ワース 命の値段のレビュー・感想・評価
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命は金に変えられない、というけれど
人の命はお金には代えられないと誰もが思う。しかし、それを生業にする人がいる。それも酷い意味ではなく、遺族を救うために。911で犠牲になった人々の遺族に補償金を分配する仕事に就いた弁護士が直面する苦難。政府には集団訴訟を防ぐという目的がある、遺族側には大切な家族の命を金でランク付けしてほしくないという思いがある。遺族が本当に求めるものは何か、エリート弁護士が直面する心のひだを丹念に描いた作品だ。
この映画を観て、『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』を思い出した。津波で子どもたちを失った遺族は真相究明を何より求めていたが、学校側は自らの過失から逃げるばかりで真相を隠そうとする。最終手段で訴訟に踏み切った遺族たちには子供の命を金に変えるのかと心無い声を浴びせる者もいたという。遺族が求める者は金ではなく、尊厳と真相。どうすればその2つを遺族に届けることができるのか、終わりのない問いを、それでも諦めずに当事者たちは続けているのだと思い知らされた。
マイケル・キートンだからこそ体現しえた難しい立場と、その変わりゆく姿に胸打たれる
重く切実なテーマを突きつけてくる良作だ。これは米同時多発テロの発生からそれほど年月が経ってない頃の実話。まだ傷が癒えず気持ちの整理のつかない中で基金説明会に足を運んだ人々の、犠牲者の値段や計算式を突きつけられた胸中はいかに複雑で痛ましいものだったことだろうか。すべての人々を納得させる方法がない中、マイケル・キートン演じる主人公は責任者役として無償で身を捧げる。これは彼にとって疑いようのない正義であり社会的使命だったはずだが、彼の官僚主義的なやり方は思わぬ猛反感を浴びることに。少しバランスを欠くと無神経で気に触る人間に映りかねない役柄を、キートンが実直に演じ、彼の難しい立場と大きな心境の変化を、観客と等身大の目線で分かち合う。彼と理性的に対峙するスタンリー・テュッチの存在感も素晴らしい。人々の悲しみや痛みに寄り添う”あるべき姿勢”は何かを的確に点描していくサラ・コランジェロ監督の筆致が光る。
悪賢い起業家、誠実な弁護士。両極端を演じ切るマイケル・キートンの円熟
「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(2017)でマイケル・キートンが演じたレイ・クロックは、今あるバーガー店のコンセプトを生み出したマクドナルド兄弟と共同で創業しながら、結果的に兄弟を会社から追い出して莫大な利益を手にする狡猾で憎たらしいビジネスマン。一方「ワース 命の値段」での役は、9.11テロ被害者遺族の補償基金プログラムで個々の補償金額を算定する難しい役目をプロボノで引き受け、さまざまな事情を抱えた遺族らに向き合う誠実で忍耐強い弁護士。両極端なキャラクターなのにどちらも説得力十分で、キートンの演技の幅広さを改めて思い知らされる。
よく知られるようにアメリカは訴訟大国で、法廷物の映画や法律事務所を舞台にしたドラマの人気が根強いお国柄もあるのだが、本作の場合、法律家(+国)と遺族たちが対立から、困難な交渉を経て……という大方の予想通りに話が進むので、盛り上がりに若干欠ける面はあるかもしれない。とはいえ、被害者と遺族の事情に合わせて補償額を算定した実話、つまり命の値段を決める過程をドラマタイズして商業映画にするなんていかにもアメリカらしいし、社会派のスタンスとヒューマンな要素のバランスも悪くない。日本だとこの手の題材はまず映画にならないだろうなとは思う。
可哀想可哀想言うだけの先が観たかったのに
命の値段をつけなければならなくなった主人公が、命に多寡はあるのか?と苦悩する物語だとばかり思っていた。
実際、その要素が全くなかったわけではないし、思い込んでいた自分に非があるので、違ったことによるマイナスは加味しないようにしたつもりだ。
それでも低評価になってしまったのには理由がある。
この作品が、どんな物語だったかというと、過剰なほどに被害者可哀想でしょ、遺族可哀想でしょ、そしてアメリカ可哀想でしょ、するだけのものだった。
確かに亡くなった方は悲劇である。そんなこと言われなくても分かる。そういった要素があることも構わない。しかし過剰だ。
はっきり言ってそれしかなかったともいえる。
被害者や遺族が酷い目にあったことを見るドキュメンタリーが見たいのではない。そんなものが見たいなら最初からそれを観る。
言い換えるならば、「作られた」映画が観たいのである。もう分かりきっている被害者可哀想以上の何かを、創作でもいいので望んでいるのだ。
例えば、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のように、被害者可哀想、遺族可哀想からもう一歩進んだ部分が欲しかった。
テーマがテーマなだけに内容が悪かったとは言いにくいし、実際悪くもないと言えるが、映画としては全く面白くなかった。
唯一面白かったと言える部分は、経済の安定のために補償金を出すってところくらいだろう。そんなこと考えたこともなかったので、最初から善意などない訴訟大国の恐ろしさを見た気がした。
人を導くのは理動ではなく感動!試される起業家精神!
公平さとはなんなのか?を考えさせられる作品でした。
主人公のケン・ファインバーグは単なる弁護士ではなく起業家のような挑戦者として、
混沌とした状況の中で命の価値を金銭で評価するという難題に立ち向かいます。
困難に直面した時、起業家がどのように問題を解決し、人々を救うのか、その姿がリアルに描かれています。
起業家としての視点で見ると、彼の役割はリスク管理や利益追求だけでなく、社会的責任を果たすことが求められます。彼の決断は被害者遺族の人生を大きく左右するため、その重みがひしひしと伝わってきました。
葛藤とともに、弁護士事務所のチームと共にこの巨大なプロジェクトに取り組んでいるため、個人の判断が周りにも大きく影響していました。
ケンのチームがどのようにして信頼関係を築き、共に困難を乗り越えていくのか、そのプロセスは起業家精神の本質を描いていて、私自身の活動にとっても身になるものでした!
合理的な人には新たな価値観を知るものとして、特におすすめですが、
すべての起業家やビジネスパーソンにとって、リーダーシップと社会貢献の真の意味を再認識させてくれる作品ですので、ぜひ一度、ご覧になってみてください。
とても重いテーマの映画でしたが、大きな事件の裏方で奔走している人が...
とても重いテーマの映画でしたが、大きな事件の裏方で奔走している人が居るんだなと改めてさまざまな視点で物事を考えることが大切なんだと学びでした。
あなたは橋じゃない
ケン・ファインバーグ。ユダヤ人弁護士。9.11の補償で、人に値段をつける「汚れ仕事」をかって出る特別管理人。
この補償基金プログラムの反対派の先鋒チャールズ・ウルフ。
相反する二人の掛け合いが本作の見どころ。マイケル・キートンとスタンリー・トゥッチ。彼らの激論に補償対象者約7,000人の命運が掛かっている。
被害者の哀しみの有り様も様々だ。命に対する考え方もそれぞれ違う。政府の関係者たちも好き勝手なことをまくしたてる。
この板挟みはきついぞ。そんじゃそこらのクレーム処理とは訳が違う。
「あなたは橋じゃない」
ウルフはファインバーグは言う。
いい格好して、単なる懸け橋になろうという魂胆はあさはかなのかもしれない。
落としどころが極めて難しい。
が、本作は、落としどころを学ぶには、最強のバイブルだと思った。
テロで亡くなった人の生命に値段をつける。 一定の計算式に基づいて金...
テロで亡くなった人の生命に値段をつける。
一定の計算式に基づいて金額をはじき出すのが一番合理的だとは思うが、本作の主人公はあまりにも事務的過ぎた。
結果的にうまく行ったのは人間的な同僚たちのおかげだろう。
実話物で学ぶ
「9.11被害者補償基金プログラム」。
訴訟社会・アメリカ。
集団訴訟で企業が潰されないために、提訴権を停止してまで作ったもの。
へー。
被害者にはそれぞれの事情があり、残された家族も色々。
それを計算式に当てはめて、支払うってどうよ?。
命の値段は、プライスレスなはずなのに。
印象的だったのが、主人公の仕事部屋に置かれた、被害者家族の持参品。
思い出の品だったり。
そこにはそれぞれの思いが、あるはず。
考えさせられた1作。
国家側を主人公とした映画
そうですよね、補償金が必要ですよね。
テロ事件の悲惨さや被害者の悲しみ、国の喪失感などばかり
考えていて、補償金のことなど頭の片隅にもありませんでした。
この映画は珍しく、国家側の特別管理人ケンを主人公とした物語で
補償金を算定して被害者や遺族に申請させることを主題としていました。
今までの映画なら遺族のウルフを主人公とするのが普通でした。
そういう意味では国家のプロパガンダ的な作品とも思えました。
映画としては見ごたえありましたが
そういう意味では素直になれない気持ちもありました。
難しい話でも感動
2001年9月11日の同時多発テロで、アメリカ政府は被害者救済のために基金を設立。遺族と交渉するために、ケン・ファインバーグが率いるの弁護士団が引き受ける。独自の計算式で保証金の分配をしようとし、基金への申請者80%以上を目指すが。
テロ発生直前から描かれていて、みるみる広がる緊迫感に悲しくなります。ファインバーグはおごりもあったかも知りませんが、「汚れ役」を無償で引き受けたことに驚きました。困難かつ多くの補償を扱ってきたという自負で引き受け、事務的に処理しようとするファインバーグだったが、想像以上の難題に直面。面倒な存在だったウルフが誠実で重要な役割となり、ファインバーグは被害者に寄り添う姿勢に変化させます。お金の難しい話ですが、感動しました。遺族の電話が、弁護士の「訴えろ」という売りこみで鳴りっぱなし、というのはひどい話です。具体的にどう配分したのかは触れられていなかったのが、ものたりない。
被害者の心の傷の深さ
<映画のことば>
すべての被害者と遺族とが損害賠償を求めれば、会社は潰れ(アメリカ経済は破綻に瀕す)る。そうなれば、テロリストに屈したのと同じ。流通も出張の便も停滞、経済全体が機能しなくなる。まさに国家の危機です。
航空機を乗っ取ってワールドトレードセンタービルに突っ込ませるという不法行為をしたのはアルカイダな訳ですから、最終的には、その賠償責任はアルカイダに持っていく以外にない訳ですけれども。
どっこい、個々の乗客は航空会社との契約(航空機による旅客運送契約)に基づいて飛行機に乗ってる訳ですから、最終的に航空会社がアルカイダに求償するかどうかは別として、求められれば、直接に航空会社は乗客に対して債務不履行責任(乗客を安全に目的地まで空輸する義務の違反)を負わなければならない立場。
そして、乗客以外の被害者に対しては、自社の航空機による死傷事故として、直接の不法行為責任。
好き好んで外国のテロ集団を相手に賠償請求するという人は、数としてそう多くはないでしょうから…。
結局のところ、9.11の被害者は、まず航空会社から賠償を受けることを考えるのが穏当なところ。
確かに集団訴訟を起こされたりしたら、その対応だけで、とんでもない費用(弁護士代などの訴訟費用と、訴訟の処理に関わる職員の人件費)というお話になることででしょう。
(よほど極限的な事例ででもなければ、訴訟を見越して費用を予算し、必要な人員をあらかじめ雇用しているケースなどない。)
航空会社が破綻してしまい、飛行機が飛ばなくなると、ビジネスはたちまち行き詰まり、経済そのものがストップしてしまうかも知れません。
何せ、国土の広いアメリカは、海外はおろか、国内の移動も航空機頼みというお国柄。
それに、そんな大規模な事件が係属することになる裁判所の方だって、人員的にも予算的にも、そんなキャパシティは見込んでいない―。
おそらくはパンクしてしまって、他の訴訟事件も処理できない事態に陥ってしまい、司法機能も麻痺してしまうことでしょう。
そこで、政府が(おそらくは航空各社の拠出も得て)基金を作って被害者に賠償金を払うという便法を採ることで、被害者の要求が航空会社に対する訴訟に移行することを防いで事態を鎮静化する(悪い言葉で言えば、被害者にお金を握らせて、そのまま厄介な問題にフタをしてしまう)ー。
ファインバーグ弁護士が特別管理人とやらに就任した、この補償基金の目的は、ざっくりと言ってしまえば、そういうこと。
覚悟の上で、敢えてその「汚れ仕事」を引き受けたファインバーグ弁護士には、社会的意義のある仕事に従事するという男気もあったのかも知れませんけれども。
しかし、それまで弁護士として「負け」を知らなかった彼には、この困難な仕事も、自分なら片づけられるという自負もあったのだろうと思います。評論子は。
つまり、客観的な計算式こそが、被害者の納得を引き出す切り札だと(負け方を知らないという)彼はは考え、そこに勝機を見いだして、この仕事を引き受けたことも、疑いがないと思います。
「調停のプロ」として、多くの事件を解決してきた自負が、彼にそう考えさせたのでしょう。
そのことは「いつも通りの仕事をすれば、きっと大勢の人を救える」と論じた、事務所のスタッフを前にした彼の演説からも窺われます。
(このプロポノ・パブリコを成功させれば、彼の「敏腕弁護士」としての評価は確実なものとなり、弁護士業務の上でもそのメリットは計り知れないという胸算用もあったことでしょう。本作には描かれてはいませんでしたけれども。)
補償金には政府の公金も含まれる以上、飽くまでも客観的な基準(計算式)が必要とするファインバーグ弁護士の主張と、補償に当たっては飽くまでも個々の被害者・遺族の実相を見るべきだとするチャーリーの主張を軸に、事態(本作のストーリー)は展開するのですけれども。
しかし、被害者は、ファインバーグ弁護士が想定していたよりも、被害者・遺族の心の傷は、ずっとずっと、もっとずっと遥かに深かったーそれが、彼の一番の誤算だったのだと評論子は思います。
これだけ桁違いの被害を受けていれば、単なる交通事故や医療過誤などの賠償事案とは、被害者・遺族の心情は、比べ物にならないほど複雑だったと。
そのことに思いが至ると、なお、9.11の被害者・遺族の心の傷の深さを思わずにはいられません。評論子は。
「いろいろな人が電話をかけてきて言う。あなた方は補償金を受けろ、弁護士たちは訴えろと。でも、誰も、ご主人のご遺体が見つかりましたという電話はくれない。もう、電話はいらない。」というカレンの台詞が、耳に残って離れません。
彼・彼女らの心の傷の深さを静かに静かに、しかし鮮明に浮き彫りにする一本として、佳作であったと思います。
(追記)
まず、カミールという得難い優秀な助手を得ることができ、次いで、実は「敵側」であるはずの被害者・遺族の側からもチャーリーという協力者(理解者?援助者?)を得ことができた。
ファインバーグ弁護士が大役を果たすことができた理由も、人を得たことが大きかったのだろうと思います。評論子は。
そして、カレンは、妻としての自分のプライドは脇に置いてまで、亡き夫の隠し子の今後を心配し、ファインバーグ弁護士に彼・彼女らにも補償金が渡るように手配を頼む―。
やっぱり、この世は、人と人と、そして人との関係で出来上がっているのだということを、改めて実感した一本でもありました。評論子には。
(追々記)
今の法律では、損害賠償はお金ですることになっているので(金銭賠償の原則)、例えば死亡交通事故の被害者や遺族に対する損害賠償も、慰謝料や逸失利益(生きて働いていたなら得られたであろう収入から、想定される生活費の額と中間利息=都度に入るはずだったお金がいっぺんにもらえるメリットを評価したもの=を差し引いたもの)が、お金で支払われることにはなるのですけれども。
この金額が、しばしば「命の値段」として、いわば独り歩きをしがちなことには、なんともやりきれない思いがします。評論子は。
「金銭賠償が原則だ」というのは、たいていの場合、原状回復ができないから(死んだ人を生き返らせて遺族の下に帰らせてあげることは、加害者=生身の人間には不可能)。
それで、次善の策として、いろいろなことに遣えるお金というモノ=金銭で賠償しようというだけの話な訳ですから。
要するに、「お金を払うことなら、加害者にもできる(はず)」というだけの話。
決して、それが「命の値段」を指し示したりするものではないのですけれども。
賠償額は飽くまでも賠償額なのであり、それ以上でもそれ以下でもなく、いわんや「命の値段」などではあり得ない―。
そんな単純な賠償額を「命の値段」という風潮は、何とか改まらないかと思うのも、評論子だけではないと思います。
会話ができる大人とできない大人
映画「ファウンダー」でマイケル・キートンが好きになったので、ほぼジャケットがファウンダーな本作も鑑賞してみたくなりました。
遺族救済を目的とした補償基金プログラムは、テロの被害者の人生に値段をつけることで残された者に対する救済としている。その「値段のつけ方」は、金持ちも貧乏人も平等で一律に払われるべきだ…とすれば、金持ちに合わせることになり莫大なお金が動くことになる。それを避けるために“プログラム”と称して被害者が生きていたらと仮定した先の人生に値段をつけてその額を支払い救済する。
計算式を前面に押し出し淡々と説明し遺族に理解を求めようとする主人公ケン、自身も妻を亡くし遺族に寄り添いコミュニティを構築し、補償基金プログラムに意見をするチャールズ。
印象的だったのは、最初の補償基金プログラムの説明会の後、ケンとチャールズのやりとりで「私はこれからあなたを叩く」と宣言するところ。それに対しケンは「…そう。残念だ」と言う。
日本なら「これからあなたを叩く」の返しは、「え?」になって、陰気な感じになりそうです。意見を主張し合うことを前提としている、意見を交わすことが当たり前にある。相手が自分と違うことも当然であると常に思っているからこそ「そう、残念だ」と返せる。こういう平然とした会話が日本に足りない。
会話ができる大人は、主張を聞く。ケンとチャールズは、互いの主張を聞き入れたからこそ、良い方向へ導けたのだと気がする。訴訟になれば時間もお金もかかる、裁判中はずっと悲しい出来事を思い出さなければいけない。早期解決を求めることは、生きてる者を次に進めることにもなる。国側と国民側の代表で話し合い出た折衷案に納得した人らが95%いた。
話し合い・主張を聞き合うことの大切さがこの映画にはあるかなと思います。
志が高く挑んだ仕事なのに、遺族に嫌われまくって、嫌われても構わない...
志が高く挑んだ仕事なのに、遺族に嫌われまくって、嫌われても構わないと、それでも挑み続けてるのは素晴らしい事なのだが、それ自惚れず、やり方を変更するのは凄かった。
金持ち?の万年筆を分解してサインを拒むシーンと、
どう補償額が変わったのかが分からなかった。
最後、浮気されてた奥さんが、「相手のことを殺してやりたい」と言いながらも、その子供たちに補償金が降りるよう書類を渡したのは痺れた。
いかに敬意を示せるか、いかに寄り添えるか。
アメリカは弁護士がアンビュランスチェイサーと揶揄されるほどの訴訟大国。マクドナルドのコーヒーでやけどしたとして数億円の賠償金を勝ち取った事案や喫煙者によるタバコ会社への法外な賠償金が認められた事案等々。その賠償額の6割を弁護士が成功報酬として手にするもんだから、こういった企業への訴訟は後を絶たない。
9・11テロの被害者遺族から航空会社に訴訟を起こされると国の経済は大打撃を被るとして、補償金事業が立ち上げられる。これは航空会社を守るための訴訟封じの策でもあり、劇中の「汚れ仕事」という言葉が示すように被害者遺族への人道的支援を第一の目的としたものかは疑問がある。
ただ、国の経済的ダメージを避けつつ、被害者遺族への早急な支援を幅広く行えるということでは評価に値するものなのだろう。訴訟費用を工面できない貧困家庭や、長期間の訴訟による精神的負担などを考慮すると。
かつて民事賠償請求訴訟を多く手掛けてきた弁護士のケンは国を揺るがすテロを目の当たりにして、愛国心から難しい特別代理人の仕事を引き受ける。彼は彼なりの使命感から被害者遺族を救いたかった。
しかし、彼の補償金の算出方法が被害者遺族たちを傷つける。あくまでも民事訴訟においては損害賠償額は逸失利益をもとに算出されるので当然収入の違いで受け取れる賠償額には差が出てきてしまう。それを根拠にした計算方法を聞いて説明会は人々のやじで騒然となる。
学生相手の講義では得意げに命の値段を算出していたケン、しかし今回はそうはいかなかった。人々の悲しみ、犠牲となった家族への思いはけして計算では算出できないものなのだから。
何とか公正な数式で算出した補償額で人々を納得させようと苦戦するケン、しかし申請期限が近づくなか一向に基金への申請数は伸びない。
ケンは見誤っていた。被害者遺族が不満なのは金額に差がつけられてるからだろうと。だが、彼らはけして金額を多くもらいたいのではなかった。国民の一人として自分の家族の命に差をつけられるのが我慢ならなかったのだ。アメリカ国民として証券マンもウエイトレスも犠牲となったのは同じ尊い命なのだから。ケンは数字にこだわるあまりそんな個々の人たちの思いを理解し寄り添う姿勢を示せていなかった。
偶然にも面談することで深く関わることになる消防士の妻との交流や反対派リーダーのウルフとの対話の中で彼は自分の過ちに気づいてゆく。
計算式にこだわるのではなく、自分に与えられた裁量をもって人々の個別の意見を聞き柔軟な方法で補償額を算出する。個々の人々の境遇や思いに寄り添う姿勢こそが大切だと気付いたのだった。固定された計算式に人を当てはめるのではなく、人に当てはめて計算することを。
それに気づいたケンは被害者遺族の話に耳を傾け誠実に対応してゆく。政府の計算マシーンだった彼は個々の遺族たちの事情をくみ取っていった。
そうした彼の態度が、人々を納得させた。人々は国が我々個々人を見てくれてるのだと、敬意を表してくれたのだと。お金の額ではなく、国が遺族に寄り添ってくれたと判断したからこそ人々は基金に参加する。次々と申請は舞い込み補償事業を定めた法案は無事施行されることとなる。そしてその後申請期限以降の延長も認められ様々な不備も改善されてより広くの被害者遺族の救済につなげられることとなった。
始まりは訴訟封じのお国ファーストであった事業が当事者たちの努力により被害者遺族ファーストへと変わっていったのだった。
本作ではケンのパートナーであるカミールやスタッフたちが被害者遺族と面談を続けるうちに精神的に追い詰められてゆくさまが丁寧に描かれていた。実際、それぞれの被害者遺族の話はドキュメンタリータッチで真に迫っており、とても聞いててつらくなる話ばかりだった。恐らく話自体は被害者遺族から聞いた本当の話なのだろう。本作自体が被害者遺族に寄り添った作品としてよくできていたと思う。
また、冒頭で書いたような多額な賠償金目当ての訴訟が乱発されるアメリカ社会への批判を込めた作品とも思えた。
これだけ多くの被害者遺族に寄り添い、困難な事業を成功させたケンやカミールをはじめとするスタッフたちには敬意を表したい。
ケンは政府の予算マシーンから、遺族の悲しみに寄り添う人に変わった。
2001年の世界同時多発事故のワールドトレードセンターへの
航空機の突入。
それはビルに勤めていた人、出入りしていた人そして救助に当たった
消防士や警官など。
その他ペンタゴンへ突っ込んだ航空機の死者など、
7000人の賠償・・・と言う前代未聞の大プロジェクト。
【9・11補償基金プロジェクト】を丹念に記録した
ドラマ仕立ての映画です。
プロジェクトがスタートしたのは事故から僅か3日目のことでした。
政府から指名されたのは《政府の予算マシーン》を自認する
弁護士ケネス・ファインバーグ(マイケル・キートン)。
私の第一印象も《予算カッター》みたいな人・・・そう思いました。
事実ケン(ケネスの愛称)も事務的に事を進めて、早く遺族に賠償金を
渡す事で頭が一杯だったのですが、1人の遺族と話し合い彼の提言を
真摯に受け止めたことから、まったく違うアプローチに変わるのです。
遺族たちは哀しみを誰かに語り、苦しみを訴えたかったのです。
その事にケンは気づいたのです。
そのアドバイスをくれた人はチャールズ・ウルフさん。
妻のキャサリンがいつもより30分早く出勤したばかりに
事故に遭ったのです。
悔やんでも悔やみきれないのはチャールズさんも同じ。
その事をきっかけにファインバーグさんは、一人ひとりの遺族と面談。
延べ900回に及んだ面会。
ファインバーグさんの姿勢は遺族に寄り添ったものに変わったのです。
映画では賠償請求の最終締め切り日の2003年12月24日にあわせて、
あと何年何ヶ月と何日。
申し込み人数は15%。
あと何ヶ月と何日。
申込者はまだたった30%・・・などと、カウントダウンしていきます。
本当に事務担当の職員一人一人が真面目。
チャールズさんの会合を聴きに行きスパイと間違えられる程でした。
一番大きな決断。
それは年収による賠償金とは別に、遺族への精神的な苦しみに対する
補償金額を、予定していた5万ドルから10万ドルに倍増したのです。
より人間らしい誠意ある補償金事業でした。
(賠償金の平均額は一人2億4000万円ほどでした)
映画の中で印象的な二つのエピソード。
同性婚を夢見るカップルの1人が亡くなりました。
彼らの住むバージニア州は同性婚を認めていないのです。
ファインバーグさんは州議会に掛け合い同性婚を認める法律に変えるまで
尽力するのですが、死んだ彼の両親が頑なにパートナーを認めない。
そんな例もありました。
もう一つの例は、消防士の妻で8歳6歳4歳の男の子の母親カレン。
実は夫のニックにはもう一つの家庭があり、
幼い子供が2人残されたのです。
最後の最後まで賠償金を要らないと拒むカレン。
「相手の女が死ねばいい・・そう思っていた。子供の名前は?」
「ジェナとベル」女の子は3歳と1歳だった。
「念願の娘ね」
ニックは娘を欲しがっていたそうです。
亡くなった7000人の一人一人にドラマがあるのです。
ラストでケンの誠意は97%の被害者に伝わり事業は成功するのです。
ケンを演じたマイケル・キートン。
いつものようにカッと目を見開いてオーラを発することもなく、
地味で外連味のない弁護士ケンが悩みつつ一歩一歩地道に努力する姿を
表現して素晴らしかったです。
ケンに成り切っていました。
この映画の姿勢を誰よりも知り演じていました。
人の命
大惨事で人命が失われた時、国や会社が遺族にできることとは‥‥?
初め国の方針通り、計算方式で一人一人の給料にあった補償金を出すつもりだったケン•ファインバーグ弁護士。
最初から皆平等、一律という意見もある中。
同性愛カップル、消防士の兄と弟、を始め様々な被害者から実態を聞き到底ファインバーグ弁護士の計算方式では解決しきれないと痛感するスタッフたち。
また反対に役員待遇の人へ上限引き上げを持ちかけるリー。
補償基金分配プロジェクトである故、湯水の如く出すこともできない。
また図らずも、同性愛カップル、州によって認められない、ややこしいアメリカ🇺🇸、また亡くなった人の両親から認めない、と言われるもう片方の人。
消防士の亡くなった弟の方、あろうことか、
別家族の存在がわかり、弁護士は隠そうとするが。弟の妻は夫に亡くなられ、裏切られダブルショック。夫の兄は知っていて庇う。だけど、この奥さん偉い❗️夫の子供だからと言い聞かせたんだろな。
被害者支援のチャールズと何度か話し合い被害者の気持ちを聞く中で、ファインバーグ弁護士は自分の間違いに気づく。
一人一人と話し、それぞれの事情を聞き考える中で、必ずしも一律に計算などできるものではない、と。
このただただ被害者並びに遺族の為、そして国の為にと無報酬で考え奔走するファインバーグ弁護士の変容を見ることはできる。
しかし、最初の計算方式を取り入れているわけで、どのように人々に分配したのかは描かれていない。
ただ7000人という人数を見れば、ファインバーグ弁護士相当優秀であり大変な苦悩を乗り越え偉業を成し遂げられた功労者と言えるだろう。
『沈まぬ太陽』(特にTV版)でも、被害者遺族への賠償金申請について何年も担当者が足を運び対応する苦労が描かれていた。本作の同性愛カップルの事例のように夫を亡くした妻の為である筈が、夫の両親が口を挟んで来てややこしくなって妻が精神的に追い込まれる様子も描かれている。
また.現在の日本では遺族が被害者が亡くなった際の真実を知ろうと裁判を起こそうとすれば被害者の生涯賃金を算出していく内容でしかできないらしい。聴覚障害を持つ10歳の女の子だったが、親としては障害有りで減額される事に再度ショックを受けてお金欲しさでなく一人の人間として見て欲しいと願っても誤解されかねない現状に愕然とする様子がニュースで映し出されていた。
そして3.11の大川小学校裁判に於いても、県•教育委員会•学校と闘って補償金を勝ち得たが、親にとっては、子供が帰って来てさえくれればいいのである。
2024/8/6たまたま鑑賞。
遺族の話で、夫を亡くした方、夫はエレベーターが満員だとわかると自身は諦めて他の人に譲り次を待つ、と言った。次は来たのか、妻に電話してユーモアも言うが、呼吸できなくなった、と電話を切る。
二度と電話もかかって来ないし、‥。
なぜこんな人の良い方が犠牲になるのか⁉️
犠牲になった乗務員の姉、体調の悪い同僚とフライトを代わってのこと、と。親切にした方がなぜ⁉️と
また改めて思ってしまった。
解なし問題との向き合い方
9・11同時多発テロの事件性は広く知られているが,その後,遺族に対してどのような対応がとられたのかはあまり知られていない。実際は補償基金を設立し,遺族に対して保証金が支払われたということである。だが,原理的に一人一人の「命」に値段をつけることはできない。便宜的に生涯賃金を概算することはできるが,人間の尊厳をそこへ繰り込むことは困難だからだ。ケネス・ファインバーグ(マイケル・キートン)はその「唯一解のない問い」に取り組んだ実在の弁護士である。補償を計算式で合理的に処理していこうとするファインバーグはヒューマニズム観点から批判を受け,遺族の声に耳を傾け,双方は少しずつ歩み寄っていく。ファインバーグは「大切なのは公平さでなく前へ進むことだ」とし,遺族にプログラムへの参加を求める。白と黒,0と100で物事をすべて割り切っていくことはできない。しかし,さまざまな境遇の遺族と対話し,かけがえのない背景を知っていくなかでファインバーグは自らの合理性を手放していく。「死」を数字でなく,個別的なものであるととらえること。ファインバーグがそのことに気づくことで,遺族のプログラム参加率は90パーセントを超えた。真実はここになかったかもしれないが,本作がテーマにしているのは「命に値段をつけられるか?」という深遠な問いであり,この物語それ自体がひとつの解を提示していることに価値がある。さまざまなファクターが絡み合った複雑な問題にベストな解答はない。そこには無数のベターがあるだけだ。そしてそれらはいずれも最後に「人間」という壁にぶちあたる。「人間」は数学的解法が通用しないひとつの「問い」である。それを理解したファインバーグはこの後もいくつかの災害補償プログラムに関わっている。
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