怪物のレビュー・感想・評価
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映画ゆえ
最初の早織の視点の第一幕で映画館を出ようかと思いましたが、
最後まで見てよかったです。
結局は、いじめや児童虐待が良くないということになるのでしょうけど、
そこに、人の多様性、幸せ、などのテーマが絡んでいて
楽しめる作品ではありました。
事実が明らかになっていくことや、誰が怪物なのか、推理ゲームのようでもありました。
しかし、心を病んだままの校長を現場に復帰させることや、
教職にある人間が足をかけて子供を転ばせる事、
飛び降りようとしていた担任がなぜか管楽器の音に反応していたこと、
バスタブで体力失ってた子が悪天候の中、自転車も使わずに廃坑まで行ったこと、
などいろいろと疑問点も残ります。
また最後もなんだか悲しくなりました。
個人的には、親達にとってもハッピーエンドにして欲しかった。
考えさせられる作品でした。
怪物だーれだ
母、教師、子供たち、とそれぞれの視点から出来事が描かれる。
冒頭は湊の母に感情移入して、学校側に憤り、徹底した事なかれ主義に気味の悪さを感じたが、時系列がいったりきたりする中で少しずつ出来事のパーツが明かされていき、事件に対しての印象が次々に塗り替えられ、関わる人物たちの葛藤が肉付けされていく。
怪物は、得体の知れなさゆえに嫌悪し畏れる対象のことなんだろう。
それぞれにとってそれぞれの怪物。
依里の境遇に対しては無力なまま、依里との時間を心の拠り所にすごす湊にとっては、コントロールできない自分自身が怪物?
いや、そう思わせる周りの価値観こそが怪物なのかもしれない。
校長は、そんな怪物と対峙しながらいつしか慣れ親しんでしまった人物なのかも。
シングルマザーだから。ガールズバーに教師がいくなんて。適当でいいんだよ。男だろ。普通に結婚するまでは。
あちこちに散りばめられた無自覚な既製の価値観のワードとと、この線から出たら地獄だよ、というなにげない言葉が印象に残る。
誰かじゃないと手に入らないものは幸せと呼ばない、という校長の言葉がその中で力強く救いだった。
怪物探し
鑑賞中、この「怪物」というキャッチーなタイトルに惹かれて怪物探しを誰もがしたことだろう。御多分に漏れず私も怪物探しに没頭して上映時間中緊張感を持続できた.。
映画を鑑賞した際には観客は鑑賞した作品の内容を自分の頭の中で咀嚼し、自分の中でその訴えてるテーマを紐解こうとする。あれはこういうことだったんだ、あれはこうでは、などなど、本作のように暗に示唆するような表現が多用された作品なら尚更だ。
カンヌで賞を取った後の凱旋上映、特に映画好きにとっては外せない作品。鑑賞は気合入りまくりである。特に日本映画初のクィア・パルム賞となれば、当然本作のメインは二人の少年の物語だろう。
まだまだ幼い二人の性に対する戸惑いといったなんとも繊細な描写が見るものを惹きつける。
当然彼らは保守的な今の社会では歓迎されない。父親から虐待を受け続ける依里はとても純粋に見えてどこか危うい感じがする。その彼に惹かれる湊も自分は男らしい人間なのかと、髪を切り取ったりと戸惑いを見せる。
小学生という設定がまた微妙だ。性に目覚めるには幼すぎる気もするし。その点ではなんとも罪作りな脚本だと思う。監督はいったい子役たちにどういう演技指導をしたんだろうか。
結局本作はいろいろすったもんだを散々見せた挙句、ラストシーンは嵐が過ぎ去りまぶしく光る太陽の下、駆け出す二人の映像で終わる。これを見て希望的なラストだと思わない人間はいないだろう。
今なお性的マイノリティにとっては受難が続く時代。誰に迷惑をかけるわけでもない彼らを否定する保守的な権力者が巣食う社会では彼らの未来はけして開かれてはいない。
現にこの国でもLGBT法案が審議中だがその中身は差別を容認するものだ。そんな社会に住む彼らに作り手は希望を持って生きて行ってほしいとの願いからあのラストシーンを描いたのだろう。性的マイノリティーに限らずすべての子供たちへのメッセージとして。
依里が書いた作文の題名は品種改良だった。自分を「人間」にしようと虐待をする父親を暗に皮肉ったのだろうか。
今のこの国では権力者に忖度する官僚やマスコミばかりだ。教育現場も例外ではない。時の権力者が自分たちに都合のいいように人間を品種改良した結果であろう。
やっと怪物を探し当てることが出来た。怪物とは母親の悲痛な訴えに耳を貸さない教師たちではない。担任を陥れた生徒でもない。息子を虐待した父親でもない。怪物とはこの社会に巣食う品種改良を目論む権力なのだと。
それは普段は目には見えない。しかし、彼らがその権力を振るう時、それの脅威にさらされる人間に対してはその恐ろしい姿を露にするのだろう。
目に見えない怪物は今もそこにいることだけは間違いない。
やはりカンヌの脚本賞は伊達じゃない。
さすがにカンヌの脚本賞を取るだけあって、濃密で見応えのある映画でした。
この映画をひと言でまとめるなら『物事は見る立場が違えば見方も変わる』そんなところです。
学校の内外で起きる様々な出来事に対し母親、学級担任、子供という3者の視点からそれぞれストーリーが描かれています。
この映画のタイトルである『怪物』とは関わると面倒で厄介な人、サイコパス的な人を意味しているわけですが、この映画にはそんな怪物と思わしき人物が次々に登場します。
観客は『こいつが怪物か』と見当を付けながら見進めていくわけですが、視点(立場)が変わると『あれ?この人、怪物だと思ってたけど実はまともだな』と何度も見方を覆されます。それがこの映画の肝です。
母親目線で見れば学校が怪物、学校目線で見れば母親や子供が怪物、子供目線で見れば怪物はいない(強いていうならクラスメイト)。
そんな具合に見る立場によって見方が180度変わってしまう。鑑賞後は『結局、怪物は誰だったのか?』と自問自答することになります。
この映画が教えてくれること。それは
『立場が変われば見方も正義も真実も違って見える。ひとつの側面だけを見てすべてを知った気になり、物事の善悪を判断したり、論じたりするのは危険なことだ。もっと多角的な視点で見て物事を判断して欲しい』そんなところでしょうか。
怪物?
ハロー今君に素晴らしい世界が見えますか? ”怪物”はいつも己の内に…。
麦野湊という少年の身に起こった出来事を、複数の視点から描き出していくミステリー&ヒューマン・ドラマ。
監督/製作は『海街diary』『万引き家族』の、名匠・是枝裕和。
脚本は『世界の中心で、愛をさけぶ』『花束みたいな恋をした』の、レジェンド脚本家・坂元裕二。
シングルマザーとして湊を育てる女性、麦野早織を演じるのは『百円の恋』『万引き家族』の安藤サクラ。
湊の担任、保利道敏を演じるのは『アヒルと鴨のコインロッカー』『64 ロクヨン』の永山瑛太。
保利の恋人、鈴村広奈を演じるのは『怒り』『キャラクター』の高畑充希。
港が通う小学校の校長、伏見真木子を演じるのは『もののけ姫』『ゲド戦記』の、レジェンド女優・田中裕子。
第76回 カンヌ国際映画祭において、脚本賞を受賞!
個人的に相性が悪い是枝裕和監督作品。
本作も観終わった直後は「えぇ…。こんな映画なのかよ🌀」なんて思っていたのだが、しばらく時間が経ってみるとこれはこれでアリな気がしてきた。いや、むしろ結構好きな味かも。
とにかく要素が多い上、藪の中に隠すかのような曖昧模糊とした物語だったため、自分の中でもうまく消化しきれなかったのだろう。レビューを書くまで色々と考えさせられた。
本作には一つの物事を多角的な視点で描き出す、いわゆる「羅生門アプローチ」という手法が用いられている。
三幕それぞれに主体となる人物を設定し、その人物の視座から物語を覗き見る。
同じ人物であっても、それぞれのパートでその印象が大きく違うのは視座となる人物の主観が物語に入り込んでいるからなのだろう。
自分は鑑賞前から本作が羅生門アプローチによって紡がれる映画であることを知っていたので、第一幕目が終わった段階で「あぁなるほど。それじゃあ次はああなって最後はこうなるのね」というなんとなくの筋道の予想をつけていた。
その予想は第三幕目で裏切られることになるのだが、その裏切り方というのがなんとも期待はずれで、それが鑑賞直後のモヤモヤ感に繋がってしまったような気がする。
この第一幕目はとにかく面白いっ!!
雑居ビルの火災から始まり、物語は段階的に不穏さを増していく。
湊のイジメ、加害者である絵に描いたようなクソ教師、そしてイジメへの対応をおざなりにやり過ごそうとする学校。生気を欠いたゾンビのような教師たちは何か秘密を隠しているとしか思えない。保利の口から飛び出した信じられない言葉。謎の少年・星川依里の登場。そしてある嵐の日、湊は忽然と姿を消してしまう…。
この謎が謎を呼ぶ怒涛の展開に目が釘付け!是枝作品に物語的な面白さを求めてはいなかったのだが、この第一幕目は文句なしに面白かったっ!✨
このパートの何が良いって、緊張感の走る不穏な展開の中に、意地悪なユーモアが混在しているところ。
学校に詰め寄る早織と校長を始めとする教師たちのやり取りはほとんどコント😂東京03の角田さんを起用しているあたり、この場面のコント感は意図的に演出されたものなんだろうが、最悪すぎる大人の対応には、怒りを通り越して笑えてきちゃうということが上手く表現されていたと思う。
第一幕目がこういう展開だったので、当然第二幕目は保利先生の視点から物語が進行する。
情熱に満ち溢れたその姿、そして綺麗な彼女がいるというリア充ぶりには驚かされたが、まあこのパートの展開は想定内というところ。体裁を気にする「学校」の醜悪さに辟易としながら、「なるほど。結局は”学校”という制度そのものが”怪物”だった、というオチに繋がるわけね😏」なんて思っていた。
プリミティブでイノセンスな少年少女が嘘をつくわけがない。この常識の隙をつくというのが、本作の嫌なところであり、また面白いところでもある。
無邪気な嘘が教師を追い詰める物語といえば、短編小説の名手スタンリイ・エリンが著した「ロバート」(1964)なんかが先行作品としてパッと思い浮かぶところだが、おそらく本作が下敷きにしているのは1980年代にアメリカで起こった「マクマーティン事件」だろう。
息子の性的虐待被害を疑った母親が、その子の通っていた保育園を告発。内部調査の結果、園児の多くが性的虐待を受けていたことを告白したのだが、その後そのような事実はなかったことが発覚。疑念と誘導的な調査が、子供達にありもしない記憶を植え付けたのである。
まぁ本作は保育園児ではなく小学5年生だし、嘘をついた経緯もマクマーティンのそれとは違うので、丸ごとこの歴史的事件を題材にしている訳ではないのだけれど、着想の一つとしてこれを用いたのだろう。
星川くんの純粋無垢な感じ、最初はなんか怖い。アル中の親父から「怪物」とか言われてたし。
となるとこれはあれか?わたなべまさこ先生の「聖ロザリンド」のように、イノセント故に他者を破滅させてしまう魔性を描いた物語なのか?それと”学校”における抑圧と教師たちの事なかれ主義が絡まり合い、強烈なイヤミスが展開されるんじゃないかと思い、この謎めくミステリーの種がついに明かされる第三幕目に胸を膨らませていたのだが…。
結局のところ、この映画は少年の性の芽生えと戸惑いの物語という文学的な着地をみせる。
せっかく豊かな広がりを見せてくれそうな映画が、いかにも是枝裕和らしい美少年のブロマンスに集約していってしまうのはなんとも勿体無いと感じてしまった。
もちろん是枝裕和監督作品にデヴィッド・フィンチャーばりのサスペンスを期待してしまった自分も悪いのだが、「怪物だーれだ?」というキャッチーなキャッチコピーを目にしている以上、そういうのを求めちゃうじゃない。予告編もスリリングだったしさー。売り方が悪いよ売り方がー。
とまぁそんな理由で、鑑賞後しばらくはモヤモヤっとしていたわけだけれど、そういう映画だと割り切ってしまえばそんなに悪い映画じゃない。むしろ、もう一回鑑賞したいかも、くらいには気になる映画になっている。
言葉にすると陳腐になってしまうが、本作のタイトルにもなっている”怪物”の正体は、拡大した自意識や凝り固まったマインドセットなどの、人間が内に抱える観念的なものなのだと言える。
それは自らを閉じ込める檻にも他者を打ち据える鞭にもなる非常に危険なものであり、さらに厄介なことにそれ自体の危険性に人はなかなか気付かない。問題意識もないままに、それに取り込まれてしまっているということも少なくないだろう。
自分の個性は間違ったものであるという考えに毒され、自らを蔑み傷つける湊や依里。そしてその内側の瑕疵から漏れ出た毒はやがて外部をも侵食していく。
その様はまるで「フランケンシュタインの怪物」のようだ。
子供たちに”怪物”を植え付けるものは何か。
自分勝手な価値観に縋って依里を虐待する父親、学校を守るためなら事故死した孫すら利用する校長、保身に走る教師たち、上司の命令に盲目的に従う保利先生、本作の大人たちは全てこうあるべきであるという凝り固まった考えに取り憑かれており、最善だと判断した言動が事態を悪化させていく。”良き”母親である早織も例外ではなく、彼女の常識が湊を深く傷つけることになる。
事故死した孫を引き合いに出し校長に詰め寄る際、彼女が見せた能面の蛇のように冷酷な表情は、世界を「内」と「外」に分けて捉えていることを意味している。
家族という「内」の安寧を脅かすものは「外」敵であるとし、それを激しく攻撃し拒絶する。そのマインドセットこそが”怪物”そのものであり、それが子供たちに伝播していることに、彼女は最後まで気が付かないのだ。
〈あるものをあるがままに受けいれる、と口に出すのは簡単だが、それに身を委ねるのは非常に困難である〉と我々大人は考えてしまう。しかし、旧来の価値観に囚われた保守的な思想/言動は世界の閉塞感を強め、新たなる怪物を次々と生み出していくことを我々は知っている。
「内」と「外」ではない、「正」と「誤」でもない、新しい観念を自分の中に見いだす一助に、本作はなるのではないだろうか。
最後に一つ、本作のエンディングについて触れておきたい。
湊と依里、2人の秘密の場所であり物語の終着点でもある廃電車。2人の少年と電車という組み合わせには、やはり宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を想起させられる。
となると、あの意味深なエンディングで2人がたどり着いたのは彼岸であると考えたくなる。もっといえば、あのバスタブの中で依里はすでに息絶えていた、と考える方が物語的には自然だと言えるのかもしれない。
しかし、これはすれっからした大人の見方なのではないだろうか。
湊の自殺を疑った早織、自殺しようと屋根に登った保利。この時2人が耳にするのはゴジラの咆哮のような、または黙示録のラッパのような奇妙な騒音である。
観客をも不安にさせるこの音だが、第三幕で明かされるその真相は、ただ湊がトロンボーンを吹いていただけだというものだった。
物事をシリアスに捉えすぎる大人と、それを嘲笑うかのように軽やかに遊んで見せる子供。大人と子供の対比が鮮やかに描かれたこのシーンから考えると、やはりあのクライマックスは、心配する大人を尻目に2人の少年が自由な生へと駆け出していっているようにしか思えない。
あるものをあるがままに受け入れる。本作から受け取ったメッセージを、そのままこの作品の結末にも当て嵌めたいと、個人的には思うのです。
客観的視点
日常に潜む普通という怪物
母親にとっての普通の家族というのが湊にとっては死にたくなるほど苦しい。保利のような普通の教師が学校にとっての普通の対応(実際は歪みまくってるが)に潰される。依里や湊の依里を好きだという気持ちは、男らしくないが普通の価値観である同級生のいじめや依里の父親の治療という虐待によって踏み躙られる。
それぞれの信じている普通という価値観が怪物のように人を容赦なく傷つけて追い詰めていく。まさに人の価値観や社会の本質に迫った作品だった。
校長先生の、一部の人が思う幸福は本当の幸福ではない。という言葉で何かが吹っ切れたその後の湊の行動が何とも清々しかった。
怪物2回目観に行ったが、いろいろ謎が解けてきた。
・孫を轢いたのはやっぱり校長か?
校長だろう。校長が軽く認知症入ってそうだし、旦那さんが代わってくれたんだろう。
・ビルに火を付けたのは依里か?
依里だと思う。理由はお父さんがお酒を飲んだ時に暴力を振るうから、お酒を止めれば暴力をなくせると思ったのかもしれない。
・最後2人は死んだのか?
これは死んでないと断言できる。その理由としては電車が土砂崩れで倒れた後2人が下の窓から脱出して、水路を通って出たことにある。もし死んでいたなら、自分の思念の中だけのイメージになるはずなので、通ったことない水路自体が記憶になければ思念化されることはないからだ。故にちゃんと脱出した過程を見せることで、生きているという証を作り出していることになる。
ただ気になる所は保利先生と早織が電車に来たタイミングと湊らが電車から出てきた時間のずれだが、それも流れとしては、抜けた時がちょうど台風の目にあたり、風もおさまり晴れたというので説明がつく。電車に泥も入ってなかったし、電車が倒れただけで死ぬとは思えない。最後の柵も台風で飛ばされたのだろう。
故に2人はこれから理解ある大人や親に見守られながら、自分らしく前向きに生きていくことだろう。
届け!子供達へ
一人の母親の視点では、保利はモンスター教師だが、一人の教師の視点では早織はモンスターペアレントだ。教師の視点から見ると湊と星川君はいじめっこといじめられっこかもしれないけれど、湊と星川君は互いに互いを大切に思ってる。観客からは、校長先生が無情に見えるし、保利の婚約者は薄情に見える。しかし、それは観客の視点から見ているだけに過ぎない。
人間は、○○という単純な一言で片づけられるはずがない。もっと、多面的であると思う。
しかし、私達は普段の生活でもモンスター社員、モンスター上司、モンスタークレーマー、毒親、親ガチャと、いわゆる怪物探しに勤しんでいる。自分に辛いことがあれば、身近な怪物のせいにすれば良い。知らない怪物が出てくる事件が起これば、メディア越しに怪物を見て、炎上したりする。
つまり、私達は他者は怪物だと思わされる社会に生きている。多数派と違うだけで怪物になってしまう。
湊と星川君はそんな嫌な世界から楽しい世界へと冒険を始めたのだろう。それは、決して死を意味するものではないと思う。だから、子供達は安心して自分達の世界を壊されずに仲間達と冒険をして欲しい。そして、本作がそんな子供達に届いて欲しいと思う。
表現が難しいモヤモヤ
映画館にて鑑賞しました。
かなり正直に言うと、CMで見た情報からなんとなく想像していた「こんな話なのかな?」感は超えなかったように思えました。
登場する大人達(湊の母親や、担任の保利先生などなど)の性格や行動原理は「たしかにこの人ならこんなことするかもな」と、ある程度納得はできました。
ただ、人物描写がリアルなだけに、学校側の描写や、事態を解決に向かわせようとする人物が登場しないこと(というより事実関係を確認しようとする人物が母親以外にいないこと)に、ストーリー展開にはリアルさを感じられず、人物描写とストーリー展開のリアルさの差異を感じてしまい、違和感を覚えました。しかし、そもそもとしてストーリー自体が、母親・保利先生・湊の視点で描かれていくので、あくまでそれぞれのキャラクターが受け取った真実だと仮に考えると、認知のズレがある可能性もあるため、なにがどこまで事実なのかは正直分かりません。そう考えると、自分が感じた違和感や劇内での本当の事実は映画で描きたかったことにはあまり関係がないのかもしれません。
湊と依里の関係性や掛け合いはとても良かったです。依里の若干の距離感の近さは、依里の人物像をとても表現できていたと思います。
怪物は誰の中にも
坂本裕二脚本、是枝裕和監督って面白くない訳がない、ワクワクして鑑賞した。ストーリー展開、目線を変えて同じ日時を立場毎に描く手法、徐々に明らかになる隠れていた部分、それらが上手く紡がれて、予想もしなかった展開へ。隠れていた事が少しずつ見えて来て、でも何故?という疑問が徐々に解けていく過程、そして戸惑いと迷い悲しみが複雑に絡み合ったその情景に唖然とする。怪物の影はきっと誰の中にもあって、そしてお互いを受け入れることで、その見えないものが見えてくる。
とてもせつない気持ちを受け取った作品だった。坂本龍一のピアノが静かに心の機微を表現しているようで、とても自然にシーンにマッチしていて泣きそうになった。
ちゃんと親元に帰れたのかな?
最初の母親視点だと、空気読めないにも程がある担任が謝罪の場面で唐突に飴食ったりw
校長はじめ先生方が不気味で不信でしかない状況。
担任視点だと何考えてるか分からん生徒達や不気味な校長達に彼なりに頑張ってたのに学校辞めさせられーの、新聞に載りーの、軽薄な彼女に捨てられーの散々な状況の中ホシカワ君の縦読みならぬ横読みで何かを悟る。
子供視点で色々不思議だった点が明るみに、、、、。
一つの事実でも当人同士の主観で随分印象が変わるんだなと当たり前ではあるが多角的な視点が大事ではあると改めて思った。
親やクラスメートに虐められてもニコニコしてるホシカワ君が可愛すぎだけど放火はアカンよw
怪物はいない
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