対峙のレビュー・感想・評価
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会話のシーソーが見える
銃乱射の前提は語られずにしばらく続く。
とはいえ、観に来る人はそれをわかってきているだろう。
想定通り、ひたすら会話劇が続く。
テーマがテーマだけに会話に感情がのるわけだが、聞いているとどちらのターンか、どちらに寄り添うかがまるで目に見えるようで興味深い。
どちらがいい悪いではなく、それぞれの苦悩がある。
それを交互に感じる。感情が伝わってきて、こちらまで感極まってくる。自分が同じ立場だったらと思わざるを得ない。
配役は4人とも色があり、これもリアルに描けていて、フィクションながら、ドキュメンタリーさながらである。
キリスト教や、銃社会の色が強くでているが、邦画で同じ作品を撮ったらどうなるだろうか。
社会問題を身近に感じる映画であった。
2023年劇場鑑賞24本目
なかなかない対話だけど…
アメリカだからな対話策だよなー、と。日本人だとなかなかこんな感情を言葉にはできないだろうし。と、思いつつラストの加害者のお母さんのセリフには共感させられた。4人会話だけの進行だけど緊迫感とぎれずで引き込まれた。
アメリカだからこそ成立する?相互理解の物語
「謝罪」が文化として定着している日本で、もしも同じような場が設けられたならば、加害者の両親はひたすら謝り続け、被害者の両親は責め続けるのではないだろうか?
まるで他人事のように振る舞う加害者の父親のように、簡単に謝ろうとしないのは、いかにもアメリカ人らしいと思えるし、被害者側が、むやみに謝罪を要求しないのも、アメリカ的であると思った。良くも悪くも、「謝罪」に重きを置かないからこそ、「被害者側と加害者側の会合」という設定に、現実味が生まれるのだろう。
映画そのものは、密室における2組の夫婦の会話劇で、ヒリヒリとした緊張感が持続する一方で、観る側にも相当な集中力が必要となる。
事件の原因を究明したい被害者側に対して、加害者側は、息子に異常はなく、自分たちの育て方も間違っていなかったと信じており、両者の会話はなかなか噛み合わない。
それだけに、どちらも、愛する息子を失ったという境遇を共有していることに気付き、両者が、互いに理解を深めていく様子は、感動的である。
ただし、憎しみや恨みを抱えたまま生きるよりは、「赦す」方が楽に生きられるというのは、その通りであろうが、そんなに簡単には赦すことができないのも人間の性だろう。
その点、劇中の「赦し」には、やや唐突感があり、予定調和のように思えてしまった。もう少し、説得力のある描き方ができれば良かったのだが・・・
【”赦し。”高校銃乱射事件の被害者と加害者の両親の息詰まる対話劇。ラストの賛美歌と”GOD WITH US"の切なさ。 加害者と被害者の母の、赦しを請う姿と受け入れる姿には涙が溢れてしまった作品。】
■今作は、6年前に起きた高校銃乱射事件の被害者と加害者の両親4人の会話劇である。
被害者側は、息子の命を断たれた父母ジェイ(ジェイソン・アイザック)と、ゲイル(マーサ・プリンプトン)。
加害者側は、10名の生徒を爆死もしくは射殺した後に自ら命を断った息子の父母リチャード(リード・バーニー)と、リンダ(アン・ダウド)である。
◆感想
・序盤から緊迫感が尋常でない。
6年前の事件について話し合う2組の夫婦。だが、ゲイルは相手の両親が来るまで、教会の部屋には入らず離れた所に車を止めるように夫、ジェイに頼む。
・そして、黒人女性の介在により対話が始まる。最初は他愛無い会話をぎこちなくする2組の夫婦。”
何故息子は殺されなければならなかったのか・・””何故、息子は級友たちを無慈悲に殺したのか・・”という核心に中々迫れない。
・時に感情的になり、涙を浮かべながらもギリギリの線を保ち会話を続ける、4人の姿。
ー 本当に鑑賞していて、キツイ。いたたまれないシーンが続く。-
・加害者側の両親は、”息子は優しい性格だった・・。だが、人の輪に入れなかった‥。”と言い、被害者側の両親は”息子が如何に、魅力的な人間だったか”を涙ながらに話す。時に激昂しながら・・。
ー 二組の両親は夫々、”人生の価値”について、考えを述べるのである。印象的なのは、そんな中、時折アングルが向けられる有刺鉄線に絡んだピンク色のビニールテープであり、教会の部屋に飾られた赤い色のステンドグラスである。-
■徐々に、加害者の父親、背広姿のチャーリーを演じたリード・バーニーが度々妻の言葉を遮り発する言葉を聞いていて、”この父親は、息子の事を普段から父の目線で、全く見ていなかったのではないか・・、仕事に追われて・・を言い訳にして・・。”と感じてしまった・・。
・そして、被害者の母リンダが涙ながらに”赦すわ・・。”と言い、チャーリーは妻を残してその場をそそくさと去る。
だが、夫が居なくなった後、加害者の母、リンダは”息子が怖かったの・・。息子が暴れた時に夫はおらず、部屋に一人閉じこもっていたの・・。御免なさい・・。”と滂沱の涙を流しながら、真実を語るのである。
彼女だけが、息子の異変(サイコパスへの変貌・・)に気付いていたのである。
<今作は、観ていて相当にキツカッタが、2組の被害者、加害者の両親を演じたジェイソン・アイザックと、マーサ・プリンプトン。リード・バーニーと、アン・ダウドはもっとキツカッタのではないだろうかと思ってしまった程の、哀しき会話劇の秀作である。
ラストに響いて来た賛美歌の声と、”GOD WITH US"と教会内に書かれた言葉の切なさたるや・・。
更に言えば、被害者及び加害者の母二人の、赦しを請う姿と受け入れる姿には、涙が溢れてしまった作品である。>
睡眠をしっかりととった日に鑑賞すべし。
ほぼ全編、ワンシチュエーションで乱射事件の被害者側と加害者側の親の会話を見せるという異色の映画。
時々ドキュメンタリーと勘違いしてしまうほど演技も脚本も真に迫っていました。
興味深い内容だけれど、どちらの立場にも共感できるほど簡単な心情ではないと感じます。実際当事者の苦しみは、想像はとても追いつかないものでしょう。
場面転換もなく静かで集中力を要する映画なので、睡眠をしっかりととった日に鑑賞することをオススメします。
胸に迫る会話劇
銃乱射事件の加害者の親と被害者の親が話す。最初から最後までずっと話す。その描き方の正鵠さが凄い。本当にフィクションなのかと思わせるリアリティがある。
加害者家族を加害者と同一視して断罪することは安易だが、その道を取っても何一つわからないし、救いがもたらされることもおそらくない。
代わりに、本作品は一貫して「話す」という選択肢の可能性を問いかけていたように思う。問いかけは重く観たものの胸にのしかかってくる。
観ているこちら側の感情も大きく振れる
見始めから暫く経過した時点で「この話、当事者の親同士、しかも傍から見れば加害者と被害者だもの、落としどころナシでしょ!」と思ってしまった。
ところがラストに向けておやおや?そうきたか!で、そこから更にもうひと押し、で涙腺崩壊、やられました。
ほぼ二組4人の親の会話劇、外の音が一切しなかったのが、心が解けていくのと歩を合わせるように音が入り込んでくる演出が良かったなあ。
どちらの親にしても、訳がわからないまま、あっという間に我が子がいなくなるのは同じこと、衝撃・後悔・怒りはあろうとも時は戻せない。
中身は違えど一瞬にして子を失ってしまうことを身を以て経験済みの私としては非常に考えさせられ、そして色々と涙を誘われる作品でした。
眉間
TV番組で被害者と加害者が刑務所だったと思うけど、面談(?)する様子を見たことがある 言葉ではなんだかんだ上手いこと言ってたんだけど、態度で本音がついつい出てしまうのか和解の握手で被害者が後で手を拭っていた 序盤被害者側の母の怒りの表情が凄くて、貰った花も直ぐ様ゴミ箱行きな勢いだったのでその話を思い出した 両家族とも焦燥しきった様子で途中の白々しい会話や沈黙が怖い、怖い。 しかし実は加害者父事件を詳細に把握していて、お互い本音を喚き合ってからは、不毛だと思われた様子が一変 沈黙が静寂に 話合いの機会を設けて良かったね、と。
まぁでもこんな話合い取り付ける施設や団体が実際有るんですかね?ちょっと気になった 最後の聖歌隊が◎
人の為ならず
高校で銃乱射事件を起こし自殺した少年の両親と被害者少年の両親が事件から6年目に4人で会合する話。
あらすじを読んでいないと何があったのか、どんな関係かも良く判らない始まりで、会合の目的もみえないこと約30分。
遅々として進まない状況に少々面倒臭さを感じ始めた頃ようやく本題に入り、加害者少年の過去や事件のあらまし、両親の思いが生々しく語られて、一気に引き込まれて行く。
感情が昂ぶり激しい主張のし合いになればなる程どこか虚しさを感じるのは、第三者だからでしょうか。
そして会話が進んでいくとある意味グループセラピーの様な感じで、どちらの立場だったとしても実際にどちらかの親だったらと考えてもも、どういう感情になるのか想像つかず。
頭では理解したつもりにもなれるし、非常に興味深い内容だったけれど、感情移入が難しい…。
それでも映画として、とても面白い作品だった。
静かでいて胸苦しくも…
登場人物ほぼ4人の密室劇で凄い作品でした。出演者全員が素晴らしかったのですが、その中でもアン・ダウドが群を抜く存在感。と言うより存在感を感じられないほど自然で、素のままでは?と感じるほど。相当のハマり役だったと思う。
内容的にはとある事件の加害者と被害者の親が会って話をするのだけれど、アメリカの社会と文化の両極が必然性を持って存在する何とも胸が苦しい内容。物語の細部はフィクションと思われるけど、アメリカでは実際に本作に近い事件は起こっている。このような事後の環境もソーシャルサービスやボランティア活動が充実しているアメリカならではなのかもしれない。
映画館での鑑賞だった事も手伝って没入して鑑賞する事が出来た。
「被害者の親と加害者の親」「子どもを亡くした達」「母と母」
眠いです。ただし、ラストはハンカチ無しでは観れない。
銃乱射事件の加害者となった少年の両親と、その少年に撃たれた被害者の少年の両親。
それぞれの少年達の過去が明らかになるにつれ、少しずつ両者は距離を縮めていく。
ラストは衝撃の展開。
この人も孤独だったんですね…。
全編がほぼ上記4名の会話で展開されており、BGMはほとんどない。
そのためにほとんどが会話シーンで単調なので、正直開始早々寝落ちしてしまった。
ただし単調なシーンの連続ゆえに、被害者少年の親が反応の鈍い加害者少年の親にキレる場面。あるいは加害者少年の親が自殺した我が子を悼む場面。
いずれも公平な目線で感じることが出来た。
ラストは本当に家族の在り方について感じさせられた。
家族という形ひとつとっても、何故こんなに差が出来てしまったのか。
ところどころ寝落ちしてしまう。でも観るべき内容。
どういうジャンルなのかなかなかわかりにくいけど…。
今年45本目(合計697本目/今月(2023年2月度)11本目)。
他の方も書かれていますが、映画というよりは(架空の)ドキュメンタリー映画というのに近いです。舞台がほとんど動かないうえに、BGMも何もなく、いわゆる中学生・高校生(日本基準)のいわゆる加害・被害論を描くという映画で、去年(2022)だと「消えない虹」が趣旨的に近いです。
日本では映画内で描かれているような銃乱射事件は基本的にはないので、そこは日本からでは直接伺いしることはできませんが日本でも(年齢を問わなければ)時々みますし、海外ではこの手の事件はときどき報道されるので、まったくわからないということはないと思います。
この点では映画館で見る割に「娯楽」という要素が少なく、もっぱら問題的というタイプの作品ですが、日本では「ある程度」常識扱いされているので、余りこう、言わんとすることはわかっても、なかなかこう、「映画の趣旨は簡単にわかっても、作品から新たな気づき」ということはないのかな…という気はします。
英語のききとりもかなりやさしく(予告編参照)、字幕も丁寧だし、ドキュメンタリー映画というタイプなので、「何がなんだかわからない」ということは起きえないというところです。
そこまで大きな減点材料か…というと微妙ですが、そもそも論で日本で放映することを想定していないフシもあり、その点は理解可能なので、減点まではなしにしています。
ただ、今週(2月2週)の中では比較的、ドキュメンタリー映画好きという方でない限り、あまり「積極的に推せるか」というと微妙なところはあります。
途中、ウトウト…
基本、1つの部屋で話してるだけの映画で、けっこう退屈かな…
途中、ウトウトしました(笑)
被害者や加害者の画像は出てこず、話から想像する形式です。
マッケンジー・デイヴィスに似てる人いますが、別人です(笑)
観て良かったですよ、一応。
舞台に合いそうな重厚な会話劇
アメリカで起こる銃乱射事件は、映画の題材にしづらい。なぜこんな悲劇が起こるのかの説明ができない(説明してもこうなんじゃないか?って憶測の域を出ない気がする)し、学校が舞台だと少年少女が殺されるシーンが問題になりそうだからじゃないかと推測する。だから、加害者の親と被害者の親が話し合いの場を持つという設定はなかなかうまい。
でも、思った以上に場面展開はないし、画的にもストーリー的にも地味だし、BGMもなくとても静か。演劇賞をもらいそうな舞台に合いそうな話だった。だからなのか、4人の演技の凄みが際立っていた感じだ。
加害者であろうと被害者であろうと、子どもを亡くしたという意味では同じ立場の4人。ところが事件発生から感じてきたものが全く違う。お互いの息子のことを話す(そして相手の息子のことを聞きたい)という出発点から、4人の話し合いは次第にヒートアップ。相手のことを追及したりなじってしまったり、自分たちの対応は間違ってなかったんだと抗弁してみたり。その過程で事件の概要がわかっていくといううまい作り(それでも事件の全容を伝えていないのが憎い)。
答えが出るようなテーマではないから、最後の展開はまぁ納得のいくものだった(答えがないという意味で)。突き詰めるとキリスト教色が強くなってしまうのも致し方ない。
日本では銃乱射事件がないのでリアリティはないが、アメリカ社会では実際に起きていること。ただ、アメリカでもどうやって受け止めていいのかが定まっていないことが伝わってくる。とても考えさせられる映画だった。
この作品の凄いところは・・・
被害者家族と加害者家族
一見、対極に位置すると思える。
しかし、ながらその家族が、話を進めるうちに私には見えてきたことがある。
それは、どちらも、全くの当事者ではないということ。
被害者でもなければ、加害者でもない、いわゆる、極めて当事者に近しい傍観者であるということ。
傍観者が話し合ううちに反目するベクトルがいつのまにかジョイントしていく様は凄いなと思います。
ただ、思春期の子供を持ってない方には、効果音や音楽もないこと、カメラワークが単調であることなどを考慮すると少し退屈に感じるかもしれません。
同じ室内会話劇でも、「12人の怒れる男亅のようにはっきりした結論が出ない(出せない)だけにもどかしくもある。
万人向けの作品ではないけれど、こういう作品もあっていいかなと思います。
文化映画の様相を呈してるかな。
アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が発生。多くの同級生が殺害さ...
アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が発生。多くの同級生が殺害され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。事件から6年。息子の死を受け入れられずにいる2人は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をすることに。教会の奥の小さな個室で立会人もなく顔を合わせた4人はぎこちなく挨拶を交わし、対話を始める……。
「息子さんについて何もかも話してください」
密室で繰り広げられる4人だけの会話
我が子を失った被害者と加害者の両親
それぞれの苦悩が映し出される
被害者側、加害者側
誰の立場にも身を委ねたくなかった
だだ傍観者として
4人の会話を聴いていた
許すことなんてできないけど
話し
自分の心にも向き合うことで
救われるのかな
聞こえてくる音
見えた景色
灯る光はしずかで
4人の会話を聞きながら
救われてほしい
そう願った
俳優 #フランクランツ 初監督・脚本作
対話の流れを見守る
すごい作品です
「mass」
*集まり、集積、不定形の大きな塊
*ミサ、ミサの儀式、ミサの曲
カトリック、プロテスタント、正教会
聖公会、、、
教派のことはよくわからないけど
場所に選んだ教会にも意味があるのかな
息子への愛も思い出も永遠に消えない
この、気持ちをなんとしよう。
被害者と加害者、どっちの気持ちにも共感する。たとえ二度と会えなくても息子の思い出も愛も消えない。それはどちらも同じだから観ている方も苦しい。
ねぇ、これアカデミー賞じゃないの。。?
これはただの銃乱射事件じゃないよ。
高校で起こった銃乱射事件の犯人の両親と被害者の両親による修復的司法を対話のみで描いた作品。
何が起こったか、どんな状況だったのか、そしてつまりそれはどういう事件だったのか、をこの4人の対話のみで語られていくのだけど、全員すごい演技力で人間しか出てこないのに画面から目が離せない。
ものすごい迫力。
何がどうしてそうなったのかを知りたい被害者の両親だが、犯人の両親の語る「彼らの信じていたい私の知っている可愛い我が子」像に納得がいかず、しかし同じ親という立場からの共感せざるを得ない部分、これは主に息子への愛だと思うけど、そういう色んな気持ちが混ざって感情が激しく上下していく様が凄かった。
ずっと何かを憎み続けて生きていくのは辛い。そして人は人の不幸に対して興味を持つけど、それに対しての適切な助けはなかなかしないし出来ない。だから自分の不幸には、自分で自分の気持ちに折り合いをつけるしかない。
最後の彼女の選択はみんなどう思うのだろうか。(私はとてもキリスト教の国の人たちだなと思った。)
BGMはほとんど使われないのもまたいい。
ラストシーンに生きてくる。
監督はコロンバイン事件が起こった時、ちょうど同じような年齢でそれも怖かったけど、パークランドの事件の時にお子さんが2歳で子どもが育つ社会でまだ銃乱射があることに不安を感じて何かできることはと考えて作られたとのこと。
うん。
これは観るべき。
ドキュメンタリー映画よりリアルに感じた。
対峙することにより何かをを見つけられる
「強い、激しい、徹底的な、集中的な、強意の、強調の、内包的な、集約的な」という形容がぴったりの映画で役者同様、私も心身ともに疲れた。初め、何が起こるのか検討がつかなかった。何のためにテーブルがセットされるのか?4脚の椅子は果たして誰が座るのか?そのうち、エピスコパル教会のボランティアらしき青年、アンソニー(カゲン・オルブライト)は教会のジュディー(ブリーダ・ウール)に聴きすぎるといいわれなからカウンセラーらしき女性,ケンドラ(ミッチェル・N・カーター)に、’『今
までに経験がある』と尋ねる。彼女は6年と答える。それに、ティシュの位置をどこにするかケンドラは的確に指示をだす。何かセラピーが始まるのかと思いきや、窓のステントグラスの生徒のプロジェクトに対して、ケンドラは肯定も否定もしない。ここまでで、子供の問題か何かで、慎重に話し合わなければならないことが起きると感じだ。
それから、ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲール(マーサ・プリンプトン)の夫婦(エヴァンの両親)が車で現れる。教会で誰かに会いたくないが、一大決心をしてきたようだ。教会の中でケンドラがこの二人に次にやってきたリンダとリチャード夫妻(ハイドンの両親)を紹介して、その場をさる。これはカウンセリングじゃないなと感じさせる。
ここから対峙が始まる。
リンダが手製の花の鉢をゲールに差し出す。四人だけで話し合いが始まるが、リンダ(アン・ダウド)とリチャード(リード・バーニー)夫妻の誰かが何か害を与えたことが理解できる。最初からこの家族は課題の確信に触れない。触れられないというか躊躇しているような雰囲気が十分に出ている。何か悩みを抱えているようだ。雑談と言われるような会話で子供たちの写真を見せあったりしていくが、段々、口調も態度も大柄になったり、静かになったり、感情のムラがでてくる。スリラータイプの物語で、何が起きるのか徐々に紐解かれる。この紐解き方が脚本の素晴らしいところ。俳優も演技力があるから表情や動作だけでも一人ひとりの違いが出ていて、夫婦単位で見ても、個人単位で見ても、四人一緒の単位で見ても、お互いが連動していて絶賛に値する。
あらすじを書きはじめたが、これと二家族の心理を分析して、ここに描写するスキルは別である。私には心理や心情分析のスキルはないので、このストーリーを深く追求できない。悪しからず。
しかし私は親だけど、子供の死をこのように迎える立場に立って考えるのは難しい。殺された両親の気持ちを理解するのも、殺した両親の気持ちを理解するのも難しい。それも、両親とも子供を失ってしまったのだから。どの立場にたっても私ならと考えつかない映画で、会話に集中するだけだった。
俳優であるフラン クランツは監督や脚本までこなしている。1999年の米国コロラド州で起きたコロンバイン高校(Columbine High School)銃乱射事件と同じ設定なっているとおもう。でも、両親の心の中をこのような形で吐き出させているが、こんな経験をどこで積んで脚本を書いたのだろうか?俳優の表情や動きが上手いだけでなく、全く知らない役者だが一流だなと思った。それに、現在の課題、特に、コロナ・パンデミックでの結果、精神的に学校に戻れなかったり、コンピュータゲーム中毒やSNS中毒になってしまったり、孤立化してしまったり引きこもりになったりしている学習者に(ここでは高校生)対する教育は重要で勉強が遅れてしまったどころの騒ぎではない。将来、人間形成に与える影響が大きいので学校ではSocial Emotional Learning(SEL ) 日本語で「社会性と情動の学習」の講習会が増えているようだが政治組織や学校などのこの改革案が効果を見せているのだろうか?
この作品の設定はパンデミックが始まる前で、すでにこのような混乱現象は起きてニュースで聞いている。学生の乱射事件やいじめ、憎しみ、精神不安、友達ができなく孤立化してしまうなどは重要で、そして、現在も抱えていて、より深くなっていく問題をストーリーに加えている。あっぱれ!
そして今パンデミックの弊害が顕著になっていて、社会が暗礁を乗り越えられずにいる時代にぴったりのトピックだ。それだけではなく、コンピュータ中毒や銃社会ではこれらの諸問題の解決策は見出せないよと教えていると思う。解決策は「人間と人間の力」がいるよと言っていると思う。なぜかというと、この家族が子供を失うという人生で最も悲惨な経験をして裁判で結論は出している。でも人間同士の問題だから面と向かって正直に話し合う「対峙」によりお互いの気持ちを曝け出して許せたから。人間どうしだからできることである。立場は違っているけど相手の気持ちに寄り添えたから。人間の心の技でそれを証明した。人間ドラマである。
英語のタイトルを使うと、自殺も含めた大量(mass)殺人(11人?)となるが、エピスコパルの礼拝のように人が集まってきて礼拝するの意味もある。四人の心には悲しみは残るが心が洗われてやっと一歩踏み出せるという希望が見出せる状態になったと思う。映画の最後の『灯り』がその意味をもたらしていると思う。
勝手な解釈だが、日本語では「対峙』となってるが、宗教的なタイトルをつけると、商売にならないから対峙としたと思う。「贖い」がテーマになっていると思う。エピスコパル教会が対峙の場所としてセットされているのも大きな理由だが、映画の最後30分に説明されている。例えば、エヴァンの母親、ゲールが『許すよ』と何度もいうシーンがある。「初めは罪を償ってもらおうと思ったけど.....自分は息子、エヴァンを失ったけど......許すよ、ハイドンも」と。その時、周りはこの言葉をどう理解したらいいか困っていたようだ。夫のジェイでさえ。ゲイルは本能的に現状を維持しては生きられないことを知っている。ゲールはそして、自分のことを「深く傷ついた状態で生きられない。眠れない。」という。「恨んで生きていけない」と.....その後、それぞれが対峙した部屋を去っていく時、ゲールの目は「キリストが十字架にかかっている」ところへ。キリストが我々の罪の代わりに死んでくれた。そして、我々は罪人であるという意味で、ゲイルは十字架を見いながら全てを許すと再確認しているように見える。映画の最初で部屋の十字架の位置を見ておくとそれがわかる。
最後のシーンは私にとって圧巻だ。ハイドンの母親、一旦出たリンダが戻ってくるシーンだが、リンダは息子が「何も口を出すな殴ってやる」と叫んだから、彼女は自分の部屋に入ってしまったと。その時、彼女は「母親を殴れ!」というべきだったと。リンダは16歳の時の息子と親との壊れた関係をここで初めてエヴァンの両親に伝えた。そのために戻ってきたと思うが、母親が殴られ、(殺されて?)いたら、この事件は銃乱射事件にまで発展しなかったかもと映画を見ながら思った。ハイドンは極度の怒りをここで発散しなければ、治らないと思えた。親が、子供と対峙せず、誰が対峙できる。その意味でも対峙という日本語訳は一役かっていると思う。ゲイルはここで、リンダを抱きしめる。リンダも被害者で苦しんでいたことを悟り、彼女の気持ちに寄り添うことができる。ジェイとゲイルは教会の対応に(花を入れる箱)に戸惑いを見せながら、讃美歌を聴くチャンスに恵まれる。ジェイは自分のことをキリスト教(プロテスタント)と言っていたが、明らかに、俄クリスチャンぽかった。しかし、讃美歌が彼の心をとかし『許す』心を与えてくれた。ゲイルのように「許すよ」と言えなかったけど、ここで、自分への蟠りが溶けていったと思う。いいシーンだ。二人は教会に戻るかもしれないと思わせた。
米国の変わらぬ銃社会への強烈なメッセージかとも思ったが、いや...「ゆるし」合うことで次の生き方を見つけることができるのがメッセージだと思った。私だって、娘が殺されたら、何年経っても相手を許せるとは思えない。しかし、許さず生きていくことは苦しいことなんだとわかった。
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