対峙のレビュー・感想・評価
全107件中、41~60件目を表示
深刻で、濃密で、圧倒的な会話劇
俳優のフラン・クランツが脚本を兼務した初監督作品…とのこと。
ちょっと、驚きの作品である。
とにかく、会話。
2組の夫婦による会話が延々と繰り広げられる。
加害者の両親と被害者の両親が「対峙」する物語であることを事前に知っていても、事件の内容や当事者の状況などは4人の会話を追っていかないと見えてこない。
説明的な台詞は一切なく、最初はどちらが加害者側かすら判らない。
一方から子供との思い出を話してくれと言われ、「なぜ?」と相手側が尋ね返すと、その妻が「ウチの子を殺したからよ!」と語気を荒げて言う。
静かに始まったこの映画で、最初に緊張が走る場面だ。
序盤、2組の夫婦と夫婦の間で、あるいはそれぞれの夫と妻の間で、牽制しあうような会話が展開し、それだけでは意味を理解できない。
そして、前述の会話の後、親たちの悲痛な体験が徐々に明かされていく。
狭い部屋の中で、基本的に4人はテーブルを挟んで対峙しているが、被害者側の夫がテーブルを回り込んで加害者側夫婦の後ろで水を飲んだり、その妻が部屋の端に寄せてある椅子に移動したりする小さな動きを計算されたカメラワークで捉え、4人の演者の表情を丁寧に構図を変えながら映し出す。会話劇を緊迫したサスペンスに仕立て上げる演出が上手い。
このリアルな脚本には何か下敷きがあったのだろうか…
この会話の内容も会談の成り行きも、簡単には思いつきそうにない。
当然、被害者側が「攻め」で加害者側が「受け」の体勢だ。
最初は妻を制しながら冷静に慎重に会話を進めていた被害者側の夫だが、糾弾するためにこの会談の場を持った訳ではなかったのに、相手の煮え切らなさに激昂してしまう。
それは、そうだろう。加害者本人ではないとはいえ、その両親なのだ。なぜ、事件に発展する前に手を打てなかったのか、糾弾せざるを得ないはずだ。
加害者側の夫には、少し不誠実な態度に見えるときがある。
それも、そうかもしれない。開き直った訳ではないが、相手に何を言っても言い訳にすらならないことが解っている。問われたことに淡々と事実を応えるしかないのだ。ただ、彼ら夫婦も我が子を愛していたことは伝えずには終われない。それが、被害者遺族を逆撫ですることになったとしても…。
「なぜ、息子は死ななければならなかったのか」
実際の事件や事故でも、被害者遺族がしばしば訴えかける言葉だ。
「真相を明らかにしたい」
「二度と同じ不幸を起こさせないために」
この迫真の会話劇にズルズルと引き込まれていきながら、終わりが全く想像できないでいた。
最後にこの2組の夫婦はどうやって別れるのだろうか…。
被害者側が「赦す」しか、終わらせる方法はないだろう。
そして、とうとう驚くべき終局を迎える。
この物語を作るにあたり、どうやって赦すのかが重要点だったはずだ。
そして、被害者の母親が出した結論は、誰にでも出せるものではないように思う。
神を信仰する者だからか、あるいは長い期間悲しみぬいたからなのか、仮に同じ経験をした人がいたとしても同じ結論に達するとは思えない。
この被害者の父母夫妻は、はじめからこの結論を目指してこの会談に挑んだのだろう。その目的がなければ、あのテーブルにはつけないだろうから。
だが、この夫婦は用意した結論にたどり着いたように見えて、我々には釈然としないモヤモヤが残る。
この映画は、そんな観客のモヤモヤに最後の最後に強烈なカウンターを浴びせ、カタルシスをもたらす。
彼らが顔を会わせた最初に、加害者の母親が被害者の母親に鉢植えを贈る。これが最後にキーアイテムになるのも見事だ。
赦すことは難しい。
だが、人の親なら、あの加害者の母親を責めることができるだろうか。
絶望と憎しみの先に微かな光が見えた気がした
期待通り!
I forgive you
被害者家族と加害者家族のキリスト教的な関係性
2021年。フラン・クランツ監督。男子高校生による殺人事件の被害者家族と加害者家族が救いを求めて対話する様子を描いた作品。教会の一室を借りて、第三者を交えず、お互いの思いぶつけあう。
ほぼ会話だけで成り立てっている動きの少ない映画なので、論理展開が勝負。当事者の家族としてお互いに傷ついた、お互いに子どもを愛してる、というところに設置するしかないのだが、明確に被害者家族の方に寄り添っていて、加害者家族および加害者本人を「赦す」という母親の発言が、その後のすっきりした表情とともに、山場となるようなつくりになっている。
まあそうだろうだなと思いつつも、加害者家族はすっきりしていはいけないかのようなつくりに違和感が残る。加害者家族は赦されなければいけないのだろうか。または、この会合をきっかけにすっきりしていはいけないのだろうか。
教会という場所。ラストの讃美歌。神から与える一方的な「赦し」を被害者家族が加害者家族にあ耐える映画だった。キリスト教圏では自然に受け止められるのだろうか。
亡くした子供を思って生きることの重さ
すごい映画だった。銃の乱射事件の加害者の親と被害者の親が一つの部屋で話すのだ。
そもそも対立する間柄の2組の夫婦が、ぎこちなく話を始める。気を遣いながら、理性を総動員させながら。少しずつ本音が出始め、そして心の叫びに変わっていった。
被害者の母が、今なら言えると切り出した言葉、赦す という言葉はものすごくエネルギーを持って発せられた。そうしなければ、子供と共に生きられないと。この思いに至るために彼らは会ったのだと感じられた。
子育てをした親なら誰でも思ったことのある、今ならわかる、あの時こうしてれば、という気持ち。正解のない子育てを一生懸命やっていたのだ。
最後に加害者の母親が語る物語に母親はみんな涙するのではと思った。
なんだか微妙にピントが外れている教会の職員
ファーストデイにいつもの映画館で
たまたま休暇だった平日の朝のNHKの国際ニュース番組で
Worth 命の値段 と併せて紹介されていて興味をそそられた
あまり感情移入はできなかったが こどもを持つ親としては
一度は考える題材だ
基本2組の両親が1つの部屋で語り合う台詞劇なので
意味を汲み取ることにパワーを要する
観終わった後は疲れてぐったりしてしまった
本音を語って共有することで高次元の合意に至れる
みたいなメッセージを感じた一方で
やっぱり理屈を探ったり探られまいと防衛したりする
前者は概ね女性で後者は男性の傾向では
会場の準備をしたりするなんだか微妙にピントが外れている教会の職員
役に立っているんだかいないんだか…
一見邪魔のように見えるがちゃんと潤滑油になっている
こういう存在が社会には必要な気がして好感を持った
本作を観た当日に埼玉の中学校に高校生が刃物を持って侵入する事件があった
遠い国の話ではないのだろう
提案者は何者?その意図と勝算は?
鑑賞前から大まかな内容は知って予想はしていたのだけど、予想を上回るド直球の超真面目映画でした。
しかしこれが日本の場合成立するのかなぁ~。いや、日本の場合というより現実的に成立するのかどうか、想像しようとしても頭の中で全くシミュレーション出来ません。
あくまでも、個々の性格的要素が大きく影響するので、本作の様なエンディングの確率は何万分の1の様な気もするのだが、それでもあの教会の施設の一室の様な場を日本に置き換えようとしてもイメージが湧かず、ひょっとしたらああいう場で奇跡は置き得るのかも知れないという気にも少しなりました。
見応えのある4人の会話劇
1室4人の会話劇、迫真の演技で非常に見応えがあります。
銃乱射事件で息子を失った被害者両親と加害者両親の対話が描かれます。
重いテーマで精神的にくるものがあるので、よいコンディションでの鑑賞をおすすめします。
音楽も回想シーンもなく、ほぼ4人の会話のみなのですが、スリリングで緊張感にあふれています。
臨場感がすさまじく、肩を揺さぶりつけられるように訴えかけてくるものがあります。
舞台でも十分成立しそうではありますが、映像作品だから伝わってくるものがあります。
カメラワークがすくい上げる唇や指先のわななきが痛切です。
邦題は「対峙」ですが、原題の「Mass」はミサ(クリスマスのマス等)を指すそうです。
本作のテーマを狂いなく体現する邦題もすばらしいです。
見届ける役割り
モキュメンタリーっぽいかと思ったらちゃんと映画だった。
役者が全て
死ぬまで自分の中の「想い・感情(苦しみも含めて)」と“対峙”していかなければならない四人の人々。
①“対峙”という日本語の本来の意味からすると、この二組の夫婦は初めから“対峙”など出来ない。
何故なら、一方の夫婦はいくら責められても反論出来ない。言い分があったとしても世間的には言い訳としか受け取られない。
それに対して、もう一方の夫婦は責めようと思えばいくらでも責められる。
同じ立場ではないのだ。だからこの二組の夫婦に出来るのは“対峙”ではなく“対話”のみ。
そして、この対話も何かを解決したり、出来るものではない。
対話の末、四人が再認識或いは初めて認識出来たのは、結局対峙しなけばならないのは自分の中の自分だということ。
この映画はそういうことを云いたいのだと思う。
この二組の夫婦はこれからも対話を続けるのだろうか。恐らく続けても救いや解決は来ないだろう。でも「この認識」を思い出す為に対話し続けるようにも思える。
②私は子供がいないので、その喪失感は想像するしかないですが、実際の喪失感は私の想像どころではないでしょうね。
親は子供のどこまで責任を持たねばならないのか。日本では一応18歳くらいまでとなっていますが(対外的に?社会的に?)、子供が自意識を持ち初めてからは果たして子供のすることの全ての責任が取れるかどうか?私達子供のいないものにとってはついつい「親は何していた?親の顔が見たい」的な考えをしてしまいがちですが…
③唯一私に理解に近いものを感じられるのは加害者の親が自分の息子に異常なところ・怖れに近いものを感じながらそれに対して尻込みしたり見て見ぬふりをしていたところ。
私の弟が統合失調症(その頃は精神分裂症と呼ばれていた)を発症した時、因習深い土地に住み世代的にも精神病理に疎い両親(特に父親)は世間体を気にし病気の事がよく分からず暴力をふるいだした事に恐れて(私は当時海外駐在中)後手後手に回り、勿論弟本人の性格も手伝い、結局精神病院への入退院を繰り返して現在は施設に入っている。後であの時ああすれば良かったのに、こうすれば良かったのにと私が思うのは兄弟という間柄のせいで、両親としては愛情と恐れ・不安の狭間で途方に暮れていたのだろう。だから、本作の加害者の両親が経験した愛情と不安・恐れとの間で揺れていた気持ちは漠然と理解できる。(USAの方が日本より精神病理に対する理解やケア、福祉が進んでいるとしても)
私の家の場合、弟の暴力が家族だけが対象で外(他人)にふるわれなかったのが救いといえば救いだったけれども。
加害者の父親の「産まない方が良かった」という台詞があった。
私の弟の場合、母は産みたくなかったようだ。しかし父が有無を言わせず出産させたようだ。そして、弟が発症して家族に対して暴力をふるいだした時にこの台詞と全く同じことを言ったことを思い出す。
私も「いっそ死んでくれたらよいのに」と思ったことは一度ならずある(『ロストケア』の世界だね。)
④加害者の両親の方はこれまで筆舌に尽くせない苦難を乗り越えて来ただろう。犠牲者の家族からの恨み・非難は当然、世間からの非難・中傷誹謗(一部同情もあったと台詞の中にあったけれども)の波、取材陣の波、鳴り続ける電話や引きも切らない手紙やメール、仕事への影響、離れていく友人たち。
賠償の問題もあるだろう(USAのその辺りの制度はよく知らないが)
私なら耐えられないかも知れない。
⑤といって加害者の親の方に一方的に肩入れしているわけではありません。USAと日本の親子関係にある程度違いはあるかもしれないとはいえ、子供に対する愛情は変わらない筈。手塩にかけて育てた子供がある日突然理不尽な暴力で失われてしまう。その喪失感・無念さ・怒り・絶望・悲しみは死ぬまで癒されることは無いだろうと思います。
⑥二組の夫婦を演じる四人の俳優の見事な演技。
日本であれば許されないであろう
加害者の親が、自分の息子も死んでしまったし、他の犠牲者のようには弔われていないので悲しいというのはそうかもしれないけれど、やはり日本ではそういうことを言うことすら許されないであろう。ましてや、後から加害者本人の犯行直前の異常行動に気づいていたことがわかっていたのなら、親としてなお責められても仕方ないであろう。被害者の親たちは、加害者の母親が提示した亡き子への愛の回想だけでなく、自ら癒やす方法に到る途は様々にあるはずであろうから。
愛していたのは真実
心に沁みる作品
タイトルなし(ネタバレ)
米国の田舎町、そこにぽつんと建つキリスト教系の教会。
牧師の妻が対面セッションの準備をしている。
テーブルはこれでいいかしらん、お茶や食べ物はこれぐらい必要かしらん、と。
コーディネーターの黒人女性が現れ、部屋をチェックする。
シンプルで問題はないわね、ピアノの練習音はちょっと気になるわね、ティッシュはあるかしらん、テーブルの真ん中に置くのは良くないわね、と。
しばらくして、あまり裕福でない感じの中年夫婦ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲイル(マーサ・プリンプトン)が到着する。
遅れて、身なりが整い、やや慇懃な感じの夫リチャード(リード・バーニー)と小さなボックスに入った花束を持った妻リンダ(アン・ダウド)が到着。
コーディネーターを介して、対面セッションが開始される。
セッションは4人だけで行われる・・・
といったところから始まる物語で、あまり前知識なく観る方がよいでしょう。
語られるのは6年前に起きた事件のこと。
リチャードとリンダの息子が高校で引き起こした銃乱射事件。
ジェイとゲイルの息子は、被害者のひとりだった・・・
ということが徐々にわかってきます。
被害者家族と加害者家族が直接会うことはかなり障壁が高いようで、ジェイとゲイルは様々な権利放棄をしてきたことがわかります。
映画は、ぎこちない対話の開始から、緊張感を持って描かれます。
限定空間、限定的な登場人物。
これで2時間近く持たせるのは至難の業なのですが、初監督兼脚本のフラン・クランツは脚本のみならず、抜群の演出力をみせます。
セッションまでは引きの画の固定カメラを使い、セッション開始からは丸テーブルで対峙した4人のアップを中心に、これまた固定カメラでみせます。
やや保身態勢のリチャードに対して、感情を高ぶらせるジェイ。
ここで画面は黒味になり、外の風景ショットを挟みます。
有刺鉄線が張られた野原。
鉄線から垂れ下がる中途半端な長さのリボン様のもの。
で、これまでビスタサイズだった画面がシネスコサイズになり、感情を高ぶらせたゲイルが丸テーブルを離れます。
同時にカメラは手持ちになり、緊張感と不安定さが増します。
計算された演出です。
ジェイがゲイルに寄り添うためにテーブルを離れ、リンダもジェイの話を聞くためにテーブルを離れ、感情を高ぶらせたゲイルにティッシュを渡すためにリチャードもテーブルを離れます。
このタイミングも素晴らしいです。
彼らのセッションは続きますが、この対話の中に答えや正解はありません。
あるとすれば、相手のことを理解しての「応え」でしょう。
そして、息子の思い出を語り終えたゲイルが、ジェイに「言ってもいいか」と問うた後に、心の底からの言葉を絞り出します。
「(リチャードとリンダの)ふたりを赦します。あまつさえ、おふたりの息子も・・・」と。
このシーンも演出が際立っています。
ゲイルの言葉とともに、部屋の外が明るくなり、露光がオーバー気味になります。
静かにセッションは終了するのですが、リンダが持ってきた花束を巡って時間が費やされる間、先に立ち去ったリチャードとリンダ夫妻のうち、リンダが戻ってきてセッションのときには言えなかったことを告白し、ゲイルの抱擁で終幕を迎えますが、ここでの演出は画面外から教会で練習している讃美歌の声が聞こえてきます。
すこしキリスト教的な感じが強いのですが、「赦し」がキリスト教教義の中心なので、やはりこの演出になります。
ラストショットは、ふたたび有刺鉄線から垂れ下がったリボン。
野原の奥の建物に明かりが点り、フェードアウトしていきます。
垂れ下がったリボンは、心に残った引っ掛かり。
その向こうには、あかりがある、という暗喩かもしれません。
傑作です。
<追記>
映写用のデジタル素材のせいなのですが、ビスタ→シネスコのサイズ変化が効果を発揮していませんでした。
以前のようなフィルム上映だと、天地のサイズを固定して、ビスタ→シネスコと変化する際は、スクリーンが横に伸びたものですが、今回は左右の幅は変わらず、天地のサイズが縮んでしまいました。
「赦し」へと導く画面サイズの変更なので、横に伸びないと効果が半減、激減です。
これは残念。
途中での画面サイズ変更の参考作品として『モンタナの風に抱かれて』『ブレインストーム』を挙げておきます。
睡魔との対峙
前半寝てしまいました。
仕事終わりの2本目で見たのがよくなかったのだと思いますが、他の方のレビューにもありますが、内容的に単調なので少し退屈します。
あくまで悪いのは自分で映画ではありません。
事件から6年後、被害者側と加害者側がセラピストに勧められて「対峙」するというお話ですが、おそらく、最終的に対峙すべきは自分自身で、自分と向き合うことで次の一歩を踏み出すことができた。というお話だと解釈しました。
知的好奇心を刺激した
密室での4人の会話劇が、こんなにヒリヒリ緊張感に溢れていて、怖いとは。
そして、この作品のすごかったところは脚本や役者の演技に加えて、撮影でしたね。
登場人物の心境によって、寄りになったりするのは普通ですけども、お互いの理解が深まるごとに、レンズにどんどん広角を多用。
最後には画角(縦横比)が変化し、超広角レンズを使用するという。
見ている景色が変わっていくことを見事に表現していました。
2018年のフロリダ州パークランドのM・S・ダグラス高校乱射事件を知った監督が、アメリカで加害者と被害者(または本作のように加害者の親族と被害者の親族)同士で語り合う「修復的司法」を取材して作り上げたもので、リアリティに溢れたものだったのですが。
私には未知の、そんな司法制度の「新しい知識」を得られて、また『ヒトラーのための虐殺会議』の真逆な人間の共感・理解を深める感情のキャッチボールを惜しまない会話、そして「優れた表現」を観られました。
面白いとかつまらないとかの話ではなく、知的好奇心を刺激してくれて、観ておいてよかった作品だったな、と思いました。
全107件中、41~60件目を表示