マンティコア 怪物のレビュー・感想・評価
全45件中、1~20件目を表示
秘めた欲望と現実を隔てる薄い壁
マンティコアとは、人を喰らうとして恐れられる伝説の人面獣だ。そんな剣呑なタイトルの印象に反して、物語の大半は淡々と語られる。序盤で、主人公のフリアンが隣人の少年の3Dモデルを作ってよからぬ妄想をするシーンはあるが、そこでチラ見せされたヤバさが加速度的に明らかになってゆくわけでもない。ビジュアル的にエグいシーンもない。
これは、普通の人間が抱いたアンチモラルな妄想が、現実との間の障壁を破る瞬間を描いた心理スリラーなのだと思う。その壁はフリアンの場合、社会との繋がりだったのではないだろうか。
クリスチャンとの出会いの後、少年っぽさがありどこかクリスチャンに似たディアナに一目惚れするというのも、フリアンの性癖が漏れ出ている感じだが、そういった点を除けば彼は終始真面目で常識的な青年として描かれる。クリスチャンの母とのやり取りも、ディアナとの男女としての付き合い方も、映画としては退屈になるほど普通で、どこにでもいそうな善良な人間だ。クリスチャンに抱く感情は3Dモデルの世界に閉じ込め、理性でひた隠しにし、行動に移すことなどない。本作の尺の半分以上は、フリアンが基本的には観客側(の大半?)と同じ普通の人間であることを示すために費やされているような気さえする。
物語の終盤に、彼の勤務先はPCのログからクリスチャンに似せた3Dモデルを発見し、私的かつ社会的に問題のある用途に社用PCを使ったということで、フリアンからPCを没収する。その3Dモデルを見た恋人のディアナは、フリアンから離れてゆく。そういった周囲の反応はやむを得ないものだが、結果的にそれらの出来事がフリアンに与えた衝撃が、彼の内なる怪物を現実世界に解き放つ引き金になってしまう。
会社の対応結構厳しいな、と思った直後にクリスチャンの家直撃で、観客もドン引きするほどのあっけない理性崩壊。
フリアンがプラド美術館で足を止めて見入るゴヤの絵画「我が子を喰らうサトゥルヌス」は、ゴヤが晩年に一般公開を目的とせず描き、自宅「聾者の家」に飾った「黒い絵」14点のうちのひとつだ。当初サトゥルヌスは勃起した姿で描かれていたが、のちにその部分は黒く塗りつぶされたと言われている。人目を避けて表現された性的ニュアンスを帯びた絵画、そんな作品のオーラに共鳴したフリアンの欲望のタガが外れた。常識やモラルという圧力を持った社会との繋がりがなくなってしまうと、個人の理性など無力なのだろうか。
表向きは完全に普通の人だったフリアンがあっという間に堕ちてゆく最後の30分、特にクリスチャンの家でのシーンは、そこにいたるまでの淡々とした雰囲気とは対照的な緊張感に満ちている。
気を失ったクリスチャンを手にかける直前にマンティコアの姿をした自分の絵が目に入り、鏡を見たかのようにフリアンは我に返る。彼にとって、それは本当の絶望の瞬間だった。
アンチモラルな嗜好の有無は別にしても、人の理性の脆さを描く物語として見ると、少し背筋が寒くなる。
あとこれは解釈次第なのだろうが、父をかいがいしく介護したディアナが、一度はきっぱりフリアンを拒絶したあと、彼が半身不随になってから戻ってきたことにもかすかに性癖を感じた。監督いわく「彼女自身も秘密を持っている」とのこと。
キャラクターデザインの勉強のためということなのか、フリアンが「ファンタスティックプラネット」を映画館で鑑賞している場面が出てきて、思いがけず嬉しくなった。
伊藤潤二の名前が出てきたり、北海道の話題やお寿司、招き猫など、ちょいちょい監督の日本オタクぶりが垣間見えるところはチャームポイント。
反倫理的な性的欲望に関わる映画であることと、監督が性暴力で告発されたことについて
日本オタクぶりが強烈なアクセントになっていたカルロス・ベルムト監督の怪作「マジカル・ガール」(2014)を大いに楽しんだ一人として、この新作「マンティコア」(本国スペインでは2022年9月公開)も当然期待していた。
だが日本での封切りを前にして、ベルムト監督は今年1月、同意のない性行為を強制したとして3人の女性から告発された。暴力的な性行為を強要されたとの証言もあるという。これに対し監督は「乱暴だが合意の上での行為だった」と反論した。だが2月、さらに別の3人の女性がやはりベルムト監督から性暴力を受けたと告発。スペイン文化省は同月、芸術分野での暴力やハラスメントに対処するための相談窓口を設置すると表明した。その後の経過が報じられていないので正確なことはわからないものの、逮捕や裁判といったニュースが見当たらないので、告発を受けて捜査や調査が進行中と推測される。
“推定無罪”の考え方にのっとり、性暴力が確定したわけではないので問題ないと考えるか。あるいは、スタッフやキャストの不祥事と作品は切り離して評価すべきというスタンスをとるか。もちろん人によって考え方はいろいろあっていい。とはいえ、これらのことを事前情報として知ったうえで鑑賞するかしないのかを判断する、情報に基づく選択の自由があったほうがよいと個人的には思う。
「マンティコア」が反倫理的な性的欲望に関わる内容である点について、ベルムト監督が起こした不祥事と関連づけて批判する意見もきっとあるだろう。過激な問題作を連発して“鬼才”と呼ばれ、のちに性暴力で失墜したキム・ギドクや園子温を思い出す。
作品自体についてのレビューがほとんどなくて申し訳ない。やはり前述の事情を知ってしまった以上、映画の反倫理的な要素をフラットに評価しづらいというのが正直なところだ。
主人公と観客の危険な距離感。
第35回東京国際映画祭にて、怪作『マジカル・ガール』のカルロス・ベルムト作品が観られると聞けば行かないわけにはいかぬ。ということで、いざ鑑賞してみたら、『マジカル・ガール』ほどトリッキーではないと見せかけて、思わぬところを攻めてくるとんでもない映画だった。
トリッキーではない、と書いたのは、プロットが捻くれてるわけでも、複数のプロットが同時進行するのでもないからで、あくまでもオーソドックスに、内気な主人公の恋物語を描いているように見せかける。
実際、ウェイ系でない人間にはかなり共感度の高いラブストーリーであり、ベルムト監督にこんな映画も撮れるのかと幅の広さに驚いたくらいだ。ところがベルムトは、内気で純朴に見える人間が、裏表があるというわけでもないのにだが、どれだけ最低最悪になれるのかを暴いていく。「物語の主人公ってきっとこんな感じ」という観客の先入観を弄んでいるとも言える。
監督には他人を弄ぶ気などないのかも知れない。一見平穏な日常と底なしの闇が背中合わせである点ではトッド・ソロンズの『ハピネス』も思い出す。われわれは普段映画を観る際、ざっくりと内容を予想しながら自分自身のメンタルを守っている。しかしそんな防御体勢を、この映画は全力で引き剥がしにくるのだ。
主人公が抱えている闇や意地悪なオチを、胸クソ悪いと捉える人がいて当然だと思う。しかし本作では、誇張はされているにせよ、誰もが心の片隅に飼っているであろう「病んだ自分」に向き合う真摯さも感じる。絶対に自分はこんなじゃないと思ってはいても、100%他人事だとは言い切れないことが嫌すぎる。しかし、その嫌さにこそ本作の真価と凄みがあるのだと思う。
伊藤潤二
引き籠り気味のゲーム・クリエーターの青年が美術を学ぶ女性と知り合い関係を深めていく内に、自分の中に目覚める秘密と言うお話。
カルロス・ベルムト監督の日本アニメ・オマージュの前作『マジカル・ガール』のテイストを想像していたらかなり違っていて、でも、徐々に不穏な空気が高まって来ます。しかし、欧米ではあの事がここまで思い罪悪感を導くのかが予想外でした(この辺、ネタバレ)。それにしても、伊藤潤二の名が本作中でサラリと出て来るなんて監督はどんだけ日本マニアなんだ。
人面獅子尻尾蛇
ゲームデザイナーで内気な青年フリアンは、同僚の誕生日パーティで美術史を学ぶ女性ディアナと出会い、ミステリアスな彼女にひかれた。その一方で、フリアンは隣人の少年を火事から救ったことをきっかけに、謎のパニック発作に悩まされるようになってしまった。やがてフリアンは思わぬ怪物を生み出してしまい・・・さてどうなる、という話。
マンティコアがスフィンクスの様な人面の体が獅子で尻尾が蛇らしいが、何のことか分かってれば面白かったのかもしれないとは思ったが、観てる時は???だった。そして、自分の行動が原因だけど、ディアナに冷たくされ、少年の部屋に入り込み、衝動的に窓から飛び降りたシーンに???となった。
その後、フリアンを看護するディアナの心境変化もイマイチよくわからなかったし。
伊藤潤二の名前が出てきたり、寿司が好きだったり、日本リスペクトは感じたが、難しくよくわからなかった。
ディアナ役のゾーイ・ステインは前髪パッツンで可愛かった。
おマンティコア
空き時間2時間半で程良い時間にこの作品。
どんな映画かも一切分からずにウトウト。
リストランテでのシーンで『あれっ?』
もしや『小児性愛者?』
小児性愛者ほど胸糞悪い生き物はいない。
(投与して隔離すべき)
コイツには此の何十倍もの苦痛を味わって欲しかった。
まぁ、作品としては秀逸だったかもwww
後からジワジワとくる問題作
現実より虚構の世界に埋没するフリアンのような人間は、いかにも現代的だなと思った。他人に迷惑をかけるわけでもないし本人が満足しているのであればそれで良いと思うのだが、犯罪が絡んでくればそうも言っていられない。終盤で彼は”ある行動”に出るが、こうなる前に止めることは出来なかったか…と色々と考えさせられた。
監督、脚本は「マジカル・ガール」で鮮烈なデビューを飾ったカルロス・ベルムト。
「マジカル~」では日本の魔法少女アニメ好きな女の子が登場したが、今作のフリアンもその流れを継ぐキャラクターのように思う。両者とも、現実と虚構の境目で自家中毒的な妄想に取りつかれている。そういう意味では、両作品を見比べてみると面白かもしれない。
もっとも、群像劇だった「マジカル~」に比べると、本作はシンプルな分、若干食い足りなさを覚えたのも事実である。ただ、シンプルな分、メッセージは鋭くこちら側に刺さってきた。
虚構に人生を求め、翻弄される人間の弱さ、悲しみに胸が締め付けられる思いになった。
作品としての完成度も非常に高いと思う。
前半のフリアンとクリスチャンの会話が後の伏線になっていたり、ディアナの父親の介護がフリアンとのロマンスの障害になっていたり、全体のプロットがよく計算されている。フリアンがナンパした女性とベッドインできないというのも、彼の性癖を考えれば合点がいくエピソードでよく考えられている。
映画の中盤で、暴力的なゲームや映画が犯罪を誘発するかどうかという問答が繰り広げられるが、後になってみればこのシーンもミスリードになっていることが分かる。ゲームや映画への一方的な非難にフリアンは呆れかえるが、実際には彼自身こうした虚構の世界にドップリと浸かり悲劇の顛末を迎えてしまったのであるから、何とも皮肉的な話である。
一方、残念だったのはラストのエピローグである。ディアナの心境変化が全くフォローされていないせいで、少し唐突に感じられてしまった。これを救いと取るか、意地の悪いブラックユーモアと取るかで、作品の鑑賞感も大分変るかと思う。
(私から見れば十分に社交的だが)内気な青年フリアンとディアナの交流...
(私から見れば十分に社交的だが)内気な青年フリアンとディアナの交流は観ていて応援したくなるが、ストーリーの根本は仮想と現実に対する思想で、特にフリアンとエリアスの会話で直接的に表現されている。現実で満たされている者はごく限られていると思うし、体験できないことをゲームで体験することは倫理的に良い悪い問わず良いと思う。が、誰にも迷惑をかけていなくても宗教や文化、風習などの価値観から否定されてしまうのは悲しいことだと思う。
後半、フリアンはパソコンを取りあげられて仮想に入る手段を失い、現実ではディアナから拒絶され、結果自暴自棄となり自身の怪物が目を覚ましてしまうのだが、個人的に、このシーンから先の撮り方は必見。
また、ディアナ役のゾーイ・ステインさんがとても美人。私もディアナみたいな友人が欲しかったなぁ。
「怪物」🧌とは?
邦題の怪物よりもマンティコアの方がより造形が具体的で良いなと思いました。
主人公フリアンの人物像の掘り下げを丁寧にしているのですが、
ミスリードを誘うのが後半に至るまでの狙いな気がしました。
前半にフリアン=怪物たる所以と言いますか、
クリスチャンと出会った時点でそういう示唆は出ているので
ここで気づかれた人もいらっしゃったことでしょう。
ただ、その人物像も女性との絡みにおいては、あれ?と思えるシーンもあり、
ここも伏線なんですよね。
一方、ディアナについても、ちょっと異質であることがわかるシーンがあり
それが自宅でお父さんを介護しているシーンなのですが、
ここはいい感じの仲になっているフリアンを放置して、お父さんの髪をといているので
あれれ?という感じなんです。そこも後半に向けての伏線ですね。
で、ラストはディアナから拒絶されたフリアンが暴走していき、
最後は、動けなくなったフリアンをディアナが面倒を見る的な帰結で
全然ハッピーエンドじゃないという、そういう感じです。
同日観た『湖の女たち』にも性的嗜好要素が割と強く盛り込まれていましたが、
本作もそれがテーマであるのは間違いありません。
おそらく観ていて虫唾が走る方もいらっしゃるでしょうが、
自分の知る世界を広げることができた作品でした。
但し、フェイバリットにはならないですし、人にオススメもできませんね。
彼をマンティコア-怪物-にしたのは
「ゲームデザイナーの青年が生み出したマンティコア [ 怪物 ]」との宣伝文句で興味をひかれ鑑賞しましたが、選択を誤ったかなと、退屈とも思える時間が長く続きます。
ラストの展開を受け止めると、これは必要だった時間なのかなと感じられはしますが、それでも忍耐を強いられました。
主人公フリアンををマンティコア-怪物-にしたのは何だったのか。
彼の最後の行動を引き起こさせたのは、彼自身ではなく、「彼は非倫理的で危険な人間だ」とレッテルを貼った周囲の人間ではないか。
彼が罰されるべきことといえば、会社の備品を私的利用(それもごくプライベートな)したことくらいだったはず。
それまでの間、彼は内なる指向や癖を制御しようと葛藤していたし、ディアナを傷つけることにはなったかもしれないが、社会的には無害だったはず。
作中で、ゲーム世界における暴力に関する議論があったが、空想と現実を区別できていないのはどちらだろうか。
フリアンのごくプライベートな部分が暴かれてしまったことから、周囲は彼に対する態度を急激に変化させます。
そうした周囲の言動が、「フリアンは有害で恐ろしい行動を起こしてしまう危険な存在だ」と
フリアン自身に植え付けてしまったのではないかと思えてしまいます。
ホラー映画じゃなかった!
せっかくのGWということで、気になる新作はないかと探し、時間帯としてちょうど良かったので見に行った。
事前情報をあまり入れず、適当に映画を選んで観に行く習慣も考えものだと思った。
チケット購入から映画序盤までずっとホラー映画だと勘違いしていたのだった。
(薄暗い空間と静かな間をとってるシーンで必要以上に怯えながら観た)
実際はスペインのショタコンの話だった。性癖が会社と彼女にバレてしまった悲しき怪物。ションタコアだった。
ショタコンなのはしょうがないし、アパートの隣部屋の男の子をCGで再現して自慰するのもまぁ自由だけど、まさか会社のPCを使ってるとは思わなかった(そのせいで性癖がバレていた)。
確かに主人公が会社のサーバから男の子のサンプルCGをUSBに移してたとき、(ヨーロッパってこんなにセキュリティ緩いんだ)って思いながら観てたけど、緩いのは主人公の頭だった。
自慰から会社の作業内容確認によるショタコン発覚までに人間ドラマを丁寧に描いており、せっかく主人公も精神的な不調から立ち直りそうだったのに、その自慰が原因で悲しい結末になったので、性癖発覚後からずっと(あちゃ〜)って思いながら観た。
主人公から見るとツイテないことが多かったと思う。女の人とのセックスチャンスを2度逃しており、一度でも成功していれば、ショタコン実用型CGモデルじゃなくて芸術なんです!って弁解もできたのではないか。女の人は美術史を専攻していたし。
ゲームのクリーチャーデザインの仕事をしていたから、最後の行動はリセットしようとしたように見えるし、現実はそう簡単にはいかないよって結末に思えた。やや陳腐な気もするので、監督的には違うのかもしれない。
女の人の父親のくだりや、ゲームについての議論、男の子との会話、男の子を眠らせるための抗不安薬などのストーリーの布石みたいなものをしっかりと作っているので、ストーリーの構造みたいなものが綺麗だった。スペイン映画を観たことないけど、他のもこんな綺麗に回収していくのだろうか。さすがスペインというべきか、パスワークの美しさに近いものを感じる。
最後まで半ば同情しつつ見ていたが、自身の欲望に忠実なションタコアになっってしまった主人公が男の子を眠らせにかかった時、結構手口が狡猾でなんか嫌だった。かつてないほど流暢に男の子を言いくるめてたし、男の子もだいぶ警戒しててなんか面白かった。
ゲームデザイナーということで、ゲーム音楽や和食といった日本要素がよく出てきた。飲み物に薬を混ぜて眠らせるホモっていうのも、実は日本要素である可能性が…?
誰もが怪物を飼っている
心の闇をテーマにした作品。
心の奥底に潜む怪物の存在が徐々に姿を現していく。
欲望が目覚めた時、彼がとった行動は..。
ディアナとクリスチャンの容姿が似ていることも納得。
また、主人公の性癖は社会問題でもある。
ナチョ・サンチェスの目のバキバキ感は強烈。
まーた嫌な話を思いつくもんだ…
たった一回の行為(致したのは一回こっきりだったのかはハッキリとは分からないが)それが仮想世界、ネット上で不特定多数が観られる状態にしたわけではなくともやはりその行為は社会的には断罪されてしまう。犯罪として逮捕されるわけではなくとも、それで傷付く親しい人もいる。それは事実なわけで。
なにがどうなれば赦されるのか、そのもやもやを晴らさずに観た者の頭に残したままにするラスト。依存し合っている様は他人からみると気持ちが悪かったり、その関係を正義感から引き裂いて正そうとする。だがそれが誰を幸せにするのか?
いわゆる胸糞映画に括られるかもしれないが、観た人と語りたくなるという意味では良い映画だった。
心に潜むマンティコア
マンティコア=怪物とあるが分かりやすく解釈するならば人面犬に近いといえる。
当該作品では、人間の内心に秘めたマンティコア=怪物的な一面を炙り出している。内気なゲームデザイナーのフリアンが同僚の誕生日パーティーで偶然にも出会った美術学生のディアナに出会いやがてディアナのミステリアスなイメージに心奪われるようになっていく。
実はフリアンは、ディアナに出会う前からクリスチャンという近所に住む少年にもピアノ演奏を機に内心惹かれており、ディアナにときめきを感じるようになったのは、クリスチャンとも似たような風貌だったのが一番大きな理由の一つだろう。
フリアンは異性愛者にも見せながらの実は同性愛者だったわけで、LGBTQにおけるQ=Questionかもしれない。
ディアナと出会い、ディアナとの時を過ごすにつれフリアンは本気になっていく。
しかし、今まで本気になって人を愛したことがなかったフリアンを知らぬディアナからしたら、自分の趣味を押し付けてばかりの印象でしかなかったのかもしれない。最後の追い詰められた末に思い入れのあるクリスチャンの家に訪ねた末の凶行は予見できなかった。
ディアナは自らの発言に悔いたのか、フリアンの看病をするという決断はフリアンからしたらある意味でハッピーエンドだったのかもしれない。
期待度○鑑賞後の満足度○ 西洋では「マンティコア」の題でピンと来るものがあるんだろうな。心の中に密かに“怪物“を抱えているのが特別な一部なのか人間に普遍的なものか、観る人の考え方で解釈が変わる映画。
①ホラーと思っていたら、ややこしい語り口のラブストーリーでした。
②饒舌ではなく、モチーフやシンボリズム、イメージを多用して観客の想像に委ねるところは映画的だと言える。
こういう形の伏線回収もあるのかと少しだけ感心。
③私個人としては、フリアンが抱えるものが“闇”とも“怪物”だとも思わないけれど…
多分、もうちょっと何とかなった
上映時間中の99%くらいはダルい時間。ずっと主人公の狂気が積み重なっていくだけの様子を大きな起伏なく見させられるだけの時間。「伊藤潤二の新作」とかのワードが出てくるあたり、本当に日本マニアなんだなあ、とか思うくらい。
最後の最後に主人公の狂気が爆発するシーンとその結末が、ものすごくシュールで当然の帰結のようにも観えた。
結末よりは主人公がじりじりと狂気に染まっていく様子を楽しむものなのかも知れないが、あんまり狂っているようにも見えない。
延々と何を観させられているんだろう…って
この監督の作品を観るのは初めて。だからなのかな、自分には全然理解出来なかった😭
好きだった点
・画角外で起きてることを音だけで想像させる技術がすごい
・フリアンの顔がだんだんとギラついてイッちゃう様子が恐ろしい
・木村カエラ?
Monstruo
監督の作品は今作で初めて鑑賞します。テンポ感とかはよく分からないんですが、ゲームデザイナーの危ない恋なのかなぁくらいの印象でした。
序盤から「あ、合わないかも」と思わせるスローすぎるテンポでヤバさを感じましたが、その印象は最後まで拭えず最後までダルくてヤキモキする愛のお話でした。
空間に怪物のモデルを書いたり、隣人の家が火事になっていたりと展開こそあれど全く進まないので、それでそれで?が続く展開だったのもかなりキツかったです。
性癖を怪物と見立てているみたいで、それを抑えられるかそれとも全て出てしまうのかってのがベースにあるんだとは思うんですが、どうしてもまったりどんよりした感じで進んでいくので、終盤の急展開こそあれど、そこまでのダルさを超えるものではなく、ヤバイなーくらいにしか思えなかったです。
良かったのは監督が日本のポップカルチャーが好きなんだろうなというところぐらいでしょうか。うーん初っ端合わないと思ったら最後までハマれないんだなと再認識しました。
鑑賞日 4/28
鑑賞時間 18:20〜20:20
座席 C-10
全45件中、1~20件目を表示