「迷走する公式と私たち」ガールズ&パンツァー 最終章 第4話 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
迷走する公式と私たち
地上波、そして劇場版を大満足に終えて
「ガルパンはいいぞ」
を合い言葉をした私たち。
そこからすでに8年が経っている。
最終章の第一話からは、この4作目でもう6年。
直近で試合途中の「続く」をした最終章第三話からは2年半が経ち、
スケジュール感はもちろん内容的にも
「どういう付き合い方をすればいいのだろう?」
そういう疑義が深まってしまう最終章第4話だった。
地上波のストレートな「みほの、戦車道を通しての再生と自立の物語」
劇場版の「みほを中心に縁ができた者たちの、お祭り感あるグランド共闘」
は、どちらも高く評価している。
キャラデザの第一印象で損をしているのではないかというほど、
「(ややお馬鹿な)熱血スポ根・戦車ファンタジー」としてハマり度がある。
各高校にスタイルがあり、個性的なリーダーと副官やエースがおり、群雄割拠を弱小校がトーナメントで勝ち抜いていくのは、スラムダンクで見たような爽快感のある王道だ。
地上波12話でのストーリー展開とキャラクター立ての量では、理論値上での限界に迫る成果を達成していると感じる。
劇場版も、それら全キャラを登場させ、見せ場を作り、賑やかしの新キャラを出し、ただのやられ役でない強者感のある強敵を出し…とこれまたすごい。後年に出るコードギアス劇場版と同じノルマを課せられていたわけだが、ギアス劇場版がうまくやりきれなかった内容をガルパン劇場版はほぼ完璧に達成しており、ギアス劇場版を見た時は「すべてがあと2,3歩、ガルパン劇場版がやりきった領域に届いていない」というもどかしさを感じた。商品性と作品性の両立度が、ガルパン劇場版は偉業レベルで凄まじいのである。地上派からのお祭り劇場版としての出来では、私はガルパンを超えるものを知らない。
が、その2年後に出たOVA最終章(の逐一劇場公開)は……
「なんかちがう」「蛇足感が強い」という声も1話目からあり、
1話から6年目のこの4話をもって
「どういう風に付き合って欲しいのだろう?」
「公式内で、舵取りの迷いやブレが発生しているのではないか」
「どういう風に付き合えばいいのだろう?」
と、ますますハテナが増える内容となってしまった。
今までは必ず試合途中で「続く」だったが、この4話でついにそうでなくなったのは救い。これをきっかけとして、今までから4話までの総評的な感想を書く。
まず最終章は、前提となる下地として、物語の動機の弱さが上げられる。
地上波も劇場版も廃校を阻止するために戦車道を頑張っていたわけだが、最終章は元生徒会書記の桃が「学力ではどこの大学にも受からないため、AO入試の実績を作るしかない。そのために桃を名ばかりの隊長にして無限軌道杯に優勝しよう」という、仲間への優しさというよりも甘やかし、大学側への自己中心的な不実、そして対戦相手たちへの舐めプという、問題アリアリな動機だけで戦うことになる。地上波では弱小校だと舐めてきた相手を「一生懸命」でジャイアントキリングしてきた大洗・みほたちだけに、「悪気すら見せず舐めプをして(当然)苦戦する」という物語の運びは、ガルパンおじさんとして見たくなかった。みほが地上波の最後で確信し、まほからも新たな西住流として認められた「仲間を見捨てない、みほの戦車道」の、公式側の解釈が実はこんなにも浅かったというのは辛い。「仲間を見捨てないことが、楽しいし気持ちいし、“結果としても強い”」という信念を得たのだと私のようなガルパンおじさんは思っていたのだが、舐めプを当然に取り入れたことで“結果としても強い”の部分は無かったらしい。そりゃ遡って考えて家元も怒るし認めないだろうと、そっちの納得感が出てしまった。桃のエピソードを強引に成立させたために、みほのキャラ下げがすごいのだ。
次の前提として、謎の世代交代へのこだわりによる、キャラのぼやけがある。
劇場版からわずかに時が経って秋冬となり、キャラクターたちの学年は変わらないものの生徒会3役や風紀委員が代替わりしている。しかし、本作のキャラクター立ては登場人物の多さからあえてインスタントに仕上げられており、役職がそのままアイデンティティとなっていたため、会長を引退した会長など「もはや何と呼べばいいかわからないキャラ」が出てしまっている。劇場版まで視聴者のキャラクター認識を固めてきただけに、この改変は効果的とは思えず、不必要な改悪が起きたように思える。生徒会三役はあんこうチームが就任したようだが、「生徒会役員になったから」という新たなキャラ性は見られない。華が会長、ゆかりが副会長と言われても、今なお「???」となる。沙織が書記はなんとなくわかるのだが。風紀委員もそど子は引退したようだが、代役的な風紀委員が立つわけでもなく、分身二人が新たな風紀委員像を提示するわけでもなく、元会長や元副会長と同等にそど子が「元・風紀委員」と何だか呼びにくくなっただけだ。かなりリスクを負う改変であるため効果とセットであるべきだが、効果部分が感じられないため「どうしてか、不要な改悪が入った」ぐらいにしか思えないのである。また、「世代交代へのこだわり」はこの4話でより一段深刻な問題を発生させてしまっている。それは後述する。
こういう「なんだかガルパンは、俺たちが思っていたガルパンとは違うのかもしれない…?」という漠然とした不安に加えて、試合途中の「つづく」で次は約2年前後ということを繰り返しているのが、全エンタメを見渡しても複雑怪奇なガルパン最終章という現象である。
とはいえ今さら降りるのもなんだか気持ち悪く、見ずして語るのはよくないし、まあきっと最終的には劇場版のような「ガルパンはいいぞ」に導いてくれるのだろう、導いてくれ頼む……という希望に縋って観に行くことの繰り返し。祈り。2年毎の祈祷集会。それがガルパン最終章なのだ。
で、今回私が観に行く前の心持ちとしては
「3話末で、まさかのあんこうチームが被撃破。みほを失った大洗に、作中(かなり贔屓を感じる)強キャラ感ばりばりの継続高校。ああ、ここで桃(これも地上波ラストあたりから贔屓を感じる)が成長かつ覚醒して、誤魔化しではない、AO入試の実績に書ける隊長の風格を得るんだろうなぁ…それならついにスカッとするなぁ…4/6でやるにはちょっと遅かった気もするけど…」というもの。他のガルパンおじさん(おねえさん)も、そう思っていた人はちらほらいたのではないだろうか。
だが実際、この4話は
・キービジュアルとなっているみほやあんこうの出番は、コメント業ぐらいでほぼ無い
・桃は無様にパニクってお荷物化するだけで、同車の元会長が代わりに指揮をとる
・その会長&桃も早々に撃破され、一年生チームが臨時隊長を引き継ぐ
・一年生チームは、みほのように的確に状況を判断し、うまく指揮が取れる
・(みほがいないでも継続に勝ててしまう。これはみほの薫陶という、一応みほ上げでもある)
・(ただ桃は、みほどころか一年生にも及ばない資質しかないことが間接的に露呈する)
というもの。
桃に皆から応援される正当性が出る回かと思ったら、全然そうではなかったのである。フォーカスはさらにずれて、急に評価を上げたのは1年生チーム。もしこのまま大洗が優勝し、桃がその隊長であったという有名無実な実績をもとに大学AO入試に受かるというのなら、1年生たちは全員すぐにでも受かってしまいそうだ。そんなものでいいのだろうか、戦車道って。桃は実家が貧しく、兄弟が多くて騒がしいから勉強もできなかったというリリーフが最終章2話で描かれているが、この体たらくでは、だったら大学には行かないでもいいのでは…即働いても人生は自分次第で輝くぞ…という想いが強い。大卒にあらずんば人間にあらず、みたいな、作り手側が特徴的とすら思っていなさそうなガルパン界の常識は、正直かなり時代感とのズレを感じる。高卒で働きながらガルパンを楽しんだ人だって全然いるだろう。
また、4話では「世代交代」を意識したセリフと演出が非常に多い。
とはいえこれは「ガルパン最終章」であり、誰にとっての最終章なのかと言えば、まだ2年生であるみほたちではなく「私たち、ガルパン視聴者にとっての最終章」なのである。みほたちは絶対来年も戦車道をするので。
そこで各校の次期隊長育成(一年生、ヨーコ、エリカ、オレンジペコら)に言及されてもな…という具合。実は視聴者ではなく桃にとっての最終章であり、世代交代後もガルパンはまだまだ続きますよ~…というオチはありそうだが、この上映ペースではその企画がそもそも…である。また、仮に続いたところで3年生みほvs同級生~下級生のそれらとなるわけだが、その師匠格と張り合って勝利しているみほの敵として格が釣り合わない。なので、やはりこの「世代交代したがり傾向」は本当に効果的に機能するのか? と4話を見てますます不安になってしまった。4話後半の聖グロvs黒森峰も、ダージリンvsエリカよりダージリンvsまほの方が「どちらが勝つかわからない(メタ的には聖グロが勝つとはわかるけど)」を、教条的にはとりあえず発生させられる。ダージリンと次期隊長訓練中のエリカでは、ダージリンが勝つ以外に納得がないのが見る前からわかってしまうのだ。世代交代というお題目に引っ張られたための、威力減である。かと思えば、最後に「みほのライバル」が登場し、え、5話と6話はみほ中心にもどる…? ううむ、どういうつもりなのだろう? という困惑具合。そのキャラクターが聖グロにいるなら、オレンジペコの次期隊長内定も普通に考えて矛盾するので、やはり困惑。
さらに、4話は今までの戦車道対決なら白旗が揚がっていそうな時に、全然上がらない。いい意味で頭の緩い戦車ファンタジー世界に突っ込んでいるのではなく、今まで作品が提示してきた戦車道のルール感が、演出のためにご都合的に曲げられたなと思わされるシーンが多かった。上下ひっくり返っても即白旗が上がらなくなったのが特に。敵の戦術としても、出口を塞がなかったり、トンネル生き埋めはしないが雪崩は起こすなど、見れば見るほど戦車道のルールがわからなくなっていく展開が散見された。ストリクトな解説は求めないが、体感として逆であってほしかった。
…というわけで、レビュータイトルが私の感想となる。
「ガルパンはいいぞ」は何がいいぞと言われていたのか、その因数分解を公式が上手くできなかったものが、広げた風呂敷の手前、浮上することも沈みきることもできずに厳しいことになっている…ファンとしてもう~んというのが、明確になったのがこの4話だと感じる。
いいぞ、いいぞ、ばかり言って具体的にどこの何々がいいぞを言わなかった我々ガルパンおじさん(おねえさん)たちにも責任の一端はあるかもしれない。言ってはいたがネタっぽいキャラの名をあげていじるだけで、キャラものに惹かれていると勘違いさせてしまったのかもしれない。もしくはミリタリーの再現性?とか。私はミリタリーに全然興味がないので、それはわからないが。(ミリタリーに全然興味が無い人が、興味がないままで、地上波~劇場版のガルパンは「最高だ!」と楽しめたのである)
「ガルパンはいいぞ」はアホな世界観でも一本筋の通った王道で泣けるからよかったのであって(地上波のみほvsまほ、劇場版のみほまほvsアリスは文句なしにかっこよくて熱い)、大勢いるキャラのキャラパートを望んでいたわけや、珍妙奇天烈戦車ムービーを主として望んでいたわけではない。ネットに表出しやすいのは、言葉の媒介としてキャラクター名や戦車マニアの蘊蓄語りだったかもしれないが…
なるべく早く、穏やかな陰りの中であってもいいので、完結してくれることを望む。
このシリーズが「たびたび話題になる、“ガルパン最新作”であり続けること」が、ファン内外にとって少し苦しいのだ。アプリ版だけは、家元のコスプレショーの方が有名だけど。
地上波と劇場版と本当のアンチョビ戦を人に勧めて、最終章はその亜流作品として勧められるようになることが、ファンやIPとしても幸せだと思う。