「青春ファンタジーの皮をかぶった「メンタルヘルス・アニメ」。今度は咲太が救われる番!」青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
青春ファンタジーの皮をかぶった「メンタルヘルス・アニメ」。今度は咲太が救われる番!
『青ブタ』シリーズは、TVシリーズおよび映画版2本はリアタイ視聴済み&小説未読。
春頃に公開された『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』の感想で、Keyゲーフォロワーとしての『青ブタ』シリーズの立ち位置について、僕なりの思うところはもうまとめたので、ここでは繰り返さない。
Keyゲーとの対比でいうと、本作『ランドセルガール』は、『CLANNAD』AFTER STORYあたりに相当する物語だといっていい。
『Kanon』の相沢祐一、『AIR』の国崎往人とつづくKeyゲー主人公の系譜のなかで、『CLANNAD』の岡崎朋也は初めて、「周囲の少女たちを救う」だけでなく、「自らの家族の問題」に直面した主人公だった(彼の場合は「父親」との関係性に大きな問題を抱えていたのだが)。
『青ブタ』の咲太もまた、これまでの「ツッコミ」担当、「救済」担当の「大人びた聖人キャラ」から一歩踏み出して、自らの苦しみと家族の問題に正面から立ち向かうことになる。
そのきっかけとなるのは、自らの身に発症してしまった「思春期症候群」だった……。
「周りから認識されなくなる」思春期症候群というのは、第一作『青春ブタ野郎はバニーガールの夢を見ない』で麻衣のかかった症状と同じで、その意味でふたつの作品は、「咲太が麻衣を救う物語」と「麻衣が咲太を救う物語」という形で、ほぼ裏表の構造になっている。
ただ、今回の「思春期症候群」には、ちょっとわかりづらいところもある。
人に観られるのが仕事だった麻衣にとって、まわりに空気扱いされるのがショックで、結果として発症に至った経緯はよくわかる。だが、咲太の場合はただの一般ピープルなので、お母さんとの関係性の希薄さや無意識下での拒絶が、咲太自身が「全世界」から認識されなくなる現象へとつながる流れが、どうも今一つ釈然としない。
とくに、麻衣さん「だけ」が見つけてくれたって特別感を強調するためなのだろうが、当たり前のように妹の花楓からも咲太を見つけられなくなるのは、なんとなくしっくりこない。彼女の世界にはこの間まで「咲太しかいなかった」というのに。さすがに薄情な気がしてしまうわけだ。
ただ、問題を抱えているのは「咲太のほう」であって、必ずしも花楓や他の女の子たちが薄情なわけではないことは、改めて確認しておきたい。
「思春期症候群」というのは、実は相手の問題ではなく、本人側の問題なのであって、思春期特有の「思い込み」が現実まで侵蝕してしまうことで発生する事案である。
だから、花楓が咲太を見つけられなくなったのは、「花楓の視界から咲太が見えなくなった」のではなく、本当は「お母さんと仲直りした花楓が自分を必要としなくなるのではないか」という「咲太の恐怖」が招いた現象なのだと考えることができる。
「お母さんに認識されない恐怖」以上に重要なのは、
「自分の人生からお母さんをオミットしてしまった」ことへの悔恨だ。
そのことが「自分はこの世界でやっていくに値する人間なのか」という無意識の「自罰」感情となって、咲太を社会から切り離していく。
先ほども述べたとおり、「思春期症候群」を引き起こしているのは社会ではなく、咲太本人だ。咲太のなかにある、社会から排除される恐怖と、社会に居て申しわけないくらいの自罰感情が、「認識阻害」という現象を引き起こしているのだ。
そのなかで比較的さらっと、麻衣さん「だけ」が咲太を見つけてくれるのは、このロジックで言えば、「実のところ咲太は麻衣さんだけには恐怖を感じていないし、申し訳なさから相手をオミットする感情も抱いていない、そのくらい無条件で信頼している」ことの「裏返し」でもある。
もう一点わかりにくいのは、なぜ思春期症候群を発症してにっちもさっちもいかなくなった咲太を、「別の世界線」に導いて解決のいとぐちを与えてくれるのが、「ランドセルガールの麻衣さん」なのかという点だ。
咲太の抱えている問題は、あくまで「歪んだ家族の問題」である。
母親のネグレクト。妹の依存。父親の頼りなさ。
咲太はひとり「大人」になって、家族を支えねばならなかった。
のしかかる責任と極度のストレス。
で、結果として(咲太の孤軍奮闘のおかげで)花楓はなんとか立ち直ることができた。
「花楓が病んで不登校」という事実が受け入れられずに一緒に病んでいた母親は、「病みの理由」が解決したので、急速に快方に向かう(現金なものだ)。
早速「母さんが会いたいと言ってる」と伝えに来る「誰にでも優しい」父親。
すべてが自分の弱さのせいでこうなったと思っている花楓は、気丈にそれに乗る。
堰を切ったように「正常化」に向かう家族。
常識人で、ツッコミ担当で、いつも大人の立派な咲太は思う。
「よかったよかった。僕も母さんとうまくやっていかなきゃ」
だが、彼の「ぐう聖」としてのペルソナに抑圧されてきたシャドーセルフ、もうひとりの咲太は、それがどうしても認められない。
「おいおいちょっと待てよ。誰がここまで花楓を支えてきたと思ってるんだ? ネグレクトした母親赦して、母親べったりの父親まで切り離して、何年も俺がひとりで頑張ってきたんじゃないか。それを、ようやく上手くいきだしたら、取り上げるかのように花楓持ってっちゃうのか? こんだけ頑張ってきたのに、母さんは花楓、花楓で俺なんか眼にも入ってないじゃないか。あんまりだよ、こんなの」
この「おいおいちょっと待てよ」の感覚――「家族再興の幸せな物語」に対する、咲太の抑圧された自我の抱いた強烈な違和感――それが身体レベルで反乱を起こし、ひいては「世界との関係性」にまで暴走していった結果、発症したのが「思春期症候群」だということだ。
ただ、この一連の発症の経緯には、麻衣さんは絡んでいないし、まして「子供の麻衣さん」も何一つ関係していない。
だから、なぜ「救世主」のごとく導き手としてランドセルガールが現れるのかが、ちょっと受け止めにくいわけだ。
僕もすべてが納得できているわけでもないのだが、ひとつ考えられることとして、小学生の麻衣さんは「壊れる前の世界の象徴」なのかもしれない。
社会からの疎外感にさいなまれて、思春期症候群を発症する「前」の麻衣。まだ子役としてぶいぶい言わせていたころの、無垢で素直で、全能感に満ちていた頃の麻衣。
彼女が導いてくれるのは、「花楓が壊れなかった世界」だ。
いじめの問題が発生してまだ取り返しがつく時期に、咲太が学校に乗り込んで放送室を占拠してひと騒動起こして、騎士(ナイト)さながら花楓を救うことができた世界線。
花楓は壊れず、母親も壊れなかった「幸せな」世界線。
咲太(と内面のシャドーセルフ)は、そのかりそめの幸せをひとしきり享受することで、なんとか人心地ついて、現実世界で起きている事象を冷静に、客観的にとらえなおす余裕を手に入れる。穏やかで理想的な「夢」のなかで、今自分が置かれている状況を再分析し、何が問題点であり克服すべきポイントなのかを再確認する猶予を得た、ということだ。
その意味で、咲太の体験した「もう一つの世界」は、『Re:ゼロ』の試練でスバルが体験した「家族の夢」に近いものだったのかもしれない。
それと、今回咲太が抱えている問題が完全に「家族の内々の問題」であるがゆえに、その「外」にいる存在、あるいは「これから家族になる」存在である「麻衣さん」しか、救世主や水先案内人にはなれなかったということもあるだろう。
でも、現実の麻衣さんは、咲太の物語においてちゃんと出番があるし、むしろ欠くべからざる存在だ。結局のところ、咲太の抱えている問題というのは「せっかく頑張ったのに親に認めてもらえない」という『エデンの東』のキャル(ジェームズ・ディーン)に類似した問題なのであって、その頑張りを認めてくれる第三者、頭をよしよししてくれる理解者、頑張ったねと無条件に言ってくれる相手が必要で、それは「大きくなった麻衣さん」にしか務まらない役目だ。
で、そこで登場するのが、ランドセルガール、というわけだ。
麻衣さんであって、麻衣さんでない存在。
でも、正体としては麻衣さんみたいなものだから、身をゆだねても安心な存在。
まだ無垢であるがゆえに、幸せな世界へのカギを持っていそうな存在。
「大人」にならざるを得なかった咲太を「子供に戻らせてくれる」存在。
もう一度強調しておくと、思春期症候群というのは、世界に問題があるのではない。本人に問題があって、それがあふれ出して世界に干渉しているのだ。
ここで現れた「子供の麻衣さん」は、世界が咲太を救うために遣わした使者ではない。
「咲太自身の内面が望んで呼び寄せた、無意識レベルの願望の実現」なのだ。
……といった感じで、僕は「ランドセルガール」については自分を納得させました(笑)。
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僕個人は、親との深刻な問題を抱えたことはないうえ、一人っ子だったので、今回の物語にのめりこめるほどの土台を共有していないし、きっとこういうことになったら大変だろうなと想像をふくらませることしかできないのだが、兄妹で似たような経験があるとか、母親との関係にわだかまりがあるような人にとっては、ものすごくぐっとくる映画だったのではないだろうか。
『青ブタ』シリーズのなかでも、ある種「Keyゲー」の再現に近かったここまでの5人のヒロインの物語とちがって、花楓と咲太の話は「家族」の問題を克服していく、いわゆる「ホームドラマ」であり、かなり毛色が違う。
「思春期症候群」の扱いも、ファンタジー色やセカイ系の要素以上に、心理学的な色彩が強く出ていて、いわば「メンタル系疾患の言い換え」に近いものになっている。
要するに、ストレスや社会不安によって「心の均衡を喪ってそれが身体に出る」というありきたりなメンタルの病を、「思春期症候群」と呼称することでラノベ的、アニメ的に「受容可能なファンタジー的ギミック」に落とし込んでいるということだ。
その意味では、TVシリーズや『ゆめみる少女』以上に、今回の2作(前後編で描かれた妹と兄の物語)には「セラピー小説/アニメ」の側面が強いように思われる。
積み重なる家庭内の問題。自分では気づかないうちにたまってゆくストレス。
それがついに身体に出てしまった(今回咲太にでているのはほぼ「帯状疱疹」である)。
しかも、どんどん社会と自分の「乖離」が広がってゆく感覚がある。
あれ、どうしよう? 俺、メンヘラってるぞ?
さあどうする? まずは、なぜこんなことになったか分析してみるしかないか。
内なる自分と向き合って、なにが不満で体調を崩すくらいに病んでしまったのかセルフチェックしてみないと次に進めない……。
今回の『青ブタ』で、「思春期症候群」を口実にしつつ追求しているのは、まさにこういったメンタルヘルスの基本的思考である。
鴨志田一は、ラノベの形態をとりながらも、若い読者に「自分との向き合い方」「家族との向き合い方」「思うようにいかない心と身体のバランスのとり方」を語りかけているのだ。
ちょうど世相が荒れ、コロナを経て対人スキルも衰え、若者たちがメンタルをやられ、みんながなんとなく「疲れ」「うつっぽく」「閉塞感にさいなまれている」ような2023年に、この2本の映画がそこそこのヒットを飛ばしているという事実は、決して無関係ではないと思う。
次回からは、大学生編とのこと。
考えてみると、ラノベの主人公が大学生になってもなお話が続くというのも珍しければ、ヒロインと出だしでくっついたのに話がいっかな終わらないというのも珍しい。
それだけ「思春期症候群」といいながら、もはや「思春期性」や「ラブコメ」の枠におさまらない、より深い次元の内容を追求するシリーズになってきているということなのかな。
おおいに次回作(映画? TV?)にも期待したい。