「惜しい…。もう一つ、一歩の踏み込みがほしかった…。」SHE SAID シー・セッド その名を暴け yukispicaさんの映画レビュー(感想・評価)
惜しい…。もう一つ、一歩の踏み込みがほしかった…。
今年19本目(合計672本目/今月(2023年1月度)19本目)。
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・ いわゆる「フェミニスト思想」に関しては、一般的な理解を前提とするものとします。
・ ここは映画の評価をするサイトであり、「映画の趣旨上」個人の思想がどうしてもでますが、個人攻撃はやめましょう(単なる批判と個人攻撃は違います)
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…と「バリア」をはったうえで。
さて、こちらの映画です。すでに多くの方が書かれていますし、ストーリー自体は事実なので(ある程度は変えてあるとしても)きわめて淡々とストーリーが進みます。まぁ当時のアメリカのすごいこと…。
ただ、多くの方が声をあげたことでひとつ、男女同権思想が前を向いて歩いていけば、それはそれでよいことだろう、と考えています。
特に減点なし…にしようかなと思ったのですが、以下気になる点がありますので、紹介しつつ採点しましょう。
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(減点0.3/いわゆる「マンスプレイニング」について触れていない)
・ マンスプレイニングとは、man(男性)とexplain(説明する)の造語で、「男性が女性に対し「「男女の性差や社会格差、あるいは、女性は●●を知らないだろう」ということを前提に」あれこれ説明をする行為」(性差を利用した自信過剰のあらわれ)をいいます。一種の(間接的)男女差別にあたります。
※ もちろん、男女は(生物学的には、ほぼ半々で)生まれてくることや、また、社会であれ学校生活であれ、男性が女性に、あるいは女性が男性に対して説明や手ほどきをすることは「普通に」ありますので、ここのポイントは、「どちらかに性差別がある現状で、その性差別があることを前提として」「自慢げに話す」という2つが成り立たないと成立はしません。
映画の中でも、決して積極的悪害があるのではないと思うし、映画の趣旨として、男女同権思想に焦点を当てたかったのだろうと思いますが、映画をよくよく見ると、この「マンスプレイニング」を行っている人物は明確に数名います(すべて男性)。男女同権思想(フェミニズム思想)を語るにあたって必ず問題になるのがこの論点で、「女性は(歴史的、あるいは、経験的に)無知だから、(歴史的、あるいは経験的、または、自分がそうだから)男性である私が教えなきゃいけない」という考え方を持っている方がいて、その方が行うそうした女性への接し方は、ひどいものはいわゆるセクハラの類になりますが(これは状況いかんでは警察がきます)、軽いものだと「マンスプレイニングの扱い」で、さすがに警察は来てはくれません。ただ、問題であることは常に残ります。
男性にも女性にも素晴らしい知識を持っている人もいるし、また、逆に、知識が足りない方、求めている方もいます。また、「知識の伝授」は、各個人が教養を高めることに役にたちますし、それがまた、表現の自由や言論の自由など、憲法が保障するこれらが発揮できるもとになります。
しかしその方法が、もし、仮に「女性のほうが教養が低い」という何らかのデータがあると「しても」、だからといって、それをもとに「マンスプレイニング」がもとになった知識や技能などというのは、怖くて使えません。男性はよかれと思って行ったのでしょうが、そうでははないからです。
このような行為は、「間接的に」男女それぞれの「思想良心の自由、表現の自由」を脅かす行為です。
映画内でもこれを想定できるシーンがいくつかあり(なお、この当時には、「マンスプレイニング」という語はすでに辞書に載っているほど知られていた)、この点に対する配慮は欲しかったです。