「保利先生と湊」怪物 レキシントンさんの映画レビュー(感想・評価)
保利先生と湊
うーん、この先生可哀想すぎると鑑賞直後は思った。
この先生の「罪」は少ないと思うし、それどころか、このストーリーに置いて、かなりまともな人だ。
先生があんなにも追い詰められたのは、湊が「先生に豚の脳と言われた」と母に嘘を告げてしまうからだが、なぜ湊は先生についてそんな破壊的な嘘を言ってしまったのだろうか?
それは湊と保利先生が、もうひとりの自分といえるほど相似的な人物としてあるからだと思い至った。
保利先生は、ある種の弱さを抱えている人物だ。
それは、付き合っている女性の、シングルマザーに対する偏見に満ちた価値観を無批判に受け入れたり、緊張する場面で状況も考えず、彼女のアドバイス通りに飴を舐めてしまったりする所に現れている。
自分に強く影響を与える人物が言う事を、自分の感情や経験よりも上位に置き鵜呑みにしてしまう弱さ。
その弱さは、過去に「誰にでも手に入るものが幸せ」という価値観を自分の感情を抑えて受け入れてしまったことから来るのではないだろうか?そして、それに沿って積み上げてきた自身の立ち位置は、何かの拍子にいとも簡単に崩れ去ってしまう危険なものであることも描かれていたと思う。
「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わないんだよ。誰にでも手に入るものを幸せって言うんだよ。」こう言う校長先生は、まさしく「怪物」と言っていいほどの恐ろしい人物だ。
息子を心配して学校を訪れた早織に、どこかの国会答弁もあわやといった木で鼻を括ったような対応をして、かえって問題を大きくしてしまうし、先生のいじめを確信した早織が弁護士まで雇うと、先生一人を悪者にして、学校というシステムを守る事を優先する。
システムを守る事に真摯であるが故に、何らかの犠牲を生んでも虚偽や隠蔽を厭わない。だが、そんなシステムの元では、「子供は死んでしまう」のだ。
湊と依里のパートは、ふたりが供にいることで生まれる美しさが説得力をもって描かれて、この映画の得難い魅力の多くを担っている。
湊はこの美しさが、「誰にも手に入れられる」ものとして世間一般で語られる時は、未だに歪められて表現されがちな事に対して苛立ち、自分を大事にしてくれている母ですら、それを理解してくれなさそうな様子に困惑している。
依里への気持ちを罪であるかに受け取ってしまいつつ、彼との関係を深める中でちぐはぐになってしまった行動が母の不審を生み、それが頂点に達したとき「先生に豚の脳と言われた」と嘘が口をついて出てしまうのである。
わかってくれそうな人に対するSOSなのか?弱さを抱える保利先生に子供ながら付け込んでしまったのか?依里を愛する事は罪ではないが、これは明らかに湊の罪である。この罪は償われる事があるのだろうか?
「本当の事はどうでもいい、忘れたい事はこうやって吹き飛ばしてしまえばいい」と校長先生は言う。言われた湊もほっとしたような顔をする。でも、子供を守っているようで殺してしまう、というのはこういうことではないか?
かくて湊と依里は、嵐に導かれるように、ふたりの道行に旅立ってしまうのである。
ストーリーの中の死が象徴的なものなら、ラスト、二人はぎりぎりのところで死を免れ、この後、依里と別れた湊は、自分の気持ちを隠したまま「誰にでも手に入るもの」を求める大人になり、あのきらきらした世界を抑圧した生を選ぶのかもしれない。だが、それがどれほどの損失であるかをこの映画は描く事に成功している。
校長先生の言葉だけが統べる世界なら、あの二人は死んだと私は思う。だが、依里の作文に折句で隠された二人の名前を見つけたことから、全てを悟った保利先生が、嵐の中を湊の家に駆けつけるのだ、「お前たちはそのままでいいんだ」と言うためだけに。この時点で保利先生は湊が行方不明になっていた事を知らなかった。どんなに罵倒されても仕方ないのに、駆けつけざるを得なかったのは、依里への気持ちを間違ったものとして抑圧し、弱さを抱えようとしている湊の姿に、かつての自分を見たからだと思う。ここで保利先生もLGBTQであったという解釈は浅薄だろう。
構成を「羅生門スタイル」として、かの名作と対比される本作だが、内容も共通点があると思う。『羅生門』のラスト、戦で荒れ果てた羅生門に捨てられた赤ん坊は、それぞれ自分に都合のいい主張をする、虚勢を張る男や貴族の男女ではなく、最も弱い一介の庶民の手に渡った。今また、子供たちが生きるためのよすがは、全てを失った男と、シングルマザーの手に委ねられた。なんら政治的な力を持たず、ともすれば権力者によっていがみ合うように仕向けられてしまう彼らが、子供たちを思って我を忘れて駆け寄せる先にこそ、あのきらきらしい世界がこの世に立ち現れる可能性があるのだと感じた。この映画を見て、これからの子供たちの生きる世界が、あのラストシーンのように輝かしい素晴らしいものである事を祈らない者がいるだろうか。