怪物のレビュー・感想・評価
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ハロー今君に素晴らしい世界が見えますか? ”怪物”はいつも己の内に…。
麦野湊という少年の身に起こった出来事を、複数の視点から描き出していくミステリー&ヒューマン・ドラマ。
監督/製作は『海街diary』『万引き家族』の、名匠・是枝裕和。
脚本は『世界の中心で、愛をさけぶ』『花束みたいな恋をした』の、レジェンド脚本家・坂元裕二。
シングルマザーとして湊を育てる女性、麦野早織を演じるのは『百円の恋』『万引き家族』の安藤サクラ。
湊の担任、保利道敏を演じるのは『アヒルと鴨のコインロッカー』『64 ロクヨン』の永山瑛太。
保利の恋人、鈴村広奈を演じるのは『怒り』『キャラクター』の高畑充希。
港が通う小学校の校長、伏見真木子を演じるのは『もののけ姫』『ゲド戦記』の、レジェンド女優・田中裕子。
第76回 カンヌ国際映画祭において、脚本賞を受賞!
個人的に相性が悪い是枝裕和監督作品。
本作も観終わった直後は「えぇ…。こんな映画なのかよ🌀」なんて思っていたのだが、しばらく時間が経ってみるとこれはこれでアリな気がしてきた。いや、むしろ結構好きな味かも。
とにかく要素が多い上、藪の中に隠すかのような曖昧模糊とした物語だったため、自分の中でもうまく消化しきれなかったのだろう。レビューを書くまで色々と考えさせられた。
本作には一つの物事を多角的な視点で描き出す、いわゆる「羅生門アプローチ」という手法が用いられている。
三幕それぞれに主体となる人物を設定し、その人物の視座から物語を覗き見る。
同じ人物であっても、それぞれのパートでその印象が大きく違うのは視座となる人物の主観が物語に入り込んでいるからなのだろう。
自分は鑑賞前から本作が羅生門アプローチによって紡がれる映画であることを知っていたので、第一幕目が終わった段階で「あぁなるほど。それじゃあ次はああなって最後はこうなるのね」というなんとなくの筋道の予想をつけていた。
その予想は第三幕目で裏切られることになるのだが、その裏切り方というのがなんとも期待はずれで、それが鑑賞直後のモヤモヤ感に繋がってしまったような気がする。
この第一幕目はとにかく面白いっ!!
雑居ビルの火災から始まり、物語は段階的に不穏さを増していく。
湊のイジメ、加害者である絵に描いたようなクソ教師、そしてイジメへの対応をおざなりにやり過ごそうとする学校。生気を欠いたゾンビのような教師たちは何か秘密を隠しているとしか思えない。保利の口から飛び出した信じられない言葉。謎の少年・星川依里の登場。そしてある嵐の日、湊は忽然と姿を消してしまう…。
この謎が謎を呼ぶ怒涛の展開に目が釘付け!是枝作品に物語的な面白さを求めてはいなかったのだが、この第一幕目は文句なしに面白かったっ!✨
このパートの何が良いって、緊張感の走る不穏な展開の中に、意地悪なユーモアが混在しているところ。
学校に詰め寄る早織と校長を始めとする教師たちのやり取りはほとんどコント😂東京03の角田さんを起用しているあたり、この場面のコント感は意図的に演出されたものなんだろうが、最悪すぎる大人の対応には、怒りを通り越して笑えてきちゃうということが上手く表現されていたと思う。
第一幕目がこういう展開だったので、当然第二幕目は保利先生の視点から物語が進行する。
情熱に満ち溢れたその姿、そして綺麗な彼女がいるというリア充ぶりには驚かされたが、まあこのパートの展開は想定内というところ。体裁を気にする「学校」の醜悪さに辟易としながら、「なるほど。結局は”学校”という制度そのものが”怪物”だった、というオチに繋がるわけね😏」なんて思っていた。
プリミティブでイノセンスな少年少女が嘘をつくわけがない。この常識の隙をつくというのが、本作の嫌なところであり、また面白いところでもある。
無邪気な嘘が教師を追い詰める物語といえば、短編小説の名手スタンリイ・エリンが著した「ロバート」(1964)なんかが先行作品としてパッと思い浮かぶところだが、おそらく本作が下敷きにしているのは1980年代にアメリカで起こった「マクマーティン事件」だろう。
息子の性的虐待被害を疑った母親が、その子の通っていた保育園を告発。内部調査の結果、園児の多くが性的虐待を受けていたことを告白したのだが、その後そのような事実はなかったことが発覚。疑念と誘導的な調査が、子供達にありもしない記憶を植え付けたのである。
まぁ本作は保育園児ではなく小学5年生だし、嘘をついた経緯もマクマーティンのそれとは違うので、丸ごとこの歴史的事件を題材にしている訳ではないのだけれど、着想の一つとしてこれを用いたのだろう。
星川くんの純粋無垢な感じ、最初はなんか怖い。アル中の親父から「怪物」とか言われてたし。
となるとこれはあれか?わたなべまさこ先生の「聖ロザリンド」のように、イノセント故に他者を破滅させてしまう魔性を描いた物語なのか?それと”学校”における抑圧と教師たちの事なかれ主義が絡まり合い、強烈なイヤミスが展開されるんじゃないかと思い、この謎めくミステリーの種がついに明かされる第三幕目に胸を膨らませていたのだが…。
結局のところ、この映画は少年の性の芽生えと戸惑いの物語という文学的な着地をみせる。
せっかく豊かな広がりを見せてくれそうな映画が、いかにも是枝裕和らしい美少年のブロマンスに集約していってしまうのはなんとも勿体無いと感じてしまった。
もちろん是枝裕和監督作品にデヴィッド・フィンチャーばりのサスペンスを期待してしまった自分も悪いのだが、「怪物だーれだ?」というキャッチーなキャッチコピーを目にしている以上、そういうのを求めちゃうじゃない。予告編もスリリングだったしさー。売り方が悪いよ売り方がー。
とまぁそんな理由で、鑑賞後しばらくはモヤモヤっとしていたわけだけれど、そういう映画だと割り切ってしまえばそんなに悪い映画じゃない。むしろ、もう一回鑑賞したいかも、くらいには気になる映画になっている。
言葉にすると陳腐になってしまうが、本作のタイトルにもなっている”怪物”の正体は、拡大した自意識や凝り固まったマインドセットなどの、人間が内に抱える観念的なものなのだと言える。
それは自らを閉じ込める檻にも他者を打ち据える鞭にもなる非常に危険なものであり、さらに厄介なことにそれ自体の危険性に人はなかなか気付かない。問題意識もないままに、それに取り込まれてしまっているということも少なくないだろう。
自分の個性は間違ったものであるという考えに毒され、自らを蔑み傷つける湊や依里。そしてその内側の瑕疵から漏れ出た毒はやがて外部をも侵食していく。
その様はまるで「フランケンシュタインの怪物」のようだ。
子供たちに”怪物”を植え付けるものは何か。
自分勝手な価値観に縋って依里を虐待する父親、学校を守るためなら事故死した孫すら利用する校長、保身に走る教師たち、上司の命令に盲目的に従う保利先生、本作の大人たちは全てこうあるべきであるという凝り固まった考えに取り憑かれており、最善だと判断した言動が事態を悪化させていく。”良き”母親である早織も例外ではなく、彼女の常識が湊を深く傷つけることになる。
事故死した孫を引き合いに出し校長に詰め寄る際、彼女が見せた能面の蛇のように冷酷な表情は、世界を「内」と「外」に分けて捉えていることを意味している。
家族という「内」の安寧を脅かすものは「外」敵であるとし、それを激しく攻撃し拒絶する。そのマインドセットこそが”怪物”そのものであり、それが子供たちに伝播していることに、彼女は最後まで気が付かないのだ。
〈あるものをあるがままに受けいれる、と口に出すのは簡単だが、それに身を委ねるのは非常に困難である〉と我々大人は考えてしまう。しかし、旧来の価値観に囚われた保守的な思想/言動は世界の閉塞感を強め、新たなる怪物を次々と生み出していくことを我々は知っている。
「内」と「外」ではない、「正」と「誤」でもない、新しい観念を自分の中に見いだす一助に、本作はなるのではないだろうか。
最後に一つ、本作のエンディングについて触れておきたい。
湊と依里、2人の秘密の場所であり物語の終着点でもある廃電車。2人の少年と電車という組み合わせには、やはり宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を想起させられる。
となると、あの意味深なエンディングで2人がたどり着いたのは彼岸であると考えたくなる。もっといえば、あのバスタブの中で依里はすでに息絶えていた、と考える方が物語的には自然だと言えるのかもしれない。
しかし、これはすれっからした大人の見方なのではないだろうか。
湊の自殺を疑った早織、自殺しようと屋根に登った保利。この時2人が耳にするのはゴジラの咆哮のような、または黙示録のラッパのような奇妙な騒音である。
観客をも不安にさせるこの音だが、第三幕で明かされるその真相は、ただ湊がトロンボーンを吹いていただけだというものだった。
物事をシリアスに捉えすぎる大人と、それを嘲笑うかのように軽やかに遊んで見せる子供。大人と子供の対比が鮮やかに描かれたこのシーンから考えると、やはりあのクライマックスは、心配する大人を尻目に2人の少年が自由な生へと駆け出していっているようにしか思えない。
あるものをあるがままに受け入れる。本作から受け取ったメッセージを、そのままこの作品の結末にも当て嵌めたいと、個人的には思うのです。
日常に潜む普通という怪物
母親にとっての普通の家族というのが湊にとっては死にたくなるほど苦しい。保利のような普通の教師が学校にとっての普通の対応(実際は歪みまくってるが)に潰される。依里や湊の依里を好きだという気持ちは、男らしくないが普通の価値観である同級生のいじめや依里の父親の治療という虐待によって踏み躙られる。
それぞれの信じている普通という価値観が怪物のように人を容赦なく傷つけて追い詰めていく。まさに人の価値観や社会の本質に迫った作品だった。
校長先生の、一部の人が思う幸福は本当の幸福ではない。という言葉で何かが吹っ切れたその後の湊の行動が何とも清々しかった。
怪物2回目観に行ったが、いろいろ謎が解けてきた。
・孫を轢いたのはやっぱり校長か?
校長だろう。校長が軽く認知症入ってそうだし、旦那さんが代わってくれたんだろう。
・ビルに火を付けたのは依里か?
依里だと思う。理由はお父さんがお酒を飲んだ時に暴力を振るうから、お酒を止めれば暴力をなくせると思ったのかもしれない。
・最後2人は死んだのか?
これは死んでないと断言できる。その理由としては電車が土砂崩れで倒れた後2人が下の窓から脱出して、水路を通って出たことにある。もし死んでいたなら、自分の思念の中だけのイメージになるはずなので、通ったことない水路自体が記憶になければ思念化されることはないからだ。故にちゃんと脱出した過程を見せることで、生きているという証を作り出していることになる。
ただ気になる所は保利先生と早織が電車に来たタイミングと湊らが電車から出てきた時間のずれだが、それも流れとしては、抜けた時がちょうど台風の目にあたり、風もおさまり晴れたというので説明がつく。電車に泥も入ってなかったし、電車が倒れただけで死ぬとは思えない。最後の柵も台風で飛ばされたのだろう。
故に2人はこれから理解ある大人や親に見守られながら、自分らしく前向きに生きていくことだろう。
届け!子供達へ
一人の母親の視点では、保利はモンスター教師だが、一人の教師の視点では早織はモンスターペアレントだ。教師の視点から見ると湊と星川君はいじめっこといじめられっこかもしれないけれど、湊と星川君は互いに互いを大切に思ってる。観客からは、校長先生が無情に見えるし、保利の婚約者は薄情に見える。しかし、それは観客の視点から見ているだけに過ぎない。
人間は、○○という単純な一言で片づけられるはずがない。もっと、多面的であると思う。
しかし、私達は普段の生活でもモンスター社員、モンスター上司、モンスタークレーマー、毒親、親ガチャと、いわゆる怪物探しに勤しんでいる。自分に辛いことがあれば、身近な怪物のせいにすれば良い。知らない怪物が出てくる事件が起これば、メディア越しに怪物を見て、炎上したりする。
つまり、私達は他者は怪物だと思わされる社会に生きている。多数派と違うだけで怪物になってしまう。
湊と星川君はそんな嫌な世界から楽しい世界へと冒険を始めたのだろう。それは、決して死を意味するものではないと思う。だから、子供達は安心して自分達の世界を壊されずに仲間達と冒険をして欲しい。そして、本作がそんな子供達に届いて欲しいと思う。
ちゃんと親元に帰れたのかな?
最初の母親視点だと、空気読めないにも程がある担任が謝罪の場面で唐突に飴食ったりw
校長はじめ先生方が不気味で不信でしかない状況。
担任視点だと何考えてるか分からん生徒達や不気味な校長達に彼なりに頑張ってたのに学校辞めさせられーの、新聞に載りーの、軽薄な彼女に捨てられーの散々な状況の中ホシカワ君の縦読みならぬ横読みで何かを悟る。
子供視点で色々不思議だった点が明るみに、、、、。
一つの事実でも当人同士の主観で随分印象が変わるんだなと当たり前ではあるが多角的な視点が大事ではあると改めて思った。
親やクラスメートに虐められてもニコニコしてるホシカワ君が可愛すぎだけど放火はアカンよw
それは単なる子供同士の喧嘩から始まった…
小学校で起きた単なる子供同士の喧嘩だったが先生が虐待をしたと勘違いで親だけではなくマスコミにもされ騒動となりました。
その後二人の子供が秘密基地(電車)から抜けだし走りゆく姿が衝撃でした。
監督はどんな想いで「怪物」としたのか。それを知った瞬間に注目となりました。
怪物だーれだ。ですね。
子供の悪意のない、恥ずかしさからのウソから発展していく現代の闇を、見た気がします。こうして、祭り上げられてしまった被害者って、リアルにいるんじゃないかなぁーと、だれも、悪くないし、色んなものを守る為に必死になった、結果。子供のリアルが見えなくなる親、悪者に仕立て上げられた先生。学校を守る為に必死な学校。なんとも、哀しいお話でした。人間と人間で話がしたいっていうのは、今の時代とても大事だなぁーと思いました。
映像と、坂本龍一さんの音楽で、とても素晴らしい作品でした。
カンヌはモヤモヤがお好き?
予想外の館内貸切だったので全裸で鑑賞
貸切の時は全裸で挑みたくなります
そんな僕も怪物です
通報しないで
嘘です
是枝作品は「海よりもまだ深く」が1番好き
他は…薄味か、後味モヤモヤか、イラッと後味か…あまり是枝作品とは相性が良くないですが、過去10年の監督作品はほぼ全て観てます
僕の妹も、小学生の時に今作と似たような経験がありました
昭和も令和も学校にまつわる怪物は同じ…
安藤サクラは華は無いけど、リアルな存在感
役に溶け込む自然な演技
ハスキーボイスなので、張り詰めた演技が圧巻
序盤の怒り狂う目が怖い…
夢に出そうなキツネ目の怪物
ハマり役だが少し違和感のある瑛太先生
前半と後半では、完全な別人?
視点を変えただけなのに…
ふて腐れた態度が後半で消えたのは演出効果抜群だが、やりすぎて少し違和感あり
新聞の第一面に暴力教師と掲載されても、書類送検されない、ややご都合主義な展開
昨今の保育士は逮捕までされるのに…
行動が怪しすぎる怪物
色気ムンムン高畑充希
植物図鑑が1番好き
どんぐりまなこの怪物
タイムリーな吸血鬼は怪物なのです
時々魅せる田中裕子ワールド
全部持ってく…
真の怪物女優は貴女なのです
大仏顔の怪物
安定の芸人俳優 角ちゃん
酒乱な怪物
しれっと女優化 野呂佳代嬢
ゴッドタンから出世したなぁ…
結婚したら色気が無くなったのが残念
あまり痩せないでほしい
適度なポチャ感が魅力なのです
成りあがりの怪物
「西田ひかると結婚します」
是枝監督の願望演出ですか?
初めての共感シーン
僕も昔は同感でした
フルーチェのポスター持ってます
カレーマルシェが懐かしい
こぶ平に抱かれた理由が解らない平成アイドルの怪物
こぶ平はアイドルキラーの怪物
消えて無くなれ…土下座しろ!アッチョンブリケ!
ショックでフルーチェやけ食いしたらトラウマに…
そしてフルーチェの怪物誕生
牛乳と混ぜてると脳裏をよぎる こぶ平の顔
前半は胃が痛くなる展開
久々にずっとヒリヒリ…苦痛で見入る
ホラー映画より怖い
中盤から急速に失速感が…
緩やかで、ややくどい伏線回収
穏やか過ぎて集中力ダウン…
色んな事を考えてしまった
旧国鉄時代?の廃棄放置車両って実在するの?
車両基地って広い平地にあるんじゃないの?
終盤は小学性あるある
自慰行為を覚える前の、男子小学生あるある
LGBTとは少し違う気がするが、中性的な美少年2人なので、なんとも言えない…監督の狙いの様な気もする
見終われば、ザ・是枝フィルム
モヤモヤ感が重くのしかかる…
モヤモヤして理解出来ない観客が怪物なのか?
思い込みで決めつけた人物が怪物なのか?
受け止め方は人それぞれ
ほぼ毎回の様にラストで問題定義する是枝監督
数年後の殆ど内容を忘れた頃に、改めて鑑賞したい
彼らには”行動”する他なかった
監督が~~、脚本家が~~とか抜きにして予告編が面白そうだったので鑑賞。
映画館のスクリーンで見るべきか迷ったけど大正解。
【あらすじ】
息子が学校の先生にいじめられているという疑惑を持った母親は学校にかけ合うも取り合ってくれない。しかも息子が他の生徒をいじめているとまで言われる始末。
事の発端は、真実はなんなのか、本当の怪物は誰なのか?
全員演技じゃねえ・・・マジもんだぜ・・・
映画館で見ると没入感がえげつない、自分もそちら側にいる気分。
全然物語の趣旨とは違うけど、「本物のサイコパスはだ~~れだ?」って感じで最初は見てたな。
その後作品の主軸に気がついてみる角度を変えたりして、能動的な映画だった気がする。
[羅生門スタイル]という複数のキャラクターの目線からストーリーを紡いでいく手法でした。小説だと「告白」に代表される湊かなえさんが近いかな?
大抵この多角的に物語を進める手法って、”真実”を映しがちなんだけど
今回は全員信用ならない感じがある。
”事実”であっても”真実”が見えてこないので全員疑わしいし、終始不穏な雰囲気。
・子供を信じ、守り抜きたい親目線(安藤サクラ)
・真面目で実直すぎる教師目線(瑛太)
・自分の心と葛藤する子供目線
基本的にはこの3人がメインだが、周辺を取り巻く先生や校長、親や彼女など
が問題を複雑にしていき決して”ただの映画”として見せず、他人ごとではないように感じさせる。
作品自体の構成はもちろんなんだけど、各シーンに”メタファー”的要素が散らばめられているので何度か見ても発見がありそう。
(特に”消す”、”綺麗にする”というアイテムが多い気がした)
それとラストの展開、真実に関しては”オチ”と捉えるにはちょっと雑だと思います。
「怪物」が伝えたかったことってそこじゃない。
いくら優しい人間でも、誰かの人生では悪役になるように
誰しも”怪物”になってしまう(見えてしまう)ってことなんじゃないでしょうかね…
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ネタバレ含むかも
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この作品を通して気がついたことが3つあります。
①人は見たいように見る
[羅生門スタイル]のおかげで自分がいかに一つの視点でしか物事を見ていないかに気がつく。
本来は色々な要素を加味して”真実”にたどり着くべきが、自分の欲しい情報だけを無意識に取りに行っているんですよね…バイアスってやつです。
②子供は行動する他ない
小学生ぐらいの子には、大人の事情や言葉の意味をストレートに受け取ってしまうが故に板挟み状態に陥りやすいように感じた。
なのにその心境を説明する、納得させるほどの言語化能力がない。
その結果”行動する”ことによって感情の発散や整理に繋がるんだなと気がつきました。
③知らずに価値観を押し付けているかも
どのキャラクターも一見普通に真面目でれも”怪物”には見えないけど、
それぞれ深層には刷り込まれた価値観があって、それが子どもたちを圧迫していた気がします。
一番闇ってるのはアノヒトですよね?
是枝監督だし話題作なので正直期待して観てきました。
最初は子供が問題を抱えたシングルマザーに同情しかなくて、でも徐々に担任が気の毒で仕方なくなり、最終的には子供達のスタンドバイミー。
一番闇ってるのは校長ですよね。ヤバいですよ、あの人。こんなアンドロイドみたいな人が校長してていいの?
そもそも、最初からきちんと学校側が真摯に事態を把握していたらこんな事にはならなかったのです。
考えたらすごくシンプルな話。
堀先生が気の毒すぎる。恋人も薄情やし。
そしていつの世も大人に振り回される子供達が不憫だ。
ストーリー展開は思ったよりエモーショナルではなかったけど、子供2人(特に佑里役の子)の演技が素晴らしく、それだけでも観た価値ありでした。
音楽もとてもいいな、と思ったら坂本龍一さん。
ラストシーンでなんでか涙ポロポロ出ました。
子供たちには幸せでいてほしいから。
大人になって、保守的になったかなあ
母の言う家族(子)を持つことが幸せだと言うのなら
なぜ生まれてきたのか?と悩むミナト。
幸せは誰にでもあるもの、が主題なのか...
皮肉にも感じてしまう私は、子供のまっすぐさを忘れてしまったのかもしれない。
忘れてしまった子供の頃の秘密基地を覗き見させてくれる本作。
是枝監督の撮る情景が好きな者としては、坂元脚本は脳フル回転でちょっと疲れる笑(ミステリ好きにはむしろいいのかも)
怪物は噂のことかな。
観たい度○鑑賞後の満足度○ 日本映画で恐らく初めてこのテーマに切り込んだ先進性と挑戦意欲は認めるが、それを描くのにこの演出と脚本で良かったのかは疑問。と云うことで、も一回観ようっと。
2023.06.09. 2回目の鑑賞。
で、1回目より評価上がりました。★★★★にしても良いかな。
どこに伏線があったかを確認するために、犯人とトリックとを知ってしまった推理小説を再読する感じ。で、推理小説ついでに言うと、ダブルトリックみたいな構造にしてあるんだね。
実際は単に子供の嘘に大人が振り回されるだけの話に(こういう映画でしたら『落ちた偶像』とか『噂の二人』とか沢山ある)、『羅生門』的構造を乗っけて、如何にも一つの出来事が人によって見方が変わってくる話という体裁を取っているだけ。
ただ、どうしてこういう構造にしたのかはやはり疑問が残る。
真相の意外性を強調するためか、あまりこういう構造の話はなかったので一回使ってやろうと思ったのか。
それに母親編、教師編はやはり違和感はそんなに薄れなかったけれど(もっと練った方が良かったかも)、1回目の鑑賞では気づけなかったが、子供編は素晴らしいと思う。
ここだけ抜き取れば佳作と言えるかも知れない。
①「カンヌでクィアパルムを取りました」、なんてポスターにデカデカと書いたらどういう映画か分かっちゃうじゃない。
と思うが、大多数の日本人はそれでも分からなかったりして…
②全作品を観た訳ではないけれども、これまで是枝裕和演出の映画で感心したことはない。
演出力はあると思うし画作りも上手いと思うのだがいつもピンとこない。
特に社会性のあるもの、現代日本の持つ色々な問題を取り上げて描くものは設定が極端すぎて外国人には受けるかもしれないけれど、日本人としては「だからどうせよ、というのよ。そんなこと、わかってるよ。」と言いたくなる事が多い。あざといというのかしら。
かえってあまり問題意識のない『海街diary』みたいな作品の方に上手さを覚える。
(2回目の鑑賞時:子供編ではやはり演出力には唸らされる。)
本作は脚本が『花束みたいな恋をした』の人ということで期待したが少々期待外れ。
「怪物」という題名にしたのも、これまたも一つ?何かみんな「怪物」探しが主体になってしまうし。
もっと「人間」探しに必死にならなくちゃ。
この世の中には人間だけしかいないんだから、悪いものはみんな「怪物」にして魂鎮めすれば良いと思うのかなぁ…
ネタバレを言えば“怪物、だーれだ?”は二人の恋人たちの遊びの一つに過ぎなかったのだ。
③私は親ではないし子供がいないので、偏った見方なのか中立的な見方なのかわからないが、いろんな現代の子供を廻る問題があちこちに置かれているけれども、どれも中途半端か尻切れトンボの感あり。
現代は情報過多の時代であるが、本作も情報を盛り過ぎた感もある。
④母親、教師、子供達…と主役が交替する度に話の形相が変わってゆくという、ある物事が人の視点や角度によって見え方が違うということであれば古くは黒沢明の『羅生門』をはじめ似た作品には事欠かない。
しかし、本作は最後に判明した事実でそれまでの出来事の意味が理解できるという一種のミステリーである。
それからすると前半の学校の対応とか無駄に尺を取っている感がある。それともred herring か?
⑤各登場人物の視点によって話が変わってくる、という構成に目を向ける人が多いが、みんな大人の目線・立場からばかりだから違うのはある意味当然で、私達は一番肝心な子供達の視点・立場・想いに目を向けなければならない。
そういう意味では最後に子供達のそれらを持ってきた脚本の構成は、初めから大人の観客の反応を計算に入れていたとしたら、結構巧妙であながち的外れなものではないとも言える。
⑥湊くんがいなくなって探しだした(後からすると星川くんとの逢瀬を邪魔したのであったことがわかる)佐織が、帰りの車の中で“お父さんにね、約束したの、湊が世界で一番の宝物である家族を持つまでは頑張るって(だったかな?)”と言った時、(真相を知る前でも)「うわっ、うざ!」と思ったが、湊くんにしてみたら「うざ」どころか存在を否定されたようなもので、車から降りたくなったのも分かろうというもの。
ただ、佐織を一方的に責めるのも可哀相で、本人は一生懸命シングルマザーとして頑張って、息子を父親みたいなマッチョな男(ラガーマン、ラガーマンにもゲイは多いようですが)にしなくちゃと思っていて、でも父親が浮気中に事故死したから息子には幸せな家庭を持って貰いたいと思っていて、それにまさか息子がゲイだとは普通思わないだろうし(でも親には分かるともいうけれども)。
まあ、あの台詞と対比する形で、後に校長先生が湊くんに言う「限られた人にしか掴めないのを幸せというんじゃないのよ。誰にでも掴めるものを幸せというのよ。(だったかな?)」という台詞が本作でのほぼ唯一の救いになっているんだけれども。
⑦ほんでまた、この佐織もある意味常識がない。
いくら子供が体罰にあって(誤解だったけど)腹が立つとはいえ、噂に過ぎないのに「ガールズバーに入り浸っている」だの、証拠もないのに「放火したのはアンタじゃない?」とか、侮辱罪に問われるぞ!
田中裕子演じる校長先生に「最近お孫さんを事故でなくされたんですってね。苦しいでしょう?辛いでしょう?私の今の気持ちもそうです(だったかな?)」って、比較のレベルが全然違うぞ!
⑧子供に奇態な振る舞いがあれば、今時の親はすぐ学校で何かあったのか?と学校のせいにするのだろうか。勿論その場合も多いだろうけど、先ずは子供自身に問題はないか、家庭に問題はないか、と考えるのではないだろうか?親になると自分の子供は絶対に正しい、おかしくない、と信じ込んでしまうのか?
⑨子供がいないので現代の学校がどんな実情か分かっていないけれども、本作で描かれているレベルの苛めであれば、50余年前の私の小学校でもあったぞよ。
教師が親に気を遣いすぎているのは当時と大きく違うところだが、現代の学校・教師は本当にあそこまで卑屈なのだろうか。
是枝監督作品によくあるようにややデフォルメし過ぎに思う。
それとも母親編は母親を一見正義に見せるために敢えてああいう演出をした?
⑩校長先生もキャラが振れ過ぎて不自然。
流石の田中裕子も上手く具現化出来なかったか、流石の田中裕子も肉付け出来ないほど脚本に上手く書けていなかったのか。
⑪中村獅童扮する、自分の息子がゲイであることを受け入れられず“脳ミソが豚の脳ミソ”と言い放ち酒に溺れる父親像は、多様性を受け入れられない人間を代表するキャラとして登場させているのだろうけどやや陳腐。
本作は結構陳腐なキャラや設定が多いけれども、陳腐と捉えるか、“あるある”と頷くかは個人の好みでしょうね。
⑫遥か昔、50余年前、私が小学生の時にもクラスに一人苛められっ子がいた(しかも女の子)。
確かに汚い子だったけれど、「さわると汚れる。その子がさわったところは汚いから手を触れない」なんてクラスで平気で言ってた。今から思うと随分酷い話だけど。
後年、大人になって再開したら結構たくましいお母さんになられてました。
⑬星川くんは見た目も可愛いし小綺麗だし何で苛められるのかな、と思うくらいだが、父親に「脳ミソが豚の脳ミソ」と言われている事がクラスメートに知れわたっていたりゲイであることをクラスメートがそれなりに感じていたからか?(子供って案外敏感で残酷だから)
湊くんは、最初から星川くんを意識していたのは2回目の鑑賞でハッキリ分かった。
星川くんを人知れず見つめる目の演技が宜しい。あの歳で意味を分かっていたのなら大したもの。
星川くんを守ってあげたい。でも星川くんの側に立てば彼も苛めや冷やかしの対象となってしまう。父親のDVや同級生の苛めをやり過ごすために何も感じないやり方を選んだ星川くんの心情を考えれば切ない。本人は表面だけかも知れないが飄々としているが。
ただ、机に絵の具を塗りたくられているのを発見した時の表情には胸をつかれる(昔、自分が加害者側だったことを考えると更に)。
湊くんは学校とプライベートで社会的上っ面と素の顔とを使い分ける。星川くんもそれを受け入れる。
誰かに見られたと思ってカモフラージュで触られた部分の髪を切ったのか、自分の想いを封じるために切ったのか。
星川くんへの苛めを直接的には止められない。だから自分が暴れて注意を自分に向けさせる。
雑巾を星川くんに返したことで(恐れていた)冷やかしが始まる。だから星川くんと喧嘩しているように振る舞う。星川くんもそれに調子を会わせる。
でも午後二人きりでいる時は本当に楽しそうだ。
二人が二つの顔を使い分けて日々をやり過ごす姿は本当に切ない。
ただ、二人が嘘を突き通す、芝居を見破られない為には誰かをスケープゴートにしなければならない。ここはまさに子供ならではの残酷さだが、スケープゴートになった保利先生が二人の真の関係に気づくという皮肉な設定にしてある。
何故子供達は嘘を突き通さねばならなかったのか。その理由を特に子供達をクィアにすることに求める必然性はなかったとは思う。
脚本家の小学生の時の出来事がベースにあるそうだか、子供達が自分が周囲とは違う異質な存在と思い込むには確かに二人をゲイにするのが現代的ではあったと思う。成人はもとより少年少女の同性愛を描く映画は邦画でも増えてきたが、日本で児童の同性愛に踏み込んだのは本作が初めてだと思うから。
「男らしさ」が現代でも子供達を縛り付けているとは思わなかった。私達の世代ならともかく、「結婚」「家庭」「家族」=「幸せ」という概念も。
「将来」という事にも周囲との同一性を見いだせない彼らは「生まれ変わり」にしがみつくしかない。
クライマックス、地滑りの音を発車の音と捉える二人がまたも切ない。
私としては二人は地滑りに巻き込まれてしまったのだと思う。
何とか二人だけの世界で“幸せ”を掴みかけたのに土砂崩れが社会のように、それこそ“怪物”のように二人を呑み込んでしまった。
ラスト、生まれ変わった二人は、星川くんの「僕たち変わったかな?」という問いに、湊くんが「いや変わってないよ(変わらなくても良いんだよ)」と答え、二人で新しい世界で自由を満喫するイメージで終わる。
子供達が(クィアであろうがなかろうが)ありのままの自分を隠し嘘をつかなければならない、どんな人であれ「幸せ」になれると思えない(だから校長先生の台詞が活きてくる)、そんな社会こそが「怪物」なのではないだろうか。
これが現在私たちが生きている社会というのなら、私たちはずいぶんつまらない(しょーもない)社会に生きているんだな、と思う。
それを弾劾したかった、というのなら成功してますよ、監督。
誰もが見えない戦いをしている
前情報ほぼ無しで観てきたので、"怪物"というタイトルをみて、サイコスリラー映画だと思って観た。結果的に予想が大きく裏切られた。心揺さぶられる良い映画だった。
本作は怪物の正体を問い続ける、心理的な要素が深く込められている作品だ。一見平凡な母子家庭の麦野家の日常が描かれた序盤から、徐々に息子が抱える問題に焦点が移る。彼の学校での苦境、そして友人である星川君の問題、これらが複雑に絡み合った関係性が見事に描かれている。
衝撃的な展開は序盤から終盤にかけて見事に配置され、視点の変化とともに怪物の正体を明らかにする。特に、星川君が虐待を受けていること、そして彼が同性愛者であることが明らかになる場面は、その衝撃度合いを一層引き立てる。
映画の中盤では、星川君と息子が秘密基地で過ごす場面が長めに描かれ、映画全体の緊張感を一時的に緩和する休息的な時間となっている(これが若干中弛みの要素にもなっていると感じた)。
しかし、その穏やかさは一瞬にして消え去り、衝撃の結末へと導かれる。彼ら二人の運命とそれを取り巻く大人たちの反応が心に深い影を落とし、映画が終わった後も、考えさせられる。
この映画は、性的マイノリティを描きつつ、全ての人が怪物性を持っている可能性を示唆している。モンスターペアレントで息子に普通を押し付ける母、友人を助けられずいじめを見て見ぬ振りをする息子、同性愛者の息子を蔑む星川父、異質さを持つ星川君、男らしさを無分別に押し付け、ストーカー的な傾向を持つ担任教師、孫を轢き殺したと噂される校長、無関心な態度をとる他の教師たち。
この映画は性的マイノリティの問題だけでなく、人間性そのものを大きな視点で探求している。
そして、それぞれの登場人物が直面している独自の"怪物"は、我々自身が経験する可能性のある現実の反映とも言える。映画を観ることで、我々は自己内部の”怪物”と向き合うことを迫られる。
また、叙述トリックを巧みに駆使した物語の構成も見事で、観客の先入観をうまく利用していて見事だった(しかし、クィア・パルム賞の受賞情報が解説などに添えられている為、物語の核心に対するヒントとなっていて、トリックを台無しにされている感は否めない)。
全体的に見て、“怪物”は感動的な展開を持ちながらも、人間の心理と社会的な問題を深く探求した作品だ。序盤から終盤まで一貫して感情移入することが可能で、その過程で感じる怒りや衝撃を通じて、映画の世界に深く引き込まれ、時間を忘れてしまう。この映画を観た人は、その強烈な印象が映画鑑賞後も心に残り、しばらく思考を強く刺激し続けるだろう。
余談。息子と星川君はどうすればよかったのか?
映画から読み取れる麦野母のキャラクターは、「普通」という価値観を子供に押し付けるものの、それは彼女の無知から来るもので、悪意があるわけではない。彼女は子供のことを真剣に考える人物であり、適切に話し合いを行えば、理解を示し、息子たちのサポートに回ってくれただろう。
また、担任の先生は一見奇人に見えるかもしれないが、心無い言葉を使ってしまうのは無知や思慮の欠如からで、必ずしも差別意識からではないと考えられる。
だからこそ、息子が最大に失敗したのは、自分たちの味方になり得る二人を諦めてしまったことだろう。
麦野母のすれ違いもまた痛ましい。彼女は自分が子供に寄り添っていると思っていたが、実際には寄り添えていなかった。息子が一足の靴で帰ってきたとき、水筒に砂利が入っていたとき、トンネルで一人になっていたとき、何度も問題の兆候は現れていた。それでも、理解ある親の振りをして子供の本心を見逃し、学校対応に時間と労力を注ぐことに一生懸命になってしまったのは痛恨の極みだった。
余談その2。この作品は要所要所で認知を歪ませるトリックが使われていて、観客は何度も騙されている。つまり観たままの映像は、イコール真実ではないということだ。なので、最後の子供二人死亡エンドはトリックで、全員生存ルートのハッピーエンディング説を私は支持いたします!
今年観た映画の中で一番
今年観た映画の中で一番面白かった。大人は勿論、子役の2人の演技が上手い。特に依里役の男の子の演技は素晴らしいと思った。自分は最後は死んでしまったのだと解釈した。
かいぶつ、だれだ。
怪物とは、我のことなり。
人はそれぞれに先入観や思考や想像や信じてしまうこと考えてしまうことの癖があり、それゆえに誰もが誰がに対する加害者や害悪になってしまう。お前は怪物だ、という私こそが怪物。
結婚して普通の家庭を、
とか、
男ならできるだろ
とか、
プロポーズは夜景の綺麗なところでするものでは
とか、
母子家庭だから、
とか、
生徒の親=モンスター
とか、
なんでも良いのだ、人の心に浮かび人の口から出たことは、なんらかの形で悪意を持ち誰かを傷つける、
それぞれの視点視野から見えたもの。だから嘘ではないかもしれない。その角度からの事実が次々と明らかにされる。
自分が嘘をついたとわかればそれは嘘。
堀先生も、湊くんも。依里くんも。嘘がなさそうな子ども2人も気遣い、空気読み、保身してしまうのだ。
存在感を薄めよう、としてより一層際立つ田中裕子の存在感に全てかすんでしまうところがあるが、
誰にでも手にはいらないようなものは幸せじゃない
一部の人にしか手に入らないものは幸せとは言えない
と年老いた田中裕子校長は小学生の湊くんにいい、ホルンやトロンボーンに、そんな時は
フーッと、フーッとするのだ とおしえる。
子どもたらちは台風のビッグバンを経て怪物ではなく人間としての自分を生きるだろう。生きようとして挫折するだろう。
森の中の秘密基地とか、火遊びとか、遊び方は昭和なところがあり、今の子どもにはなかなかできないこと、子どもっぽい遊びがができて羨ましいと思うけど、親だから気を使うという気持ちは今どきな感じの会話で、それはまた真実の子どもの気持ち。
押し付けがましいところが全くないのがよい。
万引き家族とはまるで逆。なにも押し付けてこない。淡々と凝り固まりがちな視座を動かし我にかえり、という作業。
諏訪湖もまた、海のようにとてつもない大きさに見えたり箱庭の、子どもらの秘密基地のなかの池のように見えたり。そんなところもよかった。
最後の映画音楽作品なのか坂本龍一の音楽も、押してこないところがよい。しずかに自らの怪物性を顧みる。誰もが手に入れるような幸せじゃないとだめなんだ、幸せじゃないんだ。
誰もが優しくあったからこその悲劇
視点が変わる度に、さっきまでこういうことだろう、こういう人物だろうと思ってたものがガラリと変わる。
立場や視点で起きてる事実はひとつでも受け取るイメージがあまりにも違うのに驚かされる。
さらには誰もができるだけ大切な人を傷つけまいとついた嘘が、巡って1番のダメージを与えることになる悲しさだ。
ずっと、なぜ?と抱く問いの答えが徐々に明かされていくに従い、なぜからどうしてに変わっていく。
完璧な組み立て。
あまりにも悲しく切ない。
走らないはずの線路、窓が上部になってたということは、車両が嵐で崩れた土砂で横転したということなのだろう。
つまりラストはそういうことだよね…。
怪物というのは、己が理解出来ないものを外部が勝手にそう呼ぶ言葉。自分からそうは言わない。怪物を生み出すのは周りの人間なのかもしれない。
追記として。田中裕子演じる校長が、湊くんに「誰でも手に入れられるものを幸せと~」のセリフ。
すぐには自分の中で理解ができず引っかかっていたのですが、時間を置いたら納得が出来ました。
私が独身だったころに母がいきなり「あんた達(私を含めた友人数人)でAちゃんは幸せね。公務員と結婚して子供もいて」と言いました。当時私は、独身でも私けっこう楽しく過ごしてるんだがそこは無視?え?娘に私は不幸だわって思って暮らして欲しいのか?となんとも嫌な気持ちになったものでした。
作中のあのセリフを思うにこういうことなのですね。いわゆる「みんな」「平均的に」そうしてる、というものをほとんどの人は幸せと呼び、当てはまらない人々の気持ちや考えなどは見ようとしない。
改めてすごい脚本だと唸りました。
お前らはそれでいいのかもしれないが
タイトルからホラー映画かなと思ったのに…(笑)
いわゆるBLモノ。ポリコレ意識か。
ただそれをズバリ言うのではなく、ぼかした表現にしている。
他の事件も明確に答えを出さず、全体を通してフワッとした感じ。
「逆転のトライアングル」に似た投げっぱなしジャーマン。
解釈を客に投げるようワザとやってるんだろう、監督の思うつぼか(笑)
視点を変えて同じ日々を3回繰り返してはいるが、時系列が微妙に繋がっていないような気がした。
時系列を合わせて再編集しても面白いかと。
大人たちの最後が気になるトコロ。
子役2人の演技はすごい。
胸が締め付けられる。
胸が締め付けられるとはこういうのかと、
なんか初めて感じた。自分が歳をとったせいもあるのだろうが、
何か凄いのを見たという感想。
面白いとか、凄いとかってのとは違う。
どのジャンルかもよくわからない。途中、スタンドバイミー的な感じもしてしまったが、そういうのでもない。
邦画ならでは感じるような。
怪物は誰だったのか。中村獅童演じる親か、クラスのいじめっ子たちなのか。
汚れのない子たちが汚されて、怪物に変えられる。
心締め付けられた。
辻褄合わせっていうか、回収って言葉にしたくないが、映画の作りも内容も思っていたのと違いすぎて、終わりまで惹きつけられました。
間違いなく良品でした。
他の映画と迷ったが、これ見て良かった。
怪物だーれ だったんだ?
予告から何度も見せられていた、印象操作のような必死な母親と重大案件なのにヘラヘラしている笑顔の怖い教師と取り巻く覇気のない教員たち。
冒頭のこの描き方で母親目線の怒りを持たせたかったのはとてもよくわかったのだが、私はどんどん母親に腹が立っていきました。
いいから少しは黙って話を聴けよお前。
相手のペースを待て。急かしてかき乱すな。
あー、ダメだこの母親には感情移入できないや。
そこから目線を変えて罪を着せられ追い込まれていく教師に。
教師パートのラストシーンは一瞬ドキッとしました。
最後は、友達への複雑な想いと学校生活における自分の安全や勇気や母親からの無言の重圧などの色んなことの折り合いがつけられない男の子がついた小さな嘘が「怪物」のようになっていく話として、これまで見ていた2つの目線の「事実」が改めて紐解かれる。
人は大抵の場合、自分の立ち位置からしか物事を見られないが、こうやって映画として目線を変えられても全てを把握など出来ないし、受け手によって解釈が変わる。
起きた事実は1つでも、物事はときに怪物のようになり、台風のようにもなり、太陽のようにもなる。
静かにそう締めくくられるラストシーンが、どうか映画の中のリアルであって欲しいと希望を抱きつつ、静かなエンドロールを迎えるのでした。
結局、怪物などいなくて、みんな必死に生きる1人の人間であるものの、誰の中にも怪物がいて、物事はそうなる可能性をいつもはらんでいる、という風に私は個人的に解釈しました。
素晴らしい作品だと思います。
技術は高いが危うい作品
破綻のない構成、視点人物を変えていくのも効果を上げており、映画の技術として世界の超一流であることは間違いありません。
また安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子、それぞれの演技も堪能しました。
しかし、です。
すでにそうした批判は起きていると思いますが、作中人物がタブーを内面化し、「言えない」状態を相対化せずに作品が終わることは、それがタブーであることの難点を問うことに本当になるのか?という疑問は残りました。
むしろ「それはタブーである」という観念を強化しまうのでは?
しかも、その点は世界の潮流からみてもかなり遅れていますね。
下手をすると、「ミッドナイトスワン」のような時代錯誤で差別の強化を手を貸す作品にも堕しかねません。
日本映画がもう一歩も二歩も進まなくてはいけない点です。
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