劇場公開日 2023年3月3日

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「これは、150分の尺をもつ“90分映画”であり、スピルバーグが監督した“ゴダール映画”である。」フェイブルマンズ 慎司ファンさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0これは、150分の尺をもつ“90分映画”であり、スピルバーグが監督した“ゴダール映画”である。

2023年3月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

誰もが驚いたであろう、あの嘘のように呆気ない終幕を目にした時の感情は、
「えっ、もう2時間半経ったの⁉」
という幸福を伴った困惑である。
この現象は、語り口の徹底した簡潔さにより時間感覚が失われたことに起因するのだが、
150分スクリーンを見続けた後に、もっと見たかった、という名残惜しさを感じつつ、
劇場を後にすること、これこそ映画における至上の幸福というものである。

スピルバーグの映画には、説話的持続から逸脱した異物的シーンが必ず存在する。
この新作はまさに、そんな突出部のみをくっつけてしまった滅茶苦茶な映画だ。
前後のシーンのつながりは非常に不連続であり、
数多の監督がその不連続をごまかそうと躍起になるのを尻目に、
その出鱈目さをこれっぽっちも隠そうとせずにガシガシとシーンをぶつけてゆく。
その強引さはしかし足枷となることはなく、軽快な簡潔さとして逆説的に語りを豊穣にしている。

語り口の徹底した簡潔さ。
初めから終わりまで、そのあまりの簡潔さに困惑し、ハラハラし、そして興奮したものだ。
思えばそれは1カット目から顕著であった。
夜の劇場の前に立ち並ぶ人々をカメラが下がりつつトラッキングし、会話する家族の前で停止する。
映画館に入るのを躊躇う息子を説得する両親の顔は、息子を俯瞰するカメラに未だ映らない。
息子に目線を合わせようと、父がしゃがみ、母もしゃがみ、
顔見せを終えて、劇場の入り口へと向かう3人をフォローパンしてカメラは、
今から息子を決定的な道へと誘うであろう作品が
セシル・B・デミル「地上最大のショウ」であることを明らかにする。

上質な長回しによって口火を切った映画はしかし、
みるみる過激になってゆく簡潔さによって観る者を困惑させる。
例えば、ようやく完成した新居を8㎜フィルムで撮っていた次の瞬間には、
両親の離婚が決定的なものとなっているし、
プロムでのいざこざから些か強引にサミーと母の和解のシーンが提示されたかと思うと、
画面はふいにホワイトアウトし、1年後の父とサミーが同居するアパルトマンへと飛ぶが、
どうしてサミーが父の元へ居候することになったのか、
サミーが就職活動でどんなに苦労していたのかといったことは一切具体的に提示されない。

滅茶苦茶なのはシーンのつなぎに止まらず、
カットのつなぎまでもあらゆる局面で混乱を来している。
雑なポン寄りが至るところで見られた。
前後のカットで人物の立ち位置が変わるところもあった。
デコボコなつなぎにドキドキして、しかしフォードのシーンでは、
マッチに着火→口元の葉巻に火を持っていく、というアクションつなぎが素晴らしく、
そこからさらに同軸上でカメラを引くつなぎもあったように記憶する。
安定しないカット割りは、次が予想できないために常にハラハラさせてくれる。
その心理状態の中、沢山のカットで心を揺すぶられた。
白い照明が大胆に使われた夜のキャンプ場の森なんて、50年代のニコラス・レイの森のようだし、
そこで自動車のライトを背にして踊る母は、「カビリアの夜」のジュリエッタ・マシーナではないか!

簡潔さとは、単純化では全くない。
説話的な持続が一向に不明瞭なままにも拘わらず、
語りたいテーマのために必要なプロットは強引に展開される。
あのプロムの上映で、イケメンが等身大の自分とスクリーンの美化された姿との乖離に動揺し、
逆に劇中で馬鹿にされたことを怒ったいじめっ子の子分を唐突に殴り飛ばすなんて、
一般の水準でみれば感情の流れとしてあり得ないほど突拍子のない展開である。
必要なシーンを脈絡なくくっつけまくるという戦略。
結果、作品の全貌はゴダール作品のそれと限りなく近似することになった。
実際、本作と「気狂いピエロ」とを比較すれば、
単なる印象に止まらない細部の類似がいくらも見つかるはずだ。

150分の尺をもつ90分映画であり、
スピルバーグが監督したゴダール映画。
そんな新作に出くわして、涙をしないわけがない。
こんなに誰にも向けられていない映画が当たるはずがないのは、スピルバーグも承知している。
その好き放題をみたらばこそ、こんなに心は晴れやかだ。

慎司ファン