対峙のレビュー・感想・評価
全20件を表示
罪と赦し
久々に見応えのある映画でした。
私は良くも悪くもある一定のラインを超えたらレビューを書くことにしています。
学校内で起きた銃乱射事件の被害者と加害者家族による会話劇です。
事件から6年もの長い月日が経ち、息子を殺された両親はひたすら苦しみもがき、セラピストに通い続けた。爆弾を作り銃を乱射した息子の両親は常に酷い悪意に晒され、孤立を余儀なくされた。その間にも互いのケアマネのような人物を仲介に顔を合わせており、この映画の中で会うのは初めてではない。
当時の回想や事件の当事者である息子達の映像は一切出てきません。
ともすれば、ここで映すか?となるシーンでさえ出てこない。それが良いんです。
この4人だけの会話を聴き、我々は自らの脳でそこに映されない映像を想像し、補填しなければならない。
つまり深い想像力で彼らに寄り添う共感力が必須になるので、気が抜けません。似た構成だと『ウーマン・トーキング』もそうでした。(こちらも凄い作品です)
セラピストに通い続け、ようやく《対峙》できるようになった被害者である両親。何と言ってもその表情が、全てを語っています。
私が思うに、この映画の最も凄い見所はこの4人の《表情》です。当事者?と思える程の表情の作り方で、被害者の母は怒りで般若のような顔になりそうな所を理性で必死に留めている、父はそんな妻を宥める為に一見冷静ですが、本音は加害者家族に罰を受けろ!と荒々しく言う自分を必死で押さえ込んでいる。
被害者の父は、常に理性を持って応対し冷静だが、母がまた悲しみと謝罪で顔が溶けそうな印象。
会話は続き、この映画の核心に触れる。
何故私の息子は殺されなければならなかったの?
あなたの息子は何故あんな事件を起こしたの?
双方の母は自分の息子の記憶を語る。ポツリポツリと紡ぐ言葉には後悔、悲しみ、怒り、戸惑いが凝縮されている。
そして息子を愛する気持ちは互いに同じ。
それが加害者であろうと…
加害者両親も《被害者》であり、事件を起こした息子もある意味では《被害者》だったのだ。
愛おしい息子を思い出すと事件への怒りで頭がおかしくなる。このままだと私達は息子を永遠に失ってしまうと恐れた両親は、この深淵に触れてようやく《赦す》と口に出す事ができた。神のみ前で。
被害者の母リンダから渡された花と鉄線に揺れるリボンは何かの暗示かと推測するが、あの花は「赦してください」という目に見えない加害者両親の心のようなものであろうか。
その花を床に叩きつけず、ゴミ箱に捨てず、しっかりと手に抱えて帰ると口に出したからこそ、そのタイミングでリンダは心に残るあの出来事を伝えられたのではないか。
彼女を抱きしめるそれは深い愛であり宗教画のようであった。そこから聴こえる讃美歌の声。本当の赦しを目に見た気がした。
ふとした壁のポスターの文字が字幕に出る。
《神は我らと共に》
そしてあの揺れる悲しげなリボンは、赦しても赦してもそれでも消えない《何か》なのだろうか。人間は人間が故に完全に罪を赦すことはできない。人間は神ではないのだから。
それでも日常は続いていく。
罪を背負い、苦しみと共に。
そして自らを救い続ける。
素晴らしい作品でした。
ずっと苦しい
つらいつらすぎる。
ずっと苦しい映画だった。
配信で観たが、一気に観れなかった。ちょっと中断しながら観た。
最後、部屋に残された被害者の親をみて虚しさを感じた。あなたたちを心から赦すと言ったけど、気持ちのいい別れではなくぎこちなくて、教会に残される描写がそのまま彼らの心が残されてるようだった。
加害者母が戻ってきて、今まで話した息子の見逃した危険な兆候とは違う、たしかに怖いと思った、危険で見逃せなかった個人的なエピソードを話したところつらかった。
最後までみた後、
加害者親が赦すと言われても喜んでるようには見えなくて、父親は居心地が悪そうだったし早く帰りたい感じだったのは、彼らの赦すという言葉では何も救われないからじゃないかと思った。
加害者家族も被害者家族もどちらもつらい。
加害者親は自分が犯罪者ではないけど、未成年の犯罪者の親で責任があって、誰もが親のせいに思う。加害者が死んでるから生きてる両親に批難が集中して、でも息子がどうしてしたか、どうすればよかったかなんて親もわからない。
被害者親は赦すことで自分たちを救おうとした。
前に進むために赦すという選択肢があるのは被害者側だけなんだと気づいた。
赦すことは加害者側のためではない。
加害者親も救われるかと思ったらそうは見えなかった。
あの教会に最後までいて讃美歌を聞いて心を癒されたのは被害者親で、先に帰られて残されるのは事件に残されるようだと思ったけど、癒しの歌を聞けた。
加害者親のあの後の歩いて帰るのを想像するとつらい。
話せなかったこと
犯人はサイコパスか
精神病か
それとも可愛い息子か
悩める少年か
2つの家族が加害少年をどう解釈するか。1つの答えは出ないでしょう。
何を求めてここに来たのか。
罰を与えるため。それとも赦して前に進むため。
少年はもう死んでいるので、家族同士で話し合う。何度目かの対話なのでしょう。4人それぞれでも少年の解釈は違う。それが描かれていました。
別の過去を望んだままでは生きていけない。それが真実なのでしょう。
どこにでもいる普通の人たち
ほぼ4人の会話劇やけど、ひりひりした感じが伝わってきてこちらまで緊張感MAXで鑑賞した。
被害者側もそうやけど、加害者の両親も普通の人のような感じやし、これは止めることができたのか。赦すというのが意外ではあったけど、自分たちが前に進むためにはどこかで折り合いをつける必要もあるからってことなのかな。加害者側の母親の気持ちも分かるし複雑な気持ちになった。加害者側の父親は、ほとんど感情を出さないポーカーフェイスな人という印象やったけど、その分未だ気持ちが整理できないままなんやろうなと思った。
舞台はほぼ教会の部屋 登場人物も、かなり限られている 実際の事件は...
舞台はほぼ教会の部屋
登場人物も、かなり限られている
実際の事件は、彼らの話の中に出てくるだけ
淡々と進む会話劇
冒頭の神経質なほどの準備から始まり、当事者がやってくる
けれど、しばらくはどちらがどちらの親なのか、はっきりしない
ようやくどちらがどちらの親なのかが分かってくるが、話はいきなり核心に行かず、なんとなくさぐりあうような雰囲気が続く
互いに夫婦間で事前の準備や話し合いが行われてきたことが垣間見えるような、夫婦での牽制が入る
それが徐々に、感情を帯び、徐々に、核心に入っていく
この時間は、当初は、それぞれがなにかに納得したい、答えを得たい、というものに見えたけれど、最後まで観ると、ゆるしを求めていたのだろうと思えた
被害者の親は、憎むことで過ごした時間に終止符を打ち、憎む対象を赦すことを自分に許す
加害者の親は、赦されざることをした息子をそれでも大切な我が子でもあったと思う感情を持つことを自分に許す、こんな悲劇が起きる前に止めることが出来なかった自分を許す
赦しがなければ、つらく苦しい感情にとらわれ続けてしまうから
許すことで、歩き出せるから
でも、それを行うことの難しさ
そんな風に感じた
そして、加害者の親には、やはり責任を求めてしまう気持ちが働いたものの、観ていると、少なくともこの話の中の両親は、ごくごく普通の、どう扱っていいかわからない10代の子供に悩み、手探りで日々を過ごしていたどこにでもいる普通の親、にも見えた
ラストの加害者の母の告白もそう
どれほど自分を責めてきたのかがよくわかる
私の産んだ子はモンスターだった。
6年前の銃乱射事件の加害者ヘイデンの両親(リチャードとリンダ)
被害者エヴァンの両親(ジェイとゲイル)
彼ら4人は6年経ても息子を失った哀しみから立ち直れない。
そんな4人が時間と費用をかけて、ようやっと会う事になった。
ラスト以外には音楽が全くない。
回想シーンも再現シーンもない。
対立する4人がただただ向き合い対話する=対峙
一幕一場の舞台劇のような映画です。
どんなに平静を装っても加害者への憎しみとその両親への怒り。
息子を奪われて、やっと立っているジェイとゲイル。
その日の凶行を現す言葉が映像よりもよほど恐ろしい。
一番冷静に見えたヘイデンの父親ジェイ(リード・バーニー)は、
被害者一人一人の死に様を分刻みで覚えている。
ダニエルは3発撃たれた。2発は頭、1発は心臓。
……机に座って息絶えた。
ジュリアナは脚に2発、1発は膝、もう1発は腱、
……大動脈が撃たれてガラス片が目に入り、
……這って外へ逃げようとして力尽きた。
ヴァネッサは4発撃たれた。腹に2発、頭部2発。
……机の下でうずくまり命乞いをしたのを息子は撃った。
エヴァンは必死で這った。血の跡がそれを現している。
……それでもヘイデンは追ってトドメをさした。
リンダは言う
「私は人殺しを育てた」
☆☆☆
モンスターは一定の確率で生まれると思います。
育てた親になんの責任もない・・・私はそう思っています。
防ぎようがないのです。
どんな映像よりも生々しい。
「2番目はほしくなかった」
「生まれてこなければ良かった・・・」
10人の被害者は追悼式が行われた。
けれど11番目は追悼されない。
葬式も断られたて墓にも苦労した。
この映画で会話のチカラ、言葉の強さを思い知らされました。
役者たちの力量がどんな映像にも勝り迫って来る。
対峙して言葉をぶつけ合い本音を吐き痛みをぶつけた事で、
エヴァンの母ゲイル(マーサ・プリンプトン)は最後に、
決意したように言います。
「あなたたちを赦します」
「ヘイデンを赦します」
加害者家族のリチャードとリンダも、ジェイとゲイル同様に
愛する息子を失った被害者なのだ。
被害者と加害者の夫婦は互いを思い遣り帰路につく。
彼らが少しでも晴れ晴れした気持ちで生きていくことを、
私は心から願いました。
点数はつけられません
作品の良し悪しの問題ではなく、
内容的に点数をつけ難い作品でした。
また、ほぼ全編ワンシチュエーションかつ
2組の中年夫婦の対話劇のため集中力が必要不可欠です。
.
.
通常、親というものは精一杯の愛情を子どもに注ぐし、
なにかしら異変を感じれば、原因を追究し
最善の措置をとるべく、動くものだと思っています。
(そうじゃない毒親もいますが…)
.
しかし
何がきっかけで凶悪犯罪に手を染めることに
なってしまったのか、本当に親はその小さな異変に
果たして気が付けるものなのでしょうか。
子どもたちのサインは見逃さないという
絶対的な自信はどこから来るのでしょう。
親を思う子どもほど、気づかれまいとするのではないかと…
未成年の犯罪には親が原因であることのように
言われがちだけれども、それってどうなのかな。と
本作を観て、ふと思った次第です。
.
.
また、これは宗教的な思考もあるかもしれませんが
自分が被害者側の親であれば
とても「赦す」ことはできないだろうと思いました。
当然、加害者家族もですが担任や学校、世の中全てを
呪ってしまいそうです。
ラスト、あの被害者の母親はとても苦しそうに
でも前に進むために大きな決断をし「赦す」と言いました。
正直、自分には何年経過しようと言えない言葉のように思います。
ただ、その分、自分も救われないのかもしれません。
.
.
やはり第三者としての立場でしか観ていないため
安易に加害者側・被害者側、
どちらの意見も理解できるとは言えません。
時に息苦しさを感じながら圧巻の演技を堪能
アメリカの高校で実際に起きた銃乱射事件の被害者の両親と加害者の両親が、6年後に集まり対話する映画。
観終わった後、しばらく包然と座っていました。
私も同じ母親として、どちらの母親の気持ちもわかるんですよ。
それだけにつらくてつらくて。
ゲイルが「息子を近くに感じたいから、あなた達を赦します。ヘイデンのことも、赦します」と涙ながらに言葉を絞り出すシーンは涙腺崩壊。
憎しみは何も生まないんですね。
この2人は、6年間苦しみ倒して、このためにこの日ここに来たんだ。
でも一方で、加害者の両親も、この6年間どれほどの非難と誹謗中傷に晒されてきたか。
何を言っても、聞いてもらえない事もあったろう。
思春期の悩み?コミュ障の末路?子育ての失敗?
我が子がまさか人殺しになるなんて。
「いっそのこと、息子は生まれてこなければよかったのかもしれない」と、父親。
こんな事、そう口にできない。
どちらも、我が子を愛していた気持ちは同じ。
それだけに、やるせない。
でも、LIFE GOES ON.
生きていかなくてはならない。
ラストに流れる讃美歌のタイミングが・・・
ここで歌声が、その歌詞が、心に沁みる沁みる。
それにしても、4人の演技の素晴らしいこと!
BGMもなく、9割のシーンが部屋の中の会話劇。
誤魔化しのきかない丸裸の作品です。
ブラボー!
亡くした子供を思って生きることの重さ
すごい映画だった。銃の乱射事件の加害者の親と被害者の親が一つの部屋で話すのだ。
そもそも対立する間柄の2組の夫婦が、ぎこちなく話を始める。気を遣いながら、理性を総動員させながら。少しずつ本音が出始め、そして心の叫びに変わっていった。
被害者の母が、今なら言えると切り出した言葉、赦す という言葉はものすごくエネルギーを持って発せられた。そうしなければ、子供と共に生きられないと。この思いに至るために彼らは会ったのだと感じられた。
子育てをした親なら誰でも思ったことのある、今ならわかる、あの時こうしてれば、という気持ち。正解のない子育てを一生懸命やっていたのだ。
最後に加害者の母親が語る物語に母親はみんな涙するのではと思った。
なんだか微妙にピントが外れている教会の職員
ファーストデイにいつもの映画館で
たまたま休暇だった平日の朝のNHKの国際ニュース番組で
Worth 命の値段 と併せて紹介されていて興味をそそられた
あまり感情移入はできなかったが こどもを持つ親としては
一度は考える題材だ
基本2組の両親が1つの部屋で語り合う台詞劇なので
意味を汲み取ることにパワーを要する
観終わった後は疲れてぐったりしてしまった
本音を語って共有することで高次元の合意に至れる
みたいなメッセージを感じた一方で
やっぱり理屈を探ったり探られまいと防衛したりする
前者は概ね女性で後者は男性の傾向では
会場の準備をしたりするなんだか微妙にピントが外れている教会の職員
役に立っているんだかいないんだか…
一見邪魔のように見えるがちゃんと潤滑油になっている
こういう存在が社会には必要な気がして好感を持った
本作を観た当日に埼玉の中学校に高校生が刃物を持って侵入する事件があった
遠い国の話ではないのだろう
死ぬまで自分の中の「想い・感情(苦しみも含めて)」と“対峙”していかなければならない四人の人々。
①“対峙”という日本語の本来の意味からすると、この二組の夫婦は初めから“対峙”など出来ない。
何故なら、一方の夫婦はいくら責められても反論出来ない。言い分があったとしても世間的には言い訳としか受け取られない。
それに対して、もう一方の夫婦は責めようと思えばいくらでも責められる。
同じ立場ではないのだ。だからこの二組の夫婦に出来るのは“対峙”ではなく“対話”のみ。
そして、この対話も何かを解決したり、出来るものではない。
対話の末、四人が再認識或いは初めて認識出来たのは、結局対峙しなけばならないのは自分の中の自分だということ。
この映画はそういうことを云いたいのだと思う。
この二組の夫婦はこれからも対話を続けるのだろうか。恐らく続けても救いや解決は来ないだろう。でも「この認識」を思い出す為に対話し続けるようにも思える。
②私は子供がいないので、その喪失感は想像するしかないですが、実際の喪失感は私の想像どころではないでしょうね。
親は子供のどこまで責任を持たねばならないのか。日本では一応18歳くらいまでとなっていますが(対外的に?社会的に?)、子供が自意識を持ち初めてからは果たして子供のすることの全ての責任が取れるかどうか?私達子供のいないものにとってはついつい「親は何していた?親の顔が見たい」的な考えをしてしまいがちですが…
③唯一私に理解に近いものを感じられるのは加害者の親が自分の息子に異常なところ・怖れに近いものを感じながらそれに対して尻込みしたり見て見ぬふりをしていたところ。
私の弟が統合失調症(その頃は精神分裂症と呼ばれていた)を発症した時、因習深い土地に住み世代的にも精神病理に疎い両親(特に父親)は世間体を気にし病気の事がよく分からず暴力をふるいだした事に恐れて(私は当時海外駐在中)後手後手に回り、勿論弟本人の性格も手伝い、結局精神病院への入退院を繰り返して現在は施設に入っている。後であの時ああすれば良かったのに、こうすれば良かったのにと私が思うのは兄弟という間柄のせいで、両親としては愛情と恐れ・不安の狭間で途方に暮れていたのだろう。だから、本作の加害者の両親が経験した愛情と不安・恐れとの間で揺れていた気持ちは漠然と理解できる。(USAの方が日本より精神病理に対する理解やケア、福祉が進んでいるとしても)
私の家の場合、弟の暴力が家族だけが対象で外(他人)にふるわれなかったのが救いといえば救いだったけれども。
加害者の父親の「産まない方が良かった」という台詞があった。
私の弟の場合、母は産みたくなかったようだ。しかし父が有無を言わせず出産させたようだ。そして、弟が発症して家族に対して暴力をふるいだした時にこの台詞と全く同じことを言ったことを思い出す。
私も「いっそ死んでくれたらよいのに」と思ったことは一度ならずある(『ロストケア』の世界だね。)
④加害者の両親の方はこれまで筆舌に尽くせない苦難を乗り越えて来ただろう。犠牲者の家族からの恨み・非難は当然、世間からの非難・中傷誹謗(一部同情もあったと台詞の中にあったけれども)の波、取材陣の波、鳴り続ける電話や引きも切らない手紙やメール、仕事への影響、離れていく友人たち。
賠償の問題もあるだろう(USAのその辺りの制度はよく知らないが)
私なら耐えられないかも知れない。
⑤といって加害者の親の方に一方的に肩入れしているわけではありません。USAと日本の親子関係にある程度違いはあるかもしれないとはいえ、子供に対する愛情は変わらない筈。手塩にかけて育てた子供がある日突然理不尽な暴力で失われてしまう。その喪失感・無念さ・怒り・絶望・悲しみは死ぬまで癒されることは無いだろうと思います。
⑥二組の夫婦を演じる四人の俳優の見事な演技。
日本であれば許されないであろう
加害者の親が、自分の息子も死んでしまったし、他の犠牲者のようには弔われていないので悲しいというのはそうかもしれないけれど、やはり日本ではそういうことを言うことすら許されないであろう。ましてや、後から加害者本人の犯行直前の異常行動に気づいていたことがわかっていたのなら、親としてなお責められても仕方ないであろう。被害者の親たちは、加害者の母親が提示した亡き子への愛の回想だけでなく、自ら癒やす方法に到る途は様々にあるはずであろうから。
米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。 牧師の妻が対...
米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。
牧師の妻が対面セッションの準備をしている。
テーブルはこれでいいかしらん、お茶や食べ物はこれぐらい必要かしらん、と。
コーディネーターの黒人女性が現れ、部屋をチェックする。
シンプルで問題はないわね、ピアノの練習音はちょっと気になるわね、ティッシュはあるかしらん、テーブルの真ん中に置くのは良くないわね、と。
しばらくして、あまり裕福でない感じの中年夫婦ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲイル(マーサ・プリンプトン)が到着する。
遅れて、身なりが整い、やや慇懃な感じの夫リチャード(リード・バーニー)と小さなボックスに入った花束を持った妻リンダ(アン・ダウド)が到着。
コーディネーターを介して、対面セッションが開始される。
セッションは4人だけで行われる・・・
といったところから始まる物語で、あまり前知識なく観る方がよいでしょう。
語られるのは6年前に起きた事件のこと。
リチャードとリンダの息子が高校で引き起こした銃乱射事件。
ジェイとゲイルの息子は、被害者のひとりだった・・・
ということが徐々にわかってきます。
被害者家族と加害者家族が直接会うことはかなり障壁が高いようで、ジェイとゲイルは様々な権利放棄をしてきたことがわかります。
映画は、ぎこちない対話の開始から、緊張感を持って描かれます。
限定空間、限定的な登場人物。
これで2時間近く持たせるのは至難の業なのですが、初監督兼脚本のフラン・クランツは脚本のみならず、抜群の演出力をみせます。
セッションまでは引きの画の固定カメラを使い、セッション開始からは丸テーブルで対峙した4人のアップを中心に、これまた固定カメラでみせます。
やや保身態勢のリチャードに対して、感情を高ぶらせるジェイ。
ここで画面は黒味になり、外の風景ショットを挟みます。
有刺鉄線が張られた野原。
鉄線から垂れ下がる中途半端な長さのリボン様のもの。
で、これまでビスタサイズだった画面がシネスコサイズになり、感情を高ぶらせたゲイルが丸テーブルを離れます。
同時にカメラは手持ちになり、緊張感と不安定さが増します。
計算された演出です。
ジェイがゲイルに寄り添うためにテーブルを離れ、リンダもジェイの話を聞くためにテーブルを離れ、感情を高ぶらせたゲイルにティッシュを渡すためにリチャードもテーブルを離れます。
このタイミングも素晴らしいです。
彼らのセッションは続きますが、この対話の中に答えや正解はありません。
あるとすれば、相手のことを理解しての「応え」でしょう。
そして、息子の思い出を語り終えたゲイルが、ジェイに「言ってもいいか」と問うた後に、心の底からの言葉を絞り出します。
「(リチャードとリンダの)ふたりを赦します。あまつさえ、おふたりの息子も・・・」と。
このシーンも演出が際立っています。
ゲイルの言葉とともに、部屋の外が明るくなり、露光がオーバー気味になります。
静かにセッションは終了するのですが、リンダが持ってきた花束を巡って時間が費やされる間、先に立ち去ったリチャードとリンダ夫妻のうち、リンダが戻ってきてセッションのときには言えなかったことを告白し、ゲイルの抱擁で終幕を迎えますが、ここでの演出は画面外から教会で練習している讃美歌の声が聞こえてきます。
すこしキリスト教的な感じが強いのですが、「赦し」がキリスト教教義の中心なので、やはりこの演出になります。
ラストショットは、ふたたび有刺鉄線から垂れ下がったリボン。
野原の奥の建物に明かりが点り、フェードアウトしていきます。
垂れ下がったリボンは、心に残った引っ掛かり。
その向こうには、あかりがある、という暗喩かもしれません。
傑作です。
<追記>
映写用のデジタル素材のせいなのですが、ビスタ→シネスコのサイズ変化が効果を発揮していませんでした。
以前のようなフィルム上映だと、天地のサイズを固定して、ビスタ→シネスコと変化する際は、スクリーンが横に伸びたものですが、今回は左右の幅は変わらず、天地のサイズが縮んでしまいました。
「赦し」へと導く画面サイズの変更なので、横に伸びないと効果が半減、激減です。
これは残念。
途中での画面サイズ変更の参考作品として『モンタナの風に抱かれて』『ブレインストーム』を挙げておきます。
睡魔との対峙
前半寝てしまいました。
仕事終わりの2本目で見たのがよくなかったのだと思いますが、他の方のレビューにもありますが、内容的に単調なので少し退屈します。
あくまで悪いのは自分で映画ではありません。
事件から6年後、被害者側と加害者側がセラピストに勧められて「対峙」するというお話ですが、おそらく、最終的に対峙すべきは自分自身で、自分と向き合うことで次の一歩を踏み出すことができた。というお話だと解釈しました。
誰がわたしを救うのか
終始、ピリピリとした会話劇でストーリーが進む。
序盤、正直どちらが被害側かわからず、
それも含めて緊張感がすごかった
両者(特に被害者の母親)の震えが伝わり、
こちらにまでその琴線の震えが影響された
偏見かもしれないが、
加害者家族のあのちょっとズレた価値観や神経が
もの凄く上手く表現されていたように思う。
さらに、被害者家族の母親の方が、
何か縋るように夫を見つめるその視線や
見つめ方がリアルでリアルで。
彼らの言動一つ一つから、それまでの
6年間を感じさせられた。
中盤、話は加害者の過去や心情、
そして彼の両親はなぜ彼を野放しにしたか
ということに集中された
そこから一変し、被害者の過去へ
ここで加害者母が語った
「それが人生の価値よ」
「世界を変えなくていいの」
この言葉が状況を一変させたように思う。
そして、ラスト。
母親同士の和解が訪れる。
「わたしも話したかった」
彼女の本心は、周りを動かした。
(ここが一番痺れるシーンだった)
彼女も母親だった。
「自分を殴れと言えば良かった。」
この告白の重みは計り知れない。
正直、加害者父親は最後まであんな感じだったが、
母親には一番心を持っていかれた。
あまりにあっさりとした立ち去り方に、
彼らを信じることが出来るのかと思った。
赦したままでいられるのかと。
それでも、ほんの少しの時間だけでも、
彼らを信じ許すことが出来た
そのことと共に生きるしかない。
その事実が、後々の自分を救うかもしれない。
どうにかして生きるには、
信じること、救うこと、許すこと、
そういったポジティブな感情を
抱き続ける他ないのだと思わせられた。
全然スッキリはしないけど、それが答えなのだろうか
教会の中で6年前に高校で起こった銃撃事件の加害者と被害者の両親が対峙する話。
始まってからは穏やかな教会の雰囲気が印象的で、
少し呑気な感じで、部屋を用意しながら席を作る教会の素敵な奥さんを観ながら、
ああ多分奥さんはほとんどこれから登場しないんだろうな、
などとぼんやりと考えたりするようないい感じに気が落ち着かない穏やかな時間。
いざ当事者の両夫婦が部屋に集まると、
やあ元気かいなんて軽いジャブを打ち合いながら少しずつ、
被害者側の夫婦から加害者側の夫婦へアプローチをかけていき本当の対峙が始まる。
なんとか感情的にならないようにとしながらも、
それでもこの6年越しの場所で自分達が納得する何かを求めて感情を上下させながら加害者夫婦に詰め寄る被害者夫婦と、
別に重要な真相も隠しているわけでもない同じようにその何かを見つけられない加害者夫婦がお互いの立場から意見をぶつけ合う。
被害者家族が受けてきた6年間の悲しみも役者の演技の高さでかなり伝わってくるし、
それとしてその何倍も苦しんでいそうな加害者家族の悲哀も伝わってきて、
どちら側に立って会話を見守ろうというような考えは安易にはおきない。
実は被害者の少年が加害者の少年をイジメていたのが原因だったみたいなハッキリとした善悪が判るような真相がない事がこの映画のえげつない所で、
全てを解決する答えなんて絶対に見つからないし、
どこかに辿り着けば落ち着けるなんていう着地点もない。
あるのは実際に事件があって、お互いの子供が加害者と被害者になって亡くなっているという事実だけ。
最後まで観ても全く何もスッキリしない。
本当にただのボタンのかけちがいが起こりまくったが故の偶然なのかもしれないし、
お互いの両親が知りえない事件が起こる核心的なものがあったのかもしれない。
けれどそれも知りようがない。
物語の決着は被害者家族が「赦す」という事で一応の決着はついたが、
もう息子を想って悲しみたくないから「赦す」という事にして、
悲しみから逃れたいという気持ちが強いのかなと自分は思った。
でもその逃避には何ら批判的な感情はわいてこなかった。
そして最後は神は我々と共にという言葉と、
聖歌隊による讃美歌が流れエンドロールとなるが、
無宗教の自分にはどうにも皮肉にも思えるのだが、
キリスト教徒で銃社会のアメリカ人には救いとなったのだろうか。
デリケートな問題に徐々にたどりつくまでの探り合いの会話は練り上げられた脚本と俳優陣の秀演だ。
対面は、教会の殺風景な控室の十字架の下で行われる。無神経ともとれる教会スタッフと双方の両親4名の比較が、当事者と他人との意識の格差ともとれる気がする。
子育ての責任と子どもの資質、成育環境と救いの道。親としてどうすればよかったのか。愛する者を失った時に抱く後悔の念。見る側に他人事と感じさせないリアリティが、コミュニケーションの難しい現代の問題として迫ってくる。
動きのない画面でさえ、表情やちいさなしぐさを捉えるカメラも素晴らしい。
丸いテーブルをはさんで座った4人は、やがてテーブル越しではなく椅子を近づけて寄り集まって座った。お互いを理解するには、胸の内をさらけ出し壁を取り払い、憎しみを捨てることかもしれない。
タイトルのMassとはキリスト教のミサ、感謝の典礼という意味があるようだ。教会が舞台であること、キリスト教の精神が根底にあることで、「赦し」の意味を心から理解することはできないかもしれないが、前に進むとは、そういうことなのだろう。
稀にない邦題の素晴らしさにも敬意を表したい。
赦し
冷静に感情移入しないように見ようと思っても、どうしても被害者遺族側に感情移入してしまい、花を持ってきたのもイラッとしたし
赦します。という言葉も、息子の苦しんだ最期ばかりを思い出してしまい、あの日からずっと立ち止まったまま苦しい
だから赦し、前に進む方向で考えています。
だからって忘れないでね、これからも何度も会いましょう。忘れるなよ?であって
本当の意味で赦してる訳ではないように感じた。
でも最後に戻ってきた加害者の母親がひとりで抱えていた苦しみを打ち明けてくれた時に、赦し前に進める感じがした。
【”赦し。”高校銃乱射事件の被害者と加害者の両親の息詰まる対話劇。ラストの賛美歌と”GOD WITH US"の切なさ。 加害者と被害者の母の、赦しを請う姿と受け入れる姿には涙が溢れてしまった作品。】
■今作は、6年前に起きた高校銃乱射事件の被害者と加害者の両親4人の会話劇である。
被害者側は、息子の命を断たれた父母ジェイ(ジェイソン・アイザック)と、ゲイル(マーサ・プリンプトン)。
加害者側は、10名の生徒を爆死もしくは射殺した後に自ら命を断った息子の父母リチャード(リード・バーニー)と、リンダ(アン・ダウド)である。
◆感想
・序盤から緊迫感が尋常でない。
6年前の事件について話し合う2組の夫婦。だが、ゲイルは相手の両親が来るまで、教会の部屋には入らず離れた所に車を止めるように夫、ジェイに頼む。
・そして、黒人女性の介在により対話が始まる。最初は他愛無い会話をぎこちなくする2組の夫婦。”
何故息子は殺されなければならなかったのか・・””何故、息子は級友たちを無慈悲に殺したのか・・”という核心に中々迫れない。
・時に感情的になり、涙を浮かべながらもギリギリの線を保ち会話を続ける、4人の姿。
ー 本当に鑑賞していて、キツイ。いたたまれないシーンが続く。-
・加害者側の両親は、”息子は優しい性格だった・・。だが、人の輪に入れなかった‥。”と言い、被害者側の両親は”息子が如何に、魅力的な人間だったか”を涙ながらに話す。時に激昂しながら・・。
ー 二組の両親は夫々、”人生の価値”について、考えを述べるのである。印象的なのは、そんな中、時折アングルが向けられる有刺鉄線に絡んだピンク色のビニールテープであり、教会の部屋に飾られた赤い色のステンドグラスである。-
■徐々に、加害者の父親、背広姿のチャーリーを演じたリード・バーニーが度々妻の言葉を遮り発する言葉を聞いていて、”この父親は、息子の事を普段から父の目線で、全く見ていなかったのではないか・・、仕事に追われて・・を言い訳にして・・。”と感じてしまった・・。
・そして、被害者の母リンダが涙ながらに”赦すわ・・。”と言い、チャーリーは妻を残してその場をそそくさと去る。
だが、夫が居なくなった後、加害者の母、リンダは”息子が怖かったの・・。息子が暴れた時に夫はおらず、部屋に一人閉じこもっていたの・・。御免なさい・・。”と滂沱の涙を流しながら、真実を語るのである。
彼女だけが、息子の異変(サイコパスへの変貌・・)に気付いていたのである。
<今作は、観ていて相当にキツカッタが、2組の被害者、加害者の両親を演じたジェイソン・アイザックと、マーサ・プリンプトン。リード・バーニーと、アン・ダウドはもっとキツカッタのではないだろうかと思ってしまった程の、哀しき会話劇の秀作である。
ラストに響いて来た賛美歌の声と、”GOD WITH US"と教会内に書かれた言葉の切なさたるや・・。
更に言えば、被害者及び加害者の母二人の、赦しを請う姿と受け入れる姿には、涙が溢れてしまった作品である。>
対峙することにより何かをを見つけられる
「強い、激しい、徹底的な、集中的な、強意の、強調の、内包的な、集約的な」という形容がぴったりの映画で役者同様、私も心身ともに疲れた。初め、何が起こるのか検討がつかなかった。何のためにテーブルがセットされるのか?4脚の椅子は果たして誰が座るのか?そのうち、エピスコパル教会のボランティアらしき青年、アンソニー(カゲン・オルブライト)は教会のジュディー(ブリーダ・ウール)に聴きすぎるといいわれなからカウンセラーらしき女性,ケンドラ(ミッチェル・N・カーター)に、’『今
までに経験がある』と尋ねる。彼女は6年と答える。それに、ティシュの位置をどこにするかケンドラは的確に指示をだす。何かセラピーが始まるのかと思いきや、窓のステントグラスの生徒のプロジェクトに対して、ケンドラは肯定も否定もしない。ここまでで、子供の問題か何かで、慎重に話し合わなければならないことが起きると感じだ。
それから、ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲール(マーサ・プリンプトン)の夫婦(エヴァンの両親)が車で現れる。教会で誰かに会いたくないが、一大決心をしてきたようだ。教会の中でケンドラがこの二人に次にやってきたリンダとリチャード夫妻(ハイドンの両親)を紹介して、その場をさる。これはカウンセリングじゃないなと感じさせる。
ここから対峙が始まる。
リンダが手製の花の鉢をゲールに差し出す。四人だけで話し合いが始まるが、リンダ(アン・ダウド)とリチャード(リード・バーニー)夫妻の誰かが何か害を与えたことが理解できる。最初からこの家族は課題の確信に触れない。触れられないというか躊躇しているような雰囲気が十分に出ている。何か悩みを抱えているようだ。雑談と言われるような会話で子供たちの写真を見せあったりしていくが、段々、口調も態度も大柄になったり、静かになったり、感情のムラがでてくる。スリラータイプの物語で、何が起きるのか徐々に紐解かれる。この紐解き方が脚本の素晴らしいところ。俳優も演技力があるから表情や動作だけでも一人ひとりの違いが出ていて、夫婦単位で見ても、個人単位で見ても、四人一緒の単位で見ても、お互いが連動していて絶賛に値する。
あらすじを書きはじめたが、これと二家族の心理を分析して、ここに描写するスキルは別である。私には心理や心情分析のスキルはないので、このストーリーを深く追求できない。悪しからず。
しかし私は親だけど、子供の死をこのように迎える立場に立って考えるのは難しい。殺された両親の気持ちを理解するのも、殺した両親の気持ちを理解するのも難しい。それも、両親とも子供を失ってしまったのだから。どの立場にたっても私ならと考えつかない映画で、会話に集中するだけだった。
俳優であるフラン クランツは監督や脚本までこなしている。1999年の米国コロラド州で起きたコロンバイン高校(Columbine High School)銃乱射事件と同じ設定なっているとおもう。でも、両親の心の中をこのような形で吐き出させているが、こんな経験をどこで積んで脚本を書いたのだろうか?俳優の表情や動きが上手いだけでなく、全く知らない役者だが一流だなと思った。それに、現在の課題、特に、コロナ・パンデミックでの結果、精神的に学校に戻れなかったり、コンピュータゲーム中毒やSNS中毒になってしまったり、孤立化してしまったり引きこもりになったりしている学習者に(ここでは高校生)対する教育は重要で勉強が遅れてしまったどころの騒ぎではない。将来、人間形成に与える影響が大きいので学校ではSocial Emotional Learning(SEL ) 日本語で「社会性と情動の学習」の講習会が増えているようだが政治組織や学校などのこの改革案が効果を見せているのだろうか?
この作品の設定はパンデミックが始まる前で、すでにこのような混乱現象は起きてニュースで聞いている。学生の乱射事件やいじめ、憎しみ、精神不安、友達ができなく孤立化してしまうなどは重要で、そして、現在も抱えていて、より深くなっていく問題をストーリーに加えている。あっぱれ!
そして今パンデミックの弊害が顕著になっていて、社会が暗礁を乗り越えられずにいる時代にぴったりのトピックだ。それだけではなく、コンピュータ中毒や銃社会ではこれらの諸問題の解決策は見出せないよと教えていると思う。解決策は「人間と人間の力」がいるよと言っていると思う。なぜかというと、この家族が子供を失うという人生で最も悲惨な経験をして裁判で結論は出している。でも人間同士の問題だから面と向かって正直に話し合う「対峙」によりお互いの気持ちを曝け出して許せたから。人間どうしだからできることである。立場は違っているけど相手の気持ちに寄り添えたから。人間の心の技でそれを証明した。人間ドラマである。
英語のタイトルを使うと、自殺も含めた大量(mass)殺人(11人?)となるが、エピスコパルの礼拝のように人が集まってきて礼拝するの意味もある。四人の心には悲しみは残るが心が洗われてやっと一歩踏み出せるという希望が見出せる状態になったと思う。映画の最後の『灯り』がその意味をもたらしていると思う。
勝手な解釈だが、日本語では「対峙』となってるが、宗教的なタイトルをつけると、商売にならないから対峙としたと思う。「贖い」がテーマになっていると思う。エピスコパル教会が対峙の場所としてセットされているのも大きな理由だが、映画の最後30分に説明されている。例えば、エヴァンの母親、ゲールが『許すよ』と何度もいうシーンがある。「初めは罪を償ってもらおうと思ったけど.....自分は息子、エヴァンを失ったけど......許すよ、ハイドンも」と。その時、周りはこの言葉をどう理解したらいいか困っていたようだ。夫のジェイでさえ。ゲイルは本能的に現状を維持しては生きられないことを知っている。ゲールはそして、自分のことを「深く傷ついた状態で生きられない。眠れない。」という。「恨んで生きていけない」と.....その後、それぞれが対峙した部屋を去っていく時、ゲールの目は「キリストが十字架にかかっている」ところへ。キリストが我々の罪の代わりに死んでくれた。そして、我々は罪人であるという意味で、ゲイルは十字架を見いながら全てを許すと再確認しているように見える。映画の最初で部屋の十字架の位置を見ておくとそれがわかる。
最後のシーンは私にとって圧巻だ。ハイドンの母親、一旦出たリンダが戻ってくるシーンだが、リンダは息子が「何も口を出すな殴ってやる」と叫んだから、彼女は自分の部屋に入ってしまったと。その時、彼女は「母親を殴れ!」というべきだったと。リンダは16歳の時の息子と親との壊れた関係をここで初めてエヴァンの両親に伝えた。そのために戻ってきたと思うが、母親が殴られ、(殺されて?)いたら、この事件は銃乱射事件にまで発展しなかったかもと映画を見ながら思った。ハイドンは極度の怒りをここで発散しなければ、治らないと思えた。親が、子供と対峙せず、誰が対峙できる。その意味でも対峙という日本語訳は一役かっていると思う。ゲイルはここで、リンダを抱きしめる。リンダも被害者で苦しんでいたことを悟り、彼女の気持ちに寄り添うことができる。ジェイとゲイルは教会の対応に(花を入れる箱)に戸惑いを見せながら、讃美歌を聴くチャンスに恵まれる。ジェイは自分のことをキリスト教(プロテスタント)と言っていたが、明らかに、俄クリスチャンぽかった。しかし、讃美歌が彼の心をとかし『許す』心を与えてくれた。ゲイルのように「許すよ」と言えなかったけど、ここで、自分への蟠りが溶けていったと思う。いいシーンだ。二人は教会に戻るかもしれないと思わせた。
米国の変わらぬ銃社会への強烈なメッセージかとも思ったが、いや...「ゆるし」合うことで次の生き方を見つけることができるのがメッセージだと思った。私だって、娘が殺されたら、何年経っても相手を許せるとは思えない。しかし、許さず生きていくことは苦しいことなんだとわかった。
全20件を表示