「仁一と翔吾の「想い」」春に散る talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
仁一と翔吾の「想い」
<映画のことば>
「そういうのなぁ「特攻精神」って言うんだよ。そんな考えは捨てちまえ。」
「仁さんだって、隠して、手術しようとしないで、メチャクチャじゃねえかよ。」
「年寄りは、メチャクチャなんだよ。」
上掲の映画のことばのように言って、仁一は翔吾の世界への挑戦を引き留めるのですけれど。
しかし、翔吾が最後に挑戦を決断したのは、けっきょくは「幸運の女神に後ろ髪はない」ということなのでしょう。
その決断が正しかったのか、間違いだったのか―。
ただ、間違いがないのは、翔吾にとっては失明の危険を冒してでも世界に挑戦する気概があり、彼はその気概を大切にしたという「事実」が残るだけなのだと思います。
だから、その「事実」だけを「事実」として受け止めるべきなのであって、そういう決断の当否は、第三者が論ずるべき筋合いのものでもなく、決断をした当の本人にも、本当は分からないのかも知れません。
ただ重く受け止めるべきは、トレーナーを引き受けた仁一と、世界に挑んだ翔吾の「想い」ということなのだと思います。
そう考えると、ズシリと重いものが胸に迫る一本だったと思います。
そして、その中にほのかに見える仁一と翔吾との師弟愛が素敵な一本でもありました。
そして、往年のボクサーとしての仁一にも、思い残すことは、これで何もなかったことでしょう。
「願わくは/花の下にて/春死なん/その如月の/望月の頃」と詠んだ西行のような、明鏡止水の心境だったのだろうとも思います。
そんなこんなの意味をこめて、佳作としての評価が適切な一本であったとも思います。
(追記)
それにしても、歳をとりましたねぇ。佐藤浩市も。
見事な白髪になっていましたけれども。
今年(2024年)の誕生日が来て64歳ということですから、まだこれが「地毛」というわけでもなかったのだろうとは思いますけれども。
その見事な白髪が、本作では印象に残りました。
(追記)
ボクシングは、ある意味、不思議なスポーツでもあると思います。
グラブやマウスピースといった(最小限の?)保護具を装用した上でとはいえ、半裸の男たちが、ただただ殴り合うということだけで、どうしてこんなにも観客の熱狂を誘うことができるのでしょうか。
(その点、ジョー的な要素が強いプロレスリングとは、好一対かとも思います。)
ただ只菅(ひたすら)に自分の足で走るだけというマラソンという競技が、あんなにも観客の感動を呼び起こすのと、同じなのかも知れないと、評論子は思います。
(追記)
試合の時に、レフリーが両方の選手にかける掛け声も、評論子には、意外でした。
「ファイト」(頑張れ)ではなく、「ボックス」(殴り合え)なんですね。
それは、もともとが殴り合う(ボクシング)というスポーツなのだから、ということになりそうです。
妙なところに感心してしまいました。
kazzさん、フォロー&コメントありがとうございます。
ボクシングの試合の報酬としてもらえるお金は「ボックスマネー」ではなく「ファイトマネー」ですから、「ボックス」するためには、やっぱり「ファイト」が必要なのだろうと考えたりしていました(笑)。
これからもよろしくお願いします。
トミーさん、いつもコメントありがとうございます。プロスポーツ選手は現役時代は華やかですが、故障や年齢的な問題でリタイアした後が大変のようですね(大相撲の年寄制度はその支援制度とも聞きます)。現役時代に思い切り活躍してもらうためには、スポーツ選手専用の年金制度が必要だったりするのかも知れません。
「ファイト」ではなくて「ボックス」…これはご考察のとおりだと思います。
高校野球の甲子園の選手宣誓で「正々堂々戦います」が「正々堂々試合します」に変わったのはいつからでしょうか。そういう時代においてプロボクシングは特殊で貴重な世界なのだと思います。
共感ありがとうございます。
チャンピオンクラスでも体のどこかを痛めてるし、老いてもファイトしなければ食えない境遇も沢山居る。本当にボクシングは原始を残した競技と思いました。メイウェザーだって実は金に困ってるんじゃないのか、イノウエはこれからどうなる?