怪物のレビュー・感想・評価
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怪物だ〜れだ
是枝監督一流の子役演技指導術や家族の描き方と坂元さん特有の一筋縄ではいかない恋愛観がとても最高な化学反応を起こしている映画だった。
映画の形式としては火事から子供達の失踪までを3視点から描く羅生門形式である。
そして、最後の答え合わせとなる子供達視点はかなり衝撃、というか予想外の所からきていて不意をつかれた。
怪物とは誰のことだろうか。
母親も先生も決して悪い人ではない。しかし、無意識に自分の価値観や思い込みを持って子供達に接する。
自分の息子が異性が好きだと信じて疑わない。
もし母が子供からカミングアウトされたらどうしていただろうか?星野君のお父さんみたいに豚の脳と言って罵っただろうか?そんなことはないと思う。子供達も誰かに話せば認めてくれたかもしれないのに話さなかった。
どうすればよかったのだろうか。
最後の解放をハッピーエンドと捉えるのかバッドエンドと捉えるのかいまだに整理がつかない。
すきだけど、少し残念なところもある
この映画に対しての違和感は演出の過剰さのみです。少しだけソレは残念。全体的な評価でいけば、とてつもなく高いと思います。
ただ、序盤でのシーンでの先生の飴のシーンで緊張をほぐすために舐めていたのだとしても、社会人としてどうなの??と思ってしまう。
色々と気になるところは多いが、少し現実離れしてるように感じるシーンも多々あり気持ちが映画から離れてしまう感も否めません。
子役たちの演技はとても素晴らしいです。特に柊くんに関しては役を自分のものにしていて、物語にとてもマッチしている子役さんでした!!
あの子だからこそあの役を演じきれたのだな…と。
湊くん役の子もとてつもない存在感で未来の柳楽優弥の呼び声も理解できます。
またDVD発売したら、2回目も観たいなと思いました!
うーむ…
まず瑛太のキャラクターが安藤サクラパートと瑛太パートで違いがありすぎると思った。『いや、瑛太全然キャラ違うじゃん…それはダメでは?』と観ていて思ってしまった。途中のライターを点けるシーンや、2人で電車の窓を拭うシーンは良かった。
ただ、最後の子供達のパートがただの答え合わせになっているのが嫌だった。最も大切で観ている側が感じるパートだと思うけど『あぁ、あの時はああだったのね。この時はこうだったんだ』みたいな断片的な部品を埋めていくのに頭がいっぱいになって映画を楽しめなかった。
私は苦手…
先週は2つの上映作品を観た。そのうちに1つが監督・是枝裕和 × 脚本・坂元裕二 の「怪物」。私はこの手の映画はもともと苦手・・・。とくに是枝作品は苦手である。世間的には評判がいいのは知っているが、私の評価は星3.0。
坂元裕二さんの脚本もよかったし、ラストで流れる坂本龍一さんの遺作曲も素晴らしかったけど、私にとっての映画の時間は、エンターテインメントに限る。
とりわけ、制作者が鑑賞者に答えを委ねたり、あるいは作者の意図を理解してみろといわんばかりの、ややこしい映画志向は好きにはなれないのである。今回も行こうか行くまいか迷ったけれど、安藤サクラさんが観たくて行ったが、やはりお金出してまで観なきゃよかったと後悔をした。
いくつかのYouTube解説をみて、もやもやしていた大方のなぞ(フランケンシュタインと銀河鉄道の夜や)は解けたけれど、主役麦野湊の母(安藤サクラ)も担任教師である保利先生(永山瑛太)も全く救われていない、後味の悪さだけが私には残ったのだった。なので、世間になにを言われようとも、私の評価は低い。LGBTもめんどくさいわ・・・。やはり映画はスキッとしたエンターテインメントに限るなあ。
タイトルなし(ネタバレ)
それぞれに大切なこと、守りたいものがあって、そうすると見えなくなるものがあって、、
自分は分かってる、見えてる、なんて驕りでしかないんだなあ、、と自戒。
悪意だけでできている人はいないという希望と、自分ではどうにもできない不可抗力感と、、
とりあえず息子をもつ母として、ザワッザワしながら見ました!
この映画の弱点と感銘
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
※本来の長いレビューを書く時間が最近ないので、短く
結論から言うとこの映画『怪物』は非常に感銘を受ける映画だと思われました。
しかし一方で、特に前半に欠点もはらんだ映画だとも思われました。
この映画は前半、映画『羅生門』のように、シングルマザーの麦野早織(安藤サクラさん)、小学教師の保利道敏(永山瑛太さん)、小学校校長の伏見真木子(田中裕子さん)のそれぞれの視点からほぼ明確に分かれて描かれます。
つまりシングルマザーの麦野早織の視点から描かれていた時は、小学教師の保利道敏や小学校校長の伏見真木子はどう見ても悪人に見えるのですが、小学教師の保利道敏や小学校校長の伏見真木子の視点から描かれると全く違う印象が生まれるという描き方です。
しかしこの描き方は、視点が変われば違う見方になるとの相対的な面白さはありながら、ドラマ性としての面白さは落ちてしまうとの欠点があります。
なぜなら、それぞれの視点で違う見方があるとの描き方をするには、それぞれの登場人物の直接対立を巧妙に避ける必要が出てくるからです。
事実、校長室でのシングルマザーの麦野早織と、小学教師の保利道敏や小学校校長の伏見真木子との直接の対決は、小学校側が謝るばかりで巧妙に避けられています。
実は私達は、人が集まればそこで(それだけではないのですが)対立が大なり小なり発生し、価値の優劣、つまり上下関係が派生します。
そしてこの対立こそがドラマ性だと思われるのです。
この映画『怪物』は、前半で巧妙に直接対決が避けられ、それぞれの(今回重要な)事実性の価値優劣上下関係が発生しないように作られています。
これがこの映画の特に前半のドラマ性の低下につながったと個人的には感じられました。
個人的には、前半は普通にきちんとシングルマザーの麦野早織と小学教師の保利道敏や小学校校長の伏見真木子と直接対立させる脚本構成の方が良かったとは思われました。
そうすれば後半の麦野湊(黒川想矢さん)と星川依里(柊木陽太さん)の2人の美しい世界がさらに際立つ傑作になったのではと思われました。
前半の事実性の優劣上下関係を避ける脚本は、個人的には作品全体としては惜しい描き方になってしまったとは思われました。
ラストは
そーゆー事?先生と安藤サクラ、土砂崩れに飲まれた?
怪物誰だったんだろ。
怪物は真の中村獅童としか思えない 。
途中だれてつかれた。
瑛太のクズ役って右に出る者がいないのに、観てたらそんな悪い役じゃなかった
いじめっ子のガキがイライラした。特にのび太タイプの、見た目のいじめっ子って鬼畜そう
傑作
公開日に観に行ってから今日までに5回観に行きました😅
最初は少し難しいと思い、考察を見るとなるほどそういうことかと理解することが出来ました。
そこから、友人とこの作品を共有したいと思い様々な人と足を運びました。
シナリオブックとノベライズを読んだ後の4回目が1番沁みました。
観終わった後にここまで語り合える映画は今までなかったです。
自分の中の邦画ベスト1になりました。
脚本、音楽、演技、全てが最高峰。
最初、保利先生はすごい先生だ、、、、と。
しかし2幕、3幕と進んでいくとどんどん視点が変わっていきラストシーンはとても切ない、けど愛おしい演出でとても好きです。
湊と依里のシーンはずっと観ていたいほど素晴らしい演技、雰囲気。
小5の難しい年頃の感情をうまく表現していてこの2人には拍手です。。すごすぎる。。
また、田中裕子さんのセリフも色々考えさせられました。
公開からだいぶ日も経って、本数も減っていますがまた行きたいと思います。
「怪物」 最高です。
怪物になれなかった子どもたちのために
「怪物だーれだ」という不気味な予告が印象的なこの映画は,1つの事件に多角的に光を当て,黒沢明監督の『羅生門』的な構成で進行する。1つの物事をさまざまな角度から見せられると,自分たちがいかに狭隘な視点で世界を見ているかを気づかされる。戦争が「正義と悪」という二項対立で片付けられないように,現象は簡単に割り切ることはできない。人は世界を自分の見たいように見ているという「認知バイアス」は誰しも心当たりがあるだろう。SNSの世界では特にその傾向が顕著だ。子供に体罰を加えたとして謝罪する教師(永山瑛太)は,母親(安藤サクラ)のいるその場で飴を口にするが,あの行為は実際に起こったのか,それとも母目線ではそういうふうに見えたのか。常識的に考えれば,謝罪の場で,教師が飴を口に入れ,噛み砕くことは(おそらく)ありえない。もしそのような脚本があれば「リアリティがない」として修正されるはずだ。しかしこの映画にはその「ありえないこと」がいくつも書き込まれている。さらに,教師の口調や態度もおぼつかない。下手な役者の演技を見せられているようだ。しかし,これらは母親には「そう映った」という認知の表現なのではないだろうか。「実際に起こっていないこと」も映画は描き出せる。幻や想像,過去や未来として。もちろん「認知バイアス」をその系で表現することも可能である。映画が終わっても,作品世界の事件は解決しないし,解釈は観客に開かれている。悪く言うと物語の構造は「ネグレクト」されている。多くの物語には起承転結があるが,この映画にはそれどころか着地点がない。だから見終えたあとにもやもやした気持ちで,劇場をあとにする人も多いだろう。本作は割り切れない現実のリアリティを提示しているように思える。そして,大雨警報の発出された夜に,子どもたちが打ち捨てられた電車に乗って新しい世界へと「出発」するラストシーンはまるで『銀河鉄道の夜』のように美しい。光の中へ駆け出す彼らは怪物だらけのこの世界から抜け出すことができたのだろう。それがどのような救済だったのかは定かでないが,『銀河鉄道の夜』の風景を想起させられた私はそこに死を読み取った。真実はひとつではない。物事を単純化することに警笛を鳴らす鉄道は,邦画の次元をひとつ繰り上げることに成功した。第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され,「脚本賞」と「クィア・パルム賞」の2部門を受賞。脚本は坂元裕二。
子供の心、大人は知らず。ただそれだけの話し
子供はただ楽しくやっているのに、誤解した大人たちがいたずらに騒ぎたてる。
という映画。
これを凝った作るにしている。
観ていて冷めてしまった。
大人も子供も怪物ではありませんでした。
怪物だれだ
是枝裕和監督・坂元裕二脚本・坂本龍一音楽。
間違いない実力派が組んだこの映画が面白くないワケがない。公開前から期待していた映画を、公開から少し遅れて鑑賞しました。
結論ですが、面白かった!!!
是枝監督が得意とする陰鬱だけど美しい描写、坂元脚本の魅力でもあるコミカルとシリアスの切り替わり・坂本音楽の恐ろしく繊細で引き込まれるような感覚。どれをとっても素晴らしかった。役者陣の演技も本当に素晴らしく、どの俳優さんもハマり役でしたね。内容が結構重い内容なので誰にでもおススメできるかと問われれば微妙ですが、少なくとも観ておいて損は無い傑作だったと感じます。
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夫を亡くし、女手一つで息子を育てる麦野早織(安藤サクラ)。息子の湊(黒川想矢)の怪我や奇妙な言動から「息子が学校でいじめを受けているのではないか」と疑った早織は、学校へ直談判に行くことにする。そこでの教師陣の態度や言動から、早織は更に疑念を深めていくのであった。
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数人の登場人物の視点から、学校でのいじめ疑惑について迫っていくという内容。最初に抱いていた印象が視点が変わるごとに塗り替わっていき、最後にとある人物の視点から描かれた描写を観ることで、これらの事件の真相が見えてくる。
物語の構成としては特別斬新なものではありません。昨年公開された佐藤二郎主演のサスペンス映画『さがす』も本作と似た構成となっていましたし、古くは黒澤明監督の大傑作『羅生門』(1950)だって、「複数の登場人物の視点から一つの事件を描き、真実に迫る」という構成の映画でした。
本作は構成が良いだけでなく、それによって描かれるストーリー自体の美しさが非常に魅力的です。現代的といいますか、今の時世に合っていると感じます。そしてラストの展開も、観客に対して最終的な判断を委ねているような、人によって解釈が分かれるような描き方をしているのも素晴らしいです。
テーマや内容は結構重い話ですし、前半は胸糞悪い展開があるので万人に勧められる映画ではないとは思いますが、多くの人にぜひ観てもらいたい傑作映画だったと思います。オススメです!
怪物だーれだ?
私が、映画を見て果たして誰だろう。。
誰が1番酷い事をしてしまったのか。。
色んな意見があると思いますが
ここは、星川依郷君の父親だと思う。
そして、校長の伏見。。
この作品は子役の彼たちやクラスメート
にとって
凄く良い映画になったと思います◡̈⃝︎⋆︎*
演技力もそうですが、
可愛いくて最高でした◡̈⃝︎⋆︎*
これからも、頑張って欲しいです。
とても、応援したくなりました!
幸せになる資格
「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。」
田中裕子演じる校長先生のこのセリフは、心の奥に突き刺さる。
彼女は「永遠に幸せになれない道」を選んだ。
その彼女にしか言えないセリフだ。
私たちは何かを望むとき、すぐに「資格」をイメージしてしまう癖がある。
手に入れるためには何かを差し出し、資格を得るのだ。
でも、差し出すものを私は何も持っていない、と確信することがある。
私はプロ野球選手にはなれないし、総理大臣にもなれない。
当然だ。それは認める。そういうものだ。
でも幸せはそういうものではないはずだ。もっと別の種類の何かだ。
「誰かにしか手に入らない幸せ」は「しょうもない」のだ。
これは、本当にそうだと思う。
「しょうもない幸せ」は目標にしやすい。
本当の幸せは、目標になんてできない。
そして「いつかやってくる可能性」は絶対に消えたりはしない。
ロジックを超えた田中裕子の怪演に、深く説得されました。
脚本の出来、シンプルに悪いのでは??
観終わってまずの感想は、これでカンヌ脚本賞!??脚本の出来はかなり悪いのでは??というもの。
三幕構成で一幕ずつそれぞれの視点で見せる、「真相はそれほど単純ではない」形式とでもいうような、よくある形なんだけど、これが非常に雑に感じられた。
そもそもこの形式で魅力的な映画にするなら、人物自体の根本的なキャラクター性は一貫していないといけないし、伏線も張り放題なので意味を持たせる必要があると思う。
ところが……
◇主要人物である瑛太扮する先生が人格レベルで変わっている
1幕目と2幕目でいくらなんでも人として違いすぎ。視点が変われば人への見方も変わるというレベルじゃない。
特にこれ見よがしに高畑充希に「飴でも舐めて、テキトーに振る舞えばいい」みたいなことを言われるシーンが挟まれているけど、絶対に謝罪の場で飴舐めるような奴じゃないじゃん!
1幕目ではサイコパス野郎かと思って、ある種ワクワクしていたのに、超普通の人。それに対して受ける仕打ちが酷すぎて、ただただ可哀想すぎるよ。
特に作劇的に面白い人物でもないし、普通の人が超つらい境遇に貶められて、しかもなんのフォローもない話って、これは何を見せたい伝えたい話なんだ!?
◇ミスリードなのか意図があるのか、よくわからない伏線ばかり
・ちょいちょい出てくる眼光鋭めで、猫について告げ口する女の子は何がしたかった?みなとくんが好きだった?作中で語られなすぎて意味不明。
あと、猫については、あの状況で女の子はどうやって知れたの??
・よりくん、学習障害とか広い意味で発達障害を匂わすような描写が多々あったけど、その設定必要あった??結局、中村獅童の教育的虐待が向いているのは、ゲイであることだったんだよね?
・田中裕子全般、意味ありげなキャラクターとして出てくるけど、シンプルにどクズなだけだよね??なぜ深い思慮ある感じで吹奏楽を吹くシーンを??全然深くねーだろ!
樹木希林もそうだったけど、是枝作品の高齢女性が語れば深い、みたいなのが個人的に嫌い。
その他、
・金魚はなんか意味あったの?
・高畑充希は単なる貢がせ女だったの?
・なぜあそこまで安藤サクラは息子に話を聞かないの?
・ガールズバー云々の件全般、必要だった?
・小2のとき?の担任の先生はなんだったの?
・靴の踵を踏んでいたりネグレクトを受けてそうなのに、よりくんの家はなんで綺麗なの?別にネグレクトはされてないの?
とかいちいち気になって、なんか入り込めなかった。
怪物だーれだって、誰しもが怪物って見せたい映画なんだろうけど、
・いじめっ子
・中村獅童
・田中裕子
の描かれ方が雑すぎるうえにシンプルにわかりやすくクソだから、いやいや怪物はこいつだよ!ってなります(次点で安藤サクラ)。
そのくらい浅い見方を許す程度には、ディテールの描き方が雑。いじめっ子なんか、昭和ファンタジーの描写みたいだよ。
あと、坂元脚本✖️是枝監督のそれぞれの良さが微妙に噛み合ってない気がしたのが、子ども2人の年齢設定。妙に10歳程度の子にしては、悩み方や発言が大人びていて、是枝さん最大の武器?である子どもの自然さが本作では損なわれている気がしました。
そもそも社会派を気取りたいのか?賞レース的に狙ってなのか?ゲイを主テーマにして案の定?クイア賞も受賞していますが、それほどそこに真摯な想いを持った作品には感じられませんでした。
観終わってから是枝さんの発言が一部で炎上していたことを知りましたが、日本映画でももっと誠実に取り上げている作品はありますよ。『彼女が好きなものは』とか素晴らしかったもんね。
とはいえ、観て損したと思うような駄作映画ではないですし、船場吉兆ギャグかましていた1幕までは面白かったです。
この映画はいろんなテーマを盛り込みすぎてゴチャゴチャになっちゃっていましたが、もしそのタイトルのテーマに惹かれる方がいたら、吉田恵輔監督の『空白』を激推しします。
誰でも得られるものこそが”幸せ"?
是枝作品なのでエンディングがこちら側に委ねられるのは予想通り。でも、それ以外は凄かった!ずっと「うわ、やられたー!」と思いながら観てた。
火事をトリガーに母親と先生と子どもたちのそれぞれの視点から一連の過程を振り返っていくことで、事実がいかに曖昧なものなのか、人間の複雑な多面性、何気ないセリフに散りばめられていたトゲの存在、社会の醜悪さ、そんなものが湊、依里パートでぶわーっと見えてくるのは圧巻としか。
物語では3人の視点が中心だけど、やる気の無さそうな校長先生にもまた校長先生だけが抱えている事実があり、保利先生に猫の死体の話をした女の子にもまた彼女なりの事実があるんだろう。
校長先生の「誰でも得られるものこそが幸せ」は世間一般的には「普通」って呼ばれるやつではあるんだろうけどもその「普通」のことができない人間には堪らない。このセリフにあらゆる理不尽が凝縮されてたように思う。
観終わってからずっと「怪物」とは何なのかを考えている。彼らの親のことなのか、学校なのか、この先待ち構えている不寛容な社会のことなのか、彼と自分を守るためにどうしようもなくなって些細な嘘をついた湊のことなのか、宇宙人と呼ばれるほどにピュアな依里のことなのか、それとも物語が進むごとにコロコロと見方を変える私のことなのか。
やはり是枝作品は容赦なく回答をこちらに委ねてくる。
人は主観でしか物事を見れない。
人は主観でしか物事を見れない。
時折耳にするが、日頃そこまで意識することのないこの言葉を強烈に突きつけられる。
母親が学校の教師陣を問い詰めるシーンで、教師達の杜撰な対応に、母親が理解に苦しむような目を向ける場面。視点を変えて処世に付き合わされる若い教師が何かを読み上げるように謝罪を述べる場面。それぞれの主観に立つと見事に感情移入ができてしまう。
一見まごう事なく悪に見える学校側の隠蔽も(もちろん許されることではないが)、過去の経験から見出されてしまった結論である。
そんな出来事の中心にいる少年たちが、宇宙の未来について話す場面がある。宇宙は膨らみ続け、いつか破裂して時間は巻き戻ると、例えを挙げながら軽口のように話すが、身の回りの重い現実を、宇宙が始まってから終わるまでに起こるある種の自然現象のように捉えたような視点。
そんな達観したような一面を持ち合わせながら、良いことも悪いことも、懸命にもがきつつ経験していく姿が尊く映る。
怪物とは何か、、
最初予告見た時、なんかホラー的なものかと思って見ようと思ってませんでしたが、後から思っていたのと違う系統だとわかって見に行きました。
映画は3人の視点で構成されていて、
最初は湊の母、湊の担任保利、そして湊となっています。
作り的には、湊かなえさんの本と似てるなあと思いました。それぞれの視点で見ることにより、実際はこういうことだった、というのが見えてきます。
前触れもなく、月日が戻るので、見ていて、あれ?となりましたが、それは一瞬だけでした。
●湊の母
湊の水筒から泥が出てきたり、怪我をして帰ったり、僕の脳は豚なんだと言い出したりするので、問いただすと、先生にやられたという。
クラスメイトの依里の家に聞きに行くと、湊の片方の靴があったりして、湊が貸してくれたという。そして学校で湊がいじめられてると思い、真実を確かめるべく学校に行くも、先生も校長先生もただすみませんと謝るばかりで、気持ちもなく、何もわからない。
ある日家に帰ってこない湊を心配して、依里に聞いて秘密基地の場所へ迎えにいく。その帰り道、湊は走っている車からドアを開けて飛び降りる。
母は湊が自殺しようとしたと考え、先生を辞めさせるように動いていく。
そして全てが終わったと思った嵐の日、湊の姿は消えていた。
母にとっては、学校そのものが怪物だった。
● 保利
担任になったばかりの新米教師で、自分の小学校の時の作文を読んだり、子供達に少しでも馴染もうと頑張っている。ある日教室で湊がクラスメイトの体操着を投げて暴れていた。依里は上履きを隠されたりトイレに閉じ込められたりして、湊がいじめてると思うようになる。
そして、湊の母が乗り込んできて、自分が湊に暴力をふるったとか、暴言を吐いたとか身に覚えのないことばかり言われる。校長や先輩の先生方には、こういう対処はまかせておけ、とりあえず謝れと指示される。ガールズバーに行ってたという噂も立ち、学校を辞めさせられる。
保利は週刊誌の誤植を見つけるのが趣味で、ある日未添削の生徒の作文を何気に添削して、湊と依里の関係性に気づいて家を飛び出していく。
保利にとっては、湊の母や先生たちが怪物であった。保利を信用できなくなって、自分の対面を気にして、離れていった彼女もまた怪物かもしれない。
●湊
湊のクラスでは依里に対するいじめがあり、自分に飛び火するのを恐れて、学校では庇えなかった。でも外では、依里は自分の知らないことをいろいろ教えてくれて一緒にいるのが楽しかった。
壊れたバスを秘密基地にして、2人だけの時間を楽しんでいた。
依里は父親から虐待されていて、「お前は豚の脳みそだ、病気なんだ」と言われ続けていた。
一方湊は、母から「お父さんのようにかっこよく生きて、結婚して子供ができるまで見守ってるから」、先生からは「男だろ」と言われたりして、当たり前の生き方というものに反発を覚えていた。
父は実は浮気相手と一緒に事故で死んだのに、それを無かったことにして母は正当化していた。
2人は似たような苦しみを持っていたのだろう。
依里が豚の脳なら自分もそうなんだと自ら追い詰めていく。
依里は父親がガールズバーに行ってることを知り、そのビルごと燃やしてしまおうと火をつけたように思わせるシーンもあるが、これはどっちだったのかな。
死んだ猫を湊と葬るシーンがあるので、それだったのかも。
湊にとっては、母や先生、依里にとっては父やクラスメイトが怪物、そして自分自身もまた怪物だったのかもしれない。
夜帰らなかったのも、単に依里を待っていただけで、母が迎えにいた時、その後ろに依里もいたが姿を隠した。でも帰りの車の中で依里からの着信があり、まだそこにいると思って車から飛び降りたのだった。
ラストは、湊と依里が嵐の中バスの秘密基地から脱出すと、青空が広がっている。草むらに駆け出す2人は心から笑っている。
死んでしまったのか、それとも現実なのか、、
もし生きていて、依里が祖母に引き取られたとしたら、湊と離れ離れになってしまう。
心の支えがいなくなってしまったら、2人はやはり現実に耐えられなくて死を選んでしまうかもしれない。
見ているものは、見えているものではない
予告編で何度も聞いた「怪物だーれだ」という子供の声。
この言葉が発せられるシーンを見た時、このお話しの構造というか、私たちが見ているもの(或いは見えていないもの、という方が正しいかもしれない)が何か、という事が決定づけられる。
スクリーンの中にいる登場人物たちの言動は、安藤サクラ演じる母親、保利先生、湊がそれぞれの視点で見えた・聞こえた・感じた事を視覚化しているだけなのだ。見ているものは、見えているものではない。
誰しもが怪物になり得る、けれども誰も怪物じゃない。物語の視点が移り変わるにつれ、そう気づかされ、台風の日には、あいつも、あの子も、不器用でどこにでもいる、自分と同じ人間だと知る。星川くんの父親も、クラスのガキ大将も、みんなだ。
そんな自分となんら変わらない登場人物たちが、自分自身や大切な人を守りたいが故に、本心を隠したりさらけ出したり、それらの言動によって少しずつ人間関係がズレていき大事に発展していく様には、苦々しさと可笑しみがあった。
嵐の中、子供達を探しに行った母親と先生が、彼等の秘密基地である廃電車両の窓の泥を拭い去ろうとするシーンは、何度掻き分けても泥が拭えず「見えないものを見ようとする」もどかしさを感じさせる、象徴的なシーンだった。(是枝監督自身もひとつの名場面だったとラジオのインタビューで語っていた。)
台風が去り、子供たちがある境界線を越えて進んでいく姿には、「成長」という言葉では括ることのできない「生まれ変わった」瞬間を見たような気がして、果たしてこれはハッピーエンドなのか、そんな風に考えるのは野暮かもしれない。何故なら彼等の物語は続いていくのだから…。幾通りもの捉え方ができる間口の広い終わり方は、こういったテーマを扱う作品にはベストな選択だったように思う。
是枝監督作の中でもかなり好きな作品。脚本・坂元裕二のオリジナルシナリオ本も購入したので、ゆっくり読みたいと思っている。
全293件中、61~80件目を表示