「メイキング・オブ・スピルバーグ」フェイブルマンズ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
メイキング・オブ・スピルバーグ
鑑賞後。私がしみじみとした気持ちで劇場を後にする一方、一緒に観に行った友達は「まあ、スピルバーグが好きな人にとっては最高の映画なんだろうな」と不満げに漏らしていて、そうか、私は独りよがりで作家主義的な悪しきシネフィルなんだった、と改めて痛感させられた。
しかし本作はまさに映画に狂った人間のそうした独善性、あるいは撮るという行為の暴力性についての映画だ。スピルバーグもまた(彼と私とでは無論比較にならないが)映画によって人生を狂わされた映画小僧の一人なのだ。ゆえに『E.T』や『ジュラシック・パーク』といった「いつものスピルバーグ」を期待すると肩透かしを食らう。
過去のスピルバーグの分身ともいえるフェイブルマン少年はありふれた小児的欲求から始めた撮影趣味が高じて遂には自分で映画を撮るようになる。そのとき彼が感じていたのは撮るという行為のひたすら純粋な快楽だ。学校の友人を集め、あり合わせの道具とアイデアで映画を作り上げていくさまは、さながら図画の課題に無心で臨む工作少年のようだ。
しかし彼は映画作りを通じて撮るという行為の暴力性を思い知る。母親をクローゼットに閉じ込めてフィルムを強制的に見せつけるシーンと、いじめっ子を過度に英雄化した記録映画をプロムで上映するシーンは特に衝撃的だ。意図的であろうとなかろうと映画というものは容易に人間を窮地へ追いやることができてしまう。これらのシーンに先行してフェイブルマンが物理的な暴力を振るわれるシーンがある(母親に背中をビンタされるシーン、いじめっ子にグーで顔面を殴られるシーン)のは、映画にはそうした物理的暴力に釣り合う、あるいは凌駕するほどの精神的な暴力性があることを示すためだ。
だが一方で映画は無力でもある。フェイブルマンの父親が言ったように、それは単なる趣味であり、現実への影響力という点でいえば、数式やプログラムのほうがよっぽど「役に立つ」。事実、いくらフェイブルマンが映画人としてめざましい進歩を遂げようと、それとは無関係にフェイブルマンは父親の仕事の事情で幾度も引っ越しを余儀なくされるし、彼ら一家の関係も日に日に悪化の一途を辿っていく。
絶えず交互に提示される映画の強さと弱さ。そこには良い映画とは何か?という根源的な問いに対するスピルバーグなりのアンサーが沈潜しているように思う。良い映画とは、無際限に空想の中へ突き進んでいくものでも、辛く苦しい現実をただただ耐え忍ぶものでもなく、その中間領域を強く指し示すものである。少なくとも私には、スピルバーグが本作を通じてそういうことを言っているのではないかと感じた。
別の言い方をすれば、空想と現実は常にフラットな相互干渉的関係を成すものであるべきだ、ということ。この均衡性への配慮を失った瞬間に映画は死ぬといってもいい。空想だけを重んじる映画は現実を生きる我々との結節点を持たないがゆえにどこまでも重みを欠いているし、現実だけを重んじる映画は政治的・社会的啓発以上の射程を持ち得ないという点において映画=フィクションである必然性がない。
思えば映画作りとはきわめて不毛で絶望的な営みだ。空想とも現実とも適度な距離を置くという禅問答のような命題と不可避に格闘しなければならない。そこで踵を返さなかった本物の狂人だけが巨匠という名誉で因業な称号を手にすることができる。スピルバーグは中間領域を指し示すという第三の道を発見し、そしてそれを具体的な作品によって次々と実証していった。『E.T』『ジュラシック・パーク』『レディー・プレイヤー1』などの、言うなれば「説得力のある夢物語」とでも形容できるような作品を。
そういう意味では、本作は今挙げたようないわゆるザ・スピルバーグ的な映画についてのメイキング映画ともいえるかもしれない。ブロックバスター的な満足感の乏しい地味な作品ではあるが、スピルバーグという監督が好きなら是非観てほしい一作だ。