「差別はなくならないからこそ声をあげ続けるべき」ティル クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
差別はなくならないからこそ声をあげ続けるべき
黒人差別の告発映画、飽きもせずと言うと極めて詭弁ですが、定期的に差別の実態を暴く作品が商業映画ベースに乗る意味を考えたい。要は差別は現時点においても一向に無くならない、だからこそ訴え続ける必要がある。本作で描かれる事件によってなんと69年も経ってエメット・ティル・リンチ法がやっと成立したことを契機に制作されたのでしょう。当然にシリアスな感動作に納まり、興行的にも批評的にも成功作が多い。だから制作されるわけではないけれど、例えば本作制作のウーピー・ゴールドバーグは過去にも類似作品を提供し続けている。まるで使命であるかのように取り組む姿勢には頭が下がるのみ。
本作は1955年の時点での悲劇を描くが、大きなポイントは同じUSでも北部シカゴと南部ミシシッピーにおける黒人差別の実態の違いにあると言う事。本作の主役であるメイミーはシカゴに住み、キチンとした教育を受け、立派な家を持ち、白人と同等の仕事を持っている知識人である。彼女の14歳の息子を社会勉強とばかりミシシッピーに住む兄弟にしばし預ける事が発端。ここシカゴではデパートで差別的慇懃な対応をされても、それをはね付ける発言が通る環境がある。一方のミシシッピーでは、女性店主をハリウッド女優のようとお世辞を言いちょいと口笛吹いた、ただそれだけでその場で殺される現実だと言う事。
案の定の悲劇に、裁判を中心に描かれるのが南部のどうしようもない差別の実態。ニガーと呼び、白人を侮辱することは死刑も同罪、コットンフィールドの様相は奴隷時代とほとんど変わりない。この悲劇を全米に広める事しかメイミーには手段がなく、その過程が本作の要となる。それにしても裁判での茶番と言うより悪意が公然と行われていたことは驚くべきこと。被害者とされる女性主人に至っては、誰も目撃者がいない事に目を付け、多分弁護士と相談しての、嘘八百証言を裁判所の聖書の前で展開する醜悪。陪審員は全員白人の中年で男ばかり、全く正義なんぞ欠片も存在しない。
女性だと言うシノニエ・ブコウスキー監督はごくオーソドックスに役者の演技に寄り添って描くものの、平板なのは否めず、メイミーの怒りをもっと激しく表現してもよかったのではないか。主人公メイミー役のダニエル・デッドワイラーは、終始威厳を身にまとい怒りを内包し、身なりに気を遣う大人として演じ、圧巻の演技を見せつける。本作最大のヒール役の女主人、何処かで見覚えありますねえ、と思ったら「シラノ」や「ビルベリー・エレジー」そして「スワロー」「ガールズ・オン・ザ・トレイン」での気怠い雰囲気を纏った美人さんヘイリー・ベネットではないですか。
秀逸なのはミシシッピーでの埋葬を拒否、シカゴへ帰還した変わり果てた我が子の姿を安置所で対面するシーン。真横からのショットで、間にちょうど敷居があり惨い体を見えない工夫と見せかけて、ゆっくりと足から上半身の残酷な姿を映し、最後は葬儀の場での遺体の公開シーンで初めて膨れ上がった顔面をスクリーン叩き付ける演出。この醜悪を晒す事こそが本作の目的と言っても過言ではない。
以降の事はラストにテロップにて示されるが、本当に最近になってやっとリンチ法が成立した事実には驚きしかない。差別は虐めと同じで、強者もしくは多数派が、弱者もしくは少数派に対して行う対立軸。この仮想敵を作らないと動けないのが人間の弱さ。米国だけが酷いのではなく、この日本においても差別論者は数多蔓延ってますよね。