「怪物探し」怪物 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物探し
鑑賞中、この「怪物」というキャッチーなタイトルに惹かれて怪物探しを誰もがしたことだろう。御多分に漏れず私も怪物探しに没頭して上映時間中緊張感を持続できた.。
映画を鑑賞した際には観客は鑑賞した作品の内容を自分の頭の中で咀嚼し、自分の中でその訴えてるテーマを紐解こうとする。あれはこういうことだったんだ、あれはこうでは、などなど、本作のように暗に示唆するような表現が多用された作品なら尚更だ。
カンヌで賞を取った後の凱旋上映、特に映画好きにとっては外せない作品。鑑賞は気合入りまくりである。特に日本映画初のクィア・パルム賞となれば、当然本作のメインは二人の少年の物語だろう。
まだまだ幼い二人の性に対する戸惑いといったなんとも繊細な描写が見るものを惹きつける。
当然彼らは保守的な今の社会では歓迎されない。父親から虐待を受け続ける依里はとても純粋に見えてどこか危うい感じがする。その彼に惹かれる湊も自分は男らしい人間なのかと、髪を切り取ったりと戸惑いを見せる。
小学生という設定がまた微妙だ。性に目覚めるには幼すぎる気もするし。その点ではなんとも罪作りな脚本だと思う。監督はいったい子役たちにどういう演技指導をしたんだろうか。
結局本作はいろいろすったもんだを散々見せた挙句、ラストシーンは嵐が過ぎ去りまぶしく光る太陽の下、駆け出す二人の映像で終わる。これを見て希望的なラストだと思わない人間はいないだろう。
今なお性的マイノリティにとっては受難が続く時代。誰に迷惑をかけるわけでもない彼らを否定する保守的な権力者が巣食う社会では彼らの未来はけして開かれてはいない。
現にこの国でもLGBT法案が審議中だがその中身は差別を容認するものだ。そんな社会に住む彼らに作り手は希望を持って生きて行ってほしいとの願いからあのラストシーンを描いたのだろう。性的マイノリティーに限らずすべての子供たちへのメッセージとして。
依里が書いた作文の題名は品種改良だった。自分を「人間」にしようと虐待をする父親を暗に皮肉ったのだろうか。
今のこの国では権力者に忖度する官僚やマスコミばかりだ。教育現場も例外ではない。時の権力者が自分たちに都合のいいように人間を品種改良した結果であろう。
やっと怪物を探し当てることが出来た。怪物とは母親の悲痛な訴えに耳を貸さない教師たちではない。担任を陥れた生徒でもない。息子を虐待した父親でもない。怪物とはこの社会に巣食う品種改良を目論む権力なのだと。
それは普段は目には見えない。しかし、彼らがその権力を振るう時、それの脅威にさらされる人間に対してはその恐ろしい姿を露にするのだろう。
目に見えない怪物は今もそこにいることだけは間違いない。
私も最初、学校という組織が怪物だと思っていました。しかし、本作品を見ていくうちに、それこそ、社会そのものこそが怪物だと思いました。
上映後、一緒に見た人と話をしているうちに、みんなが怪物になりえるという話を聞き、それに納得する形で、自分の怪物探しは、ひとまず決着がついたように思っていました。
が、今度はこのサイトでみなさんのレビューを読むうちに、またぞろ、怪物探しに陥っています。
今のところの自分の結論としては「わけのわからないもの=怪物」です。いじめた男の子にしても、ひどい子だなあと思いつつも、もしかして、その背景や、その他のいろいろな表情を見ることができれば、それは怪物ではなくなるのではないかと。
私にとっては、未だに校長先生は怪物のままですが、少しずつだけ、あの化け物のようになった理由を知ることで、怪物から人間に近づいて来たように思います。