福田村事件のレビュー・感想・評価
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人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ
福田村事件と同じ事が、明日、日本のどこかで起こったとしても少しも不思議はない!と思った。
今、皆様のレビューをざっと流し見て、同じように考えた方が思いのほか沢山おられて、なんというか安堵した気持ちになった。日本もまだまだ大丈夫かもしれないな、と。
人は100年経っても大して成長していないらしい事は非常に残念だ。
コロナワクチン、イベルメクチン、超過死亡数、マウス治験のみで接種される新薬、マスク警察、有機型・無機型の内部被曝差を無視して含有量のみで語られる安全、トイレを用意出来なきゃ飲食店営業は保健所の許可が降りないが、地球上のどこにも安全なトイレ(放射性廃棄物最終処理場)が見つけられない原発を何故作るのか、ゲノム編集にコオロギ食、種子法は何故廃止された?
中世の魔女狩りだって、福田村事件だって、いつだって歯止めの効かない集団加害は「自分が正義の側にある」と盲信する方から起こる。
大義名分があるから周囲も止められない。自分が被害者にならない為に同調する。
「権威」が、「国家」が、真実の情報を流している確証はあるか?
山田昭次「関東大震災と自警団」によれば関東大震災当日・翌日に「朝鮮人が〜」と流言蜚語を撒き散らしたのは警察だと言う。
自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたことでなければ鵜呑みにするな!
安易に他者を断罪してはならない・・・。
相手の言葉を理解出来るだけの多様な知識を深めよう。
自分自身の目でものを見よう。
目に映るものだけでなく、背景や経緯、状況や情動にも心を傾けよう。
映画(群像劇)としての出来はなかなか良かったと思う。
ドキュメンタリーではないのだから、「これを描いて欲しかった」「これを掘り下げて欲しかった」という思いは本作に求めず、自分でとことん調べようではないか。
観客の知識・経験によって本作から受け取る情報量はまったく違う。
隣の席の観客の情報量は自分とは違う。おのおの、それぞれが「何か」を受け取ればそれでいい。
水平社宣言、本作では「にんげん」で読んでいたが、永六輔先生の話を聴きに行った時「じんかん」だと永先生から教わった。人間個別に光が当たる事ではなく「人と人の間に(ある万物に)」光が当たる事を願っているのだ。
コミュニケーション、繋がり、交流、心通わせること・・・。
優しく温かい光と熱は人と人との間から生み出されるではないか。
小舟に揺られるにも等しい不安定な危険の中にいる私たち人類。
ラストシーン、澤田夫妻が呟く「どこにいこう?」は、クォ・ヴァディス?(quo vadis?)と聞こえた。
行き先は「万物に光が当たる世界」だと強く信じたい・・・
※同じ制作スタッフで「三里塚に何が起こったのか」についても真実を描いて欲しいと思った。
エンタメに振られたとはいえ骨は十分にある
1910年に併合し、太平洋戦争の敗戦までの36年間、朝鮮/韓国を植民地とした日本。「我々日本」が当時行った蛮行は長い間封印されることとなった。歴史の授業で習うことはなかった。
思えばそれらを映像化して提示したのが映画だった。但しミニシアターでの上映がほとんどで、観る人は限られたのだが。
今作は日本を舞台に関東大震災(1923年9月1日)前後の狂乱を切り取った。
朝鮮人の反日感情が高まる中、反鮮人感情を高めんと偽りの情報で日本国民を操作する国家。震災を機に戒厳令を敷き多くの朝鮮人、そしてどさくさに紛れて社会主義者たちを排斥した。
そう、日本国家は朝鮮人を殺すことを正義とした。
千葉県の福田村では朝鮮人と疑われた日本人が確証もないまま虐殺された。
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豪華キャストで思いのほかエンターテイメントに振られていたのに驚いたけど、国家の犯した罪をしっかりコミットし、さらにSNSの情報に踊る100年後の我々へ辛辣なメッセージを送る骨のある作品だった。
馴染みやすいので多くの人に届くことを祈る🙏
てか、名古屋でも上映館が増えてる😱🙌
キツイ
こう言う映画だって事は覚悟決めて見に行ったつもりだった。
キツイ・・劇場出て直ぐ喫煙所で心落ち着かせたけどキツイ。
なんだコレは?人はあんなにも愚かであんなにも悲しいのか、コレが本当に有った事なのか。
実際に逮捕者も出て法的には裁きが下ったらしい、でも刃を振るった者だけが悪いのだろうか、本作でも描かれてたけど差別や偏見の目を持っていた者もそこに大きく加担してたんじゃないだろうか。
そして主犯格に当たるだろう水道橋博士も法的には殺人犯なんだろうけど、あの時代のあの立場ならそう判断しちゃうんだろうな、軍服に着られてしまった彼の姿には哀れみすら感じてしまった。
あの時代あそこに居たら僕もそこに加担していたかも知れない、いや、あの時代じゃ無くても学校や職場、SNS上でこんなの聞いたり見たりするんじゃ無いか?
知らない、考えない、正しさを見ない は愚かで悲しいんだと思う。
僕は昔TVで見たザンボット3に不条理な差別意識は持っちゃいけないと学びました、今もそれは正しい事と信じて疑って無いですよ。
この福田村事件を見た事も人生に必要で、正しい事だと信じてますよ。
善悪含めて人間は人間でしかない
少し前にNHKで関東大震災100年目の特番で、当時の記録映像を鮮明に処理しカラー化したものを見ていたのですが、その中で流言飛語による朝鮮人虐殺事件の話題もあり、本作がそれを基にした作品だという事で評判も良かったので気になり見に行ってきました。
鑑賞後思ったのは事件そのものにスポットを当てるというより、当時の人達の気質であったり当時の社会の空気感をより強調して描いた作品であって、個人的にはこちらの方が好みなので良かったです。
しかし、作品タイトルから事件そのものを丹念に描いた作品を予想した(期待した)人は、毎回ですが作品の質とは関係なく期待したものと違うというだけで文句が出ているようですね。
私自身勉強不足で、朝鮮人虐殺事件を描いた作品だと思っていましたが、作中に出てくる朝鮮人は朝鮮飴を売る女性(少女?)一人だけでしたし、本作の核にあるテーマは流言飛語による集団心理の怖さであり、人間の根本にある差別意識の複雑さを描いた作品だったように思えました。
本作の事件は後半の見せ場ではありましたが、前半から中盤まで複数の登場人物のオムニバス的な人間ドラマが並行して描かれていて、上記した様にどちらかと言うと当時の日本の“時代の空気観”を描くことを主体にした作品だった様に思います。なので、(一つ前に書いたレビューで)私が昔見た『ソルジャー・ブルー』という作品とジャンルも国も全く違うのに構造的にはそっくりの作品でした。
で、ここからは少し作品の話から脱線しますが、私は戦後生まれの戦後教育を受けて育った人間なので、一応建前的には「差別は悪い事」として教えられてきた世代でありますが、それから私が高齢者になった今も差別が無くならない現実も見てきたし、本作でも“差別”という根幹の部分はありますが、流言飛語・集団心理・パニック・ヒステリー・正義悪・(若しくは)偽正義、といった様々な今の社会問題とリンクする要素の詰まった作品の様に思えました。
上で『ソルジャー・ブルー』と似ていると書きましたが、アメリカの映画産業というか、アメリカ映画はずっとこれらの問題を手を変え品を変え、娯楽作品の中でもこれらをメッセージとして作ってきたように思え、だからこそ私たちが子供の頃に憧れたのは、上記した流言飛語・集団心理・パニック・ヒステリー・正義悪・(若しくは)偽正義に惑わされず(陥らぬ)自分自身を失わない人間をヒーロー像として描き続けてきた様に思うのです。だから、その逆の性質を悪として人々は考えられるようになった気がします。
しかし統計的にどうなのかは分かりませんが、現実は映画のメッセージは届かず、むしろ今の世界のネット社会を見る限りその思いは逆行して悪い方向に向かっている様な気もするし、今も昔も人間の本質は何も変わっていない様な気もするし、いやいや亀の歩みの様に物凄くゆっくりではあるが少しずつは良くなっているという見方も出来ます。
私たちの様に戦後教育を受けた人間でもそうなのですが、私たちの親世代の明治後期・大正・昭和初期生まれの戦前の教育を受けていた人達はどうだったのか?日本映画ではあまり描かれてこなかった部分を本作では描かれていて結構考えさせてくれることが多く勉強になった作品でした。
残念ながら失敗作
現代に通じるメッセージ
常識の向こう側
美醜善悪清濁。
世間の認識の反対側に、
常にカメラを置く森監督。
『A』と続編では教団側、
『FAKE』では本人。
本当に濁なのか、
世間がいうように悪なのか、
観客のみなさん、どうですか。
と。
本作は、
善悪清濁を並べて、
整理しないでそのままを観せる。
ラブシークエンスも、
整理しない、
醤油工場での経験に基づくセリフや、
通訳をした経験のセリフ、
のような、
活きたセリフのシークエンスを基準にプロットの整理もしない、
どこかに書いてあった事件をそのままセリフにしても活きないがそのまま。
ハンセン病患者が住処を追われるのは、
『砂の器』でもあった。
そんな清濁善悪美醜全部乗せ、
さあ、直列繋ぎで召し上がれと。
国籍による、
仕事や住処による、
病気などによる、
この直列繋ぎを、
五部作くらいの、
ドラマのような、
映画のような、
作品にすれば、
最近でいうと『三体』や『ダーウィン事変』のような、
エンターテインメントの
ちょっとしたパラダイムチェンジの、
可能性も孕んでいる。
もちろん、
パラダイムチェンジといっても、
古今東西の作り手にとっては、
普遍的な内容だが、
観客にとって、
繰り返し起きている現実に、
見ないふり、
知らないふり、
では済まなくなってきてるのでは?
という危機感が迫ってきているのかもしれない。
『i 新聞記者』の評はyoutube にアップしています。
何故、朝鮮人の生活を描かない??
マイナス面もある
多くの方が既にコメントされているので、そのプラスの評価には私も同意する。朝鮮人や部落出身者差別は決してあってはならないし、反面教師として現代社会でも十分留意していく必要があり、そこに一石を投じた作品として極めて高い価値がある。ただし、一方で気になる描写もあり、その点だけ述べさせていただく。例えば当時の官憲が朝鮮人犯罪を捏造流布したとの単純な前提があるが、果たしてそうなのか?実際犯罪はあったがために注意喚起が
されたという可能性はないのか?この映画やレビューではそこは完全に所与のもの(官憲による捏造犯罪)として取り扱っているが、疑問が残る。またうら若き朝鮮人女性一人を名前が朝鮮人名だというだけでいきなり警護団員が竹やりで突き刺すというのは、過剰表現ではないのか?これは韓国や中国の反日映画の日本人像そのままであり、こんな表現に異を唱えるスタッフはいなかったのか?更に朝鮮人被害者数が6000名としているが、これは諸説あり数百人~なかには6000人という説まで明確にはわかっていない数字であるが、これまた最大値の6000人が所与のものとなっている。これでは南京虐殺10万人のフェイクの数字(中国共産党の一方的発表の数字でこれは当初の数字から年々拡大していった)と扱いは同レベル。テーマや問題意識は素晴らしく決して否定するものではなし、福田村事件そのものは悲惨な事実として忘れてはならないが、このような周辺部分の表現はサブリミナルに鑑賞者に事実として刷り込まれてしまうリスクがあり、懸念が残る。その点恐縮ながら星一つマイナスである。
なかったことにはできないぜ
100年前の史実を基にしたドラマで、特別な筋書きはないのがドキュメンタリー監督の森達也らしい。それゆえ、どのように虐殺が起きたのかと、地震が起きてから次第に高まる不穏さに息苦しさが増していく。
政府(内務省)の意向に沿って偽情報を拡散するメディア。国や村を守るとイキって人々を扇動する男と軍人。不安に過敏で付和雷同で行動する民衆。弱い者がより弱い者を見つけて安心する心理。日本と日本人のクソな部分が100年前の事件に凝縮されている…と、実はそれらはすべて現代にも通じている話なのだった。
そんななか、当時としては奔放なコムアイや田中麗奈と、私生活から当て書きしたのかと思われるモテモテの矢切の渡し?東出君の姿には、事件と対照的な平和さがあってホッとしてしまう。
「地震のあとには戦争がやってくる」と阪神淡路大震災の後に清志郎が書き遺しているけど、東日本大震災から干支が一回りした今、Jアラートが無駄に鳴り響き、台湾有事が喧伝される…。負の歴史を繰り返さないためにも、まずは大年増の厚化粧(by石原慎太郎)や官僚のメモを読むだけのメガネに朝鮮人虐殺の歴史をうやむやにさせるべきではない。
暴走正義
忘れ去られる歴史
忘れてはいけない教訓として
森監督のドキュメンタリーではない作品という事で非常に興味を持って鑑賞しました。内容的には演出的に少し理解しにくい部分もありましたが、とても社会的意義のある素晴らしい作品でした。
今年は関東大震災100年という年で多くの震災関連の作品や出版物が出されていますが、特に本事件を中心としたデマ流言飛語による朝鮮人や共産主義者等への惨殺、殺害事件と関東大震災の死者10万人のうち4万人近い死者を出した本所被服所跡地の火災事故は今でも語り継ぐべき教訓です。人数の問題ではないのですが遠い昔や戦時中などと比べ現代では事故や事件などで数名亡くなるとニュースになってたりしますが、人の命の重さってなんだろうなあと思います。
福田村事件の判決は、田中村の1名のみ「懲役2年、執行猶予3年」の第二審判決を受け入れたが、あとの7名には大審院で懲役3年から10年の実刑判決が出された。しかし、受刑者全員が、確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。事件について調査を行った石井雍大によれば、出所した中心人物の一人は後に、選挙を経て村長となり、村の合併後は市議会議員を務めたという。今では想像もつかない時代です。
釘付けでした
ラスト20分はスクリーンに釘付けでした。映画ファンとして今までたくさんの映画を観てきましたが、釘付けなんて相当久しぶりかもしれません。外的要因で節度・モラル・良識などが通じなかった時代がたった100年前にあったということを改めて感じる映画です。久しぶりに書き込みをさせてもらいます。
監督の森達也さんの作品である新興宗教を題材にした映画が話題になったころ、監督がテレビ討論会にたくさん出演していて、「(思想が)右や左やではなく、もはやどっちでもいい」のような発言を始めとした監督の考え・理屈にとても共感したことを覚えています。現在も監督の名前が出てくれば自然と身体が反応してしまうので、今回この映画に遭遇することが出来ました。
この映画の根底にある「差別・集団心理」というテーマにとても関心があります。第二次大戦下でナチスのゲッペルスが「嘘も百回言えば真実となる」と発言したそうですが、ITの普及で「嘘か真か」が早急かつ簡単にわかる現代とは違い、当時の思想下で大震災後という強烈なストレス・心労下だと誰かが大きい声で同じことを延々と繰り返せば、容易に嘘が真実化してしまう・・そんなことを考えながら観賞し、特にラスト20分に釘付けになったのだと考えます。またこの映画のテーマの一つである「非差別部落と在日朝鮮人」について、これらを身近に感じながら齢を重ねてきた私にとってこの映画を観ないという選択肢はなく、またこれらが映画のなかで繋がったストーリー展開になっていることが新鮮で衝撃でした。
朝鮮人なら殺してもええんか?!
今年の邦画ベスト1はこれで決まりだろう。関東大震災からきっかり100年に狙いを定めての公開、折しも政府が「朝鮮人虐殺の記録は見当たらない」としらばっくれる中でかつての軍国日本のみならずまさに今の「新たな戦前」に向いつつある日本を痛烈に糾弾する社会派エンタテイメントの傑作である。「記録が無い」は全く大ウソで震災の2か月後に神奈川県が「朝鮮人を145人殺しました」と内務省に詳細に報告した文章も残っている(東京新聞9/5)らしく、そもそも内務省が「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり・・各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし(横浜市史)」と地方長官に打電し警察が率先してこのデマを流布したとされる。今作の切り口が鋭いのは、数千人にのぼるといわれる朝鮮人虐殺を正面から描くのではなく千葉県福田村での行商一行9人が「朝鮮人と間違われて殺された」という事件にスポットを当てた点であろう。真っ先に殺される行商のリーダー永山瑛太が言うように「朝鮮人なら殺してもええんか?」という叫びがこの映画の全てである。讃岐から来た行商一行の言葉がおかしいので「朝鮮人だろう」と疑われ、村の警官が行商人が示した「鑑札」を調べるからそれまで手を出してはならんと言う。つまり間違って日本人を殺してしまってはまずいけれども、朝鮮人なら殺してOKだというのだ。行商一行は香川県の被差別部落の出身であったことから公に告発をせず、事件は80年近く闇に埋もれていた。ずっとこの件を世に出そうと企画していた森達也と若松プロの荒井晴彦がタッグを組んだ奇跡的作品。撮影の桑原正が素晴らしく森達也のハンディカメラでは到底描けなかったであろう一級の名作が生まれた。
幸せになりたかった
恐怖と残虐性
ドキュメントの森監督が撮る映画ってどうなんだろうと言う興味と、見なければいけない題材という責任感とで最近みたい映画No. 1でした。
お客の入りもよいようで良かった良かった。
実際にあった事件を元にしたフィクションとは言え、当時の事はかなり調べられているようで、小さなエピソードの積み重ねが説得力に繋がる良い例だと思いました。様々な境遇、経験、立場の普通の人達が淡々と日常を積み重ね、それが突然狂っていく恐ろしさが描かれてます。役者達の熱量も半端なく、東出君はかなり初期から監督に参加のラブコールしていたそうです。あとコムアイ美しい!
結局、じわじわ広がる恐怖に火をつけたのは国からの伝令であり、それに乗じて思想弾圧をカモフラージュする目的だった?という、、なかなか映画化されずらい日本の黒歴史を描いた事だけでもこの映画の価値があります。
実際に亡くなった朝鮮人は各地でたくさんおったわけですが、本件の間違って殺された行商人が四国からだという事で勝手に東京西側の話かと思っていましたが、実際は千葉県で起きた事件なんですね。
自分がやった事が仕返しされるのでは、、という恐怖。
それが論理や倫理性を飛び越え感情的な行動になる過程をしっかりと見て、心に焼き付けて帰りました。
二度と同じ過ちを繰り返さないように。
100年経っても進歩出来ないニッポン
今日の日本で本作が制作されこうして鑑賞出来る事に感謝し、一縷の望みがまだある事を信じたい。本作の内容はもちろん脚色は当然ですが、全て事実です。何の証拠もないなどと、馬鹿な官房長官と同じ嘘八百を言ってはなりません。証拠はたっぷり公式に残されております、歴史修正主義者なんぞ調べる気はさらさらなく、都合のいいことしか言いません。低能だからだけでなく、それが「楽」だからに他なりません。
本作で再現された構図は過去完了どころか、さらに増大して今も私達の直ぐ側に大口開けて待ってます。現政権はもちろん知事レベルにおいてすら、無かったことにしましょう、が今日ですから。謝ってばかりはもうウンザリ、もうとっくに金で決着になってるでしょ、俺たちは前だけを見て一丁前に正論を吐きたいのだよ、と被害者側への想像力ゼロで平気で出鱈目を言う。そんな勢力に入っていれば楽だし威勢がいいからね、真に正しい事を言い出す奴等には、速攻突っ込み入れて叩きのめしますよ、金も貰えるかもね。正しい事は面倒臭せぇ、そんなのはフタすりゃ楽だろが。って皆様ご存じの通り。
映画の中の福田村の村民・憲兵たちと何にも変わっちゃいないのです。100年経っても全く進歩どころか、後退しているのが今の日本なのだと言う現実を、本作は観客に突きつけてくる。日本人の精神構造がオカシイのではなく、真の反省を避け続けた結果であり、戦後においても集団行動優先の教育がなされ、出る杭は打たれる意識構造ゆえ、忖度が蔓延り今に至る。「朝鮮人は出ていけ~」と叫ぶ奴等が朝鮮半島に大金を貢ぎ続ける奇怪さ。公文書改竄からもろもろの人権軽視、国会機能不全、各種国際指標の著しい低下、などなど。だからジャニーズ事務所も安泰、汚染水も処理水と呼ぶ欺瞞を公然とミスリード、映画の内務省と全く同じ。
人間はその字の通り、人と人の間と書く、すなわち群れを成して生きる動物なのです。忠実な集団行動で回り続け、それが正しい方向に向かっていればいいけれど、そうとも限らない。そこで異論が出る、生まれながらに多数派に属せない人もいる、そんな異分子は切り捨てるのが楽って考え。1ミリも少数派の身になって考える事が出来ず、ひたすら金の論理のみで行動する。障害のある方やLGBTQだって悪用のリスクばかり強調して苦しみを想像なんて一切しない。嗚呼、没落国家まっしぐら。
映画は一種の群像劇の様相で、福田村を立体的に描いてゆく。井浦と田中の崩壊夫婦とその秘密、永山の薬売りの集団エネルギーの発露と裏側にある被差別、東出の船頭の欲情と孤立、カトウの左翼言論、木竜・ピエールの新聞報道の苦悩と忖度、そして戦争未亡人の立ち位置から憲兵達の単細胞愚直。ことにも水道橋博士の元軍人の造形が白眉の出来。何故なら彼の総てのセリフはそれだけを聞けば至極真っ当で、村をひたすら護る意識に満ち溢れる、だからこそそれを取り巻く状況の危うさが、実に恐ろしいのです。間男役に挑む東出昌大は本当にいい役者に成熟したもので、今村昌平ムードに男の色気が充満です。それぞれにトップスター級を配し、製作者の意欲と参加したスタッフ・キャストのレベルの高さが心強い。
いよいよの震災シーンに至るまでがやや冗長ですが、9月1日を境にカウントダウンを踏んで悪魔の惨劇クライマックスに突入する。流言飛語、付和雷同、思考を停止し大勢に流れる人間の愚かをこれでもかと描く。しかし、現実はこんなもんじゃないだろうと推測、もっとここだけは嫌と言うほどの強烈が欲しかった。朝鮮人と日本人、どちらが偉いか? なんてナチスドイツと全く共通する。竹槍で突かれる恐怖と痛みを思い知る。
そもそも当時日本に何故朝鮮人がかくも居るのか、国家は何をしたいのではなく、何を隠したくて、スケープゴードを操作しようとするのか。人間の弱点を悪用した国家の犯罪は、どこまでも糾弾せねばならないでしょう。人は見下す相手がいれば安泰と思う習性がある。下には下があるのだと、上には上があることは隠したがるのに。
みるべき。
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