「「ありがとがんす」」山女 いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「ありがとがんす」
8月25日は自分的に"高崎【女】祭"な観賞ラインナップであった(苦笑
3作品全部"~女"の題名であり、チケット窓口で続けて購入する際、初めて偶然性に我ながら恥ずかしかったw
柳田国男が岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である、"遠野物語"から着想を経ての作品である
監督の意図が読売新聞のサイトで表明されていたが「見ていてつらくなるようなことが起こるけれど、人を悲しませたくて作っているわけではない。そこで屈しないたくましさ、力強さを描きたくてやっている。」とのこと 寒村での不条理やいたたまれなさを描くのは今作に限ったことではなく、或る意味昔からの日本の陰の部分を物語として構築する上で、現代にも通づる日本人のルーツやDNAを探る、ふり返りの行為、もしくは"癖"かもしれない 忘れたいのにでも思い出してしまう、その癒せぬ心の依代を、こういった作品に投影する為には、同じベースの作品群は潰えてはいけないと思うのである
勿論、都度の制作された時代によりその表現は変化する、作られる経緯や立ち上がった場所も同様に変化に影響を与える 今作はNHKが絡んだ結果として主人公のヌードは演出されなかったが、確か、イ・チャンドンの『バーニング』は脱いでいたような・・・ なので、もしかしたらそれ以外の要素がもたらされたのであろう 何故そこに拘っているかというと、正に東北に伝わる伝承と、裸婦というこれ又"陰"としての印象(勿論、女性の裸そのものに否定する意図ではない)を織込む事は作品の重層さを表現出来る演出であるからだ
ストーリー冒頭で、天井からぶらさがったひもにしがみついての出産シーンが描かれる そして早々に口減らしのため産まれた子供を〆る 陰惨なシーンから始ることで今作は当然ながら愉しんで鑑賞する類ではない覚悟をしっかり観客に教え込む
そしてこの醜い人間同士の理不尽さを諦める手立てに伝承話を人は利用する "神隠し" "人柱" "山男" "山女" 作り上げた物語に吸い込まれるように再生産する女の『ナラティヴ』が今作の作りなのである
印象的な家の暗さを映し出される、まるで馬小屋のようなその内装に"貧すれば鈍する"父親の身勝手さ、弟の盲目、そして曾祖父からの村八分の罪など、とこしえに絶望する主人公がいにしえである神々が住む山に、死して迎えられる天国を想像する以外に生きる希望が見いだせない追い詰められ様は、現在でも充分想像に難くない
勝手に連れ戻され人柱にされる理不尽さ、しかし超自然現象がまたもや彼女を救う件は、勿論偶然ではあるが、昔話では定型的プロットであるところの、何処へと去っていく悲しくも、しかしハッピーエンド的落とし込みに、一抹のカタルシスを感じるのは小さい頃からの慣れ親しんだ話に安心感を得ることと同様であろう
虚無感ややりきれなさ、そんな社会が今でも当然とばかりに横たわるこの現状に、この作品の訴えたいことは、"自由"を勝ち取る姿勢ということか・・・
姉を助けようと弟がウロウロしていても目もくれないその態度の潔さにハッとさせられる強い意志を提示させられる作品である