「田舎という地獄」理想郷 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
田舎という地獄
スペインの限界集落に移住してきたフランス人夫婦がいじめぬかれる話。
主役はドゥニメノーシェ(Denis Ménochet)。イングロリアスバスターズ(2009)でユダヤ人をかくまうフランス人を演じて国際的な認知を得た──とされているが、確かに一度見たら忘れられない目をしている。
米俳優のロバートミッチャム(1917~1997)は眠り目と呼ばれて親しまれたが、メノーシュも似たような「ねぼけまなこ」をしている。が、愛嬌よりは禍々しさ(まがまがしさ)が勝る。悪役よりも邪悪な猟奇系の役がこなせそうな禍々しさ。逆に、だからこそ頑なな(かたくな)執念がありそうな感じもある。タランティーノがイングロリアスバスターズの冒頭で彼に重要な役を充てたことが納得の強面だった。
話はそれるが今フランスのパリでオリンピックがおこなわれている。(2024年7月26日~2024年8月11日)
ご覧になっている方はご存知だと思うが、金玉とポリコレ全開の開会式にはじまり、北朝と韓国誤アナウンス、南スーダン国歌かけちがい、五輪旗逆さ掲揚、選手村エアコン無し、選手村食堂肉料理無し、柔道はじめ各競技で誤審連発、セーヌ川汚染、XYとXXがボクシングマッチ、TGVストップ、停電騒ぎ、選手村窃盗被害・・・いったいわれわれは何を見せられているのか──という混沌の祭典が繰り広げられていて、見れば見るほどストレスが溜まる。むかつくから見るのをやめた──という人も少なくないだろう。
パリ五輪は一種の断絶だと思う。不可解判定や数々のエラーで憎しみをつのらせて、差別意識や対立構造をつくるためにスポーツ大会をやっている。と言っても言い過ぎではない。
開会式の芸術監督に対してネット上で殺害予告が行われたというロイター通信の報道があったが、そんなの当たり前。人様の宗教をくそみそに愚弄しておきながら、あの完コピの絵面を「最後の晩餐から着想を得たわけじゃない」と、とぼけてみせた。
ヨーロッパにおけるテロ事件がフランスで多いのも当たり前。(実世界からではなく映画世界から世界を把捉している者の感想に過ぎないが)フランス人てのはだいたいヤな奴だ。そして社会はヤな奴がいるから壊乱していく。テロだろうが戦争だろうが物事の端緒は人をばかにすることだ。
オリンピック開催中に乗じて、そんなことを思ったのは、この映画理想郷(原題:As bestas(野獣))が外国人嫌悪の映画だったから。
といっても、映画内でヤな奴はスペイン人で、ドゥニメノーシェ演じるフランス人は徹底的にいじめられる側。
ただし、いじめられるきっかけは、風力発電の設置に反対したから。フランスから移住してきた新参者なのに、村中が賛成している風力発電に反対して、村には発電会社から契約金が支払われないことになる。すなわち主人公は村に嫌われるようなことをしていて、やや不自然さはあったが、陰鬱ないじめと緊迫する演出手腕に引き込まれた。
サムペキンパーのわらの犬(1971)という映画がある。数学者の男(ダスティンホフマン)が妻とともに妻の故郷に引っ越してくる。が、村の青年たちから嫌がらせをうける。
都会の教養ある人間が田舎へやってきて、想定外の迎撃を浴びる──という構成の話はよくある。つまり都会人は田舎ではゆっくりと時が流れ、そこに住む人々はのんびりで柔和だろう、と想像する。ところがどっこい、この世で田舎の人間ほど嫌らしい人間はいない。限界集落にいたっては魑魅魍魎の住処と考えた方がいい。拠って田舎は猟奇という映画的ダイナミズムを提供する材料となりえる。たとえばFabrice Du Welz監督のcalvaire(2004)は変態村という邦題がつけられている。あるいは名作The Texas Chain Saw Massacre(1975)は、田舎という場所は人面皮をかぶった巨漢がチェーンソーをぶん回しながら追ってくるような所だ──と言っているわけである。
この映画も田舎の嫌らしさを巧く表出させている。
映画は批評家からも褒められゴヤ賞でも多部門受賞をはたしている。社会派のテイストもあるが、主眼はどろどろした敵意や憎悪、田舎の陰険さのあぶり出しで、耐えがたいほどの緊張感で表現されている。それがちょうどパリオリンピックのたとえばjudoを見ているときのストレスフルな感じに似ていた。という話。
imdb7.5、RottenTomatoes99%と86%。