福田村事件のレビュー・感想・評価
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ホラーにして恋愛もの。ある夫婦の絶望と再生(福田村事件)
ほぼ前情報なしに鑑賞。瑛太率いる行商人たちがこの事件にどう絡むか分かっておらず、彼らなら「事件」を止めてくれるかも…とさえ思っていた。その分、後半の衝撃は強烈。その瞬間まで、ひょっとして、もしかして…と願ったが、その瞬間、容赦なく「事件」は起こった。 アクション映画の殺し屋やスナイパーにはほど遠い、殺しに慣れていない素人集団の殺しは、熱量ばかり高く、血と砂ぼこりが入り混じり、全くスタイリッシュでない。泥臭く、痛ましい。やる方もやられる方も、顔は歪み足はもつれ、一寸先さえ見えない。まさにホラー。その一方で、夫婦の静謐な物語が、並行して展開していく。 劇中、「鮮人」「朝鮮人」という言葉が幾度となく飛び交う。「鮮人」はより差別的な呼び方だ。この言葉を使う者・使わない者の描き分け、さりげない会話に滲む時代背景、在郷軍人や新聞社の立ち位置、亀戸事件への習志野騎兵旅団の関与など、ワンシーンワンシーンが濃い。発見と刺激がある。朝鮮から日本、福田村へと流れ着いた静子(田中麗奈)のように、思いのまま、気ままに振る舞うことだけで異端、とされる時代の息苦しさに、どんどんと取り込まれていった。 加わった者と加わらなかった者の差異は何だったのかと、今もつらつら考えている。 行商人は、肩を寄せ合う集団で、結束し加速する集団ではなかった。彼らの一切を請け負う親方(瑛太)は、あやしげな薬を貧者やらい病(ハンセン病)患者に売り付ける一方、儲けた金を使って、少女から朝鮮飴を大量買いしてやる。差別され蔑まれる側である以上に、優しさの中の狡さや悪を自覚している。そこが、コミュニティの中に安住していた村人との大きな違いだと感じた。 村八分の船頭(東出昌大)は、夫が戦死した幼馴染や夫との関係が冷え切った女と、流れのままに関係を持つ。死と対極の生(性)のエネルギーが、彼を踏みとどまらせたのかもしれない。加えて、ある種強引に一線を踏み越えても、心の空虚は埋まらないことを身をもって知っていたことも大きかったのでは、と感じた。 そして、都会からやって来た夫婦(井浦新・田中麗奈)。よそ者ゆえの距離感が、集団の熱に浮かされず、違和感を受け入れ、周囲に惑わされず自分に目を向け続けられたのだと思う。何より彼らは、近しい者とさえも隔たりが生まれ、相容れなくなっていた。そんな状況が、皮肉にも彼らを守ったようにも思えた。 ラスト、船は静かに流れていく。それはふたりの道行きなのか、旅立ちなのか。絶望と希望を併せ持つ余韻が、今も醒めない。
不安に呑まれた人々
関東大震災の折、朝鮮半島出身の人たちがデマによって殺されたというのは有名な話だが、殺されたのは朝鮮人だけではなかった。日本人の被差別者たちや思想家たちもまた殺されていたのだ。その事実を脚色を交えて丁寧に映像化したのが本作。疑心暗鬼に陥った人が何をするのか、その醜悪さが強烈に浮き彫りになっている。 前半は、福田村の人間関係の描写に割いている。不倫などで村八分にされかけている者が、虐殺にはむしろ加担しないという構図になっているのだが、群集心理の危うさはむしろアウトサイダーにならないと見えてこないもの。虐殺に加担した村人にもまともな感性の人はいただろう、しかし、群集心理に飲まれるとそういう人でも歯止めが利かないことがあるのだ。そういうものに巻き込まれないために大事なのは、ポジションだったりする。 虐殺は不安に駆られた村人が自分たちのコミュニティを守るために始めてしまう。虐殺は何かを守るために始まるということをこの映画はきちんと捉えている。あらゆる戦争がそうであるように、「守る」という「正義」を止めることは難しい。大正時代の物語だが、心根の部分では全く現代人にも変わらない部分がある。虐殺しないために、いかに不安にかられず生きるかを考えねばならない。 こうした歴史の暗部をきちんと見つめることは、社会として成熟するために必要なことだ。この企画を成立させたことは高く評価されるべきだ。
心に苦い、観るべき良薬
100年前の関東大震災直後、集団心理が暴走して“朝鮮人狩り”が行われ、間違われた中国人や日本人も多数虐殺された。日本人にとっての歴史的汚点、不都合な史実はなかなかドラマ作品の題材にならない邦画界(興行上の理由もあるだろう)において、森達也監督初の劇映画「福田村事件」は貴重で、快挙でもある。 脚本に名を連ねる3人のうち荒井晴彦と井上淳一は若松プロダクション出身で、彼らもまた福田村事件の企画を温めていたところ、森監督が同じ題材の映画化を目指していると知り合流したという。集団が異物を排除する心理が暴力に向かう描写は若松孝二監督作品に通じ、新聞社編集長と記者のエピソードを通じて権力・大衆・ジャーナリズムの関係性を問う視点は森監督のドキュメンタリー作品を思わせもする。 尺として40分、全体の3分の1を占めるという虐殺シーンは凄惨を極める。これが実際に日本で起きたことだと思うと心が締めつけられるが、良薬は口に苦し。ネットとSNSで日々標的がバッシングされ炎上している現代も100年前と同じ集団心理がはたらいていることを思えば、この苦い鑑賞体験が社会の薬になるという希望を持ちたい。
映画としては最低ランクです
ドキュメンタリー的な映画としてもエンタメ的な映画としても監督の思想を宣伝する説明的な描写ばかりが目立っていてセンスがなさすぎる作品です。 こんな映画を見るくらいなら様々な信頼にたる歴史的な文章を参照したほうが余計なバイアスがかかないで有益な知識を得られるでしょう。
田舎ってやだな〜
田舎の人間関係がドッロドロ。 義父とできてる嫁が、義父の遺体に乳房を押し付ける場面が気持ち悪すぎて。 肝心の事件のシーン。 急に太鼓がドンドコ鳴り出すのはない方がいい。 間男がまた浮気したり、福田村事件以外のところが嫌な映画だった。
色んなモノを詰め込み過ぎ
人種差別、民族や階級差別、男尊女卑、「差別を止めよう」っていう映画だと思うけど、それ以外にも関東大震災、不倫、嫁姑、心の病、貧富、色々詰め込めれ過ぎてぐちゃぐちゃに。それに輪をかけて演技がぎこちなくて、お風呂の内外での会話とか、提岩里教会事件を澤田が静子に打ち明けるシーンもどうにかならなかったのかな。全体的に演技や演出?にぎこちなさを感じた。この事件の事もそう言う差別があったりした事を全く知らなかったので、テーマは良かったと思う。知らないっていけないと思うので、過去の歴史を学ぶことは大切な事だと思う。
デマの怖さ
最近でも、Xのデマを信じ込み、そのデマに出てくる人たちを中傷し、炎上することがあるが、この映画では、それがリアルな行動として可視化されているように見える。 この事件が起こった時期にリバイバルしているようだけど、あまり告知されていないのが残念。
恐ろしき集団心理
戦後の虚しさ、悲しさからの半ば洗脳といったところでしょうか。対朝鮮人ということだけでなく、日本の中での地域差別、職種差別もあり。こうやって作品として語り継がれるだけマシ。他にも埋もれた惨劇はたくさんあったことだろう。目を覆いたくなるようなシーンも、見なければならないという思いで見た。
人間の業の渦の先
個人評価:4.0 ゆっくりとあの事件へと近づいていく。 閉鎖的な村文化の土着的な怖さがあり、ヒリヒリとした演出に、物語の中に吸い込まれ、自分がいつしか村人その一になったかの様な臨場感がある。 人間の業の渦の矛先は、つねに自分より弱者へと流れ込む。 善人が善人のまま人を殺める。誰もが加害者になり得る状況にこそ怖さがある。 他民族への怒りと恐れ。正義の名のもとに人を殺す。戦争とはまさにそういうものか。 またこの実在の事件の、どこに発端・問題点があったのか、本作は示唆してくれており、踏み込んだ脚本と感じる。
事実を形容して見せられる森監督の手腕に唸る
折り重なる負に成す術は無い。虚言・噂の流布に傍観しか出来ないのはいつの時代も一緒だ。流れに逆らえない中起きる事件を目の当たりにして、何とも言えない気持ちにしかなれなかった。 事実に抗えないまま生まれる小さな力。束になり均衡を簡単に壊す。100年後も変われない人間の愚かさを鏡の様に写す。 ただ、ノイズな音楽と描写はあるが、今作る意義を十分に感じた。
ひざを崩す博士
アクトオブキリングのおっさんである。体制を背負って土壇場においても醜いポジショニングを重ねる。もはや体制とは関係のない見知らぬところに身を置いているにも関わらず。声を上げれぬ井浦新。上げて報われもしないが、ここでは仕打ちも受けない。瑛太が放つ決め台詞と主張はストレートで、実際の事件のシーンはドキュメンタリー的である。 集落の多面性を示すために多くを描き、説明が多い。他方、柄本明と息子嫁だとか、東出昌大の逢瀬など、含めてもよいが、そこまで描く必要はないだろうと思うシーンに割かれて、推進力を欠く。
背景にある不安と群衆心理の怖さ
大きな災害が起こった時には、きまってデマの問題がクローズアップされます。 もちろん、中には「話題で関心を惹きたい」という、いわば愉快犯という確信犯もいないわけではないでしょうけれども。 しかし、多くは、背後に(被災してしまったことの)漠然とした不安があることは、間違いのないことと思います。 「災害時にデマが広まりやすい背景として、社会全体が不安に包まれていることが挙げられる」(2024年1月6日閲覧:東洋経済オンライン)という指摘もあり、「デマとの闘いにおいて、まず重要なのは自己省察である。つまり、私たちは容易にデマにだまされる可能性があることを自覚し、情報に対して謙虚な姿勢を保つべき、ということだ」(前同)という論者の指摘に、評論子も無条件に賛同するものです。 実際、その竿頭に立ったときに、同調圧力が決して弱い社会とは言えない中で、どれほどの「自己省察」ができ、「謙虚な姿勢」がとれるかどうかは、評論子自身もはなはだ心許ないところではありますけれども。 しかし、そういう知識や平素の心がけがあるか、ないかでも、また結果は違ってくるのではないかと思ったりもしています。 本作は、そういう実相を余すところなく描いた一本として、佳作の評価が適切と思います。 (追記) 生成AIの普及は、個人が容易に偽画像や偽動画を作成できる環境を生み出し 、ディープフェイクの大衆化が起こった。これは、偽情報や誤情報の爆発的な増加を意味し、「Withフェイク2.0」とも称される新たな局面に突入しているとも指摘されています。(前掲の東洋経済オンラインの論者) そういう現実を前にして、人は本作によって浮き彫りにされるような無意識の深層心理から自由でないことを、改めて、常日頃から意識しておく必要を、本作は訴えかけているようにも思います。 評論子は。 (追記) とくに、本作の場合には、この件に特有の背景があり、その背景が事件の直接の「引き金」になっているように思えてならないのです。評論子には。 それは、当時の在邦朝鮮人の方々は、社会の下層労働力として、平素も、日本人にいじめられ、酷使されていたことには、疑いがなかろうと思います。 (後の戦時中などは、略々(ほぼほぼ)強制的に日本に連れて来られた方々ということで、畑で日常の野良仕事をしているところを、無理やり軍のトラックに乗せて連れてきたりもしたらしい)。 だからこそ、大震災などの世情不安に乗じて、ここぞとばかりにそれらの朝鮮人たちが暴動を起こすのではないかと危惧した。否、むしろその現実化を確信してしまったという背景です。 ふだん、彼・彼女らを虐(しいた)げていることは、日本人自身も、明に暗に、認識はしてはいたことでしょうから。 その意味ではとても、とても切ない事件ですが、その反省の意味でも、そのことはしっかりと受け止めなければならないことだと思います。評論子は。 (追記) 本作を観終わって、公安条例でデモ行進を規整することの合憲性を論じた判例の一節が脳裏に浮かびました。 デモ行進は「動く集会」ともいわれ、もちろん表現の自由(憲法21条)の保障下にあることは、間違いのないことなのですけれども。 ある場合には、それを規整する(あえて「規制」とは書きません=届出制として、警察当局が必要な警備体制を敷くことを可能とする)ことは、やむを得ないのかも知れません。 この判決を下したときに、最高裁の裁判官たちの脳裏には、きっと本作のようなケースが思い浮かんでいたことは間違いのないことと思います。 「およそ集団行動は、学生、生徒等の遠足、修学旅行等および、冠婚葬祭等の行事を除いては、通常一般大衆に訴えんとする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によって保障さるべき要素が存在することはもちろんである。ところでかような集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとは異なって、現在する多数人の集合体自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によって支持されていることを特徴とする。かような潜在的な力は、あるいは予定された計画に従い、あるいは突発的に内外からの刺激、せん動等によってきわめて容易に動員され得る性質のものである。この場合に平穏静粛な集団であっても、時に昴奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を蹂躙し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群集心理の法則と現実の経験に徴して明らかである」(最高裁判所昭和35年7月20日判決)とし、「本来平穏に、秩序を重んじてなさるべき純粋なる表現の自由の行使の範囲を逸脱し、静ひつを乱し、暴力に発展する危険性のある物理的力を内包している」(前同)と心配したのは、まさに本作のような事態であったことは、疑いのないところだと思うからです。
法治国家って、もろい
例えば、悪いやつが自分の村に来た場合、とっつかまえて、警察につき出す。そして、国がさばく。大正期でも日本は法治国家。なぜ、自警団が殺してもいいって事になるのか。 内務省が各地方長官などに、「朝鮮人は各地に放火」と打電(「爆弾を所持」という内容も書かれていたそう)した事実が描かれていた。 恐怖にかられ「村を守らねば」と考えたとしても、相手が武器をもたない少数者だったら、多人数で拘束できるでしょう。ましてや朝鮮人というだけで、みんなまとめて殺してしまえ、っていうのはどういう理屈。 そもそも、併合によって日本になった地域の住人、それって法的には日本人という事でしょう。15円50銭の発音が違う相手なら、倫理のストッパーを簡単に解除できるって、いろいろムリだらけ。 この映画を見て、そんな事に気付かされた。 「時代が人々をして、そうさせた」「現代の価値観で過去を裁くのは、いかがなものか」などと聞こえてきそうだけれど、映画の中で読み上げられた水平社宣言の一部分を聞けば、理想をかかげる心の純粋さに、時代など関係ないと思う。流されることなく、青臭い理想を謳いあげた言葉が、こんなにも美しいと感じられたことに驚いた。 わたしたちは個人なら倫理を求める一人一人だとしても、集団を守るための倫理は違う理屈で組み立ててしまう。オキシトシンが排他の心をあおり、アドレナリンが群集心理を高揚させ、行くところまで行ってしまう。そしてそれは、今、世界のそこかしこで行われている。自分の足元を見つめ直さねば、と思う。
森監督へ最大の敬意を
この題材を取り上げるだけでも評価するべきだと思います。ましてやこの素晴らしい出来上がりに感動しました。人間の愚かさ、こんなにも無力ってことに悲しくてしかたがなかったです。
劇映画は嘘をつかない
うーむ。。 こういう企画が通ったこと自体は朗報だし、単なる歴史のお話じゃなく、今だからこそ公開する意味があるってのもわかるんだけど、正直微妙。 まずキャスティングがありえないほど豪華。手頃な作品なら主役を張れるような面々がゴロゴロ。 ただ、当時としては教養があってリベラルな(現代の観客が感情移入できる)人はみんな現実ばなれした美男美女ばかり。 一方、近視眼的、短絡的な「普通の日本人」はリアルな日本人スタイル。宮崎アニメばりのルッキズム。モテまくりの東出くんはともかく、逆の方が効果的だと思うんだけどなぁ。。 本業の俳優じゃないコムアイは思いのほかよかったし、水道橋博士の熱演もよかったんだけど、あのキャラであんまり怖く感じられなかったのが残念。 実話とはいえ、あくまで劇映画として成立させるためには、得体の知れない空気に侵食されていく過程とか、ひょっとしたら自分も加担してしまうかも、というジワジワくる恐ろしさをもっと体感させないと意味ないのでは。 森達也の初監督作で、変なところはなかったけど、企画の荒井晴彦の意向に引っ張られたのか?ドキュメンタリー作品の方が緊張感あった。次に何が起こるか、この人が何を考えてるのか、ほぼ見たまんまで予想通りだもの。 そういう意味で脚本に難あり。 あんな男女のドロドロ、あそこまでボリュームなくても成り立つわけだし、それはそれで別の企画にできるはず。。柄本明のナゾの役得とか、中高年男性の願望強すぎない? それより「福田村」の観客としては、事件に至る流れの描写に労力と呎を割いてほしかった。 音楽で惨劇を盛り上げようとするのも、いまいち上手くいってない印象。 せっかく国際的にも通用し得る企画なのに、肝心の部分が説教ってのは実にもったいない。お説ごもっともなんだけど、それ観客が脳内で思うやつだよね? あと、どうせやるんならコムアイと東出くんのその後を見せてほしかった。てっきり2人が村を出るとこで終わるのかと思ったわ。
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