「俳優陣はほぼ満点。問題は脚本と演出。」春に散る karstさんの映画レビュー(感想・評価)
俳優陣はほぼ満点。問題は脚本と演出。
まず俳優陣は素晴らしかった。特に、ボクサー役の横浜流星と窪田正孝の体の作り込みは見事の一言。ダブル主演の佐藤浩市や、彼の古い友人役の片岡鶴太郎や哀川翔も良かった。
問題は脚本と演出。疑問を感じる設定変更やシーンが多かった。
自分は小説は未読だが、連載の方は1話から最終話まで読んだ。なので、原作を元にしたエピソードなら、大体意味は分かるのだが、初見の人にはどうだっただろうか?上下2巻の小説を2時間ちょっとにまとめるのだから、かなりのエピソードをカットしなければならないのは分かる。特にクライマックスの試合のシーンにはある程度の尺を取らざるを得ないのだからなおさらである。しかし、個別のエピソードをただ時系列に並べた感じが強く、唐突な展開が多いという感じがする。原作からのキャラクターの設定変更にも疑問がある。
例えば佳奈子を広岡の姪に設定したのはいいとしても、なぜ彼女が東京で広岡と同居する事になったのか。佳奈子は父親を看取って一人になったが、きちんとした職業を持つ、自立した女性である。郷里で一人で暮らす選択肢もあったはずだが、父親の献体の同意を得るために訪ねるまで、生まれてから一度も会ったことのない叔父と同居すると決心した理由が説明されていないので、唐突な印象しか与えない。翔吾と佳奈子の関係にしても同様で、何故二人が惹かれ合うようになったが分からない。原作では重要なキーパーソンの一人だった佳奈子だが、この映画ではそこまでの役割を与えられていない。思い切って切り捨てていてもこの映画は成立したのではないかとさえ思える(これは決して橋本環奈の演技がどうのこうのという話ではない)。ほかにも、中西がアメリカでチャンピオンを倒した後のインタビューのシーンで、原作通りに通訳が中西の言葉を不正確に訳していた。しかし、これはこの映画で必要なシーンだっただろうか?原作の場合、中西はこの誤訳が原因でラフなボクシングスタイルを取るようになり、性格にも影響を受ける。それが、小説のラストにも大きく影響してくる。しかし、この映画ではそのような描写(中西のアメリカでの苦労)は一切描かれていないし、説明もない。ならば、この誤訳のシーンは不要だったのではないか。そして、主役である翔吾の設定変更。原作通りに翔吾の父と広岡の因縁を入れると尺に収まらなかったかもしれないが、母子家庭にする必要はあったのだろうか。もし、母を守ろうとした翔吾の暴発を描くために母子家庭という設定にしたのであれば、それは完全に失敗だったと思う。なぜなら、実際にあのようなことがあったら、今のご時世、確実にチャンピオン戦は流れているだろうし、実現するにしても相当の苦労があったはずである。それを広岡の土下座一つで解決しているのは、あまりにも現実味がない。この映画の中で最も現実味のないエピソードがこのくだりだと思う。脚本についてはまだまだ言いたいことがあるが、ここまでにする。
次に演出。冒頭で広岡がビールを飲むシーン。やはり、広岡が帰国したシーンを一つ挟むべきではなかったか。そうすれば、あのシーンがもっと生きてくるように思う。映画の中盤を過ぎてから説明しても、印象が薄い。次に、広岡が翔吾に放ったカウンターだが、あれがどういうパンチなのかきちんと説明するシーンを入れるべきだったと思う。翔吾は再デビューしてから何度かカウンターを使っているので指導は受けたのだろうと想像できるが、やはりカウンターを教えるシーンは入れるべきだったのではないだろうか。最も残念なのが、チャンピオン戦のラスト付近の演出。スローでお互いの顔にパンチを入れるシーンが延々と続く。人気の役者同士だから顔に傷がつくことを嫌ったのだろうが、それでも1発か2発、本気で顔を殴るシーンを入れることは出来なかったのか。もちろん、安全面には十分な配慮と準備をして。少なくとも、もう少し工夫の余地はなかったのか。それまで迫力あるシーンが続いていたのに、あれで一気に嘘くさくなってしまったのが非常に残念。
そしてラストシーン。やはり、広岡の死のシーンで終わるべきではなかったかと思う。翔吾と佳奈子については、あのシーンを入れなくても二人で共に生きていくだろうということは容易に想像できるのだから、やはり広岡の死か、心臓発作を起こした広岡が周りの人の通報で病院に運び込まれるラストで良かったのではないか。
(敬称略)
共感する箇所も多々あります。
しかし
もしや映画の間口の広さを広げての演出なのではないでしょうか。
近年で一番の受け入れやすいボクシング邦画だったと感じました。
あの監督にあのキャストやスタッフは制作側も中々ドラマがありそうですね