ゴジラ-1.0のレビュー・感想・評価
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どの要素もイマイチで、ドラマは酷い。
⚪︎作品全体
正直、「ゴジラ」としても「-1.0」としてもイマイチな作品だった。
「ゴジラ」という部分を考えてみると、「ゴジラシリーズ」における人類vsゴジラという構図がほとんど存在しないのが不満だ。まあ、「ゴジラシリーズ」と大きく括ってしまうと、平成ゴジラはそこまで人類vsゴジラの構図ではなかったりするんだけれど、初代『ゴジラ』とほぼ同じ時代である戦後日本という舞台にした以上、個々の人間のみならず、社会全体がボロボロになったところへ襲い来るゴジラを描かなければ「ゴジラ」を謳っている意味があまりない。しかし、物語の大半を主人公・敷島の個人的な感情にクローズアップしてしまっていた。
そういう意味では「0」となった日本を「-1.0」へと突き落すという絶望感がかすんで見えてしまった。
特に致命的なのは敷島の心にある「自分の戦争はまだ終わっていない」という、日本社会とは隔絶された超個人的な動機付けが終始あることだ。貧困だとかそういう意味での「戦争は終わってない」ではなく、敵に立ち向かえなかった自分の弱さの「終わってない」としているところに、周りの人間を置き去りにしても良いという身勝手な言い訳を置いている気がした。
復員省でゴジラを倒すと決起する人たちの傍らで、エゴを剥き出しにして怒り続けている敷島に対しては、ヒロイン・典子を失ったことへの同情よりも「自分勝手だな」という印象が上回る。
全体主義では悪とされた「自分勝手」が戦後ではそうじゃない、という視点を加えたかったのかもしれない。しかし、ここでの敷島は大切な人たちを守ろうとする感情をないがしろにしていて、シンプルに嫌なヤツだった。
敷島が味方を見殺しにしてしまった現場で生き残った整備兵・橘に対し、悪評を言いふらすことで呼び寄せるという手段を使ったことも、ずいぶん酷い。震電を改修できる腕利きを探すという名目で、「自分の戦争を終わらせる」キーパーソンとなる人物を呼び寄せる。そこに相手の気持ちなどなく、ただただエゴで、不快だった。
さらに最悪なのは、物語の脚本上、橘を「ただの善人」としたことだ。敷島は典子を失ったことで凄まじい負の感情を吐き出すのに対し、橘は簡単に敷島を許してしまう。敷島が機関砲を撃っていれば救われたかもしれない同胞たちが、無惨に死んでいった瞬間を目の前で見ているにも関わらず、だ。その感情を整理させる間もなく、敷島に乗る震電に脱出装置をつける過程が、全くもって理解できない。終始なにかを許さない敷島と、許す橘。これが物語上でコントラストになれば良いけれど、橘の感情にスポットが当たることはほぼなかった。橘を作劇上の舞台装置としか見ていないのではないか。
終盤、「誰かの犠牲の上に成り立つ平和」という第二次世界大戦と同じ過ちを繰り返さない物語は納得できたが、そこに辿り着くまでの感情の描き方は全く納得いかない。
「ゴジラ」も「-1.0」も果たして必要だったのか。さらに言えば、ラストへ至るまでのドラマも必要だったのか。迫力あるVFXだけ褒めるのであれば、ミュージッククリップやイベントでの短編上映の方がよほど向いているような気がした。
⚪︎カメラワークとか
・VFXのアクションは確かに良かったし、貶すつもりはないけれど、アカデミー賞視覚効果賞作品と言われると首を傾げる。作中でゴジラが鉄道車両を掴んで地面と垂直になるシーンがあったけど、同じ年のアカデミー賞視覚効果賞にノミネートされていた『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』にも同じようなシチュエーションがあった。簡単には比較できないけど、横にあったものが落ちてくる恐怖感であるとか、垂直になった時の内装の使い方、人物が落ちるまでのアイデアなんかは後者の方が多彩だったと思う。
・ほったて小屋の敷島宅でのカット割り。畳と土間しかない四畳半以下のスペースで、人物の会話を映すのにカット割ってたのが衝撃。カメラ位置の高さもだけど、空間の狭さの演出とか、そういうのなんもないんだ…って思ってしまった。敷島と典子の会話シーンのカット割りは二人のぎこちなさとか、向いてる方向性の違いみたいな意味もあるのかな、と思ったけど、カット割った直後に同じフレームに入れているのを見ると、多分そういうのは意識してないのだろう。
敷島の友人が「早く二人結婚しろ」みたいなことを言うシーンは、居間にいる敷島がはぐらかしたあと、土間の台所にいる無言の典子を映していた。こういうのって「聞こえてないようで聞こえてる距離感」でやる演出であって、二、三歩の距離でやるのは相当無理があるなって思った。
家の端から端まで数歩で行ける距離なのに、現代の間取りみたいなカメラワークは一体…
⚪︎その他
・芝居が過剰すぎる。本当に酷い。感情的に自分の考えをベラベラ話して関係性が進むドラマはドラマじゃない。
・本当に嫌だったのがオンボロ掃海船の船長がゴジラに攻撃を与えるたびに「やったか!?」っていうところ。この作品でベタなギャグを延々とやることに何の意味があるんだろう。ゴジラシリーズって空想動物が暴れ回るっていう状況ながら、そこに生きる人たちが懸命に駆けずり回るところに物語の説得力があるのに、その世界で「ベタなフィクションあるある」をやってしまったら「所詮フィクション」っていう冷めた感想にしかならない。自分で自分の首を絞めるようなメタっぽいギャグは、見ていて痛々しい。そしてそれを見ている時間も無意味に感じられて、とても不愉快な気持ちになった。
・VFXが低予算であることをやたら持ち上げられているけれど、作品を見る人間にとって予算がどうとか関係ない。
感動した!!
遅ればせながら、鑑賞。
最近高評価作品でも自分には…って事がちらほらあるので、どんなものかな〜、という体で映画館に足を運びました…。
横っ面を叩かれたような、見事にひっくり返りました!!
これは嬉しい誤算、そして〜ゴジラで泣くと思って無かったので、ハンカチすぐ出る所に持ってて良かった…(^_^;)
これは恐怖に打ち勝つ物語だ…!
誰かが貧乏クジを引かねばならない…
それを誰に押しつけるではなく、各々が使命感、自らの判断で献身的な行動をとる尊さ、生きろ!という強いメッセージに、心を打たれる
誰だって、余りの恐怖に逃げ出してしまうことって、あると思う…。
その恐怖は、ゴジラに限らず、日常に潜んでいる事だってある。
無事に戻ってきても、恥知らず、と後ろ指をさされる…悪夢にうなされる日々…
自身のこれまでの事、かつて、だったり、現在の困難な状況と重なり、自分事のように乗り出して観ていた
今、観て良かった!と思える作品。
大画面で迫りくるあのテーマ、ゴジラの身のすくむ巨大さ、怖さ、強さ…画面越しにも絶望を感じる…
ゴジラの怒りゲージがたまると、尻尾から背びれにかけて青白く光りながらガシャーン!ガシャン!と出てくるアレや、口から出る波動砲みたいな熱線、来るぞ来るぞ…が、目撃できゾクゾクしました!
アカデミー賞視覚効果賞受賞も納得の迫力ある映像化に驚嘆しつつ、映画館で映画を観られる幸せを噛み締めた…。
もう、すぐにもう一度観たい!と思わせる
素晴らしい映画を、心からありがとうございます。
隣の女子高校生は泣いていたからそれでいいのだ、と思う
いや~~~よくやったな~~~
「特攻隊」というワードだけで嫌な作家を思い出してー山崎監督が自身で映像化しているわけでー、同じくナショナリズムに回収する物語になると思ったから観る気をなくしていた。けれどゴジラはかっこよくて恐かったし、VFXは凄かったし、物語もよかった。隣の人は感動で泣いていたし。皆がみて楽しめて感動できて、色んな人の「ご意向」を上手く調整して、面白くしているのだから素晴らしい。
例えば主人公・敷島浩一の名字について。これがどこから出典または創作されたか定かではないが、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んでいる。この発見はDHC元社長の新会社がホームページで誹謗中傷と差別発言をしているニュースから私も閲覧してできた。元社長には中指を立てて感謝を示しつつ、本居宣長という国学者との関連ーというか「敷島」が日本の別称と後に知るー、また物語でも「戦後復興」という「日本/人」という想像的共同体を構築する物語を準備した点で本作にナショナリズムの側面があることは免れ得ない。簡単に言えば、「俺たち」は焼け野原から必死に働いて復興して高度経済成長を果たしたのだ!俺たち日本人は素晴らしい!そんな美しい国ニッポンに現在の俺たちは生かされているのだ!である。
そういう言説を支持したくなる気持ちも分からなくはないし、ある程度の事実は含んでいると思いつつ、その言説から捨象された事実についても本作は主眼を置いている。
例えば敷島は特攻逃れの内向的な人物として描かれており、それはとても現代的な人物像のように思える。さらに彼はPTSDを患っているようにみえ、戦後になっても戦争の傷が癒えていない。彼と同居する典子は、彼に貧困を指摘され「パンパンになれと言うの」と発言する。「パンパン」とは米兵を主な相手として売春を行う街娼であり、この言葉を物語に登場させたことも大きな意味があるだろう。このように二人の人物像をみれば、「モーレツ社員」の「俺たち」から二人は捨象された人物であると言える。
しかも二人は共同で生活を営みつつ、規範的な意味での家族でもなければ性愛的な関係でもないことは驚きである。そして二人の間に子どももいるが、孤児であり血縁関係は一切ない。つまりここでも結婚して血縁関係になることで家族になるといった保守的な家族観とは違い、生き延びるために共同で生活を営むことで、結果的に家族となり、それを家族と呼ぶ転換が起こっている。このような家族のあり方は戦後に事実としてあっただろう。そういった点でこのような家族像を描こうとしたことも大きな意味がある。
このようにこれら二人の人物像や家族のあり方は、ナショナリズム的な側面を批判的に捉える逸脱があるし、性愛ー結婚ー家族を強固な三角関係に捉えるロマンティック・ラブ・イデオロギーについても同様な眼差しがある。
さらに敷島とゴジラの対峙は、内向的な彼が勇気をもってゴジラを退治する私的な物語≒個人的な語りにもなり得るが、批判的な視座をもたらすことも可能にみえる。つまり自己責任としての語りの不可能性である。
敷島は特攻逃れで大戸島ー硫黄島の連想をしたのは私だけ?ーに「不時着」する。この逃げで彼の臆病が描かれるのだが、さらに島にゴジラが到来してしまう。この時、彼が銃撃をしなかったことで整備兵を死なせることになり、彼らの死を自己の責任として、その傷に戦後も苦しめられることになる。さらに時を飛んで、ゴジラが銀座を急襲する時も、銀座に働きに出た典子を救おうとする。しかしその気持ちとは裏腹に敷島はゴジラの放射火炎による爆風から典子に庇われて、彼女が死んでしまう悲劇に転じてしまう。このことからも典子の死を自己の責任として責めを負うのである。
これは理路整然とした語りのように思える。確かに敷島はその場にいて、彼だけが生きて、他の者は死んだ。彼が他の者が死ぬことを防がなかったことには責任がある。だから彼は役に立たないものであり、トラウマを抱えても仕方がないし、死ななければならない。この語りが逆説的にーつまりそう思われたくなかったらモーレツに働けー「戦後復興」を可能にした側面はあるだろう。けれど現代に生きる私としてはそんなわけないじゃんとも思ってしまう。
ゴジラは圧倒的な暴力だ。ゴジラが原水爆から生まれたことから人為的な側面もあるがーちゃんと本作はそこも描いている。素晴らしいー、災害なのだ。だから敷島個人がどうこうしても防ぎようがない。大戸島の描写もそうだが、彼が銃撃できたとてゴジラが死ぬわけがない。だって後の描写で戦艦を簡単に沈めているのだから。典子の死も偶然そうなっただけだ。なぜなら典子が列車の時点で死んでいたことだって十分あり得るからーむしろあの状況から生き延びたのが奇跡だろうー。つまり私たちは災害による生き死にを物語として理解はしたい。けれど自己責任として語るには、災害も死も人為による操作可能な対象ではない。だから本作は一見、現代に即した敷島の自己責任についての物語と思えつつも、その語りの逆説的な不可能性を示してもいる。
このように自己責任の物語を排しつつ、ゴジラにされるがままに破壊されることを受け入れているわけでもない。そのために政府による介入や撃退というナショナリズムを導入するわけでもないーというか銀座襲撃で国会議事堂は暗に爆破されている。政府批判ー。ここで本作は、民営の防衛組織をつくって、科学技術で退治しようとするのだ。まさに人為を超えたゴジラの襲撃という災害をセカイ系のような個人による解決ではなく、市民が集団して民主主義的に解決する。このような問題解決に結実したのは純粋に立派だと思う。今、私たちに必要な物語はまさにこれなのだ。
だから典子が実は生きていたというご都合主義的な結末も問題ない。だって典子にも浜辺美波にも生きていてほしいじゃん。やっぱり大切な人には生きていてほしい。その思いは大事にして、災害のような事象を無理矢理に自己責任の物語に回収させない。そもそも「自己責任」という言葉自体、「責任」が「自己」に内包されている以上、この言葉を使う時には自己に責任をなすりつけたい集団心理、イデオロギーが働いていると考えるべきでしょう。「私に特攻をさせてください」「では、死んでも自己責任だからな」みたいな。ここでは特攻をしなくてはいけない構造/権力関係に対する言及は一切なく自己責任に結実する。
それでも「責任」を負おうとすること。そのために皆で協力して集団的に解決しようとすること。災害それ自体が起こることは防げないが、防災に努めること、起こったことに懸命に対処すること、それは私たちにもできるはずだ。そんな「責任」の原理が今、私たちが生き延びるために必要とされている。
そうは言っても純粋に結末を称賛できるわけでもないと思っている。二点指摘するが、それは「民営の防衛組織の表象」と「敷島がパラシュートで脱出する描写」についてである。
民営の防衛組織については、ナショナリズムを排する点でいいとは思いつつ、現況においてどのように捉えられるかは注意が必要だろう。現在においては、敷島のような市民が集団で民営する形態は、いつの間にか私企業のような私営に取って代わり、災害といった問題を民主主義的に解決することが、利潤の追求に変わってしまってはいないだろうか。それはオリンピックや万博の状況をみれば一目瞭然であるが、このようなイベントの理念は形骸化して、企業の利潤獲得という暴利に変わっているじゃないですか。しかも企業は政府と結託して共犯関係を成していることも明らかだ。本作の民営の防衛組織もそうだ。戦艦は自前では製造されておらず、政府による譲渡だ。このような点で、結末が政府を排しているように思いつつも実は、暗に結託、関係せざるを得ないことは批判的な注意が必要である。しかもゴジラの退治を企業による科学技術で行うことは、戦後復興のナショナリズム言説を再び浮上させることになりかねない。
敷島がパラシュートで脱出する描写も納得はいかない。彼は最後の「海神作戦」で、戦闘機による誘導を買って出て、「特攻」をする。しかしかつて怨恨のあった整備兵による技術改良のおかげで、敷島はゴジラに突っ込む直前にパラシュートで脱出できるのである。もちろん敷島が死ぬべきだと言いたいわけではない。そうではなく、観客は敷島が特攻して死ぬしかないと思いつつも、実は事前に脱出方法が説明されていたというカラクリがある点だ。このように描写されることは、敷島のみが生死を操作可能な主体として描かれてはいないだろうか。それは災害や生死、自然も人工的に操作可能な主体を立ち現させて、再び自己責任の主体/語りを導入することになりかねない。
そのような点で、結末を無批判に擁護したいわけではないし、東宝といった企業と関わらざるを得ない以上、限界はあると思いつつ留保は必要だとは思っている。
反戦映画だと思う
これは、ゴジラを模した平和を希求する物語だと思う。
そういう意味では原点回帰だろうか。監督の英断。
見る前は正直、戦争映画の文脈で「この国を守る」路線だと思ってた(し、ゴジラにもアカデミーにも興味なかった←)。でも全然違う。
怪獣を前にして、しかも戦後直後の設定で、「生きよ」と。「絶対死ぬな」と。そう繰り返し口にする。「今度は生きてこそ」、「未来のために」とゴジラに対峙させることが、どれだけ素晴らしいか。本来見えない死者として扱われる怪獣の下敷きになる人も顔をしっかり見せたりもしていて、驚いた。それを織り込んで刷り込みのように「生きる」ことを言い続けることが、いかに大事か。ゴジラでまさか「戦争に行かなかったことは幸せ」なんだと語らせたのには、脱帽した。
某ワイドショーでの監督の熱い語りにほだされて見て、本当によかった。
確かに台詞も展開も月並みかもしれない。でもゴジラの源には戦争があると思っていて、そこに真っ向から挑んだ監督の勇気が素晴らしい。脚本の勝利。
「大きなお友達」から「子供」へ
「シン・ゴジラ」の都内破壊シーンはじめ、その迫力や恐ろしさ、そして全編通して少しめんどくさいが、凝ったカメラワーク、逃げ惑う人々、高速道路の渋滞、ゴジラの絶望的な放射能攻撃の描写など、見ごたえは大いにあった。
絶望感を感じるという点では、「54年版」の銀座の破壊シーンの大火災の表現は今でも恐ろしいものがある。
本作のCGについて、ハリウッドレベルにまで達した、という意見もあるが、そこは正直どうでもよくて、CGの完成度は高いのかもしれないが、別に「シン・ゴジラ」ほどしろ、とは思わないが、カメラは退屈。
また、緊迫感が希薄すぎるのは問題。時代背景をそれにするなら、もっと悲惨な状況になるはずなのに、スケールが小さい。
わかりやすいところで、深海魚が浮かんでくると、ゴジラが来る、ということを描くにしても、浮かび上がった深海魚の数が少なすぎて、いくらでもCGで書けるのに、ああ、パニック映画とか、あんまり興味ないんだなあ、と。そのくせ、「ジョーズ」のパロディをするんだから、序盤のがっかり感は割とある。
ただ、これはオレのないものねだりだが、パニック、脅威に対する政府、そして個人の視点で描くことは、「ディープ・インパクト」というパニック映画があったりするので、その辺、いわば、「54年版」と「シン・ゴジラ」の真ん中あたりで、作ってほしかったなあ、と思うが、先に挙げたように、そういう視点は初めから持ち合わせていないのだろう。
なんだか、ストーリーとCG、エモいセリフにリキ入れましたが、「映画表現」は全く関心ありません、みたいな。
山崎監督は仕事が早く、「白組」との阿吽の呼吸なんだろうが、それって、「どこかで見たことがある」「あれと一緒」みたいなやり取りだからか?、なんて穿った見方もしてしまう。まあ、それはそれで、効率、スピード、正確さ、という点でビジネスとしては、とても必要だが。
神木さんが、こんな表現しかできないとか、安藤さんがあまりにもひどく見えるのも、子供に見てもらう、ということ前提なので、その点はこちらが我慢するしかない。が、途中あまりに我慢ならなくなったが。
まあ、「54年版」だって、核批判を普通にセリフで言ってるしね。
「シン・ゴジラ」で子供を置いてけぼりにしたので、子供にゴジラを返してあげた、ということである。
あ、でも海外版ゴジラ、ギャレス・エドワーズのやつや、ギドラがでるやつや、小栗さんが出るやつに比べると、こっちのほうがいいかな。
日本のCG技術に圧倒されました
池袋のIMAXで鑑賞。
戦後を生き延びるだけでも大変なのに、そこにゴジラが襲ってくることを考えると、とても絶望的で恐ろしい光景でした。シンゴジラはエヴァンゲリオンのような得体の知れない生物のイメージが強かったですが、今作はパワフルに暴れ回る怪獣のデザインがかっこよかったです。ゴジラが街を破壊していくシーンはジュラシックパークさながらの迫力があり、豪快に突き進んでいく姿に興奮しました。山崎監督は私の中でCGが得意な印象がありますが、ここでも彼の才能が表れていることが伝わってきました。
音楽も魅力的で、壮大なオーケストラ楽曲が各場面を盛り上げていて最高でした。
「らんまん」の主演で話題になった2人の俳優が演じる登場人物もよかったです。敷島浩一(神木隆之介)は、過去に仲間を失ったトラウマから生きる価値を見出せずにいました。それでも、東京に出現したゴジラから人々を守るために奮闘しようと成長していく過程に感動しました。大石典子(浜辺美波)は敷島と血が繋がっていなくても、家族の一員に加わっているような絆があって心が温かくなりました。
敷島の仕事仲間もゴジラを倒すための作戦に積極的に関わるなど、彼らの見せ場が多かったのも好印象でした。特に、ある人物が「これは死ぬための戦いではなく、未来を生きるための戦いなんだ!」と言っている場面は、自らを犠牲にせず生きるために頑張って道を切り開いていく大切さが込められた素晴らしいセリフになっていました。このように、人との繋がりを描いたドラマも多く挿入されていたため、とても感情移入しやすかったです。
ちなみに、私が邦画実写をIMAXで観るのはこれが初めてです。肌の質感が細かく見えるぐらいの繊細さと巨大スクリーンが相まったことで、目の前にゴジラが存在しているような大迫力の映像に圧倒されました。また、リアルな音響によってゴジラの鳴き声がお腹に届くぐらい響いており、戦闘中にお馴染みのテーマ曲が流れたときは待ちに待った瞬間がきたような嬉しさで見入りました。ここから、日本もハリウッドレベルの実写映画を作れることに関心しました。
それにしても、あのラストシーンは何を示唆しているのでしょうか?とても気になって仕方ありません。
犠牲者:ゴジラ
何故、ゴジラは吠えるのだろう。何かの弾みで鳴き声を上げている訳じゃ無いんです。見ていて思いました。両腕を引いて脇を締め、よし今から吠えるぞ、吠えるぞ、吠えるぞ! ガオーって吠えてます。その吠える理由は何か。そんなことは私には考察できないのですが、ヒロインの典子さんを失った(と思われた)時に主人公がゴジラに負けじと泣き叫んだ、理由はそれと同じなのかと感じました。つまり、迷惑だと言って退治された(と思われた)ゴジラが最大の犠牲者とも考えられます。
映画として、映像的にも凄かった。戦後日本の当時の姿は知らないけれど、凄まじい瓦礫の町並みが再現されていて、必死に生きる人々の姿が身につまされる思いがした。情報機器も兵器も何もかもアナログに再現されていて、それでゴジラに立ち向かうシミュレーションとしても面白い。あの終戦時まで生き残った奇跡の駆逐艦・雪風の登場も成る程と思った。当時の歴史に詳しい人が見れば、色々と面白い考察が出てくるのでは無いでしょうか。素人の私には知るよしもありませんが。そして、登場人物の心理描写も見ていて切ないですね。怪獣に立ち向かうのは完璧無比のヒーローじゃない、戦争で心を病んだ主人公の姿が、これまた切ない。その主人公が帰ってくると「なんで死んでこなかった」と罵るのも、戦後の悲惨な日本ならば無理からぬ事。
でも、喫煙者が一応いるけど、控えめなのは配慮されたのかな。本当ならあの時代、会議室なんて煙草の紫煙でモウモウとしてたんじゃ無いかと思うけど。
あの歴史的なBGMも有効活用、音響も素晴らしかった。映画館で鑑賞できて本当に良かったと思います。
(ネタバレにしているので、これも書いてしまいますが)みんな生き残ってて良かった良かった。典子さんも遺体が発見されていないので予測済みだけど、脱出コックピットも目視で確認。みんな生きていて、良かった良かった。そう、皆です。主演のゴジラ様も当然です。ラストシーンには深海で補修中の逞しいお姿が。そして、エンドロールを最後まで確認されたでしょうか。最後に響いていた足音や咆吼は、復活後の新しいものですよね? 今度はどんな姿で登場するのやら――。
半神ゴジラの新たな足跡
「シン・ゴジラ」の刻んだ巨大な足跡の後を行くという途轍もないハードルを課された本作。蓋を開けると、前作とは単純比較出来ないほど違うアプローチの作品だった。
本作では、終戦間もない時期に、戦争の記憶を抱えた市井の人々が国家機関の助けなしにゴジラと直接闘う。ある意味「シン・ゴジラ」とは対照的だ。
主人公の敷島は、特攻の任務から逃避し、大戸島に現れたゴジラを狙撃することも出来なかった罪悪感にさいなまれながら生きていた。そんな敷島が、典子と出会って暮らし、そして彼女を失う。彼の中で、自分の弱さや無力さへの怒りが、死への恐怖を凌駕した。
戦時のトラウマとサバイバーズギルトを乗り越え、生きる決意をする。丁寧に描かれる敷島のドラマが、ゴジラの存在感と両輪になって作品を支えていた。敷島の内面描写がしっかりしているので、彼と繋がる整備士の橘や新生丸の同僚たちとの物語も血が通ったものになった。また、戦争でぼろぼろになった彼の心や生活が少しずつ落ち着いてゆく経過が描かれたことで、それを一撃で破壊するゴジラ出現の絶望感が増した。
そして、何といっても我らがゴジラの迫力。
「日本のゴジラは、半分神様」(山﨑貴監督)とは言い得て妙だ。ハリウッドでのキングコングの系譜を汲むようなゴジラと、八百万の神の国に息づくゴジラとは、根本的な部分での人間との関係性が違う。
ゴジラという名前の由来など、もともとの設定にそういうフシがある、というだけではない。特に近年、日本のゴジラ映画のゴジラは、その姿を見るだけで人間に畏怖を感じさせ、いましめを与える存在、人間に己の非力さや小ささを思い知らせるような存在であり、またそのように表現されることを期待されてもいる。
本作のゴジラは、その期待に十分応える威容を誇っていた。ゴジラのデザインは、検討段階ではちょっとイレギュラーな(ケロイドを付けるとか)案もあったようだが、比較的ベーシックな容姿で大正解。
かつ「シン・ゴジラ」よりは若干アクティブで、潜水姿を見せてくれたりと動きが面白い。熱線を吐く前、背びれを順々にジャキーンと出して光らせるギミックがかっこいいと同時に絶望感があってよい。海の波などの表現といい、本作のVFXは洋画の本格的なVFX作品にも劣らないのではないか。
このゴジラに決め打ちされる伊福部昭の劇伴は画竜点睛。佐藤直紀も大好きなのだが、今回オリジナルの劇伴は伊福部メロディの額縁としての調和を考えて作られているように聴こえた。また、エンドロール終盤に響く観客の全身を震わせる重低音の足音と咆哮は、映画館でないと体感できない臨場感。この締めで満足度がワンランクアップした。
以上の要所が押さえられていたので、いつゴジラが来てもおかしくない危急の時に橘を探すことに時間をかけるとか、海神作戦の細部とかの細かい突っ込みどころはまあいいかと思えた。ある意味そのざっくり感が往年の特撮映画の名残を残している感じで味がある(ゴジラの描写が気に入ったので、かなり好意的になっています)。
神木隆之介と浜辺美波は、戦後の娯楽のない時期に何年も一つ屋根の下に暮らしても何事もございません、と言われても白々しくならない、今時珍しい清純さを漂わせるペアリング(品のない視点ですみません)。朝ドラ「らんまん」も見ていたが、共演が多いのも何だかわかる、好感度の高いお似合いコンビ。
怪獣映画の俳優はオーバーアクト気味くらいがちょうどいいが、それにしても佐々木蔵之介の演技はちょっと癖つよだった。
銀座のシーンで橋爪功が映って、これは後で重要キャラとして登場するのかな、と最後まで待っていたが、単なるカメオ出演だった。なんの設定も示されないので、時空を超えて素の橋爪功がそこに立っていたようなメタな想像をしてしまってひとりでシュールな気分になった(そんな設定のわけはない)。
最後の典子は、ゴジラの細胞が取り込まれてしまったのかな? その再生能力により、死を免れたのではないだろうか。敷島と再会するまでに時間がかかったのも、そのあたりに理由があるのではと解釈した。あのあざに漂う不穏さは、ゴジラの生命力の恐怖という意味のほかに、被爆の悲劇や、戦争や災害を生き延びた人に刻まれるトラウマをも思わせた。
そして、ゴジラもまた再生する。時代に応じてさまざまな形で暴れる姿を見せながら、半神ゴジラは70年という節目を超えてこれからも憧れと畏怖を集めつつ、人間の小ささや弱さを啓示し続けるのだ。
余談
航空技術の発展をテーマにした展示をしている福岡県朝倉郡筑前町の太刀洗平和記念館に、昨年7月から「震電」の実物大模型が登場した。東京の映像制作会社が製作したものを2200万円で購入したという。来館者からどういった経緯で作られたものか尋ねられても、館長はじめ関係者は詳細に関しては口をつぐんでいたそうだ。映画公開までネタバレがなかったようで、記念館の関係者の方たちも天晴れ。
一番大事な恐怖が描かれていた
怖かった。これが一番大事なことで、一番大事な部分をしっかりできたのだから成功だと思う。銀座の破壊シーンもすごいが、海のシーンも素晴らしかった。でかいゴジラが泳いで追いかけてくるあのショットの恐怖は一級品だ。
ドラマパートについては、戦争を一人で生き延びてしまった男が、悔恨を抱えながらも新たな生活を一歩踏み出そうとしたら、ゴジラによって戦中に引きずり戻されるという展開は、戦後日本の微妙な立ち位置を上手い具合に表象したと思う。敗戦から抜け出し経済成長した日本だが、大戦の影響は、国際政治的にも精神的にも、ずっと引きずり続けている。日本人はあの時から変わっているのか、いないのか。奇妙な戦後の日本社会の在り方を今一度見つめ直すという点でよくできた物語だと思う。
山崎監督のこれまでのキャリアでやってきたものが上手い具合に活かされているし、CG表現も卓越している。得体のしれない怪獣が理由もなく襲うことの怖さ、理不尽さ。そこに人の方が勝手にいろんな理由付けをしながら挑んでいく。それがすごくリアルなことだと思う。
原点を踏襲しつつ、人々の心理模様も充実させた秀作
この新たな「ゴジラ」に心揺さぶられた。これまでも時代背景として戦中や戦後を描いた経験のある山崎監督にとって、ゴジラを人知を超えた巨大生物としてのみならず、戦争がもたらした惨たらしい爪痕の象徴として描くことは極めて自然な流れであり、それは同時に54年版の意志を受け継ぐことをも意味しているのだろう。本作の要、VFXを駆使した破壊や戦闘シーンの数々は、恐怖と絶望の地獄絵図ながら、ヴィジョンがとても明確でカメラの動線に無駄がない。さらに言及すべきはやはり群像ドラマ。本作には型にはまった人物が登場せず、主演二人の秀逸さもさることながら、安藤サクラや青木崇高の役柄にも時系列と共に変わりゆく心理過程がしっかり添えられるので見応えがある。こうした一人一人を丁寧に描くことで、各々にとっての生きる意義や生命の尊さが際立っていく。戦争によって各地で惨状が広がる今、生まれるべくして生まれた祈りのような一作である。
VFXスペクタクルは上出来、人物描写が…。IMAX上映は非推奨
日本でVFXを駆使した映画を作るトップランナーの山崎貴監督が、特撮映画の金字塔であり世界的ブランドにもなった“ゴジラ”を遂に手がけるのだから、期待しないわけにはいかない。庵野秀明脚本・総監督+樋口真嗣監督・特技監督の「シン・ゴジラ」(2016)がデジタル全盛の時代に敢えて特撮っぽさを残したのに対し、VFX畑の山崎監督はどんなゴジラを描いてくれるのか、というのが最大の関心事。果たして、巨大怪獣ゴジラという自然の驚異と核兵器の恐怖を象徴するクリーチャーの造形のみならず、「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで培った昭和の街並みの再現、「永遠の0」「アルキメデスの大戦」で手がけた戦闘機や軍艦のバトルアクションなど、多様なシチュエーションでのリアルかつ迫力あるVFX演出は、山崎監督の集大成とも言うべき充実ぶりだった。もう一点、航空機マニアに喜ばれそうなのが、終戦後のごたごたで接収されずに残っていた試作段階の先尾翼機「震電」が整備されて飛行可能になり、終盤でゴジラと一騎打ちになる展開。VFXで命を吹き込まれた幻の名機が空を駆けるハイライトにも、山崎監督の好みとキャリアの蓄積が反映されたようで感慨深い。
「シン・ゴジラ」を含む過去のゴジラ映画の多くが“巨大怪獣vs.組織で戦う人間たち”という対立軸でストーリーを語ってきたのと差別化を図り、「ゴジラ-1.0」は元特攻隊員・敷島を主人公に配し、空襲で廃墟と化した東京で出会った女性と彼女が保護していた幼子の3人で疑似家族として暮らすサイドストーリーを描き、人間ドラマの要素にも重点を置いている。が、主演の神木隆之介をはじめ、吉岡秀隆、佐々木蔵之介らの演技に深みや重みが足りず、説明台詞も多いし、戦争で仲間を死なせた自責の念や戦後期の生活の苦しさ、超強力な怪獣に対峙する恐怖や不安などがごく表層的な描写に留まっている。役者の演技だけのせいではなく、脚本と演出の問題もあるだろう。スペクタクルが上出来なだけに、人間ドラマの軽さと安っぽさがなんとも惜しい。
最後に、内容とは直接関係ないが、IMAX上映について苦言を。自宅から比較的近いイオンシネマ系列のシアタス調布に今年できたIMAXスクリーンで鑑賞したのだが、スクリーンに投射されない部分の縁が、上下だけでなくどういうわけか左右にまでずっと残り続ける、いわゆる“額縁上映”になっていた(“ゴジラ 額縁上映”で検索するとすでに不満の声がたくさんヒットする)。「ゴジラ-1.0」の前はIMAXで洋画ばかり観ていたので知らなかったが、邦画のIMAX上映で去年あたりから指摘されていたようだ。おそらく東宝と開発元のIMAXコーポレーションの技術的な取り決めでそうなっているのだろうが、ブランドにあぐらをかいてぼったくり商売みたいなことをやっていると、IMAXそのものが映画ファンから見放されてしまうのではないか。これから「ゴジラ-1.0」を観に行く方にIMAX上映はおすすめできない。
リアリティーをとことん追求した「シン・ゴジラ」から、「体感型映画」へと変貌を遂げ、今だからこそ生み出せた初代「ゴジラ」の前を描いた作品。
本作は「ゴジラ」の生誕70周年記念作品で、“日本製作の実写作品”としては「30作目」となります。
そこで、30作品の変遷を考えると、最大の転換期は第29作の「シン・ゴジラ」であったといえます。
着ぐるみがメインだった、1954年の第1作「ゴジラ」から第28作「ゴジラ FINAL WARS」(2004年)までの「ゴジラ」シリーズと、VFX(CG)を駆使した第29作「シン・ゴジラ」からは映像表現が格段に進化しています。
そして、「シン・ゴジラ」までは、公開当時の「今」を描き続けていた仕組みがありました。
ただ、映像技術の飛躍的な進化で、「過去」をリアルに表現することが可能な時代に突入し、戦後の復興期の日本をリアルに表現した「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)がその転換点となった作品といえます。
まさに、VFXのトップランナーとして「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズを手掛けた山崎貴監督だからこそ、これまでの「ゴジラ」映画の仕組みを変えることを自然と成し遂げられたのでしょう。
時間軸を終戦末期・戦後間もない「過去」にして、1954年の第1作「ゴジラ」の前を描いています。
本作の最大の成果は、最先端のVFXを駆使して、どの角度が最も迫力が増すのかなどを考え抜いて作った「体感型ゴジラ映画」となっている点です。
そこに主軸を持っていっているので、脚本の面では、ややツッコミどころも散見されます。
例えば、「銀座にゴジラが出現」というニュースを聞いて、ゴジラが暴れまくって大群衆が逃げ回っている場所に行けたとします。
「銀座」ということしか情報がないのに、あの状況下で人が出会える確率は物凄く小さいのが現実です。
また、終盤やラストの展開も、もう少し緻密な構成が必要な気もします。
とは言え、それは求め過ぎなのかもしれません。
本作は、“日本製作の実写作品”初となる「体感型ゴジラ映画」として見れば十分すぎる成果を生み出していて、その時点で「★5のレベル」には達していると判断できます。
予想を超えるゴジラ作品が、いまの令和のスクリーンに現れた!
ゴジラ70周年記念作品となる本作「ゴジラ−1.0」は、日本で製作された30作品目のゴジラ実写映画であり、怪獣映画「ゴジラ」の1作目が封切られた「ゴジラの日(11月3日)」に公開! 監督・脚本・VFXを務めたのは山崎貴。
ゴジラは、今までの作品で様々なところに現れ、存在感と重圧、想像をはるかに超えるパワーを観客に訴えてきた。「絶望の象徴」とも呼ばれるだけあって、ゴジラが全身全霊で叫ぶシーンは、迫力に圧倒されると同時に涙が出そうにもなる。「好きで生まれてきたわけではない」という悲しい現実も、その姿から感じてしまうからだ。
本作では、焦土と化した戦後の日本に、ゴジラが突如現れる。山崎貴監督が描く、戦闘機と戦艦の臨場感や、ゴジラが秘めている恐ろしさと迫力は、期待し過ぎていても後悔しない最強レベル。ゴジラは深海から突然現れ、凶暴なサメの歯が充満しているような鋭さと歪さを想像してしまう「背びれ」だけを海面に出し、もの凄いスピードでターゲットに向かって行く。追われる側の「恐怖」が上昇中に、ゴジラの顔が出てきた時はリアル過ぎて、なぜか「歓喜」に変わった。演出と細かい技術に見惚れてしまうと言えばいいのだろうか。猛々しくて怖いのだが、崩壊的な天然のカリスマ感があり、美しい。
ゴジラが海から陸へと上がり、突然、2足歩行する姿は、これまで見たことのないような異様さがあり、ここも山崎貴監督だからこそ活きているシーンとなっている。
人間達が切磋琢磨に生き、新たに戦う姿も巧みに描かれているので、ゴジラファンだけでなく、日本の1つのイベントとして見ても満足度は高いだろう。
老若男女問わず、令和に甦ったゴジラを大きなスクリーンで堪能する人が、口コミなどでどんどん増えていくことを期待する。
駄作
マッカーサー率いる米軍が不介入ってさ。
太平洋戦争で特攻隊隊員だったにも関わらず敵艦への体当たりから逃げた主人公が、軍の補給の島に下りたら島に怪物が生息してて、その怪物の襲撃で守備隊は全滅に近い打撃を受けた。
戦後、焼け野原となった自宅に帰った主人公は仲間を見捨てた負い目に苦しみながら赤ちゃんを連れた女性と奇妙な同居生活を始める。
仕事を見付けて何とか生活を立て直した頃、水爆実験で浴びた放射能で突然変異を起こしたアイツが日本を襲撃するのだった。
日本を統治していたマッカーサー率いる米軍が「ソ連を刺激しないように事態に不介入を宣言した」はちょっと不自然過ぎではありませんか?
よって日本人だけで与えられた軍備を使用して立ち向かわなければならなくなる。
太平洋戦争直後の戦争に負けた日本の貧弱な軍備でゴジラに立ち向かうのは明らかに無理ゲー。
それでも大切なものを守るために戦地から帰還した軍人達は再び戦いに身を投じるのだった。
ゴジラを倒す理屈が科学的になったのは前述の火力不足という縛りがあったから。一応の説得力は得た形になった。
基本はゴジラのパワーによる破壊より人間ドラマ重視にしたのも良し。
但しエピローグが短い。しかし、それは「続編あり」と考えたら当然か。次はアメリカ本土をメタメタにして太平洋戦争の犠牲者の復讐を代行してくれる模様。
日本は当然「不介入」だ。
過大評価
脚本×VFX◯=監督△
舞台が初代ゴジラ(1954)より前だから-1.0、かな?
エンドロールにゴジラルームみたいなクレジットがあってびっくり。ちゃんと専任スタッフがいるんだぁ。
うーん。。
山﨑貴のクレジットが監督・脚本・VFXなのが独特。
「いいぞ!」ってところと「あちゃー」ってところが比較的ごたまぜ、霜降り状に画面に出てくるのでなかなか没入しづらかった。
いいと思ったのは撮影。とくにドラマパート。作戦会議の場面とか、昔の東宝オールキャスト映画みたいで雰囲気出てるなーと思った。セリフ回しとかあまり当時の人っぽくはないけど。
海洋パートの比重が大きいのもよく決断したなーと思う。
神木隆之介×浜辺美波は…うーん、演技のディレクションが不充分なように思えた。ここは抑えた方がいいのになーみたいな場面がいくつか。安藤サクラの出番が少ないのが意外。もうちょっと明子ちゃんとのシーンがあってもよいのでは。
まあ何しろ明確にヤバいのは脚本です。全体の流れとか、そもそも終戦直後を舞台にするとかの根本的なアイデアはいいんだけど、細かいシーンの組み立てが拙くて驚愕しちゃった。
まだバリバリのトップシーンなのに主人公が海を見つめて黄昏れるとか…その後のフリとはいえアカンでしょー!
ゴジラの初登場シーンの俊敏さを見て正直、これは解釈違いだなと思ったのでそれ以上とくに言うことはない。
それよりは人間の造形が薄っぺらくてダサいのが目につく。でもところどころ、いいセリフもあったりなんかして、絶妙に惜しい。
ゴジラデザイン同様に、シナリオも監督+フォローできるプロを入れるという手はないものか。これはプロデュースの問題かな。
あとせっかく怪獣vs戦艦とかあるのに決着の流れが超あっさり。どうせやるなら、たっぷりタメを作ればいいのに。
肝心のVFXは、ゴジラの動きとかカメラワークの軽さを除けば特撮っぽさとリアルさのブレンドがいい塩梅だった。
キャスティング(吉岡秀隆の髪型は気になる)や美術など、全体に画面はそんなに悪くないんだけど、せっかくの情緒の流れがイマイチ。
つまり予算とかスケジュールじゃない部分の問題が目立つ。
でも、オスカー取っちゃった監督にそんな文句言える人いないだろうなー。
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後日、TV放映のタイミングで映画BLACKHOLE配信を見ていたところ、芯を食ったおたよりが紹介されていたので評価2.5→1.5に。
曰く、この作品は敗戦(ほぼ自滅)で意気消沈していた男たちが、(米軍ではなく)ゴジラというファンタジーな敵を見つけて倒すことで戦意を高揚し、再び勃ち上がる(しかも特攻で)という作品だと。
確かにそれ。それはどうあっても否定できないこの映画の本音の部分だと思う。
それはアカンしダサい…
ゴジラ −1.0
マイベストゴジラムービー
公開初日(執筆時の2年前の11月3日)最寄りの映画館のG列で鑑賞。
「終戦直後の混乱期、GHQ占領下の東京にゴジラが現れる」
この設定を公開前に聞いていて「これは絶対に面白くなる」と確信していた。
従前、同監督の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」冒頭に現れるゴジラの、当時としては非常に高いクオリティに驚かされていた記憶があるからだった。
この「ゴジラ-1.0」はとにかくゴジラが怖い。その一言に尽きる。
驚くほど微細に表現された肌の質感。そしてその咆哮。可能であれば映画館での鑑賞を強くお勧めする。
そして特筆すべきは、劇伴の良さ。
佐藤直紀氏によるオリジナルテーマの良さを損なわず、よりリッチなアレンジが、令和のゴジラ映像に非常にマッチしており、映像と音楽の相乗効果がゴジラの恐ろしさをより引き立てる。終盤に聴ける「キングコング対ゴジラ」のアレンジも素晴らしい。
個人的に、ストーリーの良さは「シン・ゴジラ」に軍配が上がるが、劇版の良さは圧倒的に「ゴジラ-1.0」だ。(シン・ゴジラでは例えば「宇宙大戦争マーチ」がオリジナルのモノラル版が使用されていて、その音質の悪さ・映像との非融和性から一気に醒めてしまった)
結果、この映画は「シン・ゴジラ」を抜いて私のゴジラ映画のベストとなった。
VODが充実してきた昨今、円盤を買わなくなって久しかったが、何年か振りにBlu-Rayを購入した。
畏怖の象徴として
ゴジラとはいったい何なのか?
その答えの無い問いにあえて答えるとしたら、その答えは無数にあるとも考えられる。
人類がかつて経験したことのない「怪物」であり、人智を超えた存在であり、人類が生み出してしまった厄災でもある。
戦うべき相手であり、乗り越えるべき壁であり、克服できない業でもある。
ちっぽけな存在の人間たちがいくら頑張ったところで、敵わない。
だが、知恵を出し合い、勇気を振り絞って、手を取り合えば、わずかな奇跡を信じて立ち向かうことで、現状を打破できるかもしれない。
そんな怪物を考えついてしまったのは、日本人だからかもしれない。
八百万の神の国、何にでも神が宿ると信じる精神性は、人間のエゴから生まれ落ちてしまった存在を怪物として描くことで、より人間の小ささや、無力さ、弱さを際立たせつつ、だからこそ協力し合うことの美しさをも浮かび上がらせている。
初代ゴジラは、明確に核兵器への恐怖と、それに伴う悲劇の象徴であった。
初代ゴジラは水爆実験の影響で生まれたという設定になっている。
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験によって、日本の漁船「第五福竜丸」が被爆した事件をモチーフとしている。
本作『ゴジラ-1.0』では、時代設定が初代とは違う。
太平洋戦争が終結した直後(おそらく1945年ごろ)からの数年(数十年)にかけてが時代設定だ。
ということは、ゴジラは水爆実験によって誕生したのではなく、古来から存在していた巨大生物、ということになる。
戦争末期に一部の兵士たち(主人公含む)には遭遇しており、戦後、アメリカの水爆実験によってその個体が覚醒、巨大化し、東京を襲った、と見ることができる。
初代ゴジラの「核兵器への警鐘」という側面を継承しつつ、敗戦によって全てを失った日本に、さらなる絶望をもたらす存在として「ゴジラ」を描き出している。
また、作中では「ゴジラ」を「呉爾羅」と表記している。
これも、ゴジラという存在が古代からの生物であり、土着の伝説的生物として描くことで、単なる動物・生物ではなく、「災害」や「祟り」のような「畏怖」の対象としていることがわかる。
「呉爾羅」という、一見して意味が図りかねる表記は、科学や常識では理解しきれない存在であり、人間ごときの手には届かない存在であることをも示唆している。
絶対的な脅威であり、日本古来の信仰や伝承のような、理解すること自体が無意味であるような、絶望感や諦念をも表している。
タイトルの「-1.0」は、「戦後、敗戦国となり、ゼロになった日本にゴジラが襲いかかり、マイナスになる」という意味合いが込められているという。
大きな厄災の後に、さらに試練が待ち受ける、という構図は、あたかも東日本大震災と原発事故とを彷彿とさせる。
予測不能な巨大な脅威、政府の対応の遅れ、そしてそこからの復興への道のりという観点では『シン・ゴジラ』でも描かれていた。
本作が最も特徴的なのは、普通の市民が自分たちの力で生きていく姿を描いている点だろう。
戦時下で特攻隊員として命令が降っていた主人公・敷島が、生き残ってしまった自分の生き様を、どう乗り越えていくか、を描きながら、生きることに執着する姿でそれを表現している。
本作は、2024年3月、日本の作品としては初めて米国アカデミー賞の視覚効果賞を受賞した。
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