「答えのない観客と作り上げる映画?」怪物 シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
答えのない観客と作り上げる映画?
『TAR/ター』『aftersun/アフターサン』に続き、またもや本作の様な作品を続けて見てしまうと、なんか世相的な大きな流れというか、映画界から社会(観客)に対しての挑発的なものを感じてしまう。
それほどに、この3作品はトリッキーであり、観客に対してある意味突き放していて、分かる(感じられる)者だけに分かって(感じて)もらえれば良いとも捉えられることもでき、それでいて見る者に寄り添う側面も強調していた様な作品であり、それらのことでのシンクロニシティが感じられました。でも、個人評価は前二作より低いです。
本作の場合は映画ファンならお馴染みでもある『羅生門』的別の視点から物語で描かれ、更にそれに捻りを加え換骨奪胎したような変則的であったので、上記作品以上に観客によって様々な捉え方が出来るような仕組みになっていました。更に、映画の中には観客を惑わす様な様々なトリックが仕掛けられていて、私もかなり疑問が残っていて鑑賞後もいい加減な解釈をしているのかも知れないという引っかかりが沢山ありました。
それって、ひょっとすると今のネット社会に対する皮肉にも繋がっている様にも感じられましたが、これも今や流行りの一現象というだけのことなのかも知れない。
ここからはネタバレ注意としますが、私自身1回見ただけではよく分からなかった点を少し挙げて行きます。
まずは本編の予告から観客を誘導する台詞として「怪物だぁ~れだ!」という言葉が使われていますが、観客はこの台詞を最初に脳に刷り込まれているので、映画に対して当然そういう観方をする様に洗脳されています。
そして、三部構成となる第一部ではその怪物探しを作り手により誘導されてしまいます。次の二部では違う側面から物語を映し出し、観客に一面だけでは捉え切れない現実を提示してから、一旦物語が終結されてしまいます。
そして、唐突に二部までとは違う世界観の希望的三部が映し出されます。
観客の多くはここで恐らく?マークが脳に過ったとは思いますが、無理矢理ここで何らかの結末を自分の中でこじつけさせられたような、なんでこんな三部構成にしたのか?これはかなり難しい問題です。
まず二部までの状況との整合性が取れていないので、三部は観客の好きな様に捉えてくれれば良いという単純な発想なのかなぁ?、彼らの(実際の)生死も分からず「怪物だぁ~れだ!」の答えも分からず、結局は提示されていないままの様な気がするのですよ。特に校長も、ネグレストの父親も、謎の女子生徒も、子供という無邪気な悪魔達も、同調圧力という名の脇役達も、怪物のまま放置されている。
結局、鑑賞後の今も分からないままの状態ではあるのですが、上記した様に今の社会に対しての比喩であることは間違いない気はするのですが、答えは明示されていません。
それこそ「それは観客自身が感じて下さい」ということなのでしょうか?、本当にこういう映画こそ、高評価をつけた方々は「素晴らしい」だけではなく具体的に何が良かったかをハッキリと明示して書いて欲しい作品の一つではありますね。これも意地の悪い観客を試し翻弄する作品だと思います。(悪い意味ではなく)
是枝監督の初の本人以外の脚本ということで、これが吉と出たか凶と出たかは、後々決定されていくのでしょうね(苦笑)