「「価値観の崩壊」の末に放り出された私たちの「今」を切り取って見せた」石門 ふくすけさんの映画レビュー(感想・評価)
「価値観の崩壊」の末に放り出された私たちの「今」を切り取って見せた
望まぬ妊娠に対して、リンは堕胎も産み育てることも決心できず、母の借金のかたに子供を提供することを思いつく。
物語の中で、卵子提供ビジネス、代理出産、人身売買、出生届の偽装、と新生児をめぐる犯罪行為が矢継ぎ早に登場する。
重いテーマであることは事前にわかっていたのだが、観客である私たちが想像し、期待していただろう女性の叫びや涙はほぼ描写されない。
リンは貧困のどん底というわけではない。
リンを妊娠させた男は彼女の学費を援助し、妊娠がわかった後も姿をくらますでなく、誠意とまではいかなくても、最低限のかかわりを持ってリンと接触を続ける。
その男にも、もちろん妊娠の責任があるのだから、リンも妊娠を打ち明けてもよさそうなのに当初はしない。
中絶を強要されるのがいやだったからという説明もできるが、その割に子供への愛着は薄い。
最後に子供を引き渡す相手(リンの母の投薬によって死産した女性)が登場するが、リンの話しかけに全く反応せず、スマホばかりを見て、子供のことにまるで関心を示さない。
彼女の投げつける言葉は「世間知らずね」だ。
彼女は、この新生児を転売するのではなかろうか?
コロナ禍で薬局を経営していたリンの家族は特需を得て金が入る。
あれなら赤ん坊を渡さず保証金を払えそうにも思うがそうはならない。
最後の泣く赤ん坊を置いて車を離れるリンの感情を推し量れるような描写もない。
子供は値踏みされる商品に過ぎない。
欠陥があれば受け取らないのだ。
全体を覆うリンの「決められなさ」の未消化な感じに納得のいかない人は、この映画を評価できないだろう。
ここに「女性の虐げられた人権を感ぜよ」という表層的なフェミニズムを持ってこられても当惑するばかりだ。
最後に男に金を返そうとするリンと受け取らない男。
「それならもらっておく」とは互いにならない、その間が異常に長い。
あのシーンを女性の矜持と見るには無理がある。
お互いが「受け取れない」のだ。受け取れないのは金ではない。
責任と運命のように見える。
中国では何かが麻痺している。
「活力クリーム」を含めて怪しげな違法ビジネスに登場する人物はほぼ女性だ。
新生児をめぐる犯罪でリンに直接接触し、コーディネートするのは女性ばかりだ。
女性を抑圧し、搾取し、傷つけているひどい男たち、という単純な構図になっていないところに、この映画の肝があるように感じる。
この重いテーマのわりに抑揚の少ない表現についていけない人は多いだろう。
「虐げられた女性」では無く「価値観の崩壊」の末に放り出された私たちの「今」を切り取って見せた映画だ。
どうあるべきかに対して監督はおそらく何も言っていない。
評論でなく作品なのだ。