怪物のレビュー・感想・評価
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みんな怪物
脚本が是枝監督の手によるものではないからか、是枝作品としては少し肌触りが違う、と感じながら見ていた。
少しテンポが良いんだよね、これまでの是枝作品と比べると。
ただ、一瞬たりとも気が抜けない映像表現や独特な子供の撮り方は、まさしく是枝監督の映画。
一連の話を三者の視点から繰り返し見せられる手法は特に目新しいものでもないのだけど、その掘り下げ方はやはり独特で、視点によっては誰もが「怪物」に見えてしまうが、ホンモノの「怪物」はどこにもいない、という多面性をじわじわと見せられる。
例えば本作中では紛れもなく「毒親」に見えた中村獅童演じる依里の父親でさえ、"視点"が違えばまた印象も変わるかもしれんなぁ、と思わされるわけで。
それにしても子役2人は良かった。
この映画、子役の演技が劣っていたらすべてが台無しになってしまう性質のシナリオなので、やはりこれは是枝監督にしか撮れない映画、だったのだろう。
そして極めつけに、あのラストシーンだよ…
この幾通りにも解釈ができてしまうラストシーンはずるい(笑)
3日は悶々としてしまうじゃないか。
怪物になりたくないなら考えてください。
なんだこの作品は。どうやったらこんな作品作れるんだ。
一体誰が怪物なのか。母親か、息子か、担任か、校長か、友人か、友人の父か、はたまた鑑賞者か。
一体いつから自分は大人になったのだろうか。子供の世界と大人の世界は断続的なのかもしれない。大人は、子供のためと言いつつ大人の理屈で物事を考える。子供は、ただただ無邪気なだけなのかもしれない。
火災を起こしたのは誰なのか。作文にはなんて書いてあったのか。最後の子供たちの笑顔の意味は。決して答えを明確に示さない映画。私たち自身が考える必要がある。頭を使って考えなければならない。私たち一人一人も怪物なのだから。
よい
か い ぶ つ
怪物はだれ? 世の中、勘違いだらけなのかもしれない。
ひとつの事象に対して、解釈(見え方)は無限に存在する。
きっと人は、良くも悪くも、自分に見えるものや想像できる範囲でしか物事を捉えられないし理解することはできないのだろう。
相手をどれほど大切に想っていても、自覚のないままに大切な人を傷つけ追い詰めてしまっていることもあるのだろう。
子どもは身近な大人のものさしで測られ、それが正しいと刷り込まれ、そこから外れると自分が間違っていると思ってしまう。
この作品では『性』がその中心にあり、問題として捉えやすかったが、実際はもっと身近で当たり前だと思っている小さなルールなども同じなのではないかと思う。
校長の言葉:
『誰でも手に入れられるものを"幸せ"と言う』
幸せは他人が決めるものではなく、自分の心が決めるものだと思った。
ラスト、涙が流れました。
2人が本当に楽しそうにしていて、嬉しい気持ちと悲しい気持ちが入り乱れました。
永山瑛太の演技はもちろんのこと、子役2人の演技が素晴らしかったです。
23-079
安藤サクラさんは相変わらず安定安心の演技でしたが今回の子役2人がや...
それぞれのおもい
是枝監督作品を観て感じることで、ベイビーブローカーを見た後にも感想として書いたのが、多面的で優しい視点と、それでも問題は問題として存在するという切なさが、言葉では表せない包容力のある作品だと思い、監督の作品がとても好きです。
本作は脚本が坂元裕二さんで少し毛色が違うという印象もありましたが、同じく多面的に描かれていて、誰かが誰かの怪物になってしまう構図は自分的にはとても現実的で、今となってはなぜと思うような嘘をついたりすることも、当時の気持ちを思うととても理解できることではありました。
人は理屈だけで動くものではありません。
だれも悪くなく、誰も救われない、その裏にある社会的背景、この作品の大元となる部分も今語られるべきストーリーでしょうか。
いつでも物事は多面的で、皆が同じように思うことはないのです。
怪物は…
僕の心だ!!と思いました!
まんまと!!まんまとやられました!!
人は自分のみたいものを見ようとしてしまう生き物ですね!
僕は全く情報ない状態で見ましたが、それが一番楽しめた気がします!
めちゃくちゃ良かったので是非みんなに観てもらいたいです。
下記、心打たれたシーン。
拭っても拭ってもすぐ泥に覆われてしまうあのシーンがすごく象徴的で印象的でした。簡単には光はさしてくれない。
あとナマケモノのシーン。みなと君にはわかってるんだね。
あと。なんか小さな恋のメロディ感のあるキラキラと美しいラスト。
最高過ぎる。
僕は泣きまくってましたが、隣の彼女はカラッカラ。
怪物め…。
酷く脆い“怪物”とは
現在も信州人の僕、見事砕かれる。
「あ、ここよく行く場所!」とかそんな余裕なかったぞ…。
第一幕は麦野君の母親視点の物語。
息子が先生にイジメられている?
息子が先生に体罰を受けた?
それなのに学校は無責任…いや、「無気力」とも言える死んだ顔の“怪物”。
第二幕は担任教師、保利先生の物語。
彼は「何もしていない」のに、
生徒の嘘によって翻弄され、他の先生からは責任を押し付けられ、
全てすべてが“怪物”。
彼を取り巻く全てが“怪物”。
第三幕は伏線回収がメインとなり、
度々顔を見せる二人の子供たちの物語。
さて、舞台は整った。
ここから始まるのは「無邪気さと葛藤」に住み着いた“怪物”の物語。
常に僕等に強烈な印象を与える星川君。
彼は普通ではない、彼は異常。
最初僕はこの意味の捉え方が上手くできなかった。
何故彼の父親は虐待してまで、星川君を律したいのか。
何故いじめっ子は二人の関係を「ラブラブ」と囃したてるのか。
それに怒る麦野君。
(この時点でほぼわかってたし、なんなら校長先生のシーンでもう確定したけど)
レビューやネタバレを見て確信に変わった。
(そのときは、「多分そうだろうけど解釈違いだったら殺してほしい」レベルでレビューを拝見していたので)
成程、これは「マイノリティなのか」と。
互いが互いを「特別」と感じている。
然しこれは単なる絆ではなく、「秘めるべき恋心」。
然し彼等には「普通ではない」としか言えない。
「豚の脳」、「治療」、「話しかけないで」、「俺が間違ってた(嵐の中で麦野家に叫ぶ保利先生の台詞)」、「普通」、「男らしく」―。
これらが「全員の価値観による『支配』」と捉えれば、
この物語の真意が現れてくる。
星川君の父親はノーマル。
ガールズバーにも行くし、普通に結婚して子供もできた。
そんな子供は「自分と全く違う価値観」。
「俺の子だから」と勝手な「支配」。
虐待による「支配」、それが治療という名目で。
保利先生は「教師」という職務からも、
中立的な立場に立たされる。
子供たちに常に正しく、そしてのびのびと清らかに巣立ってほしい。
だからこそ、マイノリティにはシビアにならなければならないし、「間違ったこと」を伝えるわけにもいかない。
自分らしくとは言葉だけに「男なら」、「男だから」と「支配」していった。
麦野君の母親は「ラガーマンの父」を亡くした女性。
そう…正に「雄々しい男性像」がそこにある。
自分の旦那のように、息子にも男らしく育ってほしい。
息子を「支配」し、知らずの内にお父さんを押し付けていた。
さて、こんな支配しかない世界で気付いてしまった「互いが互いを(違う意味で)信頼し合っている」真実。
彼等からしたら、こんな狭い世界よりも広く心地良い、温かい二人きりの世界が望ましいだろう。
ラストシーンで二人が駆けるのは、
「死の救済」か「無邪気故の希望的観測」か。
支配という“怪物”からの解放―。
誰にも知られてはいけないこの想い、
さて誰が始めに気付くのか。
まぁ少なくとも保利先生ではないだろう。
彼からしたら「麦野が星川をいじめている」という話の真実を知ればいいこと。
「俺が間違ってた=『麦野が星川をいじめている』と思ってしまっていたことが間違っていた」ことなのだ。
何故か。
なぜ誰も気付けないのか。
だってよく考えてほしい。
「みんな異性愛者」だから。
僕自身ゲイではあるが、だからといってこの作品に対して何か評価を変えはしない。
一言マイノリティを抱えるものとして言えるのは、 悩む人達の傍に居る人が「気付いて声をかけてあげること」なのだ。
そういう意味では、作中の良心は校長先生だったと思う。
彼女こそ、彼のもやもやを吐き出せる場所を作ってくれたのだから。
一人の視点から見る“怪物”というものは明確にわかるが、
全体を覆うと見えなくなる。
彼等は其々の想いを背負って盲目になってしまっている…。
分かれば単純なことも、自分達の価値観や責任感、自責によって“怪物”の存在に気付いていない。
そしてこんなレビューをしている僕こそ、
彼等から見る“怪物”なのかもしれない。
(追記)
そういえば麦野君が秘密基地で星川君を突き飛ばしてしまったのは、
明確に彼を想っていることがよくわかるシーンだった。
虐待から星川君を助けることも、
星川君が「お菓子をあげる」ことも。
傍から見たら微笑ましい光景。
でも彼等からしたら、「秘め事」。
言葉通り、お菓子を食べたことは内緒にしないとね。
(そう…「嘘」をつかないとね)
彼等はこれから、「社会」という”怪物”に立ち向かわなければならない。
その時、この二人が永遠に支え合える関係であることを祈るばかりだ
何度も考えて、何度も人と話したくなる。
脚本を期待したが…ん〜
それぞれの視点で見え方が違う、という予備知識を持って鑑賞したので、後半に出てくる人物がキーマンとなるのが途中でわかってしまう。(小説、「藪の中」のように真実がわからない、という結末ではなかったのでそこは高評価)
釈然としないのは「怪物」という題名が甚だ疑問。いかにも怪物は誰だ的な描き方だしそのように見ていたが、結論として怪物は誰もでてこない。(若干、校長先生がそれっぽいが意外性は無し)これ、ユーチューブならサムネ詐欺ですよ。
それとミナト君が車内から飛び出すほどの動機づけも弱いし、先生を怪物扱いするためのミナトくんの大嘘「先生に豚脳と言われた」発言の動機は何?ここがわからないのは致命的。
細かい所だと、女児の発言「湊君が、死猫を運んでた」をのちに撤回したが、その理由は?描写無し。
地味にゲイ児君の鏡文字は必要ない。
担任、謝罪後も学校行って、湊君また怪我して、屋上でさまよってカット。その後は?描写無し。
以上がノイズとなり★3
良かったのは、校長、担任、ゲイ児の演技が素晴らしかった。
いろんな人種、障害者を起用したり、lgbt題材にすると、賞レースには有利になるみたいだが、その辺が平等になる時代が来たとしたら、純粋にもっと脚本の良し悪しだけが評価されるはず。そうなって欲しい。
追記、レビュー動画見て知ったがもともとの題は「なぜ」だったらしい。商業的な狙いで怪物にしたのね、納得。脚本家坂元氏の作品では常套手段らしく、ため息が出る。
この人はどんな人? この人はその人?
この人はどんな人?
そう考えながら、取り込める情報をかきあつめて組み立てている自分がいる。
早織も保利も校長も湊も依里も…出てくる人を全員。
主観で固めた人物像は、尾びれ、背びれをつけそれっぽく出来上がると満足気に頭のなかを生き生きと泳ぎだす。
泳がせながら訂正を入れ、また変貌させていく。
はて?
私が作りあげたこの人は、はたして本当にその人なのだろうか?
視点がかわったとき、はっとした。
それが事実にそぐわない歪みにみちていたこと、今ここで虚像をこしらえていたことに気がつく。
そのとき、虚像達は沈黙して私を取り囲み、つくりあげる行為そのものが〝怪物〟であり、世の中に与える影響は未知だよとささやく。
なんだかすこし気まずい気持ちを抱きながら、これまでを思い返す。
いつからだろう。
知らず知らずに使いこなしてきた想像の製造マシーン〝怪物〟。
〝怪物〟の産物が麻痺するほどに巨大化し、何処かで暴れたり、誰かを傷つけてたりするのを見聞きしても、人ごとのように意識にオブラートをかけ、まだわたしはそうでもない、大丈夫と変な自信を持って。
現世から離れたような空気感のあの美しい景色の基地。
湊と依里が〝怪物だ〜れだ〟と連想ゲームをする。
無邪気でほほえましい声がこだまする。
そんな小さな彼らの大きな罪をつくってしまったのはなに?
連想が走りすぎる大人たちがリードするこの世界をおもう。
立ち帰らなければならないところにすでにいることをわかって。
胸に伝う涙のようなピアノの音色が、2人を包んだラストシーンにやさしく切なく響いた。
修正済み
何が正しいのか…を考えさせられる
ただただ人々の動き、考えから目が離せなかった。
最初は誰しもがいじめか?と思うような展開だが、進んでいくにつれ、視点が変わり、正しいと思っていた見方、考え方が違っているのでは?と気づく。
瑛太さんはじめ、みなさんの演技乃たまものと思いますが、何より子どもたちの揺れ動く多感性に惹きつけられました。
一方だけの情報では正しいことはなにもわからない、当事者でなければ何をどう考えていたのかわからない。ネット社会の現代では、ほんとうに考えなければいけないことがたくさんつめこまれていたように思いました。
圧倒的没入感と、二つの断絶。
前半部は雑感。
出だしの安藤サクラがまずいい。ネガティブを抱えながらポジティブを装うが、いつも気持ちは臨界点寸前のシングルマザー。
そして永山瑛太もまたいい。安藤サクラパートでの不気味なテイストと打って変わり、なんやワレ好青年やないかい。怪物は人間だった。
この二人の演技力、静謐な映像美と音楽によってこの映画の基礎は出来ているんだと思った。伏線が多く、時間軸があっちこっちに行きがちな映画なのに、集中力を途切らせずに入り込んで見る事ができました。
演者の力量だなぁと思うのは、実質的にみんな「怪物役」と「人間役」の二役出演をしてる感じですよね。無表情だった田中裕子の最後の温かい表情だったりもよかった。
で後半部、核になる部分であるところの「子供の世界」に入っていく訳ですが。
いじめってすごい即席にも関わらず、とても強靭な組織構造ですよね。いろんな感情が未文化で錯綜するであろう子供でさえも規律正しく従ってしまう「オマエこいつと仲良いの?仲良いんならハブるよ?」の同調圧力。見たいものを見、感じたいものを感じる事が許されない世界。この映画の中で「大人の組織構造」として描かれた先生たちの社会に対し、「子供の組織構造」として描かれるのがいじめの構造。
ただ一点違うのは、自分たちなりの「ふざけんな!あんたたち人間じゃねぇ!」を怪物である他者に突きつけた大人の二人に対して、子供たちはそこまでの「生きしぶとさ」を持っておらず、怪物を自分自身と定義してしまいます。上手くやれない僕ら。生まれつきの欠落がある僕ら。他と比べて劣っている僕ら。
どんなに不幸があっても、辛くても、解釈の違いで他者を不幸に貶めても、貶められても、私たちは生きていかなければなりません。時にはふざけるなと誰かを罵倒したり、枕を涙に濡らしても。それが、「アナタが大人になるまでは頑張るよ」と誓った早織の言葉。大人にとって生きるというのは、そういうことなんだと思います。
しかし、子供は違います。簡単に(とあえて言いますが)自分の生まれを呪い、世界の全てに絶望する事が出来てしまう生き物です。その絶望は、繊細な保利先生には最後にようやく片鱗が伝わったように思えますが、生きしぶとい早織には最後まで伝わっていなかったように見えます。
「怪物」を描くにあたり、早織や保利先生それぞれの怪物との理解の断絶を描いていたこの作品ですが、実は最も深い断絶が、大人と子供の間にあったように思えるのです。
世の不幸とどこかで折り合いをつけなんとか生き抜いていく大人。自分たちの世界で良いも悪いも増幅させ、無限に進んでいってしまう子供。彼らを理解する事ができる大人は、一人もいなかった。(最後の校長が一番寄り添っていたかも知れません)結果、彼らは不幸に進んでいった。その痛切な読後感が本当に痛く、観劇後しばらくボーッとしてしまいました。
総じて、腹の中にゴロンと重い石を投げ込まれたような映画だったと思います。もちろん良い意味で。いい映画でしたね。
それはスタンド・バイ・ミーと同じ感情が湧く。
ラストの廃橋。柵が無かったように見えた。ということは二人は天国に行ったんかなぁ。是枝監督はそう見えるかもという演出してた様な気がします。
二人にはどちらも幸せになってほしいよ。でも天国行っちゃったんかな?
そう思わせる。
小学校の頃の友人を思い出しました。
それがこの映画の成功だと思いました。とても良かった。
誰人の中にも怪物はいる
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