「わたしたちは馴らされる生き物なのだと思う。だけど、でもね、って信じたくなる。」ウーマン・トーキング 私たちの選択 ターコイズさんの映画レビュー(感想・評価)
わたしたちは馴らされる生き物なのだと思う。だけど、でもね、って信じたくなる。
わたしにとってはサラ・ポリーはアボンリーへの道のセーラなのだけどそんな枕詞をつけてしまうのは不適当なのかもしれない。映画監督サラ・ポリーの力が見せつけられるから。この作品の一つの価値は、これがいつの時代のことかを曖昧にして物語をすすめていることにあると思う。こちらは風俗などから随分昔の世界のどこかなのだろうと思いながら悲惨な環境を眺める。ところが、第二次世界大戦後?ということをまず訝しく感じ、そして国勢調査の車がDaydream Believerをかけて登場することで、これは現代に近い時代の特定コミューンでおきていることなのだと理解することになる。いつか、ということ以上に人を縛るのは、どんな環境にいるか、のほうなのだと気づく。このあたりは単なる驚きというより背筋が寒くなる。
話し合いで彼女たちは自分たちの置かれている状況をまざまざと確信していく。きっと彼らはずっとこうだったのにこれほどの大問題がおきなければ変えるべきだと思った人がわずかだったのだ。わたしたちは馴らされる生き物で、弱く、傷つけ合う。でもその一方で学ぼうとし、立ち上がろうとし、変えるべきだと信念を抱くことだってできる。同じ方向を向いてはいても火種はある。それを含めて、進むということと、変えるということ。彼らのあの大移動はとても重く、エンディングのDaydream Believerはどこか空虚でシニカルに響く。ちゃんと愛し合える日なんて来る?と問われているような。
少し宗教色が強く、それがこの作品に必要だったのかなと個人的には感じた。勿論舞台が宗教的コミューンなのはわかるのだけど、要素要素で彼らを動かす言葉が特定の信仰に近いものであることは薄めたほうが、普遍的な物語として成立したんじゃないか。
あと、サロメの選択がかなり気になった。彼女は大きな息子を説得できず男たちのとった方法を真似して自分に従わせ選択を奪って連れて行こうとする。このエピソードは何を示唆するものなのだろうか。彼女たちの道のりの多難さ、最も強硬派の彼女が自分の家族だからという理由で、女性たちにとって恐怖であり暴力の象徴である男性を同意もなく連れて行こうとすることの自己矛盾、それとも?サロメのエピソードが描かれた意味をまだちょっと持て余している。