零落のレビュー・感想・評価
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やっぱりあの娘は・・・
玉城ティナでした。MEGUMIや趣里、山下リオたち女優が最高。斎藤工くんも滝とか家康とかチョイ役でなく、クズや悪役にきちんと取り組んでほしい。全編自虐的な所が凄くイイ、竹中直人監督の画造りにもイイね! オープニングの単行本パラパラは出来ません。ラストの浜辺の二人のシーンは要らないかな。
ネット、SNS的な会話、だと波風たたない。世界が近づく
いまの社会
ネット内のSNS、LINE会話は、
感情むき出し無しの、逆撫でしない会話が続く
これが、コミニケーションの轍?
映画「零落」を見入っているうちに
現実社会の、会社、仕事場、学校、家庭・・・
怖いほど、こうなっていることに、気づかせてくれる。怖い!
自分を支えてくれるのは
誰だ?
だれの言葉を信じれば、受け止めれば、いいのか?
発せられた言葉を信じるの?
荒げる言葉を発する、ひとの行動を信じるの?
では、どうやっれば、人は、ひとを信じることができるのだろうか?
こんな状況下で
私たちは、次世代まで、生きていけるのだろうか?と、
不安を助長させた作品でした。
それにしても、斉藤工さんは
なんで、いつもいつも狂っているの?
素晴らしい当たり役だよね。
あ!それから、
猫目のデジヘルちふゆの趣里さん、凄い!
手塚治虫さんの作品に出てきそうな、不思議な子!だよね。
竹中直人版「悪人」
物を作る闇
人間のきたない部分
あくまで個人的感想、考察です。
少しでも同じ感想を抱いた方がいると嬉しいです。
映画をそんなに見るほうではありませんが、非常におもしろく拝見しました。
人間のエゴや怠慢、傲慢、身勝手さ、そういったきたない部分が存分に描かれ、ハッピーエンドも特段ないのにも関わらず、満足感はある映画でした。
漫画家として没頭していた20代。
俗世との関わりがないがゆえに、主人公は他人との会話が下手である(空気が読めない、声が聞こえないときがある)ところや、流行がわからずそれを世間のせいにする(最新の漫画はおもしろくない)ところがあるようにみえた。
8年の連載が終わり、新作もすぐ着手できると踏んでいたが、中々できなかった。
その理由としては、アイデアは出るが、それは流行にマッチしていない(売れない)漫画になるとなんとなくわかっていたからだと思う。これまで周り見ず8年かけ抜けてきたが、ふと連載が終わり世間に触れたとき、彼自身は流行というものを分からないとしていたが、潜在的には理解していたように思う。今作は、この「潜在的」「つかめない不透明さ」がひとつキーワードであったと思う。
次第に主人公は焦りを感じ、遊びの延長だと言っていたSNSのコメントに焦燥感を覚えるシーンもあった。そんなとき”ちふゆ”との出会いがあった。ちふゆも主人公も、互いにどこかつかめないとこを感じるが、それがどこか心地よさもあり、次第に仲を深めていく。主人公にとってちふゆは「海」であったと感じた。今作、キーワードとして「水」もあったと思う。ちふゆに出会う前、何度か女子高生の映像もあったが、ひとつ印象的だったのは、ゲームセンターで女子高生を見たのち、傘の先端と床の接地面にできた(非常に小さいが)水たまりである。焦燥しきった彼はどこかやすらぎを求めていたが、女子高生は非常に小さな水たまりで支えるには値しなかった。しかし、ちふゆとのシーンでは度々「海」が出てきた。彼にとってちふゆは、海のように、世間を知らないばけものの自分をも包み込んでくれる存在だったのだろう。ちふゆ実家近くのラブホテルで事後、海に歩いていく主人公のシーンも印象的だった。
ただこの関係も長くは続かなかった。ちふゆが主人公の職を知ってしまったからである。漫画家=主人公の全てだった彼にとって、職を知られることは心地よかった不透明さが、全てさらけ出されてしまうのと同じである。
この後も特に明るいシーンはなかったが、ちふゆ(世間)との出会いは間違えなく彼を変えた。それは冨田が漫画をもってくるシーンで、素直にその内容をほめ、普通に会話ができているシーンで感じた。彼自身が中々掴めなかった世間を少しずつ理解しているように感じた(この後も冨田は相変わらずだったが笑)。またこれに加え、主人公は嫌いといいながらも売れてる漫画を度々読んでいたシーンがあった。つまり、流行を知ろうとする努力をしていたわけである。この結果最終的には、自分が書きたいものではないが、売れる漫画を書くことに成功する。
だから何かと言われればこれ以上のことは考察できなかったが、全体として主人公の世間を知っていく姿を人間みを含め描いていたこの作品はおもしろかったと思った。
とまあこんなことを書いてはいるが、作者に最後は「違うんだよ」と言われるかもしれない。
竹中監督らしさ。
有能な人
自分の作品で批判的にいっていることをそのまま自分がやってしまったり、自分に対してもプライドのための言い訳に終始したり、自分より下に見ている風俗嬢には「漫画家」と自慢気に名乗るのに好みのタイプには漫画家であることを隠したり、奥さんが自分を理解しているのが許せなかったり、とにかく主人公が嫌な奴ですがだいたいベクトルは自分に向いている。
恐らくわざとやっているんだろうが、作中で主人公が言っているように、ちょっと説明しすぎな感じはしました。
そういうのも含めて韻を踏んだような構造や、一貫して主人公のいけ好かない感じがとてもよい。
そもそも、作中ファミレスで編集者に「好きなもん書きたいならガロでやれ」みたいな感じで怒られてた漫画家のような奴がいわゆる「ホンモノ」であって、主人公みたいなシャレオツな恋愛ものを上から目線で描いてるような奴は「ニセモノ」であると・・・
落
落ちぶれた漫画家の斎藤工が
めっちゃ良い
声が小さく、孤独、風俗に救いを求めて、妻に八つ当たり、モラハラ
最悪です
そんな役柄を上手く演じてます
漫画の8年連載の打ち上げの居酒屋で、話しているのに、スマホいじりながら聞く周りの対応が酷すぎる
友達にも、一線おかれて、漫画読んでもらえてない。
アシスタントの冨田さん山下リオさんとのバトルも凄い🔥
妻役のMEGUMIさん
ちふゆ役の趣里さん
とても役に入り込んでいて良かった。
編集者役のハナレグミの永積崇さんが映画に出ていて、めっちゃ驚いた。話してる声も素敵。
ゆんぼ役の方、好きだなぁキャラ。
ドレスコーズ志磨くん
ダメなインタビューさん
レコード盤買い
映画見る前に聴いてから鑑賞
竹中監督、深澤に職業は宇宙人と言わせれば良かった。いやまずいか。、。
零落
意味は、落ちぶれるとのこと。
劇中、主人公がどんどん落ちぶれていくというより、最初からわかりやすく落ちぶれた状態から話が進み、周囲の人との相対的な関係(位置関係?)が変わっていくのに抗っているのか、受け入れているのか分からない状態が描かれる。
理解(共感)出来るような、出来ないような…。
そして、最後に再び脚光を浴びることになるのだが、精神的には零落していて、どっちが良いのだろうこと?
そういうことを考えさせられる内容だった…。
難しい?
猫好きなのはわかったよ。
趣里さん目当てで観に行きました。
とにかく可愛かった。こんなに可愛かったっけこの人。
主人公も劇中のセリフで言ってたけど、まじ「その髪型似合ってるね♡」
こんな風俗嬢が来たらそりゃ惚れてまうやろ!
風俗嬢の源氏名が「ちふゆ」。
「ちはる」でもなく「ちなつ」でもなく「ちあき」でもない。
こういう感じの風俗嬢、実際いる。いや、いたなぁ…。
待ち合わせの場所に全速力でバタバタ走ってくるその走り方がいかにも運動音痴の子の走り方でこれまた可愛い。演技なのか自なのか…
地元で日産レパードTR-Xに乗って現れるちふゆが最高に渋かった。
お気に入りの嬢が辞めた後もひょっとしたらまた同じような子がいるんじゃないかとつい店に足を運んでしまう気持ちもわかるなぁ…
心が弱っているとただ生欲を満たすためではなく、自分の内面をさらけ出せる開放感と安堵感を求めてまた行ってしまう。
主人公がやっと動き出して二作目が売れてもまだ風俗に通ってしまうのは、あの空間が心地よくてだからタイプでない子が来ても快く受け入れ楽しむことができるほど心が寛容になった証拠だ。もう落ちぶれてはいない。
2時間がとても長く感じられ一体どんな結末で終わるのか想像しながらのなかなか見応えのある内容ではあったが、猫顔少女の「あなたは化け物」…ってなんやねんそのオチ!
最初は音声消してこちらに期待させた割りにはちょっと肩透かしな決めセリフ。
「あなたはビョーキ」ぐらい言って欲しい。
結局正式に離婚した妻は猫顔ではないのことは確かだ。
声が低すぎて「聞こえないのよ」ってボソって言う妻のセリフが笑えた。
サイン会での斎藤工の泣く演技、男前だけにもっと嗚咽して鼻水出して泣いて欲しかった…
エンドロール最後のシーン、やっぱり今もちふゆのことが忘れられないのかな。
人の心の機敏が丁寧に描かれた映画
本作品は孤独、絶望、苛立ち、やるせなさ、そういった暗い感情を真摯に描いている。
制作陣と俳優陣が体当たりで本作を作り上げたのが感じられる。
堕ちに堕ちてく主人公は序盤からもう手遅れだったと思う。何もかもめちゃくちゃにして台無しにして、自分を支えようとしてくれてる人の心も受け取れず、自分勝手で、ああなんでそんなこと言っちゃうの、どうしてそんな風に傷付けるのと何度も思った。
漫画に向き合い続け、8年の大作を描き上げた、その彼の傷と孤独をもう彼自身も周りの誰も癒せない。
猫目の元カノが彼の正体を言い当てる。
誰しも人を傷付け、傷付けられ、自分だけひとりぼっちと感じた覚えがある。過去の愚かな行いをした自分自身を突きつけられたような気がした。
ぐるぐるとした気持ちを抱えていく生き方しかできない、さぞかし生きづらいだろう。私は彼より少し器用で良かった、なんていう浅ましい気持ちになる。
本当は甘えたくて、優しくされたくて、責任のない愛にだけ救いを求めた彼はすごく人間味があった。
スクリーンでは燃え尽きて鬱屈とした主人公から物語がスタートするし彼の作品は作中では数ページしか分からない。でも8年間漫画を続けられたこと、インタビューやサイン会、(新刊コーナーだとしても)店頭で人気漫画の隣にあることなどからして結構な人たちは彼の漫画を認めてる。きちんと才能があるという大前提があるのだけど、そこは観る人の想像に委ねられる。頑張り続けたんだろうしそれを見てくれてた人たちがいるのに、と思うと堕落ぶりが本当にやるせない。
感動的で盛り上がる作品が世に溢れる中で、この映画の万人に迎合せず良いものを作ろうというありようはまさに主人公が目指した漫画そのもののと重なる。
見たくない姿、でもそれは自分も同じだから。
斎藤工のクズ男演技を観る作品
タイトルどおり、人間心理のマイナス方向「あるある」から落ちぶれていく様を、いたたまれないくらい克明に描いている作品でした。
中年期に一仕事終えたらなかなか「次」に行けない、という主人公の悩みはわかるし共感できました。
「燃え尽き症候群」の一種であり、「大人の思春期」であり。
かつてなりたかった理想の自分とは乖離していることに気づいたら、深く傷ついて、そこから闇の中に入ってしまい、我儘と焦りとが招く、男性更年期+鬱発症ってとこか。
その姿は酷く、キング・オブ・クズですけれども。
「上手くいけば傲慢、落ちぶれたら他人のせいにする」態度で、常に周りの人達を傷つける生き方しか知らない主人公を、斎藤工が見事に演じてました。
なんかわかる
業
才能ある者の栄光と挫折。
その浮き沈みの周りにある人間模様。
上り坂には褒め、おだて、巻きつき、下り坂には、遠巻きに眺め、貶し、外したままになる視線。
スケールは違えど範疇にうようよ存在する世界。
やりすごしていけるか、いけないか。
やりすごせなかった主人公深澤は、自分を甘やかす空気求めて彷徨い、元カノと同じ猫目のちふゆに出会う。
やさぐれていた深澤に、ピンク色に滲む非現実的な世界での出会いと故郷への逃避的な時間がもたらす一時の安らぎ。
かつて同志のようだった妻は旬の同業者との仕事で多忙を極め、もはや深澤にとっては拠り所でもない。それどころか、深澤をますます追い詰める存在。妻にそんな気はなくてもだ。
自家中毒みたいな破綻に耐えられなくなる深澤が妻に吐いた言葉が耳の奥にのこる。
それは浅くもどこかで経験したことのある感覚だと感じたから。
そしてそんなふうに思いを口にできる深澤に対して、ある種の羨ましさに似た感情も湧く。
スクリーンに映し出される人間の業がじんわりと晒す作者の内面にふれながら煙たさに苦さを混ぜ、いつかの誰かの記憶を呼び覚まし自分にもどってくるような作品。
ひたすら、落ちて
通常スクリーンで鑑賞。
原作マンガは未読。
自宅の近所のシネコンでも上映されていましたが、仕事終わりにちょっとだけ遠出して敢えてミニシアターへ…
柔らかな印象の映像の中で剥き出しになっていく感情が圧巻でした。一途な愛やエゴ、束の間の安らぎとそれでも満たされぬ心。演技巧者ばかりのキャスト陣の熱演が目を引きました。
斎藤工の気怠さを感じさせる演技から色気がだだ洩れ。深澤は斎藤工そのものなのではないかとさえ思えるくらい、役をモノにしている感じがとにかく素晴らしかったです。
趣里の存在感も抜群で、深澤との会話はまるで一編の詩の様な奥深さ。設定年齢からしたら大人びた言葉遣いと、普段の年齢相応な振る舞いとのスイッチングが見事でした。
とにかく主人公・深澤薫が落ちていく。ひたすら落ち続けていく。最後に人間が変わるわけでもなく、むしろ悪くなっていく一方で、終始深澤に嫌悪感を抱きっぱなしでした。
しかし、深澤に共感出来るところも確かにあって。マンガ家の性と業が剥き出しになり、虚無の荒野を彷徨う姿は、誰しもが一度や二度は抱く絶望やもどかしさそのものかもな、と…
ミドルエイジの苦悩と彷徨は、まだその年齢に達していない私には完全に理解出来るものではないかもしれないけれど、何かをやり遂げた後の喪失感は身に覚えがあります。
猫の目の元カノが深澤に突き付けた言葉は彼の核心を捉え、彼にトラウマを植え付けると共にマンガを創作する際の行動原理にもなっていると云うのが複雑で興味深かったです。
描けば描くほど他人も自分も傷つける。誰も自分のことを理解してくれない。自分を励ましてくれていたSNSのフォロワーの少女も、「バカでも分かる」ように描いたマンガに感動していたことに落胆し、流れ落ちる涙。袋小路にいる深澤が救われて欲しいと思わずにいられませんでした。
[余談]
趣里の出演している作品を観るのは初めてでしたが、ふとした表情や声音が伊藤蘭そっくりで驚きました。もしかしたら本人はあまり言われたくない事柄かもしれないけれど…
※修正(2024/03/13)
体温が高すぎる
予告を見た時点で察してはいたのですが、台詞の熱が強く、やたらと喚く。
原作では怒りすら失う手前の虚無感を感じ、それ故に感情が爆発するシーンが映えていたのに。
斎藤工は好きな役者だが、配役の段階でミスキャストだと思う。
顔も、声も、身体も、強すぎるんですよね。
(ヒゲすら剃らず、そのまま大学生やらせたのも謎)
MEGUMIに関しては、見た目はまだしもあのピンク髪はどういう意図だったのか。
趣里のビジュアルは完璧。
でも、ちふゆのミステリアスさは今一歩出し切れておらず、それはメイクや演出の部分でもある。
もし意図的であれば、玉城ティナをもっと印象的に撮ってほしかった。
冨田のウザさとアカリの妄信が一番よく描けていたと思う。
もちろんすべて原作通りである必要はないけど、全部が原作の“手前”で止まっている。
本作でじっくり描くべきは、官能シーンではなく心情の部分ではないだろうか。
結婚式を飲み屋に、パーティを編集部に変えたあたりも、本筋への影響はないが予算を抑える意図を感じてしまった。
主題歌も湿度が高すぎて、個人的には合ってないように感じる。
インタビューのくだりと、サイン会に元アシが並んでいたところは良かった。
映画の中で主人公の漫画(作品)が明確に示されないのがこの映画の致命的欠点なのでは?
(完全ネタバレですので、必ず鑑賞後にお読み下さい)
※原作は未読です
期待して見たのですが、個人的にはダメな作品になってしまいました。
その要因は以下3点だったと思われます。
ダメな要因の1点目は、主人公の深澤薫(斎藤工さん)がどのような表現の漫画を理想として描いていたのかがほとんど示されない点だと思われました。
主人公の深澤薫は、かつては人気があり売れていましたが、最近はその人気に限りが出てきた漫画家とこの映画で描かれています。
そして深澤薫は、流行を追ったり売れることを求める(売れている)漫画を毛嫌いしています。
しかし、では深澤薫が表現したい作品(漫画)はどのようなものだったのか?
それが示されないまま映画は進行するので、深澤薫の主張(≒映画)の中身が空洞のままこの映画はラストまで進んでしまったと思われました。
ダメな要因の2点目は、では主人公の深澤薫が否定していた、流行や売れている(だけ?)の作品は具体的にどのようなものなのか、それもほぼ示されていないところです。
流行や売れている(だけ?)の作品は、深澤薫の長年のアシスタントだった冨田奈央(山下リオさん)が描いた漫画によって、深澤薫がその作品を読む場面で少しだけ示されます。
しかし、その編集者が求めるプロットに従った(流行や売れることを求めた)冨田奈央の漫画も、深澤薫は読んだ時に褒めていますし、その漫画を通して流行や売れることを求めた作品とは何なのかまでは、明確には観客には伝わりません。
つまり、流行や売れることを求めた作品とは何なのかが明確にされないので、逆にここから対比的に主人公の深澤薫が求める理想の作品がどのような表現なのかも分からないのです。
ダメな要因の3点目は、主人公の深澤薫の周りの仕事関係での人物を、深澤薫のおかしさを際立させる為に、逆に極端に描いていたところです。
例えば、深澤薫の8年の連載終了後の打ち上げで携帯電話をいじり続ける編集者たち。
深澤薫の作品をまともに読まないままで取材しに来ているライター。
深澤薫がきちんとアシスタントの休職中のことも配慮しているのに、エキセントリックに「仕事を舐めないで下さい!」と深澤薫に激高するアシスタントの冨田奈央。
一般常識的にはあり得ない人物のオンパレードです。
もちろんどれもが実際に存在した人物だったのかもしれませんが、それぞれの人物はその極端な一面だけが描かれ、なぜそのような(異様な)行動を彼らがしているのかの裏側を描こうとしていないので、意味不明の人物たちのままで表現されていると私には思われました。
このような、主人公を際立たせるために、周りのわき役を道具的に扱う他の映画や作品もなくはありません。
しかしこのような道具的な人物描写は、薄っぺらい人間理解から出てしまっていて、”駄作”といわれる作品にしか許されない人物描写だと私には思われています。
(演者の役者の皆さんは脚本演出に従ってそれぞれ演じていると思われるので、全く罪はないとは他作品含めて思われていますが‥)
一方で、この映画の原作である漫画「零落」は、おそらくはその天才的な作品を数多く描いてきた漫画家・浅野いにおさんの他作品(あるいは「零落」で描かれている漫画自体)が前提になっている作品だと思われます。
つまり、原作漫画「零落」の読者は、浅野いにおさんの画力やコマ割りの秀逸さを甘受しながら、おそらくは、主人公の深澤薫の流行や売れている漫画に対する否定の主張に説得力を感じて、原作の方は読んでいたのではと推察します。
しかしこの映画『零落』は、肝心の深澤薫の作品中身がほぼ示されていないので、深澤薫の主張は全て上滑りし、仕事での周りの登場人物も全て誇張された道具にしか映らないのだと思われました。
そもそも、深澤薫が理想とするような作品にも現在性や表現の最先端(つまり流行や売れる要素)が含まれていると思われますし、一見は流行や売れることだけを狙っている作品でも普遍的な深澤薫が理想とするような内容も含まれているはずです。
つまり、理想の作品と、流行・売れる作品とを、明確に分けて捉えている認識自体がそもそも間違っていると私には思われるのです。
そんなに何事も単純に分けられると考えられるのは、浅はかな人間理解の人にしか許されない態度だと私には思われています。
この映画は、ラストに映画の冒頭でも出て来た猫顔の少女(玉城ティナさん)が、主人公の深澤薫は「○○だ」と明かして終わります。
しかし私には、深澤薫の主張に説得力を感じさせる場面のないこの映画を見て、(猫顔の少女が言っていた、深澤薫は「○○だ」は、単なる作者・監督の自惚れであり)主人公の深澤薫は、中身が空洞の【未成熟の人物だ】と思わされました。
全ての登場人物に多面性を持たせて愛があった傑作『無能の人』を撮った竹中直人 監督にしては、個人的には大変残念な中身の映画になってしまったと、僭越思われました。
全60件中、21~40件目を表示