怪物のレビュー・感想・評価
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怪物の餌は、対等な人間として扱われない孤独か。
どうして悲劇は起こってしまうのか。
対等な人間として扱われたい。
可哀想だと見下されたくない。
晒し者や笑い者にされたくない。
理解されずに見捨てられたくない。
不幸だなんて決めつけられたくない。
自分の大切なものを傷つけたくない。
人は守りたい何かのために嘘を吐く。
その嘘は自分も周りも苦しめる。
人は守りたい何かのために攻撃対象を探す。
その独善は自分も周りも追い詰める。
生きる術として身につけた生きづらさ。
対等な人間として向き合うことの難しさ。
大人が作り上げた世界に翻弄される子ども。
肩書き、トロフィー、誰かに決められた幸せ。
「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」
湊視点での校長の細やかな心理描写が苦しかった。
対等な人間として認めないと心は閉ざされる。
対等な人間として寄り添えたら心は開かれる。
受け入れてもらえる居場所は誰にも必要だ。
それが家庭にも学校にも無いのが彼らだった。
依里の死生感に触れた湊が「生まれ変わる」と言い出し「出発」に希望を見い出してから、彼らが壁も柵も無い夢のような新世界を楽しそうに駆け回るまで、切なくて涙が止まらなかった。
「太陽が眩しい。海の匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。いつもと違う匂いがする。僕は生まれ変わったんだ。僕は誓う。絶対に西田ひかるさんと結婚します。五年二組保利道敏」
胸がいっぱいで思うような文章にならない。
私は二人をジョバンニとカンパネルラに重ねて見てしまっていた。宮沢賢治が書いた銀河鉄道の夜だ。もしや「出発」後に靴が脱げていた依里は既に亡くなっていて、そして湊は意識不明の後に目を覚ますのでは、…などと残酷な想像をしてしまった。その展開があるとしたら、母親と元担任の理解を得られて、家庭に居場所が出来るのかもしれない。「出発」してでも好きな人と手を取り合うこと、好きな人と離別して「生きる世界」に安全な居場所を得ること、私にとっては一体どちらが幸せなんだろうかと考えさせられた。
良い映画でした
視点が変わることにより登場人物の印象がどんどん逆転していくところは圧巻だった。大変面白く観させてもらった。
以下は少し気になった点
ミナトくん、星川くんはまだ小学生で未熟で仕方ないのかもしれないし、性的指向やいじめ、虐待など抱えている問題が大きすぎたのかもしれないが、ホリ先生の人生を狂わせるような嘘を吐いたまま二人の世界に浸って終わっている点がモヤモヤした。
母や教師たちの大人たちもそれぞれ怪物だったが、子供もまた自覚なく残酷なことをする怪物のように感じた。
小学5年生に先生の立場を慮ることは望むべきではなく、子供の気持ちを言わずとも汲んであげるのが親や教師の責務なのかもしれないけど。実際台風の日にホリ先生が二人のことに気づいてくれたし。でも現実の教師に対してそこまでを望むのは酷かなと思う。
怪物は人の心
是枝監督はいつも世相を
写し出している
今回は子どものいじめ
父親からの虐待
学校側の揉み消しなど…
母親の安藤サクラから
校長の田中裕子を追い込む所から
オモシロく始まった
暗くなく重くならずコメディでもなく
そこにLGBT を入れてくる
余りにも作り込み過ぎている
…感じがした
湊が好きな子がいることを校長に話し
校長と二人で楽器を鳴らすところは
和やかでとてもいいシーン
…見ている側の状況が違うと
見え方がぜんぜん違ってみえる
ある意味担任役の瑛太は滑稽にみえる
瑛太の恋人役の高畑は…
・・怪物・・って何
一方的な見方で思い巡らし
妄想を膨らます心
学校守るために
揉み消そうとする心
人が窮地になると
そこから離れていく心
差別や傷つける言葉、態度、
種々のモンスターがいる
くれぐれも怪物にはならないように
と自戒をこめて。
…でもやっぱり
怪物はあの○○○かな
自分も怪物かもしれない
予告編を見て抱いていたイメージとはだいぶ違いました。
いくつか???と思う部分はあったものの、最後までしっかり鑑賞。
「怪物だーれだ」の意味を考えさせられます。
登場人物は皆一生懸命に生きている。
それゆえに、守りたいもの、愛するものへの想いの強さから、相手にとって、時に怪物と化してしまう。
そしてまたある時は、誰かの「怪物」に苦しめられる。
男の子2人がなんとも自然体で良かったです。
難しい役どころを見事に演じ切っていました。
大人の俳優陣が実力ある方ばかりの中、まったく見劣りしませんでした!
(田中裕子さんはやっぱりすごい)
また緑豊かなロケーションと、坂本龍一さんの優しい音楽が調和しているのも素敵でした。
さて今回の真相の核は、男の子2人のクィアな関係性でした。
ただ思春期の頃を思い返すと、同性・異性かに関わらず仲が深まることに心が踊ったし、二人きりが良いな、と思う場面も多々あったように思います。
それをどう定義付けるかは別として、こんなに心が通じ合う相手が、学校という狭いコミュニティで見付かったのは充分幸せなことだ、と本人たちが感じられる環境があったらどうなってたのだろう、、とないものねだりをしてしまいます。
また大人になった今、自分は子どもの心の成長を破壊しうる立場にいるのだ、ということを忘れずにいたいな、と思いました。
。・゜・(ノД`)・゜・。小さな恋のメロディ。
ああああ、このラスト。ダメでした。涙腺が決壊した。
『小さな恋のメロディ』って映画、昔見た覚えがあります。ラストはトロッコでどこまでも2人で逃げるシーン。あれはよかった。あれに重なってしまって涙腺決壊です。
彼らは目的の場所に行けたのだろうか?というより彼らは命を落としているんでしょうね、、、、。だから余計泣きが入りました。
おそらくこの映画の論評には視点を変えると様々な見方があるだとか、LGBTの生きづらさとかがクローズアップされた映画だとかの論評が多いんだろうけど、後半の彼らの演技は上質な恋愛映画でしょう。結ばれない物達。本当に切ない。家に帰ってもじんわり切ない。
怪物が住みそうな湖のほとりの街の出来事、怪物とよばれた物達の叫びがこだまする街。
またすごい映画を観ました。
麦野くんと星川くんがお互いに想う感情は廃線となり山に置き去りにされ...
麦野くんと星川くんがお互いに想う感情は廃線となり山に置き去りにされた一両の列車であり、途中映し出される多両編成の貨物列車が、麦野母親や保利先生が無意識に刷り込む一般的なジェンダーハラスメントを揶揄しているんだと思う。
最期、2人は死んでしまったと解釈したが、生まれ変わってもきっとまた一緒に遊んでいるはずだ。
怪物 誰ですか
先に小説を読んでいた。映像化されたら見に行こうとは想ってたけど、封切り前にカンヌで脚本賞をとったとのことで期待は高まり、すぐ見に行った。
誰の主観で、時系列はどう映像化するの?と思ってたが、小説そのまんま。そうか…この小説(と思ってたけど脚本か!)が賞をとったのかね。そのまんま映像化されてたよ。監督もすごい、息ぴったり!
本では、ラストシーンの少年たちが生きてるのか死んでるのか分からなかったけども(分かったけど信じたくない)、映画を見て分かってしまったよ。あと切ない想いが、脚本より伝わってきた。
お母さんやホリ先生の達のアンコンシャスバイアスが少年たちを追い詰めてしまったね。今後はその辺も気をつけて子供に接さないといけないのかなぁ…
と自分の中のアンコンにも気づく。
怪物だーれだ?
これぞ是枝作品という現代社会に斬り込む一作。観了後に得られるのは、何本もの作品を観たかのような満足感だ。なぜなら、親/教師/子どもそれぞれの視点から描かれる三部構成だからである。
序盤に描かれるのは、早織(安藤サクラ)の息子湊(黒川想矢)をめぐる不可解な行動だ。得体の知れぬ不穏さを充満させ、謎解き要素を強める。第2章までは、保身や駒として使われる社会の構図など大人目線で描かれる"怪物"が目につく。
しかしこれらは、クライマックスに向けたカモフラージュだと感じる。なぜなら、最終章で張本人の立場から、本作の主題であり"怪物"の正体と言える性的指向を浮かび上がらせるからだ。
素直に受け入れられず悩み偽り苦しんできた気持ちに、楽器を通じて吐露するのが非常に印象的。その手助けを、"あの"校長がする設定も大変興味深い。
衝動に駆られた末でのラストカットは、一皮剥けた新たな自己で突き進んで行く希望を感じさせる。
時系列を整理するために、各章で共通する天気や音を散りばめているのが巧みである。
また坂元脚本は、「皆が手に入れられないものを幸せとは言わない」など、今回も数々の名言・掛け合いを残してくれた。言わずもがな最高である。
ここまで制作者目線を中心に記したが、是枝/坂元作品の常連であり、今クールの連ドラ主演も含む豪華キャストの表現力ももちろん見事。しかし今回は、ミスリードを含め複雑で多面的心情を表現していた2人の子役が主役だろう。
上記はあくまで主観、怪物は一体誰(何)なのか、ぜひ劇場で確かめていただきたい。
切ない。ホンマに切ない。たまらなく切ない。
コリャ是枝を巨匠再認定するしかないかと。前作も是枝らしさ全開でしたが、今回は技巧的な脚本も素晴らしくて脱帽です。
ラストの解釈ですよ。コレがまた。
普通に捉えれば、大人2人が捜索に入った時間・天候と、子供達が脱出した時間・天候が折り合わないが故、子供達は天に召されたものと見るのが合理性あり。
でですよ。
以前、似たようなラストの映画があってですね。イランの巨匠アミール・ナデリ監督の「山(モンテ)」です。監督の舞台挨拶付き上映を見る機会があり上映後に直接質問したんです。
「極貧で身なりも貧しかった一家が、ラストシーンで綺麗な姿になるのは一家が亡くなった事を示唆しているのですか?」
答えは「あれはワタシからのギフトです。亡くなってはいない。表現としての加飾に過ぎません。」
横転した列車の窓から降りた2人の前に広がる青空は2人の出発を祝う、是枝監督からの贈り物。と言う解釈をしても良いのかと。
いずれにしても是枝監督自身は語りそうにありませんけど。
映画は3部、と言うか三面構成。Phase1は母親主観。Phase2は教師主観。Phase3が湊主観。この三面目の依里くんが可愛すぎます。切な過ぎます。もう、何から何まであざといくらいに可愛い。もうね。メチャクチャ切なくなりますもん。
君たちは化け物なんかじゃない。怪物でもない。自分自身に誇りを持って。好きな人を好きになって良いから。
は、「彼女が好きなものは」の主題でもありました。同じですね、コレも。
良かった。
とっても。
かいぶつだーれだ?
映画館の特報で観た時から気になってた作品。特報の最後に「かいぶつだーれだ?」と一文字ずつ出てゾワッとした。きっとホラーやサスペンスみたいな怖い作品だろう。
でも、実際本編を鑑賞した時に騙されたとの感覚に陥った。何故本編と違う印象を持たせるのかと!
作品を鑑賞していくなかで、「誰が本当の怪物なのか?」、「怪物はいるのか?」等、自分の視えている虚実入り混じった主観により、考えが二転三転する。それぞれの立場でそれぞれの主観や考え方に共感できるところがあるからかもしれない。
でも、それは当事者達は当事者の虚実入り混じった視点のみしか持っていないため、良かれと思ったふとした相手への気遣いさえも、受け取る側には気遣いにならないということにも気付かされた。
また中盤に、扉があって前に進めない線路のシーンがあったが、単純に線路を人生の線路・レール等のことを言ってるのかと思ったが、内容からレールに沿ってないと思う人もいるこの子どもたちを表現するのに違和感があった。
しかし、ラストに子どもたち二人が楽しそうに走って行く中で、中盤にはあった扉がなくなっており、その先にも進めるようになっているシーンで映画は終わる。
僕は、大人たちのレールに従わないと「怪物」のままである子どもたちが、親のために自分の「将来」の扉を閉じていたものが、二人が亡くなったことで、怪物から開放され、子どもたちが望む将来へと繋がる線路へ進めるようになったのではないかと感じた。
とても考えさせられる映画だった。
ところで、感想を書いているのはあくまで僕の感想であり、共感してくれた方には感謝しますが、それを無条件に受け入れることは、作品の内容に沿うのでしょうか?作中の大人たちと同じかもしれません。
レビューの冒頭で書いた映画の特報の件は僕の先入観でこんな映画だろうと思ってたのは、視えていない部分が多くあり、一部分を視ただけで、主観によりわかった気になっていただけかもしれないと考えされられて、なんて素晴らしい特報だったのだろうと考えを改めホラーよりもサスペンスよりも怖い作品となった。
「かいぶつだーれだ?」
『誰でも手に入れられるものを"幸せ"と言う』
多分、表題に今作の全てを込めている台詞を、田中裕子が呟くこと、これで今作のテーマを一点集中突破した出来映えだと最大限に感心させられた この台詞は絶対的に皮肉であり、人はそれぞれの幸せを本来持ち得るモノという多様性を得なければ未来は訪れないという、まぁ、保守派の人達にしてみれば、温ま湯だと揶揄されるプロットだろうと容易に想像出来る、"万引き家族"と同様、ネット上で物議を醸し出すストーリーである 確信犯的に作っている制作陣の好戦的な姿勢に好き嫌いがハッキリと分れる提言に、その意志を認めざるを得ないのは、もしかしたら左右両方に巡り巡って好かれるのかもしれないと、穿った観方さえしてしまうチャレンジングさである 絶対日和らない、という凄みに、餌巻きされた否定派達は心底小躍りしただろうと予想する
只、自分が感じたことは別に上記の事に集約されることではないと感じる 他の考察サイトでも述べられていて心底合点がいったのだが、カンヌが称賛したクィア賞の本質ではなく、今作は、成長期に於ける有り余った性欲が、色々なところに発露してしまうという現象に集約される物語なのだと腑に落ちた あの子役2人が未来にどうなるのかなんてものはストーリーに提示されていないどころか、もしかしたらラストシーンはイマジネーションパートかも知れないのだ そんなあやふやなシークエンスの中で、性への目覚めの真相等、当人ですら分らないし、歳を取って振り返っても"トチ狂った"のか"方向性を決定づけた"のか、それは振り子のようなタイミングだけなのだと断じる
本当に、狭いところを付きながらも普遍性を語る制作陣及び役者陣、頭が下がるほかない内容であった
追記
所謂、『感動ポルノ』問題という事案がある 今作も又批判の中の一議題として囂しい
視点を切り分けた構成である今作は、本当の子供達の姿を周りの大人は気付いていない、しかし、先生のみが鏡文字で気付いたのではと思われる節を匂わせる いや、匂わせなので、本当の正体は分っていないかもだし、父親のおかしな言動や、他のクラスメートの嘘や不穏な喧嘩や雰囲気等々、自分では手に負えない問題の数々が実はあのクラスには積み重なっていたのだろうと・・・ もしあれが現実に日本のどこかの学級で起っていたとして上手く捌ける教師や教育委員会がいるのだろうか? なので、二人に何らかしらの関係性を見出した先生のキャラ設定の微妙さを考え出した制作陣に尊敬する
人間は善悪の二元論ではない そしてもしかしたら発達障害的な行動をしている人だって、もしかしたら真実を掴んでいるのかもしれない
話は横道に逸れてしまったが、今作ラストの『銀河鉄道の夜』的ファンタジーに、結局不幸にさせて感動させる落とし処だろうと邪推する観客もいると思う 『マイノリティは不幸になる』という結論で、可哀想という感情を観客に植え付ける それは正に高みの見物(シス&ヘテロ)として、そういう星の下に生まれた人達が運命として消えてしまうことに哀しさを安易に得たいと願うこと しかしそれは今作に於いて些か考察が足りない
理由は横道に逸れた先生のキャラがそれをブレイクスルーしていることが明らかだから
願わくば親が気付いて理解して揚げて欲しい しかし両人の親ともシングルという協調作業が困難な家庭環境(両親がいたってダメな場合が多々)に於いてその願望を押しつけるのは残念ながら解決不可能である
そう、今作はキチンと、だれが怪物なのかを暗喩として示しているばかりでなく、そのどうしようもない岩盤を開けるのは、もしかして思いも依らぬ変人かもしれないという、これもファンタジーかも知れないが、その可能性をフィクションとしてではあるが提示した物語ではないかと考える
本来ならば、第3の壁を破り、観客に問い掛ける演出だって乱暴だが在っても不思議じゃない 曰わく「あんた達、感動していないで、二人の子供がこんな悩んでいるのに胡座かいて当事者意識なんて持っていないんじゃないか? あんた達の事なかれ主義がこうして不幸を再生産しているんだぞ!」って、校長先生辺りが、あの死んだ目で問い掛けてくれたら、もしかしてパルム・ドール?・・・・な訳ないかw
怪物とは
かいぶつ、だーれだ。
結局誰なんだろう。
モンスターペアレントの母親 か
まるで聞き耳を持たない教師 か
孫の死を利用するような校長 か
性の問題を病気扱いする父親 か
様々な視点で「怪物」が描かれる。
母親にとって先生らは怪物に見えただろうし、
先生らにとってはえげつないモンスターペアレントは怪物にしか見えないだろうし。
「男が男を好きなのは気持ち悪い」
「男が女と仲良くするのは気持ち悪い」
これは小学生だったらシンプルな理由で当たり前。
お母さんに愛されてる麦野くん
お父さんに虐待されてる星川くん
星川くんはめちゃめちゃ強い子で
麦野くんは周りに流されてる
「男が男を好きなのは気持ち悪い」
ふと思い出して怖くなる。小学生だったらそらそう。
最初は、「男らしく」髪をきるまでする湊。
でも、あんな憎らしい笑 校長がファインプレー。
そして、自分を認める麦野くん。
お父さんのようにはなれないし、
お母さんが言ってたような普通にはなれない。
それを踏まえた上で認めた麦野くんは強い。
最後のシーン。いつの間にか風も、雨も止んで。
まるで生まれ変わったように、晴れている。
いつも閉まってる柵もなく、線路の上を心が晴れたように走り出していく。
これには色々な解釈があると思うけど、やっぱりあえて明言しないとこがもう分かってはりますわ。
対比があったり、色んなテーマが混在してるなかでこんなにも見やすく、こんなスッキリしてるのは名作としか言えなくないか。
もう一つの“誰も知らない”
カンヌで二冠。またしても是枝裕和がカンヌを賑わす。
役者たちから名演技を引き出し、文句の付けようがない名演出は、自身の新たな代表作誕生に相応しい。
しかし今回は、坂元裕二による脚本も大きい。是枝が自身で脚本を手掛けなかったのはデビュー作の『幻の光』以来。
脚本の本質をしっかり読み解いたのも、それほどこの脚本に魅了されたという事でもあろう。
確かにこの脚本の見事さには唸らされる。伏線や意味深な描写をちりばめ、回収や繋ぎ方、展開に引き込まれる。脚本賞も納得。
坂元裕二は多くの人気TVドラマを手掛け、『花束みたいな恋をした』を大ヒットに導き、本作で栄誉に輝き、今後TVドラマのみならず映画界でも重宝されるだろう。
兼ねてからリスペクトし合い、コラボを望んでいたという二人。そこに奏でられる故・坂本龍一。
全ての才が素晴らしい形で結集し、世界に放たれた。
これはもう“奇跡”や“偶然”ではない。“運命”で“必然”だったのだ。
話はある一つの“事件”を、3つの異なる視点から語られていく。
所謂“羅生門スタイル”。映画の常套手法だが、どうしてこうも見る側は“矛盾”に引き込まれるのか。
勿論それも、脚本の巧みさあってこそ。
シングルマザーの早織。夫を亡くし、一人息子の湊にたっぷりの愛情を注ぎ、大事に育てている。
最近、湊の様子がおかしい。靴を片方無くし、汚れた服。突然自分で髪を切り、怪我も…。奇行も目立つ。
問いただし、何があったかやっと聞き出すと、学校で担任教師から体罰や酷い言葉を掛けられたという。
お前の脳ミソは豚の脳ミソ。
早織は学校に抗議。が…
何の感情も無く、機械的な口調の、“形”だけの謝罪ではない謝罪。
心ここに非ずの校長。マニュアル通りただ頭を下げるだけの教頭ら。担任の保利に至っては、事の重大さや自分が何をしたかすらも分かってない。
何なの、この学校、教師たち!?
保利の母子家庭を貶す余計な一言やさらに息子さんがいじめをしているとまで言い出し、火に油を注ぐ。
一瞬息子を疑うが、被害を受けたという生徒(依里)に会い、事実無根の確信を得る。
事件はニュースにもなり、保利は休職。
これで一応一件落着と思ったある日、嵐の夜、湊が突然姿を消す…。
傍目には、息子を守るシングルマザーの戦い。
早織から見れば、学校や教師たちが“怪物”。
一人息子を大事に思う早織の言動は誰もが共感する所だが…、うっすら過剰やウザさも感じる。
つまりは“モンスターペアレント”。学校から見れば、早織が“怪物”。
“怪物”とは誰か、何か…?
各々の視点によって、“怪物”は全く異なる。
担任の保利の視点。
ここでの保利は、早織の視点とは全く違う人物像。
早織の視点では大人/社会人として全くの無責任(もっと砕けて言うと、ムカつく!)に見えるが、保利自身の視点では、至って普通の人物。と言うより、真面目で生徒思いのいい先生。
誰がどう見るか、見えるかによって人の印象は変わってくる。
恋人との関係も良好で、生徒からも好かれ、まだ日は浅いが教職にやりがいを見出だしていた。
そんな時クラスで起きた生徒同士のいざこざ。
間違いのない対応をしたつもりが、それが問題視され…。
体罰があった。たまたま肘が生徒の鼻にぶつかっただけ。
先生が怖い。事の収束に奔走しただけ。
体罰教師のレッテル。マスコミにも嗅ぎ付けられ、恋人とも関係が…。
挙げ句の果てに学校から、責任と罪を一人擦り付けられる。
精神的に追い詰められていく…。
保利から見た“怪物”とは…?
自分を見放したら学校。同僚たち。
それは早織も同じかもしれないが、早織視点の場合は非を認めず憤り募るのに対し、保利視点での学校は闇深い不条理な場。
似てるようで、意味合いも微妙に異なる。
また、嘘を付いた生徒たちも“怪物”。
ある時、そんな“怪物”の秘密を知る。
それを見逃し、気付かなかった自分も、愚かな“怪物”…。
“羅生門スタイル”の醍醐味は、最後に伏線が回収され、それらが繋がり、全てが明かされていくカタルシス。
本作のキーキャラは、二人の子供。
湊と依里。
二人だけの秘密と真実。彼らから見た“怪物”とは…?
学校でいじめに遭う依里。
そんな依里を気掛かりに思いつつも、助けてあげられない湊。自分へ苛立ちを感じる。
ひょんな事から密かに親交を持つ二人。
依里が見つけた森の奥に廃棄された電車。“秘密基地”は、二人だけの“世界”。
二人共、何かを抱えている。
母子家庭の湊。父親は事故死したが、その時父は…。
父子家庭の依里。父からは“病気”とされ、DVも…。
“病気”とは、普通の男の子とは違うから。
“豚の脳ミソ”も依里が父親に言われた言葉。
二人を取り巻く…いや、圧する大人たち、社会。
二人から見れば、その全てが“怪物”なのだ。
その“怪物”に、僕たちはどうすればいいのか…?
生まれ変わりや品質改良。ありのままではいられないのか…?
カンヌで受賞した“クィア・パルム賞”。LGBTなどを扱った作品へ贈られる。
そこから分かる通り、二人の関係は友情を超えた同性愛を匂わす。
いやはっきりと、想い合っている。
親、学校、周囲、社会…それらから見れば、変わった僕たちが“怪物”。
でも一体、どちらが“怪物”なのだろう…?
ピュアな秘密を抱える子供たちか…?
保身を固持しようとする彼ら以外の全てか…?
見た人それぞれに訴える。受け止め方がある。見方がある。
だから単純に答えは出せない。
実は今も、果たしてこうでいいのか、もっと違う視点ではないのか?…などと自問自答しながらレビューを書いている。
まだ受け止め切れない自分がいる。
作品が訴え、問い掛けるものや、まだ残された謎。湊の父親の死の疑惑、校長の孫の死の噂、ビル防火の犯人…。
また見返しても、暫く経っても、それはずっと続く事だろう。
私の心に残る作品であり続けるだろう。
書いていたら今すぐにでも見返したいくらいだ。
名演出、名脚本。心に染み入る遺曲。
安藤サクラの名演。
永山瑛太の完璧な演じ分け。
田中裕子の存在感。
高畑充希、中村獅童、東京03角田らも魅せる名アンサンブル。
中でも二人の子役、黒川想矢と柊木陽太。
実力派や名優たちを食ってしまうほど、圧巻。
是枝監督は普段は子役にはナチュラルな演技を要求するが、本作ではディスカッションし、作り上げていったという。
それほどこだわり抜いたほど、作品の要なのだ。
重厚なドラマで、サスペンスフルな雰囲気も。
あの楽器の音色も印象的。まるで、怪物の言葉に出来ない鳴き声のよう。
終始、重く、暗く…。
が、ラストシーンだけ光輝く。
嵐が過ぎ去り、美しい陽光の中、二人が駆け出した先には…?
このラストシーン、ひょっとしたら…? の意味合いもある。
でも私は敢えて、希望ある終わり方と捉えたい。
二人だけが知っている。
これももう一つの、“誰も知らない”。
怪物はだ〜れだ⁉️
予告編でながれるこの言葉が、この映画のキーになる。
母親、教師、子供のそれぞれの視点から、起こった出来事について語られる。このストーリーが見事に、3人のそれぞれの立場と行動を正当化するのだ。この情報からはこうなるよねというふうに、納得してしまう。特に最初の母親には思わず感情移入してしまった。
ところが教師の視点なると全然ちがうものが見えてくる。これはすごい。展開が読めなくなる。
そして最後に子供の視点。2人の予想外の秘密があきらかになり、物語はクライマックスとなる。
答えはもちろんない。
でも、怪物はそれぞれが自分の立場で作り出す幻想なのではないかと思えた。怪物なんているのだろうか、それぞれが自分の視点で作り出しているのではないかと思えてしまう。この映画で唯一、真の怪物なのは、いじめられている少年の父親だけだった。
もう少し早く教師が真実に気がついたら展開は変わったのだろうか。子供達の無邪気な笑顔と内に秘めた心の叫びに思わず涙してしまう。
キーとなる母親の安藤サクラ、教師の瑛太、校長の田中裕子、そして2人の子役の演技は素晴らしかった。
まんまと罠に引っかかる
怪物は一体誰なのか・・・次々と現れる怪物候補。
真の怪物は?ああ、この少年っぽいな・・・などと推理したら最後、突きつけられるのは
「はい、あなたも同罪でーす」
という罠。
ラスト。
先入観、偏見、常識、自意識・・・あらゆる概念から抜け出して純化し、歓喜する2つの魂。
「はい、正解はこれでーす」
私が間違っていました。悔い改めます。
という映画でした。
カンヌ国際映画祭 おめでとうございます。
イジメから始まりフィードバックしつつ理由を知らしめながら進むストーリーの作品。想像道理なところと道理ではなかった
ところがあり、鑑賞する人の想像を掻き立てるところが、脚本の方、凄い苦労があったと思います。(センスが最高です。)
繰り返しますが、鑑賞してる方の想像を覆すシーンが何度もあると言う事はすごいなー。普通、1回か2回あったら、お〜〜〜っと思うのに。
家庭、学校の友達とその生徒、同性愛、
この中での他者への、あるいは本人の自分ではどうしょうもない感情での葛藤と打算。
映画羅生門をおもいだしました。
……………………
評論ですが、佐藤さくらさんの演技で星
2。地でやっているのかどうか解らないほどの名演技。そして脚本で2。です。
原作は拝読しませんがストーリーが1で5点です。キツイかな?もって行き方が………。
最後に、2人が走ったシーンがありますが、本当の意味で生存か死か考えさられます。
凄いものを観てしまった
激しく感動した。
今年の邦画のベストワンだろう。
「怪物だ〜れだ」という予告編の言葉が見る目を誤らせた。途中まで真の怪物が誰なのかを探っていたのだが。
安藤サクラさん演じる少年の母親から見た第一章。子供の異変に気づき学校に行くも、教師たちは心無い謝罪を繰り返すのみ。会話が通じない教師たちはもはや人間ではなかった。教師たちにとって母親はモンスターだった。
永山瑛太さん演じる担任教師から見た第二章。彼はいい教師だった。守ろうとした子供たちに裏切られ、学校を守ると言う教師たちに潰された。
黒川想矢くんと柊木陽太くん演じる二人の少年から見た第三章。これは『怒涛』と言って差し支えないと思う。登場人物全てが怪物と化していった。誰一人例外を許さなかった。もちろん観る自分も。
凄いパワーだった。
悲観的な展開ながら観終わったあとに残ったポジティブな感触は何だろう。
そう、このクソみたいな世界が少しでも善き世界になれとマジで思った。
そういうことね。。。
もともと、キャストが好みなこともあって観に行くつもりの作品でしたが、カンヌで脚本賞撮ったことでさらに気合を入れて観に行きました。
間違いなくよい映画です。「怪物だーれだ」もよく利いていて、うまい作りです。
ただ、「カンヌで脚本賞」なのですが、要するに「藪の中」的な作りに対する評価なのか、と気づいた段階でだいぶ脚本&ストーリーに対しての興味が薄れてしまって、やや物語にハマリきれずに終わってしまいました。
とはいえ、俳優さんの演技は素晴らしい。子役2人もスゴいですね。
かれらのパートのキラキラだけでも、オジさんにはまぶしかったです。そのキラキラと社会の「フツウ」のギャップが耐えられなかったのかな。
ミステリー×超絶青春映画。真の怪物とはなんだったのか?
「かいぶつだーれだ」と、真の悪人を探していく『告白』みたいなミステリー映画かなと思ったら、思いのほか青春映画だった!
観終わったあとは、2人の世界の余韻に浸るとともに、怪物の実態について1人で悶々と考えてしまった。
全てについての答えをださずに、観客に考えを促させてくれる余白のある、素晴らしい映画だった。
1章では安藤さくら演じる母の視点で物語が描かれる。
息子の中に怪物が潜んでいるのか?
やはり担任の先生が怪物なのか?
星川君も、良い子過ぎるのがどこか不気味で怪しい…
校長先生も酷い人で、怪物のようだ…
と、取り囲む全ての人が怪物のように見える。
必死にもがく安藤さくらに全力で感情移入させられるし、一緒になって「息子は実はいじめをしていたのではないか?」なんて考え込んでしまう。
担任も校長も学校も本当にクソ。息子の行動が突拍子なさすぎて「なんなんだコイツは!!」と思う。
難解な点が多過ぎて、めちゃくちゃ引き込まれる第1章。
2章は担任の先生の視点。
1章の母の視点とは大きく異なる印象で、同じ出来事が描かれる。
1章では難解だった先生の行動の真意が、種明かしをするかのように明かされていく。
私と職種が似てるので、これまた全力で感情移入した。
子どもに親に同僚にって、色んなことを言われて板挟みになって…やってらんねぇよなこの仕事!
職や恋人や社会的な居場所を失ってもなお、「子どもを助けたい」「謝罪をしたい」と必死になって探す先生の姿は美しかった。
子どもたちの世界は、見えそうで本当のところは見えなくて、何を考えているのかわからない行動ばかり…!ここも共感ポイントだった。
3章は、息子のみなと視点。
大人たちの視点からは全く見えていなかった、子どもたちの社会や、少年2人の関係、など真実が見えてくる。
少年2人の秘密基地が、秘密の関係が、あまりに美し過ぎてもう直視できないくらいだった…。刹那的でキラキラしてて、心がギュッとなる。
1章2章では全く想像だにしなかったセクシュアリティの問題に少年たちは直面していたんだということを知って驚いた…。
(セクシュアリティの問題といってしまうと、そのテーマがメインで扱われているみたいなイメージになってしまいそうなので、少年の抱える心のモヤモヤの1つがたまたまセクシュアリティに関連するものだったという方が近いのかもしれない。)
大人はついつい子どものことをなんでも把握している気になってしまうし、なんでも打ち明けてくれるだろう(そんなに深い感情や考えはないだろう)と思ってしまう。
でも子どもにだって、そう簡単に人には言えない、例えばセクシュアリティの問題であったり、例えば家庭内での虐待であったり、例えば教室の中の社会の問題と日々戦っていることもある。
この映画の意図や大きなテーマとしては、「誰かの視点から見たら誰だって怪物である」みたいなことが言いたいのかなと思いつつも…
個人的には、「教室全体を取り巻いていた空気感」が1番害悪な怪物の実態だったのではないかなと思った。
いじめをする生徒たち、そしてそれを黙認する生徒たち、次は自分がターゲットにされるかもしれない…そんな緊張感のある教室そのものが、怪物だったように思う。
そしてそんな怪物は、この映画の中にだけじゃなくて、結構な割合の教室や子どもの社会の中にいるのではないかな。
いじめやそれを黙認する空気感、擁護したら次は自分がターゲットにされる…、少なくとも私の過ごした子ども時代の教室は、8割がたそんな実態があった。今も昔も、いじめの割合ってどうしても減らないと思う。
どんな子どもでも、大人にはわからない怪物たちと日々戦っているのではないかな。
謎の多いミステリーな展開で一気に引き込まれる前半。
少年同士の友情と刹那的な美しさ、少年の心のモヤモヤや繊細で感情などなどに目を奪われる後半。
前半があったからこそ、後半の青春映画の要素が陳腐にならず、輝いたのだと思う。
トンネルを抜け、「生まれ変わるための電車」に乗って、地下を抜けて草原を駆け抜けてホワイトアウトしていく終わり方、2人は亡くなって「生まれ変わった」のかなと思いつつも、それを信じたくない自分もいる…。
色んな部分で、答えを見せ切らずに観客に考える余地を与えてくれる、長い余韻に浸れるいい映画だったなと改めておもう。
放火魔の犯人は?校長先生の真実は?と、一度観ただけでは私の頭では理解しきれないところがあったので、他の人の考察も読んでみたい。
わーーーーっと色々思うところがあって、まとめきれない感じもあるのですが、それほどこの映画は良い作品だったということです!!!ここまで読んでくれた方もしいらっしゃったら、駄文で本当に申し訳ない!!!解釈違い存分にあると思うので、ノベライズ版も読みます!ありがとございました😭
真実は人の数だけ存在する
母親、教師、子供の視点から見た違う情景の同じ物語が描かれます。現代の"羅生門"、もしくはシリアスな"カメ止め"といったところでしょうか。この手のお話しは如何に綺麗に破綻の無い仕上がりとなるかが肝ですが、三者三様の真実が矛盾無く描かれ、中々見事な出来でした。
演技に関しては田中裕子さんの怪演が作品全体に流れる不穏さの良いアクセントになってたように思います。
ラストの子供達のシーンを観て、彼等にとっては「ちょっと刺激的な思い出」程度の事かもしれないなとも感じ、つくづく他者の主観は他人には計り知れないものだなと思いました。
※ラストシーンは二人が死んでしまった情景というのが正解かもしれませんが、私は生き残った楽観的な解釈としました
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