「赦しの解釈」ウーマン・トーキング 私たちの選択 コージィ日本犬さんの映画レビュー(感想・評価)
赦しの解釈
女性に人権がほとんどなく、読み書きができない村の描写ゆえ、てっきり舞台は1980年代、または1950~60年代なのかと思いきや……まさかの2010年。
子どもの擦り傷にバンドエイドを貼り、役場の車がポップスをスピーカーで流しながら「2010年国勢調査」と言った瞬間にびっくりしました。
南米ボリビアで2005〜2009年頃に実際にあった事件をもとにした映画で、そこを参考に作られた、信仰のために自給自足で暮らす人々の架空の村だったのね……
カルトっぽいキリスト教徒らが小さなコミュニティに閉じこもった結果、長老たちが男に都合のいい村を作り上げ、支配と村の維持のために女に教育も与えず、常に暴力で従わせ奴隷扱いし、家畜用の薬で女を眠らせレイプによって「村の子」を「生産」し続けていたと。
そのことに気づいた女たちが、「村から出ていく」か「村に残って男と闘う」かの二択どちらかを決める会議を描いた映画でして。
眠くなりがちな会話劇ですが、緊張感溢れるやりとりと、女優たちの力強い目に引き込まれました。
信仰に無縁なに私は、なんで片方? と。
「やられたらやりかえせ、同じ手口で」
「全男を薬で眠らせ、主導した長老と一定年齢以上の男たちは皆殺し」
「若い男たちは全員ち◯ぽ切り落として、足に重りでもつけてしばらく飼ったのち、好きな時に殺す」
「男を手にかけたくない女たちだけは村を出ていく」
と、両方選べばいいんじゃないかな…
と思ったのですが、キリスト教系の女たちは信仰上の理由でそれを選ばず。
しかも共同体思想が強くて、代表が決めたことに皆、粛々と従うし。
とりあえず、キリスト教系カルトは恐ろしいってのと。
アフリカの軍事国家にあるレアメタル採掘の村とかでは、軍人やゲリラが支配するために村の女をレイプするのが常套手段なのを思い出しまして。
結局、女子どもを奴隷化し、地域を支配するのは、肌の色も宗教も関係なく、醜悪な権力者や、暴力に依存するクソ野郎の作り上げた構造にあるのだなと。
また、それらに目をそらし、黙認して許している男たちも同罪で、なぜならその構造に依存し、女性を犠牲にして生きているからだと気付かされます。
ああ、気持ち悪い。
女性たちのキリスト教的な「赦す」は、男を許して沈黙することではなく、殺さないでいてやるということ。
沈黙し、なかったことにすればそれは男たちのやり方を許容する意味になる、そしてそれは子どもたちを再び暴力に晒すことになると気づくあたりは大事なことだと思いました。
ここまで極端な「場」は珍しいですが、男尊女卑思想や男性至上主義といったものは、どの国でもあり、特に法秩序が弱い戦時中や戦後、発展途上・衰退時期の地域に横行しやすいものです。
この国にも、少子化対策の名の下に、女の人を生産機械扱いする政治家たちがいることを思い出し、その発言主たちはこの映画の中の男たちと大差ないのかもしれないとも思いました。