「映画の夢に与えられ、奪われる」フェイブルマンズ しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
映画の夢に与えられ、奪われる
上映時間2時間31分、さしたる事件もアクションもないストーリーなのに、まったく飽きることがない。
本作がスピルバーグの自伝的作品であることは予告編などで語られていたが、そのことを知らなくても十分面白い。
この映画の主人公はサミー・フェイブルマン。タイトルの「フェイブルマンズ」とは、“フェイブルマン家”という意味だ。
つまり、本作はサミーと家族を巡る物語を縦糸にしながら、同時に「映画を創るとはどういうことか」というテーマが縦糸として貫いている。この後者のテーマについて劇中、繰り返し語られていて、それが映画好きにはたまらない面白さ。
観終わって、珍しく脚本を読み返したいと思ったくらい。
映画とは嘘である。
サミーが西部劇を撮るエピソードがある。
フィルムを編集をしているサミーは銃撃戦のシーンが「嘘っぽい」と悩む。
そこで彼は工夫を凝らし、フィルムに穴を開けることで迫力あるシーンを創り出すのだが、これは嘘に嘘を重ねて現実感を創っている、と言える。
家族旅行を撮影したフィルムに写っているものは現実だが、編集することで、それは「現実」から遠ざかる。
サミーは偶然、母の浮気を撮ってしまう。だが、そのシーンは編集でカットして、無難な作品に仕上げた。
出来上がった映像は楽しい家族旅行が表現されているが、それはサミーが編集で創った「嘘」だ。そして彼は偶然フィルムに収めた「現実」に苦しむことになる。
ハイスクールのプロムナイトで、お楽しみ遠足の様子を収めた映像をサミーが上映するシーンも同様。
その直前にサミーは彼女にフラれてしまう。傷心のサミーだが、みんなを楽しませる映像を上映しなければならない。ショウ・マスト・ゴー・オン。
映像を撮った時点では、サミーは彼女とラブラブだった。その映像を撮ったカメラは、彼女の父親から借りたものだったし、カメラを貸すからとサミーは映像制作を彼女から勧められて引き受けたのだった。
つまりサミーにとって、その映像は彼女との思い出に満ちたものだ。同級生たちは映像を観て楽しんでいる。それなのに彼だけが傷ついている。
ここでも、サミーが創った映像の中の「嘘」(彼女とラブラブ)は、「現実」(フラれた)によって打ちのめされるのだ。
こうして、サミーは映画を創りたいという夢に導かれ、家族や周りの友人たちと8ミリカメラで映像を撮るのだが、ときにそれは残酷なまでにサミーを傷つける。
本作は幼いサミーが両親と初めて映画を観るシーンから始まる。
サミーは映画館の暗さやスクリーンの大きさなどに怖がっている。
だが、サミーはたちまち映画の魅力に取り憑かれ、その後、8ミリカメラを手に自分で映画を撮り始める。
この冒頭のシーンが本作のすべてを象徴している。
サミーは映画に夢中になるのだが、初めは怖がっているのだ。
そう、映画は怖い。映画人を苦しめるものだ。
ラストに登場するジョン・フォード監督(なんとデヴィッド・リンチが演じている)は映画の仕事を始めようとするサミーにこう言う。
「心がズタズタになる仕事だぞ」と。
両親が離婚しそうなときも、サミーは離れた高い場所に座り、そのやりとりを撮影することを想像してしまっていた。
祖母の臨終に際しても、彼はカメラを覗くかのように死にゆく祖母を観察している。
映画を創る者ゆえの習性であり、業(ごう)だ。
サミーは映画監督になるという夢に近付きながら、映画の夢に与えられ、そして奪われていく。
だがラストは、それでも、夢に向かって歩くのを止めないサミーの姿をカメラは捉える。
思いがけず出会ったジョン・フォードとの会話の余韻に高揚しながら、サミーはスタジオが立ち並ぶ撮影所の通路を歩いていくのだ。
本作の冒頭で「地上最大のショウ」に触発されてカメラを手に取り列車の衝突シーンを皮切りに映画を撮り始めた少年はやがて「激突!」を撮り、「未知との遭遇」や「E. T.」などで「破綻した家庭」をたびたび描いてきたことを僕たちは知っている。
スピルバーグが「スピルバーグになる」以前を描きながら、映画とはなにか、映画を創るとはどういうことか、そしてさらに、何かを創作するとはどういう意味を持つかを語った。
傑作である。