「怪物という蜃気楼」怪物 ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
怪物という蜃気楼
ガールズバーの入ったビルの火災を起点に、教室での子供の喧嘩、子供による教師の暴力の証言、学校の謝罪、そして嵐の日に2人の子供がいなくなるまでを、3つの視点から描く作品。
最初の母親視点のパートでは、学校関係者の態度が絵に描いたようにひどく見える。あまりにテンプレ的な描写なので、これは何か物語としての意図があるんだろうということは察せられる。
一方、序盤こそ母親の早織に同調しつつ見ていて、教師たちに対し言葉が荒くなるところくらいまではこんな教師相手ならしょうがないと思っていたものの、取り上げたファイルを投げつけるあたりでちょっと気持ちが引いて、彼女が受難の親とモンスターペアレントの境界線にいるように見えた。教師たちの姿は、早織の主観が入った描写なのかもしれないと思えてくる。
湊との会話の場面で彼女が言った、「湊が普通に結婚して子供をつくるまでは……」という言葉の、聞く人によっては引っかかるであろうかすかな無神経さも、下味のように効いている。
ちなみに、早織のこの言葉が早々に心に引っかかったのは、本作がカンヌでクィア・パルム賞を受賞したことを映画.comの紹介文で読んでいたからだ(クィア=既存の性のカテゴリーに当てはまらない人々の総称)。このことに関しては最後に余談を追記する。
次の、教師の保利視点のパート(何の説明もそれらしい区切りもなく火事があった日に戻るので、ちょっとわかりづらかった)から、早織パートで点々と撒かれた謎が少しずつ明かされてゆく。早織を通した視界で一面に立ち込めていた靄が徐々に晴れていくような、ミステリにも似たエンタメ感があった。
実は保利先生は、最初の印象よりは熱心なよい先生で、そんな彼が周囲の嘘により追い詰められていった、ということなのだが、それがわかってもちょっと危なっかしくて怪しげな雰囲気が残るのは、永山瑛太の演技の絶妙さだ。
ただ、本質的にそこまで真面目なら、最初の母親との面談がいくら不本意だとしても、その場で飴をなめるか?そこはちょっとキャラのブレを感じた。それ以外の挙動も早織のパートとは若干印象のずれがあったが、それは早織から見た保利と保利自身の視点からの描写という違いのせいなのかもしれない。
女児が猫の死体について嘘をついたのはどういう動機だったんだろう?それだけがわからなかった。
最後は、湊のパートだ。ここで、細かい謎は概ね明らかになる。水筒の泥水や、片方だけのスニーカーから、それまで学校の場面で遠くに響いていた管楽器の音まで。
是枝監督はやはり子供の撮り方が上手い。今回は、従来のような現場で口伝えに台詞を伝える方法ではなく、事前に子役に台本を渡して覚えてもらったそうだが、子供たちの自然な姿を捉えていることに変わりはなかった。
廃電車の中で依里の転校の話をする場面などは、あの年代特有の色気まで感じた。
このパートでは、校長の善性も垣間見える。早織の目を通した校長の姿も、管楽器を介して湊を慰めた校長の姿も、同じ人間の一面だ。
最後に2人が楽しく駆けてゆくシーンは、どこかこの世ならぬ雰囲気もあった。彼らは嵐で命を落としたのかもしれない。
人間には多くの側面があり、そこには必ず善も悪もある。そしてその側面を見る者の置かれた状況によって、見え方も変わる。誰が怪物なのか、そもそも怪物は本当にいるのか、自分の主観だけでは真実が見えないことの方が、想像よりはるかに多いのだろう。
誰かの人間性を安易に決めつけること、自分から見える風景だけで善悪を断定することの危うさを思った。私たちが誰かを疑う時、卑近な例ではネットで炎上するような事案に遭遇した時、自分から見えているものが全てだと、つい信じたくなる。
その時立ち止まって、他の立場からの見え方を想像する。そうすることで初めて、この物語のように少しずつ、物事の本当に正確な姿が見えてくるのではないか。そんなことを考えた。
余談:
映画ライターの児玉美月氏のツイートによると、試写会の時の資料に「(クィアの要素がある作品であることは)ネタバレなので触れないでほしい」といったことが書いてあったそうだ。
一方、是枝監督は会見で、「性的少数者に特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話」と言っている。なので試写会資料の注意文はちょっと謎だが、クィア・パルム賞を受賞したことで、注意文を入れた製作サイドからしたら受賞の報道自体がネタバレのようになった形だ。
ただ個人的には、クィア要素があると事前に聞いていても物語の感動はきちんとあり、知ってがっかりするようなネタバレとは思わなかった。なお、児玉氏はクィア要素をネタバレ禁止のネタにすることを批判している。当事者性の高い観客への配慮に欠けるから、とのこと。
試写会資料の是非は置いておいて、やはりマイノリティ要素があると受け止められた作品は海外で賞を取りやすいという面があるのかな、とひねくれた私は思った。最近そういう作品が本当に多い(否定ではない)。
返信ありがとうございます。
瑛太の演技は派手ではないんですが、ギリギリ不自然な(でも観客が気づける)表情が見事でしたよね。
一作一作に罪はなくても、どの作品でも同じテーマばかり見せられたらウンザリします。
本作も不誠実な扱い方をしたとまでは思いませんが…
確かに賞のこととか知ってしまうとモヤっとしますし、だからこそ事前に記事などはあまり読まないようにしてます。笑
なるほどです!失礼いたしました。こんなに素晴らしいレビューされてる方が伏線見逃してしまったのかなと勝手に心配してしまいました笑 詳しい解説ありがとうございました😊
TAさん、コメントありがとうございます。
レビューを書いた後で他の方のレビューやSNSを色々見たところ、あの女の子は保利先生に「猫の死体をいじっていた」(という主旨のこと)と言ったのに、後で保利先生が彼女に証言を求めた時は「(猫を)殺したって言ったよね」といった聞き方をしたようです。で、殺したわけではないので、証言を拒否したということです。
大人なら自分の発言との違いを説明することも出来たでしょうが、子供なのであのような反応しか出来なかったのでしょう。私は鑑賞中その違いをスルーしてしまって、??となってました。
シナリオブックとノベライズが発売されているので(どちらにも、映画にないちょっとしたシーンや説明があるようです)、それらを読めば物語がさらにクリアに見えてくるかもしれません(まだ読んでない分際で言うのもなんですが)。
bakajiさん、コメントありがとうございます。
伏線回収がなかったのではないか、という意味ではなく、恋人のアドバイスがあったにせよ、よりによってクレームを言いに来た保護者の目の前で飴を口にするという、そのタイミングを非常識に感じたということです。わかりづらくてすみません。
ただ、今思えば、保利というキャラクターにひそむ危なっかしさというか、善意の教師ではあるが完璧な社会性を持ち合わせているわけではない(世の中の誰しもそうですが)ということを、端的に表現していたのかもしれません。
素晴らしいレビュー、ありがとうございます。
ただ、私も女の子が猫の死体についてウソをついた点だけが謎のままで引っかかってます。どなたか解説できる方がいらしたら、よろしくお願いします。
飴のくだりは、ほり先生が恋人のアドバイスを受けてことだとおもいます。そこで飴⁇と始めはなりましたがのちのちきちんと彼女とのシーンめ伏線回収できていました。
こんにちは。
内容、悉く共感しました。
飴さえ舐めなければ、“早織から見た印象”で納得しやすかったですよね。
小学生のときって、電車で30分の距離でも『転校』が今生の別れに思える。
スマフォで繋がっている現代ですら、そうなんでしょうか。
クィアなんて言葉、初めて目にしました。
そんな知識が無くてもあれだけ美しい少年ふたりが戯れあってるのを見てるだけで、直感的に関係性が伝わってきました。映像、演出、映画の力を思い知らされる作品でした。