「怪物の餌は、対等な人間として扱われない孤独か。」怪物 えいこさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物の餌は、対等な人間として扱われない孤独か。
どうして悲劇は起こってしまうのか。
対等な人間として扱われたい。
可哀想だと見下されたくない。
晒し者や笑い者にされたくない。
理解されずに見捨てられたくない。
不幸だなんて決めつけられたくない。
自分の大切なものを傷つけたくない。
人は守りたい何かのために嘘を吐く。
その嘘は自分も周りも苦しめる。
人は守りたい何かのために攻撃対象を探す。
その独善は自分も周りも追い詰める。
生きる術として身につけた生きづらさ。
対等な人間として向き合うことの難しさ。
大人が作り上げた世界に翻弄される子ども。
肩書き、トロフィー、誰かに決められた幸せ。
「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもない、しょうもない。誰でも手に入るものを幸せって言うの」
湊視点での校長の細やかな心理描写が苦しかった。
対等な人間として認めないと心は閉ざされる。
対等な人間として寄り添えたら心は開かれる。
受け入れてもらえる居場所は誰にも必要だ。
それが家庭にも学校にも無いのが彼らだった。
依里の死生感に触れた湊が「生まれ変わる」と言い出し「出発」に希望を見い出してから、彼らが壁も柵も無い夢のような新世界を楽しそうに駆け回るまで、切なくて涙が止まらなかった。
「太陽が眩しい。海の匂いを胸いっぱいに嗅ぐ。いつもと違う匂いがする。僕は生まれ変わったんだ。僕は誓う。絶対に西田ひかるさんと結婚します。五年二組保利道敏」
胸がいっぱいで思うような文章にならない。
私は二人をジョバンニとカンパネルラに重ねて見てしまっていた。宮沢賢治が書いた銀河鉄道の夜だ。もしや「出発」後に靴が脱げていた依里は既に亡くなっていて、そして湊は意識不明の後に目を覚ますのでは、…などと残酷な想像をしてしまった。その展開があるとしたら、母親と元担任の理解を得られて、家庭に居場所が出来るのかもしれない。「出発」してでも好きな人と手を取り合うこと、好きな人と離別して「生きる世界」に安全な居場所を得ること、私にとっては一体どちらが幸せなんだろうかと考えさせられた。