「わかりやすさの罠」福田村事件 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)
わかりやすさの罠
2023年。森達也監督。関東大震災直後、千葉県の利根川近くで行商人が虐殺された実際の事件をもとにした物語。ノンフィクションを中心に仕事をしていた森監督が手掛けた初めての劇映画らしい。
森監督はただのノンフィクション映像監督ではなく、「A」「A2」などを通じて、事実とは何か、事実を報道するとはどういうことかと問いかけ、詮ずるところ、わかりやすさの罠について警鐘を鳴らしていた人だ。わかりやすいことに安心してはいけませんよ、疑問を持ちましょうね、曖昧な状態に耐えましょうね、ということ。ノンフィクションの原理を模索しながらノンフィクションの作品を作っている人であり、理論的かつ実践的な姿勢はとても好感がもてる。苦しそうではあるけれども。
その監督がつくるフィクションの映画作品。事実ではないものを通してなにかを伝えようとすることに、事実にこだわる人はどう対応するのだろうか、とわくわくどきどきしながら拝見。
最初に思い浮かんだのは濃密な性の雰囲気。エロい。映画というジャンルでは「虐殺」と「エロス」が結びつくからだろうか。特に抑えがたい性欲を抱える女性がこんなにも多いのは(夫が戦争に行っている間に浮気する女性が2人、夫の無関心でほかの男に気を向ける女性が1人)不思議だ。農村の人間関係が多様に描かれるなか(同級生の男たちは村長、先生、軍人と分かれているし、父に劣等感を抱く農民や村から離れて一人孤独な船頭もいる)、なぜか女性像だけパターン化されているように見える。
当時の農村の複雑な実像(権力関係や男女関係)をわかりやすく伝えようとすれば、パターン化されたそれ自体はわかりやすい要素同士の複雑な組み合わせで、ということになるのかもしれない。そういえば、当時の差別をめぐる状況(行商と水平社宣言と社会主義者と朝鮮人)、権力をめぐる状況(村議会と在郷軍人会と内務省)、メディアをめぐる状況(流言飛語と新聞社と政府)のひとつひとつはわかりやすい記号として描かれている。(殺されそうになった行商人が般若心経とともに水平社宣言を暗唱するとはちょっと想像できない状況だがインパクトがある)。複雑なものは複雑なま一色に塗りこめず、早急な結論を出さないまま考え続けることを奨励するという意味で、素材はフィクションになったとしても、森監督の方法は変わっていないようだ。
フィクションの恣意性という問題は残る。例えば、ソウルから帰ってきた元教師がいる。日本軍による虐殺を目撃したことで性的不能になっていてその妻が浮気する、そのとき朝鮮産の白磁の指輪を落とす。この二人は映画に猿回し的に介入して福田村事件を外側から見る役割になっている。事実を物語的に補強するフィクションの恣意的な使用を感じる。語ることの恣意性の自覚にあれほど留意を促していた監督なのだから、これは当然わかってやっているのだろう。ところが、この二人の介入は、単純な要素を複雑に組み合わせて考え続けるよりは、エピソードを累乗することでわかりやすさを増すことになっていないだろうか。または、そこまでやらねばならぬほど観客の側のリテラシーが落ちているという前提があるのか。ちなみに、妻の田中麗奈が最もエロさを醸し出している。よく殺されなかったものだ。