フェイブルマンズのレビュー・感想・評価
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出来事には意味がある
スピルバーグが、どのような幼少期を過ごしたのか。
家族と偏見と、時代とコミュニティ。
そういう複雑さを描いているように感じた。
物事に対するストイックさは、こどもの頃からなんだね。
凄い情熱と周囲の理解があったんだと思う。
映像を通して理解した人の感情とか、揺れみたいなものが、その後の作品に生かされてるんだろうな〜。
そういうところが、無駄なく描かれてるところが、スピルバーグの凄さかも。
家族の、母親へのオマージュなのかな。
さすがとしか言いようのない名作に。
第95回アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演女優賞など堂々7部門にノミネートされ、S・スピルバーグの監督賞位はあるのかな?と期待していましたが、残念ながら無冠に終わってしまいましたね。
(エブエブの圧勝過ぎて・・・)
ちなみにゴールデングローブ賞では作品賞と監督賞を受賞しており、やはりGG賞は推せる!
スピルバーグの自伝的作品なので、いわゆる“超大作”感はありませんが、主人公のサミー・フェイブルマンの少年時代から映画監督を目指す青年期までを描いていて、のんびり鑑賞していたら(やられた~!)ってなる秀作でした。
5歳のときに両親に連れられて初めてみた映画が「地上最大のショウ」っていうのもいいですよね。ここは実話だそう。
で、列車激突のシーンに心を奪われたサミー少年。あの映画の中で一番のシーンがそこだったのね(笑)。そして後のあの作品に繋がっていくんですねぇ。
8ミリカメラでの撮影に夢中になる少年の目はキラキラと輝いていておそらくスピルバーグ少年そのものなのでしょう。
ユダヤ人として差別を受けたり、両親が離婚したり、スピルバーグの原体験がベースになっています。
プラムのシーンは近作の「ウエスト・サイド・ストーリー」とのリンクを感じましたし、ここはあの作品に繋がっているんだろうな、などと考えながら観ているととても楽しかったです。
音楽はジョン・ウィリアムズ。そりゃあそうよね。
「バビロン」「エンパオア・オブ・ライト」など最近は偶然なのか何なのか映画愛を語る作品が多く、この作品もその類なのですが、でもただ映画を賛歌するだけではなく、撮り方ひとつで伝わる物が全然違ってくる、という映像の怖さもしっかり描いているんですよね。そこが本当にスピルバーグの素晴らしいところです。
父親役にポール・ダノ、母親役はミシェル・ウィリアムズ。ミシェルお母さんに主演女優賞をあげたかったなぁ。
家族の物語というとてもパーソナルな作品ですが、退屈に感じるヒマは全くありません。スピルバーグ流のユーモアもたっぷり。
クライマックスでサミーがある映画界の大御所に会わせてもらえるシーンがあるのですが、待っている前室に貼ってあるポスターの数々でその大御所が誰なのかがわかり、対面前から目頭が熱くなっていました。
そしてその大御所を演じていたのもかなり意外な人物でびっくり!
そこからのラストの地平線のオチね。クスっと笑えて(さ~すが~)って爽やかな気持ちに。
それにしても西部劇がかなりお好きのようですよね。
スピルバーグ版の西部劇、是非とも拝見したいものです!
ところで。
アカデミー賞作品賞にノミネートされた10作品のうち、日本での公開がまだのものを除いて全て観ましたが、わたしデミー賞は「フェイブルマンズ」の圧勝でした。
続きが観たいなぁと思った…
スピルバーグの自伝的作品ということなので、ミーハーな気持ち満点で観た。彼の作品から感じていたのは、父親の不在だったが、この作品を観てみると、どうやらそれだけでもなさそうだ。母親が良き理解者であったことは間違いないが、もっと複雑な事情も垣間見えた。父親は仕事はできたようだが、母親の気持ちを理解していたとは思えない。ピアニストとしての野心とか、家族を思う心とか見えていなかったように感じた。両親の離婚は子どもに深い傷を与える。それは作品の端々からずぅっと感じてきたが、やっとその本当の思いに触れることができてよかった。スピルバーグの気持ちの一端が理解できた気がする。そして、最後のご褒美。思いもよらなかったので、めちゃくちゃうれしかった。だから、映画界に入ってからのスピルバーグの足跡も知りたいなって思う。
メイキング・オブ・スピルバーグ
鑑賞後。私がしみじみとした気持ちで劇場を後にする一方、一緒に観に行った友達は「まあ、スピルバーグが好きな人にとっては最高の映画なんだろうな」と不満げに漏らしていて、そうか、私は独りよがりで作家主義的な悪しきシネフィルなんだった、と改めて痛感させられた。
しかし本作はまさに映画に狂った人間のそうした独善性、あるいは撮るという行為の暴力性についての映画だ。スピルバーグもまた(彼と私とでは無論比較にならないが)映画によって人生を狂わされた映画小僧の一人なのだ。ゆえに『E.T』や『ジュラシック・パーク』といった「いつものスピルバーグ」を期待すると肩透かしを食らう。
過去のスピルバーグの分身ともいえるフェイブルマン少年はありふれた小児的欲求から始めた撮影趣味が高じて遂には自分で映画を撮るようになる。そのとき彼が感じていたのは撮るという行為のひたすら純粋な快楽だ。学校の友人を集め、あり合わせの道具とアイデアで映画を作り上げていくさまは、さながら図画の課題に無心で臨む工作少年のようだ。
しかし彼は映画作りを通じて撮るという行為の暴力性を思い知る。母親をクローゼットに閉じ込めてフィルムを強制的に見せつけるシーンと、いじめっ子を過度に英雄化した記録映画をプロムで上映するシーンは特に衝撃的だ。意図的であろうとなかろうと映画というものは容易に人間を窮地へ追いやることができてしまう。これらのシーンに先行してフェイブルマンが物理的な暴力を振るわれるシーンがある(母親に背中をビンタされるシーン、いじめっ子にグーで顔面を殴られるシーン)のは、映画にはそうした物理的暴力に釣り合う、あるいは凌駕するほどの精神的な暴力性があることを示すためだ。
だが一方で映画は無力でもある。フェイブルマンの父親が言ったように、それは単なる趣味であり、現実への影響力という点でいえば、数式やプログラムのほうがよっぽど「役に立つ」。事実、いくらフェイブルマンが映画人としてめざましい進歩を遂げようと、それとは無関係にフェイブルマンは父親の仕事の事情で幾度も引っ越しを余儀なくされるし、彼ら一家の関係も日に日に悪化の一途を辿っていく。
絶えず交互に提示される映画の強さと弱さ。そこには良い映画とは何か?という根源的な問いに対するスピルバーグなりのアンサーが沈潜しているように思う。良い映画とは、無際限に空想の中へ突き進んでいくものでも、辛く苦しい現実をただただ耐え忍ぶものでもなく、その中間領域を強く指し示すものである。少なくとも私には、スピルバーグが本作を通じてそういうことを言っているのではないかと感じた。
別の言い方をすれば、空想と現実は常にフラットな相互干渉的関係を成すものであるべきだ、ということ。この均衡性への配慮を失った瞬間に映画は死ぬといってもいい。空想だけを重んじる映画は現実を生きる我々との結節点を持たないがゆえにどこまでも重みを欠いているし、現実だけを重んじる映画は政治的・社会的啓発以上の射程を持ち得ないという点において映画=フィクションである必然性がない。
思えば映画作りとはきわめて不毛で絶望的な営みだ。空想とも現実とも適度な距離を置くという禅問答のような命題と不可避に格闘しなければならない。そこで踵を返さなかった本物の狂人だけが巨匠という名誉で因業な称号を手にすることができる。スピルバーグは中間領域を指し示すという第三の道を発見し、そしてそれを具体的な作品によって次々と実証していった。『E.T』『ジュラシック・パーク』『レディー・プレイヤー1』などの、言うなれば「説得力のある夢物語」とでも形容できるような作品を。
そういう意味では、本作は今挙げたようないわゆるザ・スピルバーグ的な映画についてのメイキング映画ともいえるかもしれない。ブロックバスター的な満足感の乏しい地味な作品ではあるが、スピルバーグという監督が好きなら是非観てほしい一作だ。
とっておきのラストシーン
スピルバーグが、生まれて初めて映画館で観た「地上最大のショウ」に衝撃を受けてから、8ミリ映画作りにのめり込み、本格的に映画監督を志すまでの日々を、家族との関わりを中心に、丁寧に描く。
エンジニアで温厚な父親と、芸術家でエキセントリックな母親のもとだからこそ、あのようなスピルバーグ作品のテーマ、アイデア、作風が生まれたのだと理解できる。
映画作りということでは、それまで見世物としての面白さを追い求めていたが、戦争映画のラストで初めて、役者とともに感情を乗せることによる感動を発見するところや、卒業記念映画のクラスメイトヒーローの描き方で映画の魔術を感じさせるところが、とても興味深かった。
出演者では、母親役のミシェル・ウィリアムスが圧倒的な存在感(共感しづらい難役)。これまでくせ者イメージのあるポール・ダノが、とことん優しい父親役で意外。出番は少ないものの、大叔父が強烈な印象を残す。
それにしても、とっておきのラストシーンがおまけに付いているとは。あの言葉も本当にあったものなのだろうか。ラストショットでカメラが慌てて動くあたりの茶目っ気も好ましく、さわやかな後味を残した。
ラストが描く未来
私だけかな? 映画好きで語るならばスピルバーグ無しじゃ語れないんとちゃうの?
どうもいかんせん,スティーブン・スピルバーグというと、映画を観るならば大概の人には「あっ,それ知ってる!」という所謂メジャーな?作品が多いと思われる。 で、私事だが(スピルバーグ以外の作品に置いて)色んな作品を観て行く内に,わりと変わったものを観る様になってきた気がする。 たまに「何処が良いの?」とか…言われちゃう事も多々ある中、また<非常に悪い言い方になっちゃうが>形式ばった(所謂,一般受けしやすく&反論されにくい無難なシナリオ的な)感じになっちゃったりしてるんじゃないの?と思いつつ,鑑賞してみた。
大変失礼な言い方になります。わりとキャスティングで観る作品を決める私だが、何と無くそうだよなぁ⁈的な思いだったが,調べた結果,やっぱりヒース・レジャーの亡くなる直前迄の奥さんだった。ミシェル・ウィリアムズが透け透けのドレス?で踊ってるだけだけれども、私には十二分に観る価値在ったと思えた。
最初からゴチャゴチャ言っちゃったが、自伝的作品と謳って居たが,私には意外にも面白かったのは云いたい処…。
演技と演出と、ミシェルウィリアムズのちから
ルーツをたどる
どこまでが事実でどこまでが演出なのか。
探ることこそ無粋というやつだろう。
それもこれもまるっと受け止め残るのは監督のルーツ、
これは家族についての、とりわけ母親の物語なのだ、ということだろう。
だからして主人公と映画の関係を深掘りするより家族それぞれの表情やエピソード、
母親を中心にした人間関係が丁寧に描かれている。
同時に劇中、それらを狂わせる悪者的立場で「映画、映像」は登場し、
不穏の象徴ときらめくような対象としては出てこない。
懺悔でもなく、そういう事があったと言わんばかり淡々とした本作は想像していた以上に抑えられた作品で予想と違っていた。だがどうともはっきりさせることなく終わる悪者的映画、映像の件に転機があったことだけは感じられ、傷つきながらも手放すことだけはしなかったその後にアーチストの狂気と現実を垣間見る。
公のスピルバーグ像を讃えるものでなく、大変パーソナルな思い出をスチール写真のように切り取った一作は、文学短編を読み終えた後に似て少し心がざわついたままである。
追記
もっと快活、豪胆な物語をみたかった、といったような感想を多く見かけるが
冷静に考えて、自身の人生を、自身が監督して、自身の映画として公開しているのである。
それでいて内容が自分スゴイだろ、なんてあるわけない。
できるとしたらうぬ惚れた、メタ認知不能の、恥ずかしいくらいイタイ人物である。
だからして華々しい内容にならないのは当然なのである。
そこが本作のもっとも生々しい点であり、ナイーヴな真実に触れた証でもあると感じている。
映画に心を奪われた1人の少年の普通の人生
観た人は「あれを普通と思うか?!」と感じるかもしれない。
映画館で初めて映画を観て、あるシーンの虜になった少年が辿った人生は、
たしかに特殊に見えるかもしれない。
でも、人生の苦しみや葛藤や怒りは他者から見えないだけで、誰しもが抱え込んでいるものだろう。
サミー少年の場合、それが映画を好きになったことに起因しているだけである。
思っていたのと違うという感想もちらほら見かけた。
それも納得できる。あのスピルバーグ監督の半自叙伝的と聞いて、想像する内容とはかけ離れている。
数々の名作を世に送り出した巨匠の少年期、さぞかしドラマティックで映画愛に満ち溢れているのだろうと思ったら、
ドロドロのファミリードラマだったのだから。
カメラが撮るのは揺ぎ無き真実でも、それが編集によって虚構となる。
映画という芸術の本質を若くして悟ってしまった少年サミーの痛みを伴う人生記だった。
これをスピルバーグ監督の半自叙伝とするのであれば、彼にはやはり映画を愛する心があるんだと思う。たとえ、痛みを伴っても映画を作り続け、生涯を捧げてきた監督の人生がそれを物語っている。
良い作品
好きなことを仕事にする
好きなことを仕事にできる人は幸せだ。自分の好きなことはあくまで趣味にしかならず仕事にはならない、それでお金を稼ぐことは難しいという考えに至り、夢を諦める人は多い。私自身も映画は相当好きなものの1つであったが、そういった類のものを仕事にすることはできず、今は好きなことで仕事をしていない人間の1人である。
主人公のサミーは、映画や写真や音楽などに興味を持ち、それらを通して自分の感情や考えを表現していく。周りから理解されなかったり反対されたりすることもあるが、自分の好きなことを貫いていく。母親のミッツィは、芸術家肌のピアニストで、息子の夢を応援しているが、父親バートとは仲が悪く、父親の親友ベニーとの浮気が発覚してしまう。最後はバートとは離婚し、ベニーの元へ行ってしまうという結果となり、自分自身に正直に生きていく。
この映画に出てくる人物は、世間に縛られることなく表現者として自由奔放に生きている人が多いが、そのセリフの中で「芸術は麻薬である」「自分自身を表現することは誰かを犠牲にしたり、傷つけたりしてしまうことがあるが、それを怖れないで」「映画製作は心をズタズタにする」というものが印象に残った。この言葉からは芸術に取りつかれた人間の狂気を感じるが、その一方で、芸術に熱中して仕事にすることができるのは幸せなことで才能を持った数少ない人だけに許された特権なのではないかとも思った。
父親には趣味にしかならないといわれた映画製作を仕事にして見事才能を開花させたスピルバーグは、今後も良質な映画を製作して人々を楽しませていくだろう。憧れはあっても元々才能がない凡人は、彼のような才人の作品をたくさん観て評価する側にまわるほかない。
すごかった
想定を上回る表現や展開が連発し、感動しながら圧倒される。
お母さんの浮気動画を作ったら、みんなの前で上映してしまうのではないかと思ったら、そんな安い表現はしない。お母さんだけに見せる。お母さんはお父さんや家族を愛していながらも、浮気相手にひかれる。人間である以上どうしようもないことだ。お父さんの立場もつらい。
ビーチでの撮影で、いじめっ子に恥をかかせる動画を作るのかと思ったら、輝かしくかっこよく表現して、それで相手の心を傷つける。理由が「5分だけでも友達になれると思った」なんて切なさだ。傷つく相手も繊細だ。
8ミリが上手すぎる。すでにプロ級だ。
人生の春を描いた物語で、これから先夏が来て秋と冬も来る。想像しただけで涙が出る。
前へ進もう! フェイブルマン家の物語
スピルバーグ監督御本人のお話かと思っていたら、一家の物語だったのですね。
家族のストーリーとして非常に面白かった!両親・きょうだいそれぞれが個性的、周囲からの様々な影響を受けながらサミーの映画人としての素養が築かれていったのでしょうね。
ややエキセントリックなアーティストのお母さま、ロジカルな思考で物事を突き詰めるお父様、両方の良いところも悪いところも受け継いで、大人になってもそれぞれは離れてしまってもリスペクトしあいながら心は繋がっている。
物事には理由がある、前へ進め!
サミーのサクセスストーリーというよりか、家族の物語として秀逸でした。
スピルバーグ監督の見事な手さばきの映画、心地良い面白さ
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
この映画はスティーブン・スピルバーグ監督の自伝的なストーリーだということのようですが、スピルバーグ監督の見事な手さばきの映画だと思われました。
個人的には以下3点にその見事さがあるように思われました。
1点目は、それぞれのシーンでの生き生きとした登場人物たちの演技だったと思われます。
監督の演出は、主人公のサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベルさん)による、劇中のナチスとの戦いの戦争映画の撮影現場で、味方が全滅した後の上官の感情を演出する場面でも表現されていたと思われましたが、とにかくどの登場人物も魅力的に映画の中で存在していたと思われます。
それは主人公のサミー・フェイブルマン(幼少時代含む)だけでなく、特に母のミッツィ(ミシェル・ウィリアムズさん)や、妹たちのレジー(ジュリア・バターズさん)・ナタリー(キーリー・カルステンさん)・リサ(ソフィア・コペラさん)(幼少時代含めて)、祖母のハダサー(ジーニー・バーリンさん)、ボリス伯父さん(ジャド・ハーシュさん)など、登場人物の魅力的な演技が輝いていたと思われます。
(父のバート(ポール・ダノさん)は控えめな人物で、また違った魅力がありましたが)
2点目は、人間の矛盾を深く理解して描いていたところだと思われました。
この映画『フェイブルマンズ』は、幼少時の主人公のサミーに母のミッツィと父のバートが映画がいかに美しく素晴らしいか暗闇が怖くないと説かれている場面から始まります。
しかしこの時に幼少時の主人公のサミーが見た映画の『地上最大のショウ』は、特に子供にとっては美しさや怖くないとは真逆の、列車が車と衝突して大脱線事故が繰り広げられる悲惨でショッキングな内容でした。
しかしサミー少年は逆にこの列車事故の映像に魅了され、映画作りのきっかけになって行きます。
ここにも人間の矛盾が描かれていたと思われます。
この人間の矛盾を描いている場面は、ベニー・ローウィ(セス・ローゲンさん)と主人公のサミーとのエピソードでも描かれていたと思われました。
後に、父バートと母ミッツィとの親友であるベニーが、母ミッツィと父を裏切る行為をしていたと、サミーがキャンプのフィルムを編集している時に気がつきます。
サミーの家族がベニーと別れてカリフォルニアに行く直前に、ベニーはサミーに高価なフィルムカメラを餞別にプレゼントします。
しかしベニーが母ミッツィと、父バートや家族への裏切りをしたと思っているサミーは、ベニーからのカメラのプレゼントの受け取りを拒否します。
ベニーは何度もカメラを持って行くようにとサミーに伝え、根負けしたサミーはその時自分のそれまで持っていたカメラを売って得たお金の全てを渡してベニーが渡して来たカメラと交換します。
しかしベニーはマジックのごとく別れ際にサミーの上着のポケットにお金を返して、サミーに映画を撮ることを辞めるなと言って立ち去って行きます。
このベニーが餞別にサミーにカメラを渡す場面は、彼の親友であるサミーの父やサミーの家族を裏切った人物を、サミーにとっての全面的な悪として描かず、矛盾ある魅力的な人物としてベニーを表現していたと思われます。
サミーはカリフォルニアに行った後で、反ユダヤのローガン(サム・レヒナーさん)などから高校でいじめに遭います。
しかし後にサミーが撮影した高校卒業間近のビーチパーティーの記録映画の中で、反ユダヤのローガンは輝いて映画の中に映っていました。
サミーは反ユダヤのクソであっても、映画はその人物の魅力を映してしまうことをローガンに伝えます。
ただローガンは、映画に映っていたのはステレオタイプの理想のそして自分にとっては軽薄な人物で、自分はあんな人間ではないと涙します。
ここでも、サミーにとって反ユダヤの憎むべき人物であっても、人間の矛盾を深く理解した上での人物描写がされていたと思われました。
最後に3点目は、スピルバーグ監督による並行したエピソードの巧みな構築にあったと思われます。
この映画は例えば映画制作の素晴らしさを描いただけの作品ではないと思われます。
この映画は、家族の物語であり、映画制作の話であり、反ユダヤをめぐる話などであったと言えます。
それぞれの細かいエピソードも含めて、頭から最後まで1つのテーマで描かれた作品では実はなかったと思われました。
ただそれぞれのエピソードが並行して描かれ、それぞれがダブって描かれているので、エピソードは様々であるのに断片的やぶつ切りに思われず、151分の長い作品でありながらまだまだ続きを見ていたい面白い映画になっていたと思われました。
また、よく考えれば私達の人生も、それぞれの問題が解決されないまま並行して進んでいるのだと改めて思わされる映画になっていたと思われます。
この並行したエピソードをダブらせて巧みに描く構築は、スピルバーグ監督の見事な手さばきだからこそ可能になっていると思われました。
以上の、
1.登場人物のそれぞれ輝く魅力
2.人間の矛盾に対する深い洞察と理解による描写
3.並行したエピソードを巧みにダブらせて配置する構成
によって、この映画『フェイブルマンズ』は見事な作品に仕上がっていると、僭越ながら思われました。
もちろんこの映画は大きな1つのテーマで描かれている作品ではないとは思われます。
なので大傑作大感動の映画とはまた違った作品だとは一方では思われました。
ただ万人に向けてお勧め出来る、素敵で素晴らしい作品であったこともまた事実だと思われました。
時に分かり易く、時に分かり難く
これを書いてる現時点の明日がアカデミー賞の授賞式で、作品賞の候補作は10本中の7本を鑑賞しましたが個人的な希望としては本作になれば良いかなと思っています。
本作が一番の傑作という意味合いではなく、アカデミー賞に一番似合う作品という個人的な勝手なイメージでの推薦です。でも、流石スピルバーグの作品だと思いましたし、彼の集大成に相応しい作品になっていたと思いました。
本作は自伝ということで勿論本人の物語ではありますが、他に映画について、家族について、人生についての物語が同じ比重で成立しているので、私の嫌いな偉人伝的要素は全くなく映画ファンとして実に興味深く観ることが出来ました。特に映画についての物語が、個人的には非常に面白かったです。
映画に限ったことではありませんが表現物には何にでも、真実と嘘とが表裏に重なり合っていて、表をだけを見せていても裏側も垣間見えたりその逆もあったりもする。母親やいじめっ子などの映像作品などで主人公が見せたかったもの見せたくなかったもの、作り手の意図する事と受け取り側の捉え方のギャップなど興味津々で鑑賞させられました。
まあ、この親にしてこの子有り、この環境にしてこの人生ありと頷きっぱなしの作品でした。
スピルバーグのデビュー当初は超娯楽作品ばかりでしたが(その後の人間ドラマも含め)その作品の全てに人間の持つ嘘と狂気が、時に表面的に時に隠され、時に分かり易く時に分かり難く描かれていたことが、本作によって納得させられた気がしました。
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