「マッドマックス2023」ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
マッドマックス2023
悪名高きハリウッド版スーパーマリオも、なんなら クッパの声をかの 和田アキ子が演じたという
(当時タイアップCMだった、永谷園のお茶漬けだか、ふりかけ飯だかでパワーアップしたような記憶すらある)
企画ものの代名詞のようなアニメ版スーパーマリオも拝見しているドンピシャ世代です。
結局、映画としては真新しいものは何ひとつないのですが、
ようやく、これが「皆が普通に見たかった、スーパーマリオの映画」でしたね。
物語の構成としては極めてオーソドックス、よくある物語で
コミュニティの外から現れる異能が救世主となる英雄譚、
そして完全に「行て帰りし物語」ですね。
クッパ大王が行っていることは紛れもなく「暴力、武力による支配、侵略」であり、
「極めてパーソナルな欲望と価値観に基づいた狭い平和の提供」(=独裁)、ううん、2年以前ならば単なる架空の悪の親玉なのですが
ここのところの世界情勢を照らし合わせて見てしまうと、途端に、恐ろしくなってしまいますね。
ペンギンの王国など、見ていられません。彼らがなにをしたと言うのか。(何もしていないのに攻められる弱さは国家として罪ですね)
結局、この世で繰り返されていることは太古から変わらぬ、富や資源やエネルギーの奪い合いでしかないのですね。
狂信的な配下がマリオカート軍勢で押し寄せる様は、完全にクッパはイモータンジョーであり、
映画としての構成は、「マッドマックス怒りのデスロード」そのものですね。
あちらは逃げ場のない現実としてのヒリついた世界ですが、こちらはゲーム世界・・というよりも、
マリオにとっては、異世界転生ものに近い構成になっています。
現実世界に戻っても成功した英雄譚というのは、よくある、ありきたりな物語ではありますが
観客もまた、現実世界とゲーム世界を行き来する存在ですから、とても希望に満ちたものですね。
この映画のいちばんの功績は、「スーパーマリオ」というキャラクターに、身体性を与えたことですね。
そう、これまでゲーム上で行われていた彼らの冒険やアクションは、まさに
ああいった具体的な冒険やアクションの数々だったのですね。
それらが肉体性を持ち、痛みを伴い、乗り越えてゆく成長性も含め、
今まで見てきた様々なアクションやキャラクターやゲーム性に、観客各々が思い当たる、
他の映画にない、とても新鮮な映像体験ができます。なぜだか嬉しいんですよね。不思議。
マリオブラザーズ、マリオカート、ドンキーコング、スマッシュブラザーズ、、といった
過去の財産と経験が、この映画にとって、素晴らしい説得力を持たせています。
映像も素晴らしかった(カットなどは少し甘いシーンが散見されましたが)、劇伴音楽は
特にゲームBGMのアレンジ、そして既存曲をこのように活用する演出センスも含め、とても良かったと思いますね。
また、
架空のキャラクターに、身体性を与えるということは、つまり、精神性を与えるということですので、
これでようやく、皆の中にそれぞれ存在した概念やイメージでしかなかった
マリオやキャラクターたちに、人格が与えられる事になります。
(これは高畑監督が「かぐや姫の物語」で行った儀式とまったく同じです、今後我々は
同じ幻想を共有する世界に生きる事ができるようになったのですね、すばらしい!)
ですので「自分が思っていた声やキャラクターと違う・・」と内心抱いたとしても、
今後はこの映画がスタンダードになってゆく事になります。
(もちろん、各々がいかなる感想を抱くことは自由です)
今作ではルイージが囚われ、ピーチ姫が共に戦う仲間となります。
これは現代性をとても良く表していて、良い改案ですね。
かつて、80年代にスーパーマリオというゲームが世に出た当時においては、
姫という存在は、奪われるだけの値打ちがあり(主に美しさ、貴種性などによる)、
校庭でマリオごっこをする際にも、女性の同級生はこぞって、
連れ去られ、助けを求めるピーチ姫に憧れ、その役割をやりたがる時代が確かにあったのですね。
ところが現代において、それは女性に限定される事はなくなりました。
男性と女性の対等性が重んじられる現代ですが、別に、戦う女性だけが選択肢ではありませんね。
今回はルイージがその役割を分担しましたが、男性だろうが女性だろうが、
助けられる(かつての)お姫様のような役割を演じても構わないのです。
立ち向かい戦う役割ですら、誰がつとめても良いのです。
個人により、その選択ができる時代になったということは とても喜ばしい事ですね。
その証拠に、ピーチ姫も今作では「どこかの世界から迷い込んだ異能者」であり
いわゆるディズニー作品などに見られる「プリンセス」という役割を与えられた 何者かにすぎません。
(本来、王国を統治する立場なら、クイーンでないとおかしいのに、王も女王も存在せず、ただただ
「姫」という役割だけが存在する、おかしな世界なのですね)
その役割を受け容れる事も良いでしょうし、より自分にとっての自分らしい道を選んでも良いのです。
(共に戦うピノキオが、その姿勢をとても良く示してくれていますね)
実際、ピーチ姫は、姫である自分を受け容れながらも、戦う姿勢を示しますよね。
これはプリンセスという存在を否定することではなく、プリンセスでありながら、かつ、自分らしさを見失わないという
役割と人格の良い形での共存のあり方を示してくれているように思います。
もはや脇役など存在しないのです。
人生はロールプレイングなのですね。
こうなるともはや、ゲームがリアルなのか、リアルがゲームなのか、その境目は定かではない。
そしてやはり、悪役たるクッパ大王にも、侵略するだけの理由と動機が与えられたのは、素晴らしい事ですね。
これにより、彼の人格は明確に表現され、そのナイーブな内面性と凶暴な外性が混ざり合った、ひとつの人格として描かれています。ただの悪役ではありません。
彼も悪役を受け容れながら、自分らしさを見失う事をしません。とても魅力的ですよね。
最後に。
個人的体験として、私は、有野課長の助言どおり、コントローラーを持って劇場に足を運びました。
マリオやカートの動きに合わせ、身体が指が「勝手に」反応し、コントローラーを操作してしまう反応体験は
ほかに得難い体験ができたと思っています。(もはや映画という概念すら逸脱しますよね)
とても面白かったですよ。オススメです。