658km、陽子の旅のレビュー・感想・評価
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陽子の足掻きに滲み出る希望
記憶の中の父親と同じ歳でもある42歳という年齢になって、何事も成し得ず引きこもる陽子の絶望を抱えた心が、思いがけずやらざるを得なくなったヒッチハイクの道行きでゆさぶられ、こじ開けられてゆく物語。
彼女の凝り固まった心の殻が、道中でさまざまな他人にぶつかる中で破れ、その破れ目からひどい傷を負ったり癒されたりする。そのことで陽子は少しずつ変わる。
圧巻の菊地凛子。陽子の人物像は普段の菊地凛子とは違うはずだが、まるで素をさらけ出しているように見える。ライターの若宮にたぶらかされ、波打ち際に崩れ落ちて子供のように泣くシーンは、血の流れる傷を開いて見せられているようでこちらの心が痛くなった。
1日に凝縮された人々との邂逅で陽子が変わってゆく様子が、とても自然に見える。少ない台詞の行間を、陽子の挙動や表情が饒舌に語る。終盤の独白でおおまかな彼女の過去は分かるものの、父との確執の具体的な理由や、彼女が挫折に至ったきっかけについての説明はない。それでも、人物描写の不足は全く感じない。
大人がサービスエリアに置いていかれるなんてことがあるか?(しかもピストルは全く謝らない)とか、これだけの出来事が1日という時間に本当に収まるか?といった疑問の種もあるが、陽子の感情の波が持つ圧倒的な生々しさの前には瑣末なことだ。
これは、氷河期世代という受難の年代と、その中で自分の弱さに足を取られた人間の人生を象徴する物語でもある。細部に関してはリアリティラインを少し下げて見る作品なのだろう。父親の幻もそのことを暗に示している。
若宮の仕打ちとその後の老夫婦のやさしさのコントラストは、鮮やか過ぎて痛いほどだ。
そもそも若宮は本当にライターだったのだろうか? 外車に乗り、それらしいことを言って女性に近づき、ああいうことを繰り返すただのクズのような気がする。事後にホテルで受けていた電話も、本当のものかどうか分からない。彼は最初から陽子を目的地に送る気などなかったのではという気がする。
浜辺で号泣し、それでも進んでいった陽子が出会ったのが木下夫婦だ。それまで陽子の中で、亡くなった父の姿は20年前の最後の記憶のままだった。陽子の中に現在の生身の父親の姿はなかった。
夫の登の「知らない人の車に乗るのは危ないよ」という言葉は、父親が幼い娘に教え諭すようでもある。陽子の年齢でそのような常識を持たないはずはないが、それでもこの人たちに先に出会っていれば、という気持ちにならずにいられなかった。
夫婦のやさしさに触れて親身になった言葉を聞き、握手をして別れる(相手に触れる、スケッチブックにメッセージを書く、といったところにヒッチハイカーのリサの影響が垣間見えるのもなんだかじんわりと来た)。陽子の中で、自分と同い年の姿のままだった父親像が登の姿で上書きされる。
20年里帰りしていなかった彼女の目に、夫婦の親切は久しく離れていた親の愛情のイメージに重なって見えたかもしれない。彼らから大切にされたことで、状況に対して受け身だった陽子の行動が(受け身で自己評価が低かったから、若宮の卑劣な提案を断れなかったのだろう)、意思を持ったものに変わったように見えた。
人生はよく旅になぞらえられるが、この1日の旅もまた、陽子の人生のように見える。サービスエリアで置き去りにされたり、真夜中のパーキングエリアで脱出の糸口を見出せず留まり続ける彼女の姿は、人生のエアポケットから抜け出せなくなった氷河期世代そのままだ。リサとのシーンにかなり尺が取られていたのは、あの場所が陽子の人生の停滞感を象徴するものだったからなのではと思う。
それでも陽子の中にはリサに先を譲るやさしさや(陽子が先に乗っていればリサが若宮と出会っていたことになり、結果的に陽子が彼女を守ったとも言える)、老夫婦のやさしさに心を開く素直さが残っていた。また、予定の出棺時間には間に合わなかったが、親族の配慮で父親に会えた。
これらの描写だけで、陽子の今後の人生にまでほの明るい希望を感じる。自分の心にしなやかさが残っていれば何歳からでも世界の見え方を変えてゆけるということを、不本意な旅に放り込まれて足掻く陽子の背中が教えてくれた。
何度も胸が張り裂けそうになった
何度も胸が張り裂けそうになった。私が主人公と同じ世代であるのも大きな理由の一つ。だがこの映画への共感は世代うんぬんでなく、きっと日本全体、いや世界中へ浸透していくものだと感じる。誰もがはじめは希望を持っていた。けれどそれが儚い夢だと知る。現実に押し潰される。感情を押し殺す。人との接触が減る。孤独が当たり前になる。気がつくと声を発する感覚さえ薄れているーーーそんな切迫した状態から物語は始まるが、決して悲劇というわけではない。これは旅路を通じて人間が人間であることを回復させていく作品なのだから。研ぎ澄まされたカメラワーク。ハッと息を飲む、動きのあるシーンの創出。折々に現れる父の幻想。干からびた心を白く静かに染め上げていくような雪・・・。主人公の人生と現状を痛ましく体現し、なおかつ旅と共に刻々と変わりゆく菊地凛子の存在感が神がかっている。菊地と熊切監督にとっての新たな代表作となるのは間違いない。
震災とコロナで疲れた日本人の心象が重なる
2019年のTSUTAYA主催のコンテストで受賞した室井孝介の脚本の映画化なので、当然コロナ禍の前に書かれているのだが、ある事情により半ば引きこもり状態で在宅ワークをしている陽子の暮らしぶりは2020年以降のロックダウン時の閉塞感を否応なく思い出させる。冒頭のシークエンス、暗い部屋でPCのモニターに照らされた菊地凛子の顔、イカ墨パスタを箸で食べて黒く光るくちびるに、まず心をぐっと掴まれた。
タイトルが示すように、本作はロードムービーのフォーマットで進む。疎遠になっていた父親(オダギリジョー)の葬儀のため、従兄一家の車で故郷・青森県弘前市に向かうが、栃木県のサービスエリアでトラブルが起きて置き去りに。人と話すのが苦手な陽子は、勇気を振り絞ってヒッチハイクで実家を目指す……。
陽子を乗せた車は福島、宮城と進むので、車窓からは汚染土を収めて積まれた黒いフレコンバッグが延々と続くのが目に入る。私も震災後に一度福島県の飯舘村などを訪れて直接目にしたが、あのフレコンバッグの途方もない量には本当に圧倒された。原発事故からすでに12年、当時の記憶が風化しつつある人も多いのではと想像するが、映像を介してであれ、いまだ復興半ばの東北の姿を見つめて思いを馳せるのは意義があるはず。
旅の中盤まで悪いことが重なり、地獄めぐりのような展開になるのかと危ぶんだが、海はやはり生命の源、再生の象徴。陽子は夜の波に洗われ、出会った人々の助けも借りて、少しずつ生きる力を取り戻していく。天災や疫病に翻弄され疲弊した私たちの心を、ささやかな一筋の光で照らす好作だ。公開タイミングは、酷暑の真夏ではなく冬の寒い時期のほうがよりしみじみ体感できそうなのに、惜しい。
寝てしまった。ほぼ、1316㌔メートルの旅でした。疲れた。
女性諸君!悪い奴ばかりだけど、もっと悪い奴が沢山いるからね。
「もし良かったら、乗せて頂けませんか?」「失礼ですが、乗せて頂けませんか」じゃない?
「まぁ、一人分なら何とかなる」
「本当に私一人で乗ってよいのでしょうか?」
「だって、一人で残れるの?恐いでしょ」
何??この会話。
それで、老人は良い人ばかりで、ひげ面の男は悪。それで良いの?子供連れも良い人。ステレオタイプを利用した偏見が生まれるね。
「お父さん。良かったね。若い人の手を握れて」え!そんな事思う?そして、言う?
イスラム教ではそんな事やったら殺されるよ。(それは嘘、でも手を出してくれないよ)
「哀れさ」を売り物にしている大日本帝国の耐えて見なければならないお話。フィクションだと思うと頭来る。
この俳優さんなら皆乗せてくれるでしょ。こんなヤマトンチュ達はいない。偏見や差別はもっと奥深いもんだし、悪い奴は想像出来ないくらい悪。ひげ面じゃなくとも悪は悪。
そして、老人には寝たふりして、電車の席は譲らなしね。
いくら、「デフォルメと言ってもクドすぎる。」
あと、10分。
ジャパニーズカウンターカルチャー!
伝統のショートコント集め。瓦解した起承転結。ジム・ジャームッシュのロード・ムービーには必ず起承転結が存在してあるからね。まぁこんな映画、どっかのフランス映画で見たな。最後に野垂れ死ぬやつ。なんだっけ題名。
くどいが、親父なんか死んでもちっとも悲しくなかった。泣く奴なんているの。
そういえば、6月9日は親父の命日だった。日曜日なら、6番9番の馬単1本で勝負すんだけどね。今日は月曜日でした。
歩んだ先にはドラマがある
津軽の言葉の温かさも垣間見える
高速道路のサービスエリアで置き去りにされてしまってからは、果敢にヒッチハイクでクルマを乗り継いで、郷里・青森を目指すー。
すっかり引きこもりの様子だった陽子にも(余儀なくされたこととはいえ)そこそこの「生活力」は、まだ残っていたようです。
そもそもが、クルマでの移動だったので、旅装も「着の身着のまま」のような最低限の軽装、所持金も限られているという身の上でも。
気さくに乗せてくれる人もいる反面、女性一人でのヒッチハイクということで、さもありなんというトラブルにも巻き込まれてしまったりもします。
いろいろ気さくに話しかけて来るドライバーには、あまり自分を語らなかった陽子でしたけれども。
反対に、お礼を言っても津軽の言葉で「なんもだ。」としか返さないドライバーには、問わず語りに身の上を話す陽子も、やはり、もともとは朴訥だが温かい人柄の津軽人だったようで、そんなことも、本作からは垣間見えるようでもありました。
陽子が暮らすアパートは薄暗かったり、陽子が降ろされてしまったパーキングエリアではやがて夜を迎えてしまったり、漸く着くことのできた青森も小雪模様の曇天だったり…。
ヒロインの名前が「陽子」とはいいつつ、本作には、陽光あふれるような明るげなシーンは、ほとんど見受けられないのですけれども。
そして、そこに浮世での陽子の「生き辛さ」が透けて見えるようにも思われるのですけれども。
しかし、観終わって、じんわりとした「温かさ」を感じることができるのは、目的地が近づくにつれて増えてきた、温かな人柄の人たちのその「温かさ」に負うところが大きいのだろうとも思います。
別作品『海炭市叙景』でも、地域経済の崩壊に翻弄される市井の人々の生きざまを見事に活写した熊切監督
らしく、本作でも、能弁というり、どちらかというと朴訥(ぼくとつ)な温もりのある方が多いと思われる津軽の人柄を、菊地凛子の好演で見事に切り取ってみせた一本でもあったと思います。
それやこれやで、佳作としての評価が少しも惜しくない一本だったとも思います。評論子は。
正直、菊地凛子は得意ではなかった。 『バベル』とか『ノルウェイの森...
正直、菊地凛子は得意ではなかった。
『バベル』とか『ノルウェイの森』の印象が強い女優さん。
『パシフィック・リム』に出ているのを見て海外で評価された凄い女優さんなんだなと思ったのを覚えている。
冒頭で得意ではないと言ったのは、顔つきが好みじゃないという軽い感じで思っていた。
この映画で演じていた主人公はコミュ障でおどおどしていて、ハッキリ話せない。。
最初は声の小さい主人公をイライラしながら見ていたけど、最後の方では大きく印象が変わった。
アクシデントでヒッチハイクをする事になって、いろんな人達に助けられ、成長していく主人公。
菊地凛子の演技は素晴らしかったと思う。
最初イライラして見ていたのに、最後には彼女の印象が大きく変わっていった。
世の中、可愛くてハキハキ話す人ばかりでは無い。
取っ付きにくい人もたくさんいる。
そんな人でも魅力的に演じてしまう、やっぱり凄い女優さんなんですね。
演技の素晴らしさを感じた映画でした。
菊地凛子だからできたこの白い虚無感。
さすが菊地凛子。 監督:熊切和嘉の作品は『#マンホール』くらいしか...
成長スピードえぐ
旅はいい
親との距離を詰めるために必要な時間
父から深く愛情を受けたかと言われるとあまり実感がない
真面目な話をどれだけしただろうか
一緒に酒を飲んだ覚えもあまりない
父の時代はモーレツ社員の時代
父もそうだったのでしょう
沢山の会社を渡り歩きとうとう自分で商売を始めて辞めた会社に営業アタックをかけてどんどん仕事をとってきた強者らしいです
当然そうな男には今の旦那さんのように家庭の時間などあるわけがない
私も自分の家は忙しいから授業参観やら文化祭、運動会などなどぜんぜん来なくてへっちゃらだったな〜
でも世間じゃ来て欲しいと思うのが前提で不良や病や不登校などの原因になってたりすることが不思議でたまりません
そんな父も87歳、いつ陽子のように連絡が来てもおかしくない歳です
私の田舎は陽子より146㌔近い512km
これぐらいの距離だったら気持ちの整理がついた頃には到着出来るのかと思います
陽子は自分の変化に気付けただろうか?
兄の優しさがそっと伝わります
私も何かが変わるのだろうか
そんなことが気になってしまいます。
等身大の「私」
主人公陽子が東京から658km離れている青森の実家へ帰省する物語。
コミュ障は古くからあったものではなく、頑張らないまま逃げ続けてきた結果。
父の死
父との確執
さて、
父の霊
従弟が陽子を連れて帰省する際、車の中に現れた。
陽子と変わらない風貌は、今の陽子が実家を飛び出したときの父の年齢になっていたから。
そして彼女が覚えている父の姿
サービスエリアで取り残されてしまった陽子は、コミュニケーション手段であるスマホを壊したことでその他の手段が思いつかないほど思考停止している。
ようやく女性の車に乗せてもらうものの、お金までは貸してくれない。
トイレしかないサービスエリアで出会ったヒッチハイカーの女性
「話したところで、無理だと思う」
一見元気いっぱいの女性の言葉は意味深で、陽子とはまた違った闇を抱えているのだろう。
無理やりホテルに連れていった男は「自分で選択したんでしょ」という。
おそらく陽子はその言葉で、今までの自分の人生すべてがそうだったことに気づいたのだろう。
後悔してももう遅いのだ。
ホテルから海岸線に出る。
父の霊はついてくる。
「どっかいってよ」と叫ぶ陽子。
父の霊は海辺で陽子の頬を平手打ちする。
「ひどいよー」と泣き叫ぶ陽子
そして朝を迎え波に起こされる。
荒れた海 どんよりとした空
この作品のテーマは多義的ではあるが、「本来の自分に戻る旅」なのかもしれない。
それが父が望んだことなのかもしれない。
突然死だった父だが、いつも陽子のことを思っていたのだろう。
陽子に「お題」を出した張本人かもしれない。
誰もがぼんやりと自分自身をわかっていながら、ありのままの自分自身ではなく、着色された「私」を演技している。
人との関わりがなくなり始めれば、自分を着色する必要もなくなるが、「比較」しなくなった分虚無感によって自分自身を見失うのだろう。
陽子も知らない間にそうなっていた。
そうなった自分を客観的に見れないことで、外に出ても何もかもが別次元の世界に思えた。
車内で騒ぐ子供のカオスにもどこか現実感を持てない。
「実感がない」
海辺でずぶ濡れになり、自分自身のことを笑った。
老夫婦にお世話になって「握手、いいですか」
お礼の言葉ではなく握手という手段で初めてコミュニケーションができた。
ヒッチハイクは何度も必要だった。
もう出棺時刻に間に合わなくなる。
サービスエリアでヒッチハイクを必死にお願いする。
大声で叫ぶ。
ようやく1台の車に乗せてもらうことができた。
そして自分から、生まれて初めて自分自身のことを話した陽子。
となりの父の霊の手に触れようとしてみる。
ヒッチハイクで気づいたこと。
それは、18歳で実家を飛び出したときの父の年齢になっていたこと。
夢を追いかけ、あきらめ、ずっと逃げ続けて取り返しがつかなくなって、何もないことに気づいた。
「そうしてまともに人と話もできなくなっていた」
陽子はここまでくるためにいろいろな人のお世話になった。
「私一人ではたどり着けなかった。こんな私を乗せてくれてありがとう」
もう時間はない。
最後にバイクで送ってもらい踏切を渡る。
遮断機はアウト・セーフの分かれ目を象徴している。
彼女の足取りは重い。
すでに出棺の時間を大幅に過ぎていたからだろう。
それでも踏切の遮断機を潜り抜けたことが伏線になっている。
ようやく到着した実家
従弟が出てくると「出棺を待ってもらっていたんだ」
その言葉に泣き崩れた陽子
「もう一度父の手を握りたいと思った」
そして実家の中に入っていくところでタイトルが表示される。
実家を飛び出して658km
その距離をいろんな人の力を借りて戻ってきた。
その間に思い出した様々なこと。
陽子の本心 ありのままの私
従弟が車の中で歌った鼻歌
父のよく歌っていた唄は、幼い頃陽子がいつも口ずさんでいた唄
そのリアルな響きとともに自宅中へと入る。
「自分なりに父の死を受け入れる」ために。
何とも言えない雰囲気の作品だった。
陽子という等身大に共感する。
どうしようもない状況に置かれたことで否応なしに行動を迫られる。
その中で「精一杯のことをする」ことを学ぶ。
タイムアップ
全力を尽くし、覚悟した。
「お父さん、待ってるぞ」
初めて全力を尽くし、結果が出た。
間に合ったのだ。
人生の困難のひとつを乗り切った。
それは自分の力ではなくいろいろな人のおかげ。
最善を尽くせば、覚悟も決まる。
結果は、そのまま「受け入れる」以外はない。
人生でひとつこれができればいい。
素晴らしくいい作品だった。
実家が細いと厳しい
必死ハイ苦
42歳独身干物女の仕事はリモートのクレームチャット受付係である。食事は三色レトルトで買い物は通販オンリー、唯一の楽しみはベッドでPCを横に立てて見る海外恋愛ドラマだけ。言葉を発しなくとも用が足りるせいか、陽子は完全なコミュニケーション障害の引きこもりと化している。近所のスーパーに夜中、上下ジャージ姿でカップ麺や🍱を買いに来るあのお姉さんも、この陽子とさして変わらない生活を送っていることだろう。そんな陽子を菊地凛子がリアリティーたっぷりに演じている。こんな病んだ中年女を演じられるとしたら寺島しのぶぐらいしか他に思い浮かばない、それほどの演技力なのである。
東京から故郷の青森まで。高速SAで兄貴(竹原ピストル)の家族が乗る車においてけぼりを食らった陽子は、決死の覚悟でヒッチハイクを試みる。何せ見知らぬ他人と話すのが大の苦手の陽子にしてみれば、これぞ地獄の苦行そのもの。そんな陽子を無言で見守る親父の👻(オダジョー)がこれまたナイスなキャスティングだ。ちょっと年齢が若すぎやしないかとも思ったのだが、20年間絶縁状態だった陽子にしてみれば18歳で家を飛び出した頃の父親像しか覚えていないはずで、あの話題作『AFTERSUN』とほぼ同じ設定の父娘関係なのである。
残金は2千円ちょっとで携帯も壊れているため、電車にも乗れずヒッチハイクに頼るしか手段がない陽子。訳アリのシングルマザー、👻が苦手なヒッチハイク娘、陽子の身体が目当ての自称ライター下衆男、野菜農家を営む優しい老夫婦....誰もが気味悪がる陽子を「なーんも」気にせずバイクで送り届けてあげる地元の親切ブラザー。東京から離れれば離れるほどに人の優しさに触れることができたのは、おそらく陽子自身気がついていないある心境の変化に原因があるのではないだろうか。あんなに憎んでいたはずの父親の亡骸に一目会いたい、そのゴツゴツとした手にもう一度触れてみたい。無気力だった陽子の目にいつしか情熱めいた炎が灯っていくのである。
誰もいない海岸や道路の端っこを、車の流れと逆走するようにトボトボと歩き続ける陽子のバックショットがとにかく印象的だ。孤独が骨の髄まで染み付いた女の生き方を、何を言っているのかよく聞き取れない陽子のモゴモゴしたしゃべり以上に、このシークエンスのみで雄弁に物語っているのだ。先天的に他人から嫌われ遠ざけられていたのではなく、父親に絶縁されたと思っていた陽子は、みずから心の壁を作って他人から距離を置いていただけだったのではないか。陽子の必死な姿を見た父親の👻は、『AFTERSUN』のポール・メスカルのように安心してあの世へと旅立っていったにちがいない。
ヒッチハイク
従兄弟が突然訪ねてきて、お父さんが亡くなったから帰ろう。ついでに車に乗っていけと言われる。陽子の携帯が壊れて繋がらずいきなり来ることに。そもそも携帯が壊れたことがタイミング悪すぎる。慌てて支度をして従兄弟の家族と共に出発。途中のサービスエリアで子供が怪我をしたことで置き去りにされてしまった陽子。従兄弟は戻ってきてくれたのに、携帯がないために微妙なすれ違いで会えず。所持金も少なく、ヒッチハイクすることに。
陽子はコミュ障。普通の人でもヒッチハイクなんて勇気がいるのに、コミュ障の人がヒッチハイクなんて、とんでもない勇気が必要だろう。「何言ってるかわからない」と言われて、トイレで練習している姿はなんか可愛い。
最初の女性は親切だったが、2人めの男性は、、、まあ、そんなこともあるかもね的なヤバい状態。
最後には自分の事を話すことが出来るようになり、コミュ障も少し克服できたようで何より。
時々、幽霊のように現れる父親がオダギリジョーで、違和感があったけど、18歳で家出してから会っていないから、最後に会った父親はオダギリジョーの年齢で合っている。と納得。
カミングアウトシーン、見事でした
コミ障からの回復。
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