アダプション ある母と娘の記録のレビュー・感想・評価
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タイトルなし(ネタバレ)
『Örökbefogadás』とは
『永遠に受け入れる事』で
具体的に言えば
『養子縁組』だそうだ。
それは兎も角、ハンガリーという国はマジャール人と言う非スラブ、非ゲルマンの国だ。つまり、奇跡的にこの国は単一民族国家なのである。
どうしてか?それは兎も角、超保守的でアイデンティティは分厚い物を持っていると思って間違いない。難民問題に於いてもハンガリーが難民を入国させない壁になった事は最近の問題として理解されていると思う。
従って、この映画上映後50年が経っているが、フェミニズムの先駆けになった名作な訳が無い。寧ろ、なんで今更日本で上映するのか?それに疑問が湧く。多分、彼女はご存命で我が母と同い年。
日本人が好きな『功労賞』ってやつだと思う。
1970年代の前中期は『フリーセックス』とか『ヒッピー』とか退廃的な文化が世界を駆け巡った。その波はドナウ川をも越えたようである。
追伸
カタとアンナがドナウ川を背に食事をする場面。異様に感じた。向かい合う事なく、2人ともドナウ川を背にして食事や会話をしようとしている。
小津安二郎監督ならどんな撮り方をするのか考えるとこの演出家の力量が分かった。
経費節減と美しい景色でストーリーを食ってしまっている。
金の熊どころかテディベア🧸である。
前述の様に我が母と同い年。故にアンナは僕の世代。
日本人の無教養な我が母であっても、男に従属的で退廃的な女性では無かった。
日本人はこう言った女性が女性解放の『魁』に見てしまうようだ。
この映画の監督は我が国の元号で言えば『昭和5年』生まれですからね。
しかも、ロシア人でもドイツ人でもない。
いい映画だけど、静かで暗い(笑)
そして人生はつづく
単に物語の幸福な終着地点として「女同士の連帯」を設定しているような映画は信用ならない。連帯はすべてを都合よく解決するデウス・エクス・マキナではない。はじめに彼女たちを潰そうとする外圧があり、それに対抗する手立てとして連帯が生じる。そういう「急場凌ぎ」的な側面が少なからずあると思う。だから当然、寄り添い合った二人の関係性が無辜無謬のまま平坦に続いていくとも限らない。いや、別に続いたっていいのだけど(続くほうが望ましいのだから)、とにかく「連帯しましたハイ終わり」みたいな無責任なのはダメだ。人間はそんなに単純じゃない。バカでもないし利口でもない。常に揺れ動いている。
他方、本作は連帯「以降」を描いている。不倫相手の子供を望む寡婦カタと、無愛想な親元を離れ寄宿学校で暮らす少女アンナ。ふとしたことから出会った二人は、互いの孤独に触れるうちに連帯を育んでいく。アンナは寄宿学校を抜け出してたびたびカタの家にやってくる。カタはアンナにうちの娘にならないかと打診する。
しかしそううまくはいかない。アンナは親縁の呪縛を逃れるべくボーイフレンドとの早急な結婚を希望する。カタの自宅を早速ヤリ部屋に使いだすという強引ぶり。一方カタはといえば不倫相手との関係が次第に悪化し、その反動かますます子供を持ちたい欲求を募らせていく。
寄宿学校でのダンスパーティーから終幕までの一連のシーンは切ないくらいもどかしい。念願の結婚を果たしたアンナはボーイフレンドとしばしの舞踊に耽るが、やがて彼をはねつけ、壁にもたれかかったまま孤独に沈む。養子を貰うための手続きを済ませたカタは、病院で赤子を受け取る。黒髪で天然パーマという赤子の出で立ちはどことなくアンナを想起させる。カタとアンナは終ぞスクリーン上で再会を果たすことなく、赤子を抱えたカタが乗り合いバスを呼び止めるところで映画は裁断されたように唐突な幕切れを迎える。
そこには明白な希望もなければ絶望もない。カタとアンナは再び出会うかもしれないし、出会わないのかもしれない。それはあまり大きな問題じゃない。重要なのは、彼女たちの人生がなおも続いていくということ、彼女たちが今も生成変化の中にあるということ。人生は長いという素朴だが確かな事実。
映像的なことに関して言えば、とにかく顔、顔、顔で溢れた映画だった。接写というよりは中距離からカメラのズームを最大にした状態で撮られており、ゆえにカメラが対象を捉えるまでに少々時間がかかるし、ちょっとでも手元を動かせば画角がズレてしまう。安易な言い方にはなるが、まるで人間関係のようだ。
顔の表情が良い
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