「太平洋戦争末期、南海の孤島・大戸島に一機の特攻機が不時着する。 操...」ゴジラ-1.0 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
太平洋戦争末期、南海の孤島・大戸島に一機の特攻機が不時着する。 操...
太平洋戦争末期、南海の孤島・大戸島に一機の特攻機が不時着する。
操縦士は敷島浩一(神木隆之介)。
機体の故障というが、整備士たちによる故障は発見できず、整備隊長の橘(青木崇高)は、敷島の戦闘忌避を見抜いていた。
その夜、大戸島を巨大生物が来襲。
島民たちが「ゴジラ」と呼ぶ荒ぶる神・祟り神、異形の古代生物であった。
特攻機の20ミリ機銃で討て、と声をあげる橘の願いも虚しく、敷島は躊躇、隊は全滅してしまう。
そして、終戦、帰還した敷島を待っていたであろう両親は空襲により死亡、ただ生きるだけの毎日の敷島は偶然、乳飲み子を抱えた典子(浜辺美波)と出逢う。
乳飲み子は典子の子でなく、両親は空襲で死亡、その彼らから託されたという。
典子の両親も空襲で死亡しており、敷島と典子、それから産着に縫われた昭子と名付けられた乳飲み子との奇妙な同居生活が始まる。
そして、終戦から2年。
銀座の街もかつての様相を呈してきた頃、「ゴジラ」が襲来する。
ビキニ諸島沖での核実験により巨大化、再生能力を強化させて。
その「荒ぶる神」「祟り神」の姿は、禍々しいものだった・・・
というのが映画前半までの物語。
途中、木造機雷掃海艇での特殊業務に就く羽目になった敷島は海上でゴジラと遭遇、そのときの船長・秋津(佐々木蔵之介)、小僧と呼ばれる助手・水島(山田裕貴)、学者・野田(吉岡秀隆)との出逢いがあり、後半の展開に影響してきます。
さて、2016年『シン・ゴジラ』以来の国産ゴジラ映画というプレッシャーのなか、監督・脚本・VFXの山崎貴は、怪獣vs.国家(組織)から、怪獣vs.個人へと物語をシフトさせ、「シン」とは異なる側面を見せていきます。
よって描かれるのは、敷島という個人の物語であり、ドラマ。
この「敵vs.個人」の構図は、70~80年代あたりまでは主流であり、『宇宙戦艦ヤマト』(というか『さらば宇宙戦艦ヤマト』か)で若者の心に突き刺さったもので、同時代の山崎監督の胸にも突き刺さったものと思われる(というか『ヤマト』の実写版を撮っているしね)。
また、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジに通じるところもあり、若い観客にも十分アピールするだろう(というか、している?)。
映像的・物語的に初作『ゴジラ』を意識したエピソードも盛り込み(銀座の街の破壊シーンの酷似や海中でゴジラを仕留めるという作戦など)、オールドファンもニヤニヤさせることに成功している。
で、個人的に最も興味深かったのは、冒頭のゴジラ大戸島襲撃のエピソードで、そのときのゴジラの姿は「荒ぶる神」「祟り神」に相違なく、諸星大二郎の描くマンガ『稗田礼二郎フィールドノート』シリーズ(通称「妖怪ハンター」シリーズ)の一編を想起しました。
また、「荒ぶる神」「祟り神」ということで、ゴジラの生態や起源などの考察を劇中で省略しているあたりも好感が持てました。
映像的には、再現マニア的な山崎監督らしく、戦後の風景、復興した銀座の街並み、迫りくるゴジラの物理的状況など、かなりの細部まで作り込まれているのではないかしら。
なお、ゴジラが再生するかも・・・というエンディングは余計な気もするが、活かすのであれば、次回は『ゴジラ対ヘドラ』のリメイク、ゴジラ細胞が70年の時を経て再生するとともに、海中プラスティックに作用してヘドラ(今回は再生プラスティックの集合体)と戦う、みたいな、ちょっと気楽に見える社会派エンタメを期待したいです。
麻布豆ゴハンさん、コメントありがとうございます。
同じように諸星大二郎的なものを感じた方がいて、嬉しく思いました。
続編あるとしても、「ビオランテ」的だとちょっと引いちゃうかも。
諸星大二郎氏の描く荒ぶる神や祟り神似ている、確かにそうですね。海から現れる祟り神あんとく様が一番イメージに近いです。両者に共通するのは絶対的な恐怖の存在と、そしてそれなのに存在自体の何とも言えない哀しさだとアタシは思います。
ラストの典子の首についたG細胞らしきものや再生しつつあるゴジラ。。「続編ゴジラ1.0#作れるよ、作るのは伏線を置いといた自分にまた是非やらせて!」のアピール?w
でもG細胞で典子がビオランテ化したりバイオハザードみたく感染増殖したらやだなぁ〜。