「Keyゲーの遺伝子を継承する「少女救済」の物語、妹篇。受験に立ち向かうポンコツニート妹!」青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
Keyゲーの遺伝子を継承する「少女救済」の物語、妹篇。受験に立ち向かうポンコツニート妹!
うーん。70分の映画を観て、いざ実際に2000円も取られてみると、
意外に精神的ダメージを受けるもんだな(笑)。
たかが100円の違いとはいえ、
桁がくりあがると、なんだかすげえ取られた気分。
というわけで、『青ブタ』映画第二弾。行ってきました。
アニメはテレビ版、前作の劇場版ともリアルタイムで視聴済み。
原作は未読。ただし、鴨志田一作品でいうと『さくら荘のペットな彼女』は全巻持っていたはず(アニメはくっだらないケチがついて本当に可哀想だった)。あと彼がシリーズ構成&全話脚本を務めた『Just Because』も全話視聴済み(隠れた佳品だと思う)。
最初、どんな設定の物語で前作までで何が起きていたか、ほとんど忘れ去っていて我ながら焦ったが、観ているうちに何となく内容を思い出せてよかった。
そういや『青ブタ』は、「思春期症候群」というSF的なガジェットをフックに用いつつ、やっていることはほぼ「Keyゲー」そのまんまみたいな話だったね。
(「Keyゲー」とは、「Key」という美少女ゲームブランドが製作した一連のゲームの総称。美少女攻略の過程で、エロ以上に「泣かせる」要素が前面に押し出された幻想的な内容が特徴で、一般に「泣きゲー」と称される。1999年の『Kanon』と2000年の『AIR』が代表作。メインライターとして久弥直樹、麻枝准など)
しかも、ひとつのプレイだとヒロイン一人しか救えないシビアな世界観のKeyゲーと違って、咲太は毎回必ずヒロインを救済してみせる。まさにぐう聖――進化形の国崎である。
僕は、30歳にもなって遅ればせながら『AIR』を24時間ぶっ続けでプレイして、ティッシュペーパーひと箱を空けるくらい号泣し、過呼吸に陥ったあげく、泣きすぎて頭に血が上り白眼に出血を起こしたくらいの正真正銘の後発型キモオタであり、その後も自覚的に「鍵っ子おじさん」として清く正しくつつましく生きてきたつもりだ。
といっても『Kanon』『AIR』『CLANNAD』以外はあまり認めてない狭量なオタクではあるのだが、『ひぐらしのなく頃に』『化物語』以降で、これだけ「Key」的な精神をまっすぐに継承し、少女救済のヒロイズムと思春期特有の心の揺れを丹念に描いてみせたKeyフォロアーは、鴨志田一をおいて他にいないと思っている。
本家のKeyは凋落して久しいが、その遺伝子は『青ブタ』のなかに最良の形で引き継がれている。
本作の場合、タイムリープや認識阻害、ドッペルゲンガー、人格転移といった、SF作品の定番ネタを、「青春」「思春期」という甘酸っぱい言葉で無理やりいっしょくたにまとめてしまっているところに特徴がある。
なんとなく「すべては思春期のせい」にしておけば、どんなSF的ガジェットも力業で説明がついちゃうみたいな(笑)。
逆にいうと、世の中の条理を歪ませるほどの心の揺れと暴走は、思春期特有の「世界=自己」という思い込みからしか生まれないということか。
思春期/青春の悩みが怪現象として「外在化」することで、本作のヒーローである咲太が事件の解決を通じて少女たちを「助ける」ことができる、という構図だ。
じつは西尾維新の『化物語』は、まさに同じ「思春期無双」を「怪異」&「伝承」と取り合わせておこなっているライトノベルであり、鴨志田一がやっていることは、その「ジュヴナイルSF」版だとも言える(竜騎士07の『ひぐらしの鳴く頃に』は、そのホラー&ミステリ版)。
この「Keyゲー」的な「語り」を継承した三作品が、ジャンルはそれぞれ異なりつつも「軽妙な男女間の軽口の応酬」「深刻な事件の様相と対比されるお笑いの要素」「運命に翻弄され苦しみつづける少女の救済と回復がテーマ」「疑心暗鬼と精神的外傷で傷ついた心の癒しによって異常現象を調伏する」といった特徴をともに兼ね備えているのは興味深い。
ちなみに、Keyゲーフォロアーでもう一人忘れてはならないのが新海誠だが(出自が『ef』などで知られる泣きゲーブランド『minori』のオープニング職人)、彼の場合は「少女救済」というより、むしろ「少女が世界を救済する」宮崎駿的な方向に創作性の舵を切っているといえる。
なんにせよ『Key』というブランドは、TYPE-MOONの奈須きのこや、思想家の東浩紀などを付け加えるまでもなく、ミレニアムに青春を過ごした世代に絶大なるインパクトを与えた。
『青ブタ』シリーズは、その影響下で生まれた最もすぐれた結実であるといえる。
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今回の『おでかけシスター』は、今までのシリーズで展開された「大仕掛け」なSF的ギミックと比べると、派手な怪現象の起きない、比較的地味なお話だ。
実質、トラウマによって花楓ちゃんの身体に痣が広がっていくくらいしかSF的事象は起きず、あとはひたすら花楓ちゃんの「受験」と、周囲の協力体制を追っていく。
『涼宮ハルヒの憂鬱』を彷彿させるような、複雑な設定とSF的ルールがはりめぐらされていた劇場版『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』と比べると、ずいぶんとシンプルなストーリーだ。
ただ、壊れもののように繊細で、いくら頑張っていても一瞬で崩れ去ってしまうようなもろさを抱えた花楓ちゃんというキャラクターはしっかり描けているし、彼女を周辺から見守る優しい仲間たちの様子もバランスよく配されている。
みんなの優しさには、花楓ちゃんが「もろい」がゆえの「そう振る舞うしかない」部分もあって、丁々発止の軽口をたたき合う咲太とヒロインズの「気安い関係性」とは対照的だ。
花楓ちゃんは圧倒的な「もろさ」を抱えるために、いざ「頑張ろう」とすれば回りに頼るしかすべがないし、回りはストレスですぐ死ぬリスザルでも扱うかのように、花楓に対してはまぜっかえすことなくつねに真剣かつ真摯に向き合う。
そんな周囲の絶対的な優しさは、「後から来た存在」である花楓ちゃんのアイデンティティを逆に脅かし、彼女は消えた「かえで」の幻像に苛まれることになる。
自分が「偽物」のヒロインであることを知って、アイデンティティ・クライシスに苦しめられるヒロインが出てくる漫画が大昔にあったなあ、と脳内を検索したら高田裕三の『3×3EYES』の化蛇(ホウアシヲ)がそれだった(あの展開は当時衝撃的だった)。
ただし本作の場合は、あくまで「かえで」と「花楓」は同じ少女のなかで生じた補完的な人格であり、完全な別人ではない。あくまで、ボロボロになって動けなくなった「花楓」が、代替的に生み出した「生き抜くための」人格が「かえで」だったのだろうと思う。だからこそ「かえで」のキャラクターは喪われても、ストレスで痣が広がる体質という外形的特徴(呪い)は「花楓」に持ち越されるわけだ。
そんな花楓の苦しみや「かえで」への申し訳ない気持ち、劣等感、「かえで」の夢をかなえなければという悲愴な決意を、最初(おそらく図星をつかれて)動揺しながらもしっかりと受け止めてみせる咲太は、やはりぐう聖だとしか言いようがない。
アニメーションとしては、省エネ作画や変な横移動も散見されたとはいえ、総じて丁寧に作画されていたと思う。
とくに「手」の芝居がしっかり演出されていることには感心した。
表情芝居も、各キャラクターの心情がしっかり表現されていたと思う。
それとレイアウトが巧みで、山田尚子監督ほどではないにせよ、とてもよく考えられていた。
ただ内容的には、ひっかかる部分もないではない。
いちばん気になるのは、花楓ちゃんが本気になるタイミングだ。
1月も半ばになって、学校決めるとかこれから勉強頑張るとか言われてもなあ(笑)。
申し訳ないけど、受験なめてんのかとしか思えない。
まあ、自分は中高一貫だったので高校受験はしていないし、公立受験の空気感も知らないんで偉そうなことは言えないんだけど、小学生のときの塾でも、高校生のときのクラスでも、夏休み明けにはだいたいどの辺受けるかは周囲もみんな決めてたものだし、花楓ちゃんがこのタイミングで受験校の話をしてるのは、正直すげえ違和感がある。
好意的にとらえれば、花楓ちゃんはそのくらい「高校受験」ってものにたいして、あやふやな知識と、漠然とした気持ちと、「日記」をもとにした使命感としか持ち合わせていなかったという表現なんだろうとは思うが。
(そういや鴨志田一が全脚本を担当したTVアニメ『Just Because』でも、好きな相手の受ける大学に隠密裏に行こうと、お互い受験志望校を直前変更したあげく『聖者の贈り物』みたいなことになりかけるエピソードが終盤のヤマだったし、こういう「学校の受験」で行き違いが生じるような話がもともと好きなんだろう。)
花楓ちゃんの「事後」の振るまいの描き方も、少し気になった。
あれだけ「兄と同じ学校を受ける」というモチベーションを掲げて、周囲の人間を「家庭教師」として巻き込んで散々「奉仕」させておいて、受験に落ちた(と思った)あとに花楓ちゃんが「でもみんないろいろありがとう」と、助けてくれた人たちに謝意を伝えるような描写を入れてこないというのも、どうなんだろう。
花楓ちゃんって、そういう娘だったっけ?
「行く学校は自分で決める」っていうのは、もちろん素晴らしい決意表明ではあるんだが、その前に「せっかくあんなにいろいろしてもらったのにごめんなさい」が先なんじゃないだろうか。
あと、いろいろと著者が生真面目に調べた結果が誠実に反映されているということなんだろうけど、全体として通信制高校の盲目的な「宣伝ビデオ」みたいになっちゃってるのは、ちょっといただけないなあ、と。
たしかに精神的に弱っている子や、どうしても回りになじめない子の行く学校の選択肢として、通信制高校やフリースクールがとても重要な役割をになっている事実は十分理解しているつもりだが、なんとなく、描き方が表面的なわりに妙に押し付けがましく、観ていて「そんないいところのわけねーだろ?」「マジでここが、旧中学の制服見ただけで発作起こして動けなくなるような重度のコミュ障の救済の場になりえるのか?」「この流れで定時制や通信制の『マイナス面』に触れないのはかなりズルいんじゃないの?」といった諸々の負の感情に襲われてしまった。
だいたい、たしか花楓ちゃんが学校行けなくなったのって、ネットいじめが原因じゃなかったっけ? 通信制でチャットでやりとりとかしてたら、むしろフラッシュバックしそうな気がするんだけど、その辺どうなんだろう。
一方、感心した点でいうと、とにかく久保ユリカの声演技が素晴らしかった。
ラブライブ!声優としては、もっとも成長した一人ではないか。
(僕は『少女終末旅行』のユーリで、久保ユリカのことをガチで天才だと思った。)
本作では、アニメ的な「萌え声」でしゃべる「かえで」ちゃんと、少し声に震えを秘めながら、より自然な声でしゃべる「花楓」ちゃんを完全に演じ分けている。
「かえで」は危機のさなかに作られた「生き抜くための人格」だからこそ、ああいった「いかにも作られた」ラノベ的しゃべり口で、記号化されたあざとい可愛さを振りまき、パンダの着ぐるみを着て、仔犬や仔猫のように周囲の愛情を惹きつけようとする。
その後、「花楓」に戻ったことで、「かえで」の持っていた能動的な「可愛がられる力」は大いに減衰したものの、代わりに「こちらが一生懸命に奉仕しないと死んじゃいそうで、心配でついかまってやりたくなるような」弱々しさを獲得したとも言える。
その辺の機微を、声一本で表現してみせた久保ユリカは、さすがの一言。
後半で重要な役割を演じることになるスイートバレットのリーダー、広川卯月も、キャラデザといい声(CV 雨宮天)といい、ほぼ完璧な仕上がりだった。
お母さんも含めて、ちょっと通信制高校の回し者感はないでもなかったが(笑)、ふたりの車内でのやりとりはとても自然で、リアルなリズム感があった。
卯月がヒロインを務める話もあるはずなので、いつの日かそちらも映画化されると嬉しい。
秋公開の『ランドセルガール』も、もちろん楽しみだ。