列が長く伸びる最終盤は、あたかも宗教物語のようで、「出エジプト記(エクソダス)」を連想させます。
このエクソダスを撮るが故の画面サイズ=シネスコ。
さすがに知性派、サラ・ポーリー。
なお、後半、去る際の目印として、握りこぶしの親指を南十字星に向け・・・」という言葉が出て、舞台が南半球だったことがわかります。
実際の事件をもとにしたとのことで、事件が起こったのは南米ボリビア。
自給自足のキリスト教一派ですが、おおもとはヨーロッパで、流れ流れてボリビアにたどり着いて、現在に至ることを、後に別の記事で知りました。