劇場公開日 2022年12月2日

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「伝説の特殊効果マンによる西洋版『JUNK HEAD』。地獄めぐりのグラン・ギニョルはビッグバンへ!」マッドゴッド じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5伝説の特殊効果マンによる西洋版『JUNK HEAD』。地獄めぐりのグラン・ギニョルはビッグバンへ!

2022年12月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

去年、堀貴秀の『JUNK HEAD』が公開されて、こりゃ凄いのが来たと大喜びしていたら、まさかあのフィル・ティペット(『スター・ウォーズ』や『ロボコップ』の伝説的特殊効果マン)まで、ストップモーションで個人製作映画作ってたとは!
しかも予告編見たら、なんだかやけに似た感じの世界観でびっくり!!
これは、さっそく自分の眼で確かめなければ!

実際に観た『マッドゴッド』は……いやもう、驚くほどに『JUNK HEAD』とよく似てました(笑)。
技法や経緯、長期にわたる製作期間といった、「前提となる物語」自体がよく似ているのみならず、潜行鐘に乗っての地底世界潜入、弱肉強食の未来世界、クリーチャー造形の方向性、繰り返される主人公のバッドエンドなどなど、中身まで細部にわたって本当によく似ている……。
どこかで製作ノートでも見せ合ったのかと思ってしまうくらいだが、二人はパンフの巻末で3ページにもわたって対談しているのに、肝心の具体的な影響関係に関しては、なんら手がかりを与えてくれない(なので、いろいろ邪推するのもやめておく)。

ただ、本質的な部分で両作はずいぶん異なる、ともいえる。

『JUNK HEAD』は、基本的に「ストップモーションで動かすこと」に最大の熱意を傾けた作品である。すなわち、ストップモーションで主人公にアクションとスラップスティックをやらせることに何より傾注した映画であり、主人公ロボはとにかく、走る、飛ぶ、落ちる。
対して、『マッドゴッド』は必ずしも「動かすこと」自体に拘泥している気配はない。
ティペットの最大の関心は、自らの「悪夢」の具現化、「ヴィジョン」の形象化である。
だから、「動かすこと」以上に「絵柄としての幻視性」にすべてが捧げられている。

また『JUNK HEAD』の場合、意外にわかりやすいスチームパンクSF風の設定と、寓話のような単純化されたストーリーラインを持っていて、キャラクターには親近感を抱けたし、基本は明るい画面で撮って客に「見やすい」つくりを心がけていた(その意味では、作品の祖型として、チェコやアードマンの「子供向け人形アニメ」の伝統をしっかり引き継いでいるといえる)。
一方、『マッドゴッド』の場合、筋はきわめて概念的かつ抽象的だ。
「悪夢の再現」があくまでメインの作品に、後付けでストーリーというか歴史の輪廻という枠組みが与えられているので、ふつうに観ていてもわかりにくいことこのうえない。
画面も常時暗くて、何が起こっているのか今一つ捉えきれない。そのぶん、「悪夢」としての不可触性と根源的な恐怖感はきわめて生々しく表出されている。

どちらかというと、『マッドゴッド』はアートフィルムの類に属する。
パトリック・ボカノウスキーの『天使』とか、ブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』とかと同じで、描かれている全てが理解できるような作品ではない。
総じて、ティペットの宗教観、世界観、宇宙観、生命観、輪廻観が、「悪夢の再現」というフロイト的/シュルレアリスム的作業のなかから浮かび上がるような作りになっているが、しょうじき僕も、後半に関しては何をやっているのか些か掴みかねる部分も多かった。

冒頭は「バベルの塔」の描写から始まる。
塔の螺旋状の図像は、ピーテル・ブリューゲルの名高い歴史画からそのまま引用されている。
天を目指して人が建設しつつあったバベルの塔。そこに神の怒りの雷が落ちる。
思いあがった人間に神が下した罰。
暗黒の雲が塔を押しつぶすように垂れこめてきて、混乱と混沌が人間を襲う。
つづいて、レヴィ記が引用される。
神に歯向かった人間に、神がどうやって罰を与えるかの部分だ。
それから、大写しになる眼。ダリオ・アルジェントのような。
唐突に物語が始まる。

主人公「アサシン」のフルフェイスマスクの軍人仕様は、日本人にとっては押井守/藤原カムイの『犬狼伝説(ケルベロス・サーガ)』および、その映画化である沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』で、馴染の深いものだ。
潜行鐘による地底世界への侵入は、まんま『JUNK HEAD』と同じでけっこうビビるが、巨大な「穴」の造形は、やはり「下へ下へ」のベクトルを持った『メイドインアビス』あたりをも想起させる。
要するに「穴への潜行」という行為は、自らの夢の世界、ヴィジョン(幻視)の世界、「意識下」の世界へのダイブを象徴する行為なのだろう。
「覚醒した意識の断片を、みずからの広大な無意識領域に送り込み、その内奥を深みまで探索する」という「動機」の部分が共通するからこそ、これら三つの作品は「外観」まで似てくるのかもしれない。

アサシンが降り立った地底世界は、まさに弱肉強食。
まさに地獄絵図。あるいは阿修羅道といったほうがいいのか。
小さなクリーチャーが罠でさらに小さなクリーチャーを屠り、そのクリーチャーを今度は大きなクリーチャーが出てきて食い殺す(この辺も『JUNK HEAD』とよく似ている)。

燃え盛る炎で闇が照らし出される地底世界のおどろおどろしいイメージには、ヒエロニムス・ボスの地獄絵からの影響が色濃い。
クリーチャーの造形においても、ボスの「グリロス」(頭に足が生えていたり、複数の頭があったりする、奇形性とキマイラ性の強い怪物)は直接的な霊感源となっている。とくに「インプ」と名付けられた小人のクリーチャーの外観や、「アルケミスト」の造形は、そのままボスの絵から抜け出してきたかのようだ。
また、徹底的かつ執拗に繰り返される糞尿&嘔吐の描写も、ボスに由来するものだ。
その意味では、本作もまた『ジャバーウォッキー』や『神々のたそがれ』『異端の鳥』といった、ボス的ヴィジョンの再現を目論む、一連の『中世の闇』映画と通底する部分をもっているといえる。

アサシンが持っている地底世界の地図は、どこか人体図のようにも見える。
実際、地下世界の中核部は、巨大な臓器の集合体のような形状で描写され、電気椅子で永劫の拷問を受け続ける巨人たちの糞尿を原資として全てが回る様は、さながら『はたらく細胞』でも観ているかのようだ(巨大なバクテリオファージがモンスターとして登場するのも、超『はたらく細胞』っぽい)。
この「世界=人体」という認識は、中世のマッパ・ムンディ(世界全図)の歴史において、実際に存在した概念だ。
同様に、中盤で某キャラクターの体内より掘り出される金銀財宝の類は、強烈に「錬金術」を想起させるものだ。そもそも「アサシン」も、「シットマン」も、秘術を用いて「生成」されたある種のゴーレム/ホムンクルスであり、このあたりにもボス的な世界観(中世における錬金術・異端・魔術的なるものからの援用)が感じ取れる。

一方で当然ながら、クリーチャー・デザインには、これまで蓄積されてきた、ホラー&SF映画における膨大な量のクリシェが、様々な形で反映されている。
それは、自らが築き上げてきた歴史そのものでもあるわけだが、たとえば丘の上の扉が開いてシー・イットが飛び出してくるギミックなどは『悪魔のいけにえ』そのまんまだし、主人公が窓越しに殺人劇を目撃するあたりは『裏窓』と『サイコ』を明らかに元ネタにしている。
凄惨な人体解剖&破壊の描写や「グラン・ギニョル」との連関は、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『血の魔術師』やスチュワート・ゴードンの『ZOMBIO/死霊のしたたり』を思わせるし、医者による拷問の恐怖という意味では、『未来世紀ブラジル』や『マラソンマン』も念頭にあったかもしれない。
映像&造形上、ほかにも『エイリアン』や『バスケットケース』『イレイザーヘッド』など、明確なつながりを感じさせる作品はいくつでも挙げられそうだ。
大量のガラクタが積み重なった幻想的な廃墟の光景には、ブラザーズ・クエイの『ストリート・オブ・クロコダイル』からの影響が感じとれる(とくに人形の顔!)。
殴り合う猿人間は、どこかレイ・ハリーハウゼン風。「赤い眼」は、なんとなく『ファントム・オブ・パラダイス』を思わせる(『ベルセルク』のグリフィスっぽいけどw)。その他、デイヴィッド・クローネンバーグ『裸のランチ』とか、クライヴ・バーカー『ミディアム』とか……。
もちろん、終盤には戦争映画や『2001年宇宙の旅』からの直接的引用も出てくる。
そもそも、悪夢的ヴィジョンの映像化は、フリッツ・ラングの『メトロポリス』やムルナウの『吸血鬼ノスフェラトウ』など、20年代のドイツ表現主義映画に端を発するものだ。

これらの引用・模倣のなかには、意図的なオマージュも多数含まれている一方で、歴史上つくられてきた悪夢的想像力を糧とする映画群はすべて、フィル・ティペットの内部にすでに取り込まれ、彼の「悪夢」の一部を形成しているという言い方もできる。
要するに、彼の内奥では、これまでに摂取してきた大量の悪夢的イメージが、独自の想像力と分かちがたく結びついて、「自らの悪夢」として、坩堝のように混淆している。
彼はそこから、無数のクリーチャーと幻視的光景を「サルベージ」してみせているのだ。

とくに印象的なのはシットマン。
頭に電極をつながれて拷問される巨人たち(『メトロポリス』を思わせる絵柄)が噴出させた便が、めぐりめぐって成型されて、雑用向けの人工生命として大量生産される。
シットマンは、さまざまな雑務をこなす一方で、徘徊するモンスターが面白半分に破壊してまわる格好の標的でもある。搾取され、消費される「労働者階級」のわかりやすい戯画という意味では、本作のなかでも飛び切り「政治的」な臭いをさせるキャラクターだともいえる。
棒人間のような影が無数に街路をゆらゆらしている光景は、かつて何かのアートアニメで観た記憶もあるのだが、どうも思い出せない。ノルシュテイン? シュヴァンクマイエル? スーザン・ピットの『アスパラガス』? うーん……。

中盤には、ちょっと衝撃的な展開が待ち受ける。
こういうえげつないサディスティックなスプラッタを平気な顔してやってくるのって、『ロボコップ』や『スターシップ・トゥルーパーズ』で一緒に働いたポール・ヴァーホーヴェンの抱える「闇=病み」と近しいものを感じるなあ(笑)。
このグラン・ギニョルの結果として、本作の地下深くで展開している「メカニズム」は、荒廃した地上における「ラストマン」と「世界」の対峙が生み出した、一連のシステムの一部であることが明かされる。
そして、この膨大な手間暇をかけた儀式的な「輪廻」の循環は、やがて「モノリス」が飛び交う宇宙規模の物語にまで肥大し、ついには「ビッグバン」の発生にいたる……。

話の構造はきわめて難解であり、暗い画面の連続であることもあって、自分にも十全に理解できたとは思わないが、アサシンを狂言回しに「地獄絵図」のさまざまな責め苦をめぐらせて、そのアサシンが「ミートボール」を経て「再生」するという意味では、典型的な「地獄めぐり」映画だともいえる。
「地獄めぐり」映画とは、『ジェイコブズ・ラダー』や『時計じかけのオレンジ』のように、主人公がこの世の恐怖と悪行のきわみを「観て」「体験する」ことで、やがて「浄化」され「再生」へと至るタイプの作品群であり、これはダンテの『神曲』に由来する、西洋文学において最も好まれる物語形態のひとつだ。
自らの精神世界にダイブしたフィル・ティペットが、悪夢の深奥にあるユング的な「集合的無意識」に触れた結果として、この壮大な「地獄めぐり」の物語が紡がれたとすれば、それは大変興味深いことだ。

『マッドゴッド』は、ティペット個人の極私的な悪夢であると同時に、「聖書」を奉じて生きる人々「全員」が抱える悪夢でもある。
ボス的な怪奇幻想が、グラン・ギニョルの残酷美と、「メトロポリス」的な未来観と結びついて、ついには『2001年宇宙の旅』にまでたどり着く――。
その意味で本作は、いわゆる「ジャンル映画」に仮託して西洋人が垂れ流してきた恐怖と妄想の糞を、一つの類型として押し固めてみせた、究極の「シットマン」なのかもしれない。

じゃい