ヒトラーのための虐殺会議のレビュー・感想・評価
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会議とはクソである
世の中の会議とは、ほぼすべてが苦痛であり、つまらんものだ。しかも物凄い金がかかる。
高給取りの高官や軍人の時間とその時間に見合う給料を考えたら、そりゃ凄いことになる。わざわざド田舎のヴァン湖のほとりの豪邸にお歴々がたくさんの部下を引き連れ、高級な旨い物とたくさんの雑用係を用意し、最低最悪の議題について話し合う。言葉に困ることだが、これほどのクソ会議がつまらないはずはない。クソであるがゆえに異様なスペクタクル性を備えたものだったに違いない。
クソ会議中のクソ会議、ヴァンゼー会議とはいかなるものだったのか?どんなクソ会議だったのか?
あのアイヒマンがまだ禿げる寸前の若かりし頃をロボコップのファーストのボスみたいな役者が演じており、まるでロボコップにちなんだかのようにロボットのように上官のいうことを素直に受け入れながら、会議は始まる。
出席者のなかには、文官がおり、ナチス政権以前の時代から、文官としての能力を買われ、ナチス政権後も権力をもっている人たちがいる。その人たちが、いろいろユダヤ人殲滅計画に突っ込みをいれる。ドイツの国益を考え、ユダヤ人の味方にみえる。ここが最大の見どころ。
人間の中にはまともな人もいると誰もが思いたいし、実際にそういう状態がぎりぎり維持されているから、ぎりぎり正常を維持できている。
そして、それら文官を応援したくなるし、頑張っているようにみえる。が、結果は誰もが知っている。この人たちに一体何があったのか?殺されたのか?
会議とはそれぞれが部分最適を目指す権力争いである。自分の利益やシマをあらされないように部分最適をそれぞれが図ろうと躍起になる。それは、このヴァンゼー会議でも変わらない。
やはり、会議とはクソ以外のなにものでもない。
官僚制や政治機構についての強力な著作を残した偉大な社会学者マックス・ヴェーバーがなぜドイツから出たか?行政や司法権力・官僚機構の病を小説にしたカフカが、なぜドイツ語圏から出たか?彼らはナチス以前からドイツの官僚や政治家が病んでいるとわかっていたに違いない。
目的と手段
目的と手段というのはなかなか簡単なようでいて、実は結構難しいものをはらんでいるように思います。大きな目的(ミッション・ビジョン・バリュー)のために、戦略が立案され、個別目標が決定され、その個別目標を阻害する要素があれば、それを洗い出し、それを効率的に解決する方策を探し出し、模索し、論議して決定する。
この映画で再現された会議を見ると、整然とした秩序のもとで、それらがある意味優れた形で、達成されていることに気づきます。例えばその労働力が目的の達成のために必要不可欠であるユダヤ人達の扱いをどうするのか?女性や子どもを含め一晩中大勢のユダヤ人を拳銃で銃殺したドイツ兵や将校の中に、精神に異常をきたす実例が出ている事を踏まえ、その精神的負担や物理的負担を軽減する「人道的」対応をどうするのか?そんな阻害要因が一つ一つ論議され、シュミレーションされ、理路整然と最適解を探すように、解決されてゆきます。(前者は利用しつくして最終処理する。後者はガス室に送り込む。)
問題はひとつ。
それは「大きな目的」がどうしようもなく誤っているということ。
「世界支配の権利を持っているのは疑いなくドイツ民族であるが、その最大の障害がユダヤ人であり、『アーリア人の勝利か、しからずんばその絶滅とユダヤ人の勝利か』の二つの可能性しかあり得ないとしている」ナチズムの思想(WIKIより)です。生物学的には差がないのに関わらず、フィクションのうえに壮大な人種の物語を作り上げるその醜い思想なのだと思いました。
「大きな目的」を誤ると、何が起こりうるのか?
そのことを、この作品は雄弁に物語っているように思うのです。
企業でも「パーパス経営」が叫ばれている昨今、「何が大切なのか」を改めて感じさせる作品ではありました。
組織の方針だから、、、
上の決定だからしかたない、、、
会社の方針だから従うしかない、、、
アウシュビッツ強制収容所を実際に見学に行った。
現地に行って初めてわかった事があった。
収容所ではなく、
列車で運ばれてきてそのまますぐに悲惨な事になるという事。
1時間に1000人の人を動かしていく、、、そんなノウハウが、現在の世界的人気企業の礎になっている事。
毒ガスのもとの顆粒が入っていた空き缶の膨大な数、
犠牲者の持ち物、髪の毛が、
そのまま残されている。
他にも衝撃的な事がたくさんあった。
そこでも思い出した。
自分は反対だけど、、、、
自分はおかしいと思うけど、
トップがGOを出しているので、
与えられた目の前の仕事を、
たんたんと進めるだけ。
効率的なアイデアを提案するぞ!
歴史は繰り返す、、、ではなく、
継続中。
蛇足
字幕に安易な酷い日本語を使わないプライドを感じました。
有能で凡庸な「悪」による戦略会議中継
本作にエンタメ性は微塵もなく、淡々と議論が進行していく。
おそらく当時のドイツでもっとも優秀な官僚、軍人たちによるトップの会議。テーマはユダヤ人の今後のホロコーストについて。
彼らの議論があまりにもビジネスライクなので、ホロコーストの恐怖感が全く伝わってこない。議論する彼らも目標の使命感に囚われ、立ち止まっての倫理観はそこにはない。人間としての想像力と共感力の喪失。
工程の分業化と不可視化によって、人間の道徳や尊厳よりも目標遂行の達成度合や効率化が重視されていく。リソース(弾薬)の確保と全ヨーロッパでの目標達成(約1千万人)の観点から、任務執行は銃殺からガス室処置へと大きく転換する。
そしてアイヒマンの冷徹な軍事官僚としての有能さが光る。まさに凡庸な悪の極み。
大昔のよその国だけでおこなわれた史実と捉えては、そこから何も学ばない。
リアリティーが凄い。
重いエンドロール
エンドロールの劇場の雰囲気が異様だった。
音がない。文字だけが暗い画面を流れていく。席を立つ人は誰もいない。
きっと、ひとりひとりが深く考えている。今見たものは一体何だったのか、と。
エレガントな邸宅で整然と進められた議論。こんなに洗練された会議で決められたことが世の中を動かすのはもっともだ。私のような凡人はそんな風に感じる。
ただその議題がおかしい。 「増えすぎた●●をどう処理するか」 ●●は在庫や二酸化炭素ではない。人間なのだ。
組織の歯車にはまってしまったとき見失うものはなにか。糾す勇気を持つことは無理なのか。そもそもなぜそんな組織が生まれてしまったのか。
この映画の優れたところは、記録に沿って歴史の一コマを「粛々と」再現したところ。歴史やビジネスの教材にもなりそうだ。
しかし、これはただの教育映画ではない。
エンドロールまで無音を貫いた製作者の美意識が、強烈なメッセージとなって観客を揺さぶるってくる。
恐ろしい映画だと思う。
この会議で冴えに冴えた有能ぶりをみせつけたハイドリヒやアイヒマンの末路は衆知の通りだ。
若い才能の使い道を間違えさせたものは何なのか。今でも考えは止まらない。
粛々と進行される血の通わない会議
会議出席者の役職や役割が今ひとつわからなかったので始まったばかりの時は不安だったが、会議が進みそれぞれの主義、主張を聞いていくうちに立ち位置が少しずつ明確になり、ユダヤ人虐殺を法律、効率、執行者の精神健全性などを争点とした意見がぶつかり、熱を帯びて来た中盤あたりからから一気に面白くなった。
意見の対立はあれどユダヤ人絶滅という最終目標については誰も疑うことはなく、どこまでをどのように処置すべきかの方法について終始話し合いがおこなわれて行く。
ニュルンベルク裁判では戦犯を裁くための重要な資料となるこのヴィンゼー会議の議事録だが、当事者達が廃棄せずによく残していたものだと感心する。
重要な最高機密文書なので逆にしっかりと保管されていたというなの事だろうか。
ハインドリヒ親衛隊大将が法令遵守を譲らないシュトゥッカート内務省次官を別室に呼び出した時の緊張感は耐えられるか心配なほどだったが、そこは上層幹部同士なので結局大人の話し合いで解決と少し拍子抜けした。(ナチスは同族には寛容?)
全編通して抑揚がなく絵も大きく変わらず音楽もないので正直言って眠気との戦いもあった。
左右両隣2人までしっかりと寝ているのがわかり、右隣のおじさんにいたってはいびきまでかいていたくらい。
本作はドイツ映画である事が重要なポイントだと思う。
同じ敗戦国の日本でも戦争映画は数多あるが、戦犯国、加害国として自国の狂気の沙汰をメインテーマで映像化したものはない(と思う)のは、本議事録のような史実であることが証明できる確固たる証拠がないからだけではないと思う。
少なくともユダヤ人迫害に関して、ドイツ人は当事者でなくとも国が続く限り一生背負って行かなくてはならない十字架である、と言うことを国民全てが認識していると言う事だと思う。
平和か?
議題は害虫駆除についてだっけ、と思ってしまうほどに淡々と事務的に会議が進む。
円滑に会議ができるようしっかり根回ししていたり細かく要件を詰めたりしていたりするところは(内容に目を瞑れば)良くも悪くも真面目な仕事人たちなんだなという印象。
クリツィンガー氏がユダヤ人の処置方法について残酷過ぎないかと懸念を示し、珍しく人道的な人もいたものだと思ったが、あくまでユダヤ人を大量に手にかけることによって精神的負荷を受けるドイツ人への心配に過ぎなかったあたりでがっくりと気が滅入ってしまった。
挙げ句の果てに「蒸発すれば(ドイツ人が手を下さなくて済むから)いいのにね」などと言い出す始末だ。
本当は少しくらいユダヤ人に対しての人道的配慮もあったのではという期待を抱いてしまったが、やはり現代日本人の感覚では理解が難しい。
しかしいつの時代も人間の根本的な性質は変わらないもので、日本においても移民問題が深刻になってヘイトが溜まったりすれば似たような状況になりかねないということは重々念頭に置いておかなければならない。
SNS等で差別的なコメントを見かける頻度も決して少なくはないことから、全くの杞憂ではないだろう。
休憩中に「奥さん元気?」「おめでただってね、おめでとう」「今度遊びにおいでよ」と牧歌的な雑談をしているあたり彼らが我々にとってもある程度共感可能な、平時においては良き隣人、家庭においては良き夫で良き父だったのであろうことが窺え、非常に薄ら寒い気持ちになった。
しかし「平和だな」はないだろう、ホントに。
エンドロール含め音楽が一切無いのは正解。
悪魔の会議
淡々と推し進められる会議。ヴィンゼーで行われたゲシュタポ主催、各役所のトップが集まり国の政策を具体的に実行するために事細かな議論が進む。
政策実現のための法解釈、担当部署の役割分担、かかる費用等々。はたから見ればごく普通の会議だ。だがその会議で審議されている内容は欧州に存在する全ユダヤ人問題解決のためである。
ユダヤ人問題とは何か。自分たちが勝手に敵とみなし迫害を始めたユダヤ人の処遇をどうするかということである。これは自分たちで雨を降らせておきながら雨が降ってきたと騒いでるようなもの。自分たちが作り出した問題をなんとか解決せねばと、それはまさにマッチポンプだ。
会議ではゲシュタポがいかに他の部署の人間を納得させ、自分たちがこの問題を解決するうえで主導権を握るかが淡々と描かれる。
そもそもこれは出来レースだ。彼らがユダヤ人問題解決を主導することは始めから決まっていたのだ。ナチス独裁体制の下、その意向に反するものなど無きに等しい。
こんな会議はそもそも意味をなさない。議席の過半数を占める政権与党が閣議決定で国の行く末を安易に決めてしまうどこぞの国のように。
この問題解決において、部署によっては異議申し立てもある。人としての問題、法的な問題。しかし結局それはユダヤ人のための異議申し立てではない。あくまでもドイツにとってどうなのか、現行法に照らしてどうなのかという異議申し立てでしかない。
法務担当者は自分の面子が保たれればいいだけである。彼が法と照らし合わせて断種処置が望ましいと淡々と述べるあたりはやはりユダヤ人を人間扱いしてないと見て取れる。
また、唯一の人格者とおもわれた人間も虐殺を行う側のドイツ人のメンタルケアさえできればと、あっさり納得してしまう。
ここにいる誰一人ユダヤ人を守ろうとする人間がいないことを思い知らされる。淡々と進む会議の中で着々とユダヤ人虐殺の手筈が進んでゆくだけなのである。
ユダヤ人にとってその運命を決定づける会議がただ流れ作業のように短時間でなされる様はその後彼らが同じく流れ作業のように処刑されてゆく様へと繋がる。本作の鑑賞後に「サウルの息子」を見ればその絶望感はよりひとしおだろう。
邦題にもあるように、会議出席者にヒトラーを否定するものは誰一人いない。彼らはヒトラーを信奉し、そのことにまったく疑問の余地もない。それが間違ってるとつゆほども思わない。これこそがカルトの恐ろしさと言える。そのカルトに支配されたドイツ人はユダヤ人にとっては悪魔でしかなかった。ともすれば人間は天使にも悪魔にもなれるということをまざまざと思い知らされる。
いまの現代日本でも亡くなった指導者をいまだに盲信し続けてる人間たちを見るにつけ、カルトの危険性は現代においても例外ではない。
かつてドイツは取り返しようもない罪を犯した。唯一の救いはその罪を真正面から受けとめ、逃げずに自身の罪と対峙し、けして同じ過ちを繰り返さないよう努力してる点だ。
自身の罪に向き合うどころか歴史を修正、美化して反省しないどこぞの国とは大きな違いである。
恐怖から生まれる冷酷さ
次の虐殺会議は…。
1942年1月20日。絵に描いたような静かな湖畔の別荘に集まってくる高官や軍人。15人の人物によってたった90分で取りまとめられたユダヤ人1100万人の虐殺計画。議事録を元に再現されたヴァンゼー会議。とても意義のある、そして勇気のある映画だと思います。
論点はどこへどのように運びどう殺害するのが効率的なのかということ。1100万人の命の話ではない。土地を奪い、資産を奪い、アイデンティティを奪い、最期は身ぐるみ剥がして命を奪う。美味しそうな食事にお酒。時には笑いが起こる一室。恐ろしくてたまらなかった。
今、ロシアとウクライナで起こっていること。人類はどうしても歴史から学ぶことができない。何故なのか。子供だって殺す。親がいないのに生きていく方が残酷だから。どうしてそんなことが言えるのか。今、世界のどこかで、もしくは世界のあちらこちらでこのような会議が開かれているのだろうか。
その対象はもしかしたら日本かもしれない。
無音のエンドロールがいたたまれない
エンドロール含めて音楽の全く無い映画というのを初めて観た。あくまで議事録の映像化にこだわったのか、ストーリーに起伏もなく、正直映画としてはあまり面白く無い。ただ議事進行を務めるハイドリッヒとアイヒマンの仕切りは見事で、彼らが組織内で非常に優秀な人材であった事を窺わせる。議題を別にすればビジネスマン向け「効率的な会議のあり方」の教材に出来るかもしれない。(自分も参考にしたくなるところがいくつもあった)。平板な展開で唯一盛り上がってくるのが「最終処理」の手段について論じるシーン。(手を下す側にとって)人道的?な殺戮手法を延々議論し続ける。横で顔色ひとつ変えずに聞いている女性書記官。ナチに限らず欧州人にとって、異民族の絶滅というのは歴史的に見てもそれほど違和感のない政策なのかもしれないと、こちらの感覚がおかしいような気持ちにさせられた。
ユダヤ人問題の最終的解決
特別処置って言葉が怖い。
悪趣味な映画かな、、と思ったが議事録を元に作られた歴史再現ドラマです。こういう映画をわざわざ作るって、ドイツ偉いとつくづく思う。
大仰な音楽も演出も無いです、エンドロールも只々無音、、、黙祷です。
会議はナチスvs政治家になってますが、どちらもユダヤ人を地球上から殲滅する事は同意の上。問題になるのは処刑に携わる兵士のPTSD、ユダヤ人技術者、一次大戦でドイツの為にたたかった功労者の処遇。
そしてドイツ人とユダヤ人混血問題。
彼らのユダヤ人への憎しみ半端なく、そこら辺がピンと来ないんだけど、ピンと来なくて良かったよ。
LGBT問題もチェチェンみたく、ちょっと国の指導者が違うとあっさりこんな会議がどこかでこっそり開かれてるかもしれないと思うとマジ怖い。
もう会議自体は非常にスムーズで合理的、そして司会者が優秀。僕らの会社の会議もこのくらい無駄なく進むのが理想的。どこ感心してるんじゃ、、、、。
追記:この映画の元になったヴァンセー議定書や参加者の自伝などに詳しい人の話を伺う機会があったのですが、ほんとはもっとビジネスライクに最終解決(ユダヤ人絶滅)に向けて指揮権の移譲が話あわれ、ドイツ兵のPTSDに関する記述はなかったようです。
おぞましい
知ることに意味がある
強烈な違和感
一貫して会議をしているだけです、回想シーンもありません。
登場人物たちは自身の立場において職務をまっとうしようと議論しているだけです。
議題さえ違えば。
立場の違いからくる意見の相違や権益を奪われたくないとする言動から、しばしば議論は荒れますが、彼らのユダヤ人に対する見解は共通しています。
彼らの前提にある思想、価値観がとうてい理解できないために、強烈な違和感があります。
この人たちはいったい何を議論しているんだ?と不快感嫌悪感を感じる前に、脳が理解を拒否しているようでした。
このレビューを書き起こすのにも時間がかかってしまいました。
本作は実際の議事録にもとづく再現だそうで、戦争の醜悪さを伝える新たな切り口として斬新です。
23-017
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