「「演技する」ダリオ・アルジェントを堪能する眼福の2時間。老々介護のシビアな現実に迫る。」VORTEX ヴォルテックス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「演技する」ダリオ・アルジェントを堪能する眼福の2時間。老々介護のシビアな現実に迫る。
まさか、ダリオ・アルジェントが演技してる姿を2時間近く拝めることになるとは、思ってもみなかった。
生きているといろんなことが起きるもんだ(笑)。
てか、ふつうに演技できてるじゃないか!
マジで感心したよ、ダリオ爺さん!
さすがは自分の監督作で、必ず殺人鬼の「手」の役だけは自分でこなしてきたと豪語するだけのことはあるぜ。
思い返せば、僕の映画道は、小学生の時ばあちゃんと一緒に日曜の朝っぱらからTVで観た『サスペリア』&『サスペリアPART2』に端を発してると言っていい。
それから、VHS時代にすべて手に入るパッケージは手に入れ、DVD時代になって手に入るものはすべてDVDに買い換え、知人を通じてフランス語字幕の『4匹の蠅』まで手に入れた(ずいぶん後になって正規盤が国内でも出た)。新婚旅行先のイタリアでは、ローマでダリオ・アルジェントの店にも立ち寄った(アルジェントには会えなかったが、店番をしていた弟子のルイジ・コッツィに会えた)。その後、何本カスみたいな新作映画を撮ろうが、僕はダリオ・アルジェントの信者であり続けてきたし、彼への敬慕の念は変わらなかった。
それがなんとまあ。
いまさら主演映画だなんて。
どんなご褒美だよ。
今回、僕としてはきわめて珍しいことに、
●前準備として、相手役のフランソワーズ・ルブランを知るために、『ママと娼婦』をわざわざ観にアテネ・フランセまで行った。
●事前に前売り券を買った(ここ10年くらいで初めてかもしれない)。
●公開初日に観に行った(これも10本に1本もないくらいの頻度)。
何せこれは、単なる映画鑑賞ではない。ある種の「信仰告白(コンフェッション)」だ。
受肉し、眼前に「俳優」として降臨する監督「神」を崇めるための神聖なる儀式なのだ。
というわけで、拝んできました。
ダリオ・アルジェントの雄姿を。
もう、出ずっぱりですから。
ずっとおじいちゃん役で画面内をうろうろしてますから。
あと、寝たり。泣いたり。倒れたり。
控えめにいっても最高です。なんて幸せな時間。
思っていたより、ずっと温厚で、
ずっと常識的で、ずっと慈愛溢れる感じの老人だったな。
目に焼き付けました。僕の幼少時のヒーローを。
しかも、ちゃんとフランス語の台詞しゃべってるのも凄い。
(もともと彼は若いころフランスに遊学していたことがあるらしいが)
「フランスに移住して現地で結婚したイタリア人映画評論家」という役どころではあるが、母国語じゃない映画で初主演を引き受けちゃうとか、ほんと頭が下がります。
考えてみると、たいがいの監督は巧みに演技をこなす。
オーソン・ウェルズやクリント・イーストウッドのような俳優あがりの監督はもちろんのこと、トリュフォーやゴダール、ヒューストン、クローネンバーグなど、やらせてみたらそのへんの俳優よりぜんぜん上手いという監督はいくらでもいる。そういや庵野さんっていう究極の飛び道具もいたっけ(笑)。
いろんな俳優に演技指導をして、自分の望むプランを伝えているわけだから、基本は下手なわけがないのだが、たまに蜷川幸雄みたいに演技者としては大根ってタイプもいるので、一概には言えない。
アルジェントの場合は、演技というよりは、ふだんのままの人柄と風格がそのまま役に投影されているんだろうね。実に自然に、当たり前にその場にいるかのように、老いた映画評論家役を訥々と演じていた。
しかも、思いがけないご褒美として、ヌードシーンまで!!
え、脱いじゃうの??
ああ、脱げてく、脱げてく、いやーん、乳首まで見えちゃった!
必要なのか?? アルジェントのヌードシーン???
などと、若干興奮しながら、オジサン、オーバー80の老人のシャワーシーンを食い入るように観てました(笑)。
てか、若干髪振り乱した老婆が外でよからぬたくらみを抱きながらうろうろ徘徊してて、かたやシャワーブースで様子もわからずにシャワー浴びてるのって、まんま『サイコ』(60)のパロディだよね!
実際、アルジェント自身も何度も何度も『サイコ』パロのナイフ惨殺シーンを監督作でやってるし、ギャスパー・ノエも『カルネ』(91)でバスルームで娘を洗うシーン、『アレックス』(02)でシャワーカーテン越しのモニカ・ベルッチのシーンをやっていたはずだ。
しかし、まさかアルジェントのシャワーシーンが見られるとは思いもよらなかった。
相手役のフランソワーズ・ルブランはさすがの名女優。
アルツハイマー型認知症のかなり進んだおばあさんという難しい役どころを、静かに、穏やかに、でも鬼気迫る危うさも存分に漂わせながら、きちんと演じていた。
まあこの人『ママと娼婦』のとき(ほぼデビュー作)からメチャクチャ演技できる人だったからね。
ギャスパー・ノエも、インタビューで、アルジェントには自由に即興で演じてもらったが、ルブランには認知症の患者として演技を作り込んでもらったと言っていた。
それにしても、なんてすごいキャスティングだろうか。
最晩年の二人の姿をこうやって画面に焼き付けることができただけでも、本作を撮ってくれた甲斐はあるというものだ。
― ― ―
老々介護映画の傑作といえば、なんといってもミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』(12)にとどめをさす。あれを観たとき、僕は本当にわけがわからなくなるくらい泣いた。
今回の映画についても、ギャスパー・ノエは「ぜひ泣いてくれたらいいと思ってる」と述べていたが、残念ながら個人的に具体的に泣けるような場所はほぼなかった(笑)(とても良い映画だとは思うけど)。
まあ、『愛、アムール』の山場でかかるのはシューベルトの即興曲やバッハのコラールだけど、『ヴォルテックス』の山場でかかるのはエンニオ・モリコーネの『ミスター・ノーボディ』(73)のサントラだからなあ。それで泣けって言われても僕には難しいよ(笑)。
ちなみに、エンニオ・モリコーネはダリオ・アルジェントの初期動物三部作『歓びの毒牙(きば)』(70)『わたしは目撃者』(71)『4匹の蠅』(71)の音楽を担当しており、この映画で引用するにふさわしい作曲家であるともいえる。
ギャスパー・ノエは、かつて「最も好きな映画」の投票で『愛、アムール』を選んでいるそうで、ハネケの映画は間違いなく『ヴォルテックス』の直接的な霊感源となっている。ハネケもまた、『愛、アムール』を撮る一方で『ファニーゲーム』(97)のようなえげつない暴力と狂気の映画をも平気で撮る監督であり、意外に両者は似通ったメンタリテの持ち主なのかもしれない。
さらにノエとアルジェントの影響関係に関していえば、たとえば『カルネ』や『アレックス』を観ても(その2本しか観ていないのだが)、どぎつい赤や黄色の原色使用、後ろから追いすがるような一人称カメラ、突発的に発生する身体破壊的な暴力描写など、あからさまにアルジェントの影響を受けていると思しきショットやアイディアが多用されていて、もともと彼がアルジェントに私淑していた痕跡には事欠かない(『カルネ』の若者襲撃シーンとか、まんま『インフェルノ』(80)で皆既月食の夜に起きる惨殺シーンのパクリだし)。
『ヴォルテックス』でも、ギャスパー・ノエは今までの作品同様に、「シネフィル的」な過去作の引用&オマージュを挟み込んできている。部屋に飾られている大量の映画関連書や、古い映画ポスターの類。途中で流れるカール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』とおぼしき映像。エドガー・アラン・ポーからの引用。
そもそもアルジェントを引っ張り出して、映画評論家の役をさせつつ、相手役にヌーヴェル・ヴァーグの隠れたミューズをあてがってるというだけで、十分にシネフィル的な映画だともいえるだろう。
映画としては、スプリット・スクリーンを全編で実験的に用いた、徹底して作り込まれた「ギミック」重視の作品である一方で、今までのド外れた「暴力&ドラッグ&セックス」に彩られた「露悪趣味」の傾向をかなぐり捨てて、オーソドックスに一般大衆向けのスタンスで撮られた、きわめて「まっとう」で「正攻法」の作品でもある。
ふたりの幸せで平穏な憩いの時間は、冒頭の数分で終わりを告げる。
老妻の徘徊が始まってからは、延々と続くスプリット・スクリーンによって、同居する老夫婦それぞれの「孤独」と「分断」が、シビアに紡がれてゆく。
序盤の徘徊シーンや静かな生活ぶりの描写はあまりにも長すぎて、ちょっと退屈で眠たくなってしまったが、中盤で起きる「事件」の数々で眠気もふっとんだ。
あの、唐突に身体に力をみなぎらせながら、らんらんと目を光らせて「抗てん●●●」とか言いだす瞬間の、なんとおそろしいことか。
そのあとのシーンも『子連れ狼』の金田龍之介演じる茶坊主みたいで、超×超こわい。
で、それらすべてを「まとめて忘れてしまう」というのも、考えてみるとすごいオチではないか。いや、あのまま行ってたら俺のアルジェントの出番はあそこでもう終わってたんだけど(笑)。
そのあとのアレとか、アレとかも、まあまあホラーすぎて、もうね……。
結局、自分で自分が何をやっているかもはやわからなくなっているサイコ犯ほど、ガチで予測不能でデンジャラスな存在はいないのだ。
しかも、息子は決して悪いヤツじゃないけど、あんなだし。
てか、息子の息子(孫)の挙動とか観てると、子供にも明らかに結構なストレス兆候がでてるしね。全体に、中盤以降に「新たに明らかになる事象」の大半が、げんなりするような(状況がよくなるとは思えない)現実ばかりで、なかなかにしんどい映画だった。
ただ、ギャスパー・ノエなら、本当はもっと「えげつない」映画にできたはずだ。
もっと奇矯で、もっと薄気味悪くて、もっと過激な「ボケ」を描けたはずだ。
しかし、彼は今回それをしなかった。
あえて盛り上がるドラマに仕立てなかった。
終わり方も、そこまで「劇的」ではない。
淡々としていて、そこそこコワいけど、それなりに情愛に満ちた、生々しいドキュメンタリーっぽさもあるけど、相応にフィクションであることも諦めない、そんな「しぶいいぶし銀の映画」に仕上げて来た。
ギャスパー・ノエはインタビューで言っている。
「銀行強盗を題材にした映画はたくさんあるけど、銀行強盗はほとんど起こらないだろ。でも認知症は、ほとんどすべての家族に起こるんだ」
そう、「老い」は人類ひとしくすべての生を受けた者に訪れる、普遍的なドラマだ。
誰もが死を恐れるが、死ほどに公平で不可避の出来事もまたなく、言ってみればこんなに平凡で、ありきたりで、特別さのかけらもない当たり前のことなど、他にないくらいのものである。
人生で言えば、いい学校に受かったり、綺麗な奥さんと巡り合ったりのほうが、よほど「他人より特別」でドラマチックな要素を含んでいるのではないか。
それでも、人は誰しも、その最期を「泣けるドラマ」として悲しむ。
万人に訪れるとはいっても、やはり「死」は特別で重大な瞬間なのだ。
『ヴォルテックス』は、そんな死の悲劇性と死の凡庸さを、ノエ監督独自の「バランス感覚」で描いてみせた映画だ。
そこには、監督のお母さまが晩年に重い認知症を患ったという経験や、監督本人が脳出血で亡くなりかけるという死と隣り合わせの体験をしたことも反映しているだろう。
そこに、アルジェントとルブランという、本当に人生の終焉を目の前に控えた老監督と老女優のエッセンスが加わって、この映画はできているといえる。
決して泣ける映画でも、
ことさら感動するような映画でもなかったけど、
割合に良い映画だった。
それで今回は十分に成功であるように思う。
でも、ラスト近くの趣向は、泣けるってより、
ちょっと笑ってしまったなあ。
本物のダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランの若いころの写真使ってあんなことやるの、反則だよ(笑)。