怪物のレビュー・感想・評価
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タイトルなし
三者視点で物語が違って見える話
こういうのって視点が変わることで、人間の隠された陰湿さとか実はこんな思惑、真実が…とかの展開になりがちだけど、明かされてくほどに誰も悪い人も怪物もいなかった…
母から見た教師はすごくやばい奴にしか見えないけど、不器用な善良教師で
教師から見た生徒は問題児にしか見えないけど、本当はクラスメイトからのいじめをかばう友達同士で
子供視点で本当のことがわかる
自分から見える世界はどれだけ狭く、偏り、見ようとしたものしか見えない、見ようとしても見れないことで溢れてるんだろうか
三者とも同じ時系列なのにまるで別世界だった
そして誰もが誰かを想っていた
なんで髪切ったんだろ?ってことがわかった時、みなとが嘘をついた理由がわかった時なんとも言えない気持ちになった
親に豚の脳みそって言われる理由が頭が悪いことではなく同性愛者だからということに震えた
親視点では殺伐としてた世界は、二人の視点からだととてもキラキラしていた
まぶしくて不自由でくるしくて愛しかった
みなとが最後に「生まれ変わりなんてないよ」って言ったことがよかったな…
親達が必死で捜してる中、子供達二人は二人だけの世界を陽の光のなか走っていて希望に満ちていた
永遠に続いていきそうなくらい美しかったし、二人だけのピュアラブストーリーだった
…えっこれもしかして二人死んでるってことないよね?
二人が二人なりに生きていくこと、二人の絆を再確認した、もしくは親の呪縛から逃れた描写かと思ったんだけど、ワンチャン二人が逃れるにはこの世界からいなくなる…とかじゃないよね?信じてる…
でもそれすらもわからないんだよ、いっそ
自分の見たい世界しか見ないし、見れないし、わからないんだもの私達は
だから無理解が生まれて、分かり合えなくて、人の数だけ踏みこめないその人だけの世界があって、なのに私達は知らない人間の事件を、だれかの噂話を、さも自分は真実を知ってるかのように何もかもわかってるかのように語る
私達は何もわかってないこと、誰かの全てを知りえないことを、そしてそれを忘れて全て見えてる気になってることを優しく突きつけられる映画だった
なんて美しいんでしょう
予告見ただけで事前情報入れずに鑑賞して正解。1回目見て、その次の回で2回目も見てしまった。
前半は社会派サスペンスなのかなと思いきや後半は純粋な愛(愛と表現するのも違う気がするが)
母親視点50分、保利先生視点25分、湊視点50分でした(時計見た)
母親から見た保利は態度最悪、面談中に鼻噛むわ飴舐めるわ、シングルマザーがどうこう言うわ。後に保利は何も悪くないと分かるが、何故こんな態度悪くしてたんだ?と消化不良だったが2回目見て理解。駅で恋人からシングルマザーだと過保護になるとか飴口に入れられて「そんな深く考えなくていいんじゃない?」と言われます。それをそのまま実行したのだと。
それにしても保利って変な人ですよね。自分が体罰教師と書かれた週刊誌見てニヤニヤしてるんですよ。付箋貼って。これはきっと誤植を見つけたんでしょう。恋人にも「誤植見つけて出版社に電話入れる」って言われてたし。でもこれが伏線となって、依里の作文のトリックに気づくんですよね。
湊は最初は自分の気持ちを認めなくなかったんだろうね。だから依里に触られた髪を切ったり、クラスメイトに「好きなの?」って揶揄われたとき依里を攻撃したり。苦しかったんだろうな。
でも私は、母親に「普通に結婚してくれたらいい」って言われて車を飛び出したときに「あ、そうかな?」って思いました。もう本当これ言われるの嫌ですよね。分かる人にはもうここで分かっちゃうというか。
そして湊の隣の席の女の子は多分私と同類。BL本みたいなの読んでるし、先生に「麦田と音楽室行け」って言われた時「星川くんも音楽係です」って二人で行かせようとするし、悪ガキたちが依里の雑巾投げて遊んでる時に、湊にパスするし。「お前なんとかしてやれよ」って目してたし。でも謎なのは何で保利先生に「麦田くんが猫で遊んでた」って言ったの?あの証言になんの意味がある?そのせいで保利先生に湊が猫殺す子だと誤解されちゃったし。
それにしても依里くん、身体と声は幼い子供なのに、思考が達観しすぎてて何とも言えない魅力があるなぁ。ナマケモノのことを「攻撃されても力を抜いて感じないようにする」って言って「それは星川依里くんですか?」って湊が言ったシーン良かったなぁ。いじめられてもニコニコ笑ってるのが彼なりの自衛だったんでしょう。あと、もう一つ良かったのが「花の名前知らない男はモテないってお母さんに言われた」って言われたシーンですね。その後に「暗いところ怖がる男はモテないよ」って言ってトンネルに湊を誘うんですよ!ここ、なんかすごかった…そりゃあ湊は依里くんにモテたいからトンネル入りますよね。人生何周目ですか。
そして秘密基地で湊が依里にぶつかって怪我させちゃうシーンですよ。その後に廃電車の中で手当てしてる最中に転校を告げられます。その時の湊の「やだ!」って感情の露呈でもう涙。その後に抱き合って依里が「みなと」って下の名前で囁くんですよ。え、これどういうこと???そしてその後に突然湊が「はぁ?そういうんじゃないから」みたいに怒って依里が「大丈夫。僕もそうなることあるから」って…。"そうなる"って何ですか!??考えすぎだったら申し訳ないんだけど身体的な変化があったのかなって。それを認めたくない感じもあったし…
そして許せないのは依里の父親とクラスの悪ガキたちですよね。この二人にも罰当たってほしい。台風のシーンで依里の父親がすっ転んでる場面はありましたがそれだけでは足りないですよ!最初の場面で見ていたテレビも伏線というか暗喩というか。まずは「ドッキリ」と「お肌もちもち〜」のオネエタレントね。クラスの悪ガキたちは「これドッキリだから」と正当化して依里をいじめます。更には女子の味方をする依里に「お前女子なの?お肌もちもち〜」って馬鹿にするんですよね。これ、実際のいじめでもこういうことあるんだろうな。メディアの悪影響ですよね本当に。
そして何故湊は保利先生を悪者に仕立て上げたのか。最初の火事を母親と二人で見てるシーンで豚の脳がどうこういって「それ誰に言われたの?」って母親が聞くんですけど、おそらくここで依里の名前を出したくなかったんでしょうね。とっさに「保利先生」と答えてそこから戻れなくなってしまったんだろうな。まぁ子供なんて自分を守るためにいくらでも嘘つきますもん。私も自分で汚した服を母親に「クラスメイトに汚された」って嘘ついてしまったこともあります。
校長先生はなんだったんでしょうね。湊とトロンボーンとホルンを吹くシーンはとてもいい先生に見えました。言えないことはこれに吹く、ってところで涙が出ました。その後のすっきりした湊くんを見てよかったねぇって。孫を轢いた件については回収されないままだったし謎。
モヤモヤしたままの箇所もありますがとても良い作品でした。一つだけ嫌だったのは保利先生の彼女のゴムがどうたらって直接的なワード。これがなければ親と観れるのになぁ。是枝作品ってちょいちょいこういうの入る気がする。
やられた
やられた
ラストも完ぺきだった
あぁ 坂本龍一が音楽だったんだ 今思い出した
ひとりひとりが主人公
同じ事象に対して それぞれの見え方とか感じ方がある
・安藤サクラ
・瑛太
・みなと
・田中裕子
現代版羅生門(藪の中)
瑛太がそんな悪いやつだとは思わなかった
というオラの感覚はまんまと裏切られた
いろいろと思い出してあれはどういうことだという場面
腑に落ちない箇所もあるがむしろ心地よい
行間を埋めるパズルの楽しみ
・中村獅童の行動原理
・2年生の時の担任の作文への評価
・火をつけたのは誰か
・父親は浮気相手と事故にあったのか
・田中裕子の夫は拘置所に入っているのか 何ゆえか
・水筒の泥… あ これは 分かった
・台風の日にみなとはなぜ友だちの家に向かったのか
重層的なストーリー 伏線回収
テレビドラマ全盛期に視聴者を引き付けるために
しのぎを削った人のストーリーテリングはさすがだ
花束みたいな恋 を見るまではちと低く見ていたのだが
今回是枝監督と組むと そしてこの内容 あっぱれだ
なんか日本の繊細できめ細かいストーリーは
海外では受け入れられないと思っていたのだが
むしろこれから評価される気がする 素晴らしい
是枝監督はこれまでは自分が脚本を書くことにこだわっていたように思う
今回の坂元裕二とか前作の韓国のスタッフとか
組むことコラボレーションに喜びを見出している印象を受ける
前作ではソンガンホが主演賞を獲っていたし
今回は脚本賞 組む相手の良さを引き出す才能があるのだろう
田中裕子が校長 さすがにこれは年齢的にチト…
でもこれは減点対象にはならない
このタイトルには唸るしかない
(ここから映画と無関係)
オラは今日誕生日で55歳になった
イオンシネマは1100円で観られると
早速権利を行使したのだが月曜日はハッピーマンデーで全員1100円だった
終了後は駅前の公園で昼間から③ビール×2とポテトチップ コンソメ味
いい天気 その後のラーメンも美味かった いい休暇だった
怪物の啼き声
冒頭、火事を見てはしゃぐ麦野母子に軽く嫌悪感を抱く。
学校側とのやり取りでは正しくも見えるが、その違和感が頭の中に残り続けた。
保利も校長も依里くんも、最初に各々の異常性を見せた後に善性を提示してくるのです。
そういった奥行きと反転が非常に上手い。
安藤サクラの自然さ、瑛太の絶妙に怖い笑顔、田中裕子の生気の抜け方、何より子役2人、特に依里くんが抜群。
身近にも覚えのある女性的な男子で、しかもいじめに(我慢でも諦めでもなく)頓着しない難役を見事に演じていました。
屋根の上で保利が聞く(後に校長と湊が奏でていると分かる)管楽器の音が、怪物の啼き声に聞こえる演出は最高。
しかし、そもそもの発端である湊が「保利に豚の脳と言われた」と騙った理由が分からない。
保利が飴を舐めたのもやりすぎだし、校長が失意の中とはいえ学校の対応があまりに杜撰。
子供の行動に逐一理由はないし、湊と依里の友情は二人にしか分からないものでもいい。
だが誰も見ていないトイレで助けなかったのはサスガに解せない。
物語としても、事態の真相に気付き、最後の“転”に入ったところで梯子を外されてしまう。
湊と依里の生死をボカしたかったからその後が描けなかったのだろうか。
更に、制作陣の意図とは別に、クィア問題を絡められると「またか」と辟易してしまう。
物事を一側面から見る危うさは手垢がついているが、悪意すらなく噂や嘘を流す罪深さも含めて印象的。
女子生徒の件は、「猫(の死体)で遊んで」たけど「殺してはいない」ということかな。
是枝監督が撮る日本版ジョーカー
この映画は[怪物だ〜れだ]の一言で表されているなと感じました。
見る人によって、受け取り方によって[怪物]の定義は変わってくると思います。
個人的には「是枝監督が日本を舞台にジョーカーを撮ったらこうなりました」といった感想で、
監督のこれまでの作品[誰も知らない]や[万引き家族]などで描かれた「あなたの隣で起こってるかも知れない出来事、あなたの近くにいるかも知れない人達、明日は我が身かもしれない。」よりも更に踏み込んだ「あなたがそうかもしれません、今のあなたはどうでしょう?」と問い掛けられる感じで、
トット・フィリップス監督のジョーカーでの「誰もがジョーカーになり得る」と言ったメッセージを、日本のありふれた日常の中にある、ありふれた家庭からの目線で伝えてくる、
ある意味ジョーカーよりもエグくてグロい内容なのに、映像としては一切のグロさが無い(それが余計にグロい)。
人によって特定の人物を怪物としたり、登場人物全員を怪物としたり、怪物なんていなかったと思う人もいるだろうし、受け取り方が多様に出来るのが面白い。
ラストシーンも、単純に何にも起きなかったでもいいし、実は死んじゃってあの場面は死後の世界でもいい。
そして視点が変わるだけで登場人物に対する感情を違和感や嫌味無く変えさせてくるのは凄い表現の仕方だと思いました。
[本当は何の事件も起きてはいない物語]とも取れるし[本当はとんでも無い事件だらけの物語]とも取れる。
とんでも無い怪物みたいな映画でした。
瑛太演じる教師は個人的な解釈としては‥
という幅のある読み取りの余地が残されているぐらい、物語上の真実 を意図的にボカすような語り口であった印象。そしてそれこそこの映画が浮かび上がらせようとする 怪物 の正体であったのかなと‥
日本最高峰の監督と脚本家によるタッグなだけあって
一筋縄では行かない、しかし流石な一本であった。
・怪物とは‥
本作はいわゆる 羅生門スタイル の構造で、一つの事柄を視点を移して何度も描いていくが、この物語が浮かび上がらせようしている 怪物 の姿とはこの羅生門スタイルを通して描かれる 「各々の視点から見た他者全般」、もっと言えば個人が他者(時に自分自身も含め)を理解した気になろうとする過程で生じる無理解 の事を指すのでは?というのが個人的な解釈。
この映画はそんな他者という存在の 怪物性 を突きつけるが如く、おそらく意図的に登場人物の心情の動きを空洞にしている節があり、画面上で描かれる事柄だけでは全てが繋がらないようになっている。
そこを わかりにくい と分類してしまうとそれまでなのだが、まさしくそれこそ現実の 他者=怪物 の姿ともいえるのが現実であり、この羅生門スタイルだからこそ描ける物語だと考えると 流石 な演出と脚本構成の手腕である。
そして それぞれのパートで薄く伏線が張られる 音 にまつわる描写について、後に正体が判明するときの感動と快感もこの構造ならではだろう。
・空洞になっている部分の個人的解釈の一つ
個人的に 大きな空洞 があると感じた箇所の一つは、瑛太演じる先生の心情の部分。
特に なぜ彼は大雨の中謝りに来たのか という部分ははっきりとは特定されていないと感じたが、ここについては 麦野君の抱える痛みが自分のうちに潜む痛みと同じだったことに気がついた=彼も性自認を巡る葛藤を胸に秘めていたが故に、自分や周囲が彼を傷つけていたことに気がついた というのが個人的な解釈‥(本当に 一つの例として)
彼のパートの冒頭、高畑充希演じる彼女との一連のやり取り(雑なプロポーズ、避妊をめぐるやり取り)は捉え方によっては 男女的な関係に早く結論を出したがっている=目を背けたがっている というふうに見えなくもない。また、組体操の練習中等時折生徒たちに 男らしさ めいたものを求める言動も垣間見えており、彼の中にある 痛み を匂わせる描写と見えなくもない。
※反転文字だけでそこまで気がつけるのか? と言われるとどうなんだろうかとは思うが‥
あとは 何故か急に手のひらを返したように見えるクラスメイトの女の子、この子は麦野君が河川敷を歩くシーンでうっすら後ろで何か話していると思しき描写はあったのも何かの演出意図なのか‥等、とにかくこの作品は 描写されないが何か背景がある と思われる登場人物達の心情が多く、そしてそれらは結論 わからない というのが大きな味噌なのは間違いない。
そうした 自分が気がつけない他社の中の痛み に思いを馳せたくなる本作はやはりまごう事なき 是枝裕和映画 なのだろう。
・少しだけ気になったところ‥
東京03角田のハマりっぷりもありあまり気にならないと言えば気にならないが、 学校の隠蔽体質 みたいなものにややステレオタイプというか 決めつけめいたものも感じなくはなかった。あそこまで酷いことは無いだろう‥ と信じたい‥
※写真の角度まで調整するところは笑ったが
「怪物だーれだ」同士のみが共有できる密やかなジョーク
「怪物」って何だろう。
能面のような校長か、息子を盲信するシングルマザーか、子供を虐待する父親か、何の考えもなくいじめをする子供たちか。
事なかれ主義の学校と戦うシングルマザーが主人公の話かと思いきや、二転三転する。
実は、主人公は彼女の一人息子の湊のほうだった。
「羅生門」のよう、と聞いていたがちょっと違うかな、と思う。
羅生門は「ある事実」がそれぞれの視点で違う内容になり、真実は藪の中、という話と記憶しているが、本作は、関係者がそれぞれ、自分が見聞きした「事実の一部分」しか知らない。彼らは事実の欠片からそれぞれの解釈で事態を類推して「こういうこと」と思い込んでいただけ。だれも全容を知らないのだ。
全容はやがて、当事者の子供二人の立場から明かされ、ようやくすべてが繋がる。
観客と大人たちはここで初めて真実を知ることになるのだ。
そして、些細な描写の積み重ねから、LGBTの話だったか、と分かるようになる。
湊は変声期を迎えているようだ。
第二次性徴が始まる、この年ごろから他の人と違うセクュシュアリティを持つことを知りはじめるのだろう、それは自身の存在に関わる、一人では抱えきれないほどの悩みと思う。
親にも打ち明けられない。「想い人」依里はそれが故に「病気」として、矯正という名のもとに父親から虐待されている。なにより自分自身が「病気」と言われるほどの異常者なのだと感じる。これは地獄だ。
依里の方は心は女の子、という感じで、その傾向を隠さない。男子に虐められるが女子に味方されて仲間になって、そこそこうまく生きているたくましさがあるが、これは虐待されている子供が身につけた処世術から来ているかも。
湊の傾向とはまたちょっと違うようで、彼らの個性も一言でLGBTと言えない多様性があると思う。
湊と依里の心中が、セリフで説明ではなく行動や、短い言葉、仕草等で丁寧に描かれて、その深刻さが伝わってきて胸が苦しい。
「怪物」とは、湊が自分自身をそう感じ、恐れたのだと思う。
「怪物だ~れだ」お前と僕!
これは、「同士」のみが共有できる、密やかなジョークに聞こえる。
最近、「結末は観ている方の想像にお任せ」な映画がトレンドなんだろうか。
私は結末はきっちり描いてほしい。観客の想像にお任せ、は作り手の逃げのように感じてしまいます。
とにかく二人の子役が素晴らしい。
演技派の大人の俳優女優揃う中、彼らと互角かそれ以上に、主役にふさわしい堂々たる演技力で、映画を見せる。
是枝監督作品の子役の良さには定評があるが、作品はこのところ今ひとつだった。
今回脚本を坂元裕二に任せたのが良かったのでは、と思う。
母として
安藤サクラの泡立つような不安に共鳴しすぎて見終わっても納得が追いつかず、坂本龍一の音楽が最上の仕事しててもあ…うん…てなる。
繰り返される車のバック。そもそもが運転どころじゃない気持ちでなされていて、だんだんと平常心を失って、3回目には失敗。
ならば校長も、バック失敗の手前にはきっと何かあったんだろうと映像にないことまで心象風景が覆ってくる。
最後、転生かな?と喜び、違うよ!と答えてるのをみて安心し、見終わってしばらくしてからやはりあれはとなり。
どちらが母親は救われるだろうと今は思ってる。
息子の全てを受け入れただろう母親が受け入れる呼びかけもしてたのにその機会を与えられずに終わったのなら辛い。
でも呼びかけが届かなかったとしても、悔やまれる終わりでも、本人は望む場所で幸せならそれは慰めになるなあと思う。
上質な文学のような…⭐︎
是枝監督、坂元裕二、音楽 坂本龍一という個人的にはオールスターの製作陣。
物語は、予告編でも何度も言われたように子供の喧嘩と瑛太演じる教場の暴力ということから
始まるが、もちろんそれはプロローグに過ぎない。
最初に安藤サクラ演じるシングルマザーが教師の暴力に対する抗議をし、見ている者は学校側の
強調されていること勿れ主義に苛立ちを感じる。
(このシーンの校長役の田中裕子が不気味。)
次に瑛太の教師側からの目線で、最初の母(安藤サクラ)の時に感じた気持ちとは全く逆方向とも言える感情を
抱えることになる。
物語は、時間軸を言ったり来たりしながら進み、最初に現れた伏線が次から次にと回収されていく。
このあたりは、脚本が見事で、特に大きな事件らしきものがおきないのにどうなるのか?という不穏な
空気が溢れてくる。
是枝監督の子役遣いは相変わらず冴え渡り、二人の子供はとても演技とは思えぬ自然さでこの物語を
引っ張っていく。
この二人、黒川想矢と柊木陽太の受賞がなかったことが不思議。
この二人の関係性に対してのクィア・パルムだったのだろうが、自分はそこまで意図したものだったのかと
疑問に思った。
ただ、11歳の仲の良い二人、それだけで良かったような気がした。
ラストシーン、大雨の中 隠れ家にしていた廃線なら二人が抜け出し、光溢れる世界へ走りでる。
衣里の「生まれ変わったなかなぁ?」に対する湊の「そんなわけないじゃん!」という返事。
坂本龍一の繊細で美しく哀しみを抱えたようなピアノ…。
泣くところじゃないと思いながら、何だかジーンとしてしまった。
是枝監督の作品(万引き家族依然の)を観てきた人なら共感するところもあるだろうが、坂元裕二の脚本と
いうことで、「花束みたいな恋をした」風な作品を期待して来場した人にはどうだったのだろう。
終映後、若い女性が「何か良くわからなかった。」と言っているのが聞こえて来た。
久々にもう一度観たい作品に出会えた
カンヌでの受賞云々ではなく、観たい作品だったので、事前の情報もあまり入れずに臨みました。
後から振り返ると、隣の人が席を立っている事もわからないくらい作品に引き込まれていました。
鑑賞後のファーストインプレッションは「もう一度観たい‼︎」素直にそう感じると同時にこんな感覚はとっても久しぶりです。
最近の映画によく取り入れられている「伏線の回収」もここから回収ですという、いかにもな感じではなく、ストーリーに自然に取り込まれているのがとっても心地よかったです。それぞれの人物が、何故そんな言葉を発したのか、何故そんな行動を起こしたのか…
そして怪物とは何なのか…
人それぞれ違った見方をすれば、その怪物もきっと違ってくるのでしょう。
だからこそ、また観たいと思えるのではないかと思います。
あなたにとっての「怪物」とは…
答えのない観客と作り上げる映画?
『TAR/ター』『aftersun/アフターサン』に続き、またもや本作の様な作品を続けて見てしまうと、なんか世相的な大きな流れというか、映画界から社会(観客)に対しての挑発的なものを感じてしまう。
それほどに、この3作品はトリッキーであり、観客に対してある意味突き放していて、分かる(感じられる)者だけに分かって(感じて)もらえれば良いとも捉えられることもでき、それでいて見る者に寄り添う側面も強調していた様な作品であり、それらのことでのシンクロニシティが感じられました。でも、個人評価は前二作より低いです。
本作の場合は映画ファンならお馴染みでもある『羅生門』的別の視点から物語で描かれ、更にそれに捻りを加え換骨奪胎したような変則的であったので、上記作品以上に観客によって様々な捉え方が出来るような仕組みになっていました。更に、映画の中には観客を惑わす様な様々なトリックが仕掛けられていて、私もかなり疑問が残っていて鑑賞後もいい加減な解釈をしているのかも知れないという引っかかりが沢山ありました。
それって、ひょっとすると今のネット社会に対する皮肉にも繋がっている様にも感じられましたが、これも今や流行りの一現象というだけのことなのかも知れない。
ここからはネタバレ注意としますが、私自身1回見ただけではよく分からなかった点を少し挙げて行きます。
まずは本編の予告から観客を誘導する台詞として「怪物だぁ~れだ!」という言葉が使われていますが、観客はこの台詞を最初に脳に刷り込まれているので、映画に対して当然そういう観方をする様に洗脳されています。
そして、三部構成となる第一部ではその怪物探しを作り手により誘導されてしまいます。次の二部では違う側面から物語を映し出し、観客に一面だけでは捉え切れない現実を提示してから、一旦物語が終結されてしまいます。
そして、唐突に二部までとは違う世界観の希望的三部が映し出されます。
観客の多くはここで恐らく?マークが脳に過ったとは思いますが、無理矢理ここで何らかの結末を自分の中でこじつけさせられたような、なんでこんな三部構成にしたのか?これはかなり難しい問題です。
まず二部までの状況との整合性が取れていないので、三部は観客の好きな様に捉えてくれれば良いという単純な発想なのかなぁ?、彼らの(実際の)生死も分からず「怪物だぁ~れだ!」の答えも分からず、結局は提示されていないままの様な気がするのですよ。特に校長も、ネグレストの父親も、謎の女子生徒も、子供という無邪気な悪魔達も、同調圧力という名の脇役達も、怪物のまま放置されている。
結局、鑑賞後の今も分からないままの状態ではあるのですが、上記した様に今の社会に対しての比喩であることは間違いない気はするのですが、答えは明示されていません。
それこそ「それは観客自身が感じて下さい」ということなのでしょうか?、本当にこういう映画こそ、高評価をつけた方々は「素晴らしい」だけではなく具体的に何が良かったかをハッキリと明示して書いて欲しい作品の一つではありますね。これも意地の悪い観客を試し翻弄する作品だと思います。(悪い意味ではなく)
是枝監督の初の本人以外の脚本ということで、これが吉と出たか凶と出たかは、後々決定されていくのでしょうね(苦笑)
わたしは、恥ずかしくなり、そして翻弄された
※ネタバレというほどの感想ではないですが、1ミリも何も知識無く観るのが好きな人は読まないでください
この映画観て、強く思ったのは、偏った考え方でまず見たものしか信じられない自分の想像力のなさです。恥ずかしくなりました。
この映画は、母親の目線、教師の目線、少年たちの目線、で同じ時系列をそれぞれで見ていくのだけど、最初は母親だけの目線で見えていた世界が、だんだん紐解かれてくと共に、少年たちに寄り添って見えていく感じで進んでいきます。そこが面白かった。最初から最後まで、心底苦しくなる場面や心情が多くて(それもやはり坂元脚本、是枝作品ならではのリアリティと丁寧な描かれ方なのでより苦しくなる)ずっと、胃と頭が痛くなることの連続なんだけど、続きや展開が気になってしょうがなかった。この辛い現実から目を背けたいんだけど、一筋の光を信じて、続きを追わずにはいられなかった。
脚本担当した坂元裕二は、パンフレットのインタビューにて、この物語のモチーフのひとつとして、自分の過去の経験も参考にしていると書いてあった。自分が車の運転中に目の前にトラックがいて、信号が青になっても動かず何度かクラクションを鳴らしたけど動かなかったが、その後分かったのが、トラックは前を横切る車椅子?か何かの人が渡りきるのを待っていただけだった…そういう経験やその時の感情等もモチーフにしているとあった。まさにこの映画を見た上で恥ずかしくなった自分の感情だと感じたし、この映画を象徴してもいる出来事だった。また、映画の中だけじゃなくて、仕事や生活していく中でも毎日何度となく実は対面してる事を描いているなと。ただ、それだけをテーマにして描いてる訳でもなく、少年達の苦悩を映画の主体にしようとしている訳でもない、(これもパンフの受け売りですが)だんだんと展開を紐解くに連れて、物語を起承転結の結に向けて進めてはいなくて、ただ少年の心に寄り添って進んでいくところが流石で、また新しい映画の形を見た気がした。私達は、映画もドラマも小説でも、起承転結を追いながら進めてしまう傾向があるし、子どもや少年を主人公として置いてる作品は、その子達の苦悩をテーマとして、もっと嫌な言い方すれば売りものにしてるものが多いけど、そういう作品を作ろうとした訳じゃないんだなと…。目から鱗だった。固定概念や見たものだけを繋ぎ技合わせて答え合わせしようとしちゃう自分が本当に恥ずかしくなった。
今回は是枝裕和監督×坂元裕二脚本で、私の好きな監督と好きな脚本家の作品なので最高だったし、期待も裏切らない内容でしたが、改めて私は坂元裕二脚本が好きです…!!人物像の作り方やひとつひとつの台詞が、ほんとの意味でもある意味でも魅力的で、ずっと翻弄されてました。この映画を観た私は、恥を感じながらもずっと翻弄されていた、という感想が正しいかも。
また映画界の宝物みたいな映画が増えたなと思いました。
ラストについて、猫について
猫について。
猫は死んだ。
なぜ猫なのか。
1番普通でストーリーに馴染むから。
最初はそう思った。
しかしこの猫は生まれ変わるために火葬される途中で、中止される。
これは生まれ変われたのか、生まれ変われなかったのか分からない中間にいる。
これはシュレディンガーの猫だと思う。
この物語においては、「生まれ変わりとはそれが出来たのか出来ていないのかがわからない、折り重なったものであり、確認できない以上、開けられないままのシュレディンガーの猫」なのだ。
それがラストに繋がるのだと思う。
彼らは結果どうなったのか。
どちらも考えられるが、それは確認できない箱であり、それは折り重なっている。
折り重なった様こそがラストシーンなのだ。
全員怪物(不快な人間)と思える、不愉快な作品でした。
見始めてすぐに不愉快に気分になって、なぜこれが脚本賞をとったのか私には理解不能でした。ダイ・ハードや伊坂幸太郎さんの本のようにすべてが繋がってすっきりすることもなく、無理やりパッチワークでつなげたようにしか思えません。とにかく、学校にいるすべての人間の描写がむご過ぎです。カンヌであれが日本の学校のスタンダードだとは思われてはいないでしょうが、昔の学園ドラマや、アニメに出てくるような教師や子供ばかりで、ものすごくイライラしながら観ていました。
とにかく後で伏線を回収するために無理やり作ったような場面が多すぎです。クローズゼロなどのように、荒唐無稽な話なら、どんな突飛な場面があっても受け入れられるけど、この映画は日常を切り抜いた、リアリティのある話という前提ではないんですか?
突っ込みを入れたくなる場面の主なものを書くと
①母親・・・靴が片方なくなっていたり、水筒に石ころなどが入っていた時点で、明らかに子供からのSOSなのにさらっと流すなんてありえないでしょう。
②息子の湊・・・なぜあそこまでうそをついて担任の人生を狂わせる必要がある? 靴も片方だけ家に置いたり、水筒に石ころを入れっぱなしにするのもおかしいでしょ。そもそも担任やほかの先生にいじめのことをなぜ言わない?
③担任・・・あんな露骨ないじめに気が付かない時点で教師失格です。図工の時間に絵の具を塗りつけるいじめがあるけど、担任(または専科の教師)は見て見ぬふり? ありえないでしょ。校長室での場面でも、あの状況で飴をなめさせる脚本っていったい何ですか?リアリティのかけらもないですよね。猫の件で女の子に話を聞く場面も、ほかの子の前であんな聞き方をする教師はいません。ふつうは別室にさりげなく呼ぶなどして聞くはずです。あんなほかの子に聞かれる場所で質問されたら、「チクった」と思われるので、本当のことを言えるはずないでしょ。
④他の教師たち・・・あんな事実確認もしないまま、保護者の言うがままに担任を悪者に仕立てるなんて、いったいいつの時代の話ですか?(いや昔でもこんなむごいことはなかったのでは?) 腕と鼻の接触の件も、ちゃんと他の子供たちにも聞き取りをしたら、偶然当たったことがわかるはずです。
⑤他の生徒たち・・・いじめを見てもほとんどが放置だし、教師にも伝えない。まーそういう信頼のない教師や学校という設定なんですかね。
ほかにも映画を観ながら突っ込みを入れていた場面が多々ありましたが、多すぎて忘れました。
最後だけちょっとハッピーエンド?っぽく光に向かって進んでいくという描写でお茶を濁したとしか思えませんでした。
最初から最後まで批判ばかりになってしまいました。この映画を面白いと思った人には不愉快かもしれませんが、素直な感想です。
子供達よ 信じる道を走って行け
一人息子を育てるシングルマザーを安藤サクラさんが、春に小学校に赴任したばかりの教員を永山瑛太さんが熱演。
トンネルを抜けたその場所は、まるでジブリの世界のよう。
早朝から夜遅く迄、多くの業務をこなしながら働く教員達の事を思いながらスクリーンを見つめていました。
ラストシーンでは思わず嗚咽が。
是枝監督の真摯で温かな眼差しが本作でも溢れていました。
坂本龍一さんが弾く美しいピアノの音色が沁みた。
映画館での鑑賞
物事の視点について
映画をみて物事の視点について考えさせられる映画でした。
ここでは先に映画の評価や内容のことより先にこのことを書きたいと思いました。
物事はいろいろな角度や観点、一つの方向だけではなくあらゆる角度から判断していかなければいけないなと思わされた映画でした。
ここからは映画について。
前半ではシングルマザーからみた子供の様子や生活の様子です。シングルマザーとしてしっかり子供を守らなければという母性が描かれています。
中盤は担任の先生視点からみた子供たちの様子。担任としてしっかり子供たちをみなければいけないという責任感が描かれています。
後半は子供たちの葛藤が描かれており、すべての謎が解けていきます。
おおざっぱにざっと書くとこんな感じかなと思いました。
最後までみると…
子どもたちにとって親も担任の先生も一番身近で味方になってくれるはずの人たちからの何気ない言動で傷ついていくことがわかる描写が丁寧に描かれています。これは子どもたちだけでなく大人にも言えることであると思いますが…。
最後のシーンについても意見がいろいろあると思います…
自分の見解としては土に生き埋めになって亡くなったと思っています。
このことについては伏線がはられているのでそう捉えました。
そして最後はいろいろなことから解き放たれた二人が描かれています。二人にとってはハッピーエンドなのかもしれません。
この作品はいろいろな方に見ていただきたいと思いました。
見る人によって視点が違い感想もざまざま出てくると思いますのでぜひ見ていただきたいです。
子役がとにかく素晴らしい。
主演の2人が、演技とは思えないほどの自然さで素晴らしかった。子供独特の純粋さと危うさ、矛盾だらけの言動をよく演じていた。今後が楽しみだ。
物語はできるだけ事前情報を入れずにフラットな気持ちで見てほしい。
さすがカンヌで脚本賞をとっただけあり、前半で貼られた伏線が後半でどんどん回収されてくるカタルシスがあり、全てを知ってからもう一度最初から観たくなる。
~以下ネタバレ~
最も粗は残るし最初まで解明されない部分は多い。なぜあそこまで保利先生を悪人に仕立て上げたのか。主演の2人に加え、うさぎについて証言した女生徒や、他のクラスメイトも保利先生の無実を知っていて味方をしない。
ただ子供とはなんとなくで嘘をつくし、予想以上に空気を読むので、保利先生一人を犠牲にしようとする学校側の求めるような答えを返したのかもしれない。いじめ問題に目を背けるために先生をスケープゴートにしたのかもしれない。いずれにしてももう少し納得できる理由付けが欲しいところだ。
第一章で酷い悪人に見えた保利先生が実はいい先生だったという仕掛けにしたかったのはわかるものの、恋人にゴムなしで「大丈夫だよ」とセックス迫ってる時点でこいつクズだなと思ってしまったので、全く保利先生に同情できなかった。
他にもダメな部分は多く、親から事実無根のクレームがあったとしても、理由をシングルマザーで過保護なせいだと決めてかかったり、子供が嘘をつくにしてもその背景を考えたり肝心の子供に丁寧に聞き取りをするのを怠ったり、謝罪の場で飴を食べたりしたらどう考えても悪手なのにそれをやること自体もう相手を舐めてるんじゃないかとしか思えない。
いくら保身に走っているにしても、周りの教師が保利先生を少しもかばい立てしないというのはさすがに人望がなさ過ぎる。マスコミが来たことで彼女にあっさり切られたところも、所詮相手と浅い関係しか築けなかった象徴のようだ(避妊しないクズだからこれを機に別れたのかもしれないが)。
湊の母親は頑張っている。だが頑張っているだけで息子を理解してはいない。11歳の子供が性的指向で悩んでいるかもしれないことを予測しろというのは無理があるかもしれない。だが、一つだけ映画から普遍的なことを言えるとしたら、親はどんなに子供のことを思ってるつもりでも、そういった必死さも含めて子供を時に追い詰めていることがあるのだ。湊の「うちも親に気を遣う」という言葉が物語っている。
第一章でいかにも良い夫、良い父親だったように語られる亡き湊の父親は、不倫相手と一緒にいるときに事故死している。それを湊は知っていることに母親は気づいているのかいないのか、湊は母親といるときは「良い父親だった」ごっこに付き合っている。
子供は親が思う何倍も物事をよく見ている。
ところで怪物の正体は何より中村獅童演じる星川君のお父さんだと思った。あの虐待っぷりは怖い。あいつをなんとかしない限り、2人の今後には何一つ救いがないように思えてしまう。
人生の交差
怪物
群像劇として緻密なことは勿論、ありがちなクレーマーという言葉を教師側から先に引き出しておいて反感を買い、一部その通りに視点をひっくり返すところに、演出の別格さを見る。
加害者は大人達で、子供達でもある。
どうしようもない場所で抗う、教師達の諦めに覆われた眼には意味があり、そして別の表情がある。子供達の天才性と残酷性は、そして大人の「世界」とは相容れない。
後半は救いのストーリーでも、保利先生と依里少年の酷く張り付いた笑顔が心に残る。
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